7話 野分(7)
読み方を変える
「私は高柳周作と申すもので……」と丁寧に頭を下げた。高柳君が丁寧に頭を下げた事は今まで何度もある。しかしこの時のように快よく頭を下げた事はない。教授の家を訪問しても、翻訳を頼まれる人に面会しても、その他の先輩に対しても皆丁寧に頭をさげる。せんだって中野のおやじに紹介された時などはいよいよもって丁寧に頭をさげた。しかし頭を下げるうちにいつでも圧迫を感じている。位地、年輩、服装、住居が睥睨して、頭を下げぬか、下げぬかと催促されてやむを得ず頓首するのである。道也先生に対しては全く趣が違う。先生の服装は中野君の説明したごとく、自分と伯仲の間にある。先生の書斎は座敷をかねる点において自分の室と同様である。先生の机は白木なるの点において、丸裸なるの点において、またもっとも無趣味に四角張ったる点において自分の机と同様である。先生の顔は蒼い点において瘠せた点において自分と同様である。すべてこれらの諸点において、先生と弟たりがたく兄たりがたき間柄にありながら、しかも丁寧に頭を下げるのは、逼まられて仕方なしに下げるのではない。仕方あるにもかかわらず、こっちの好意をもって下げるのである。同類に対する愛憐の念より生ずる真正の御辞儀である。世間に対する御辞儀はこの野郎がと心中に思いながらも、公然には反比例に丁寧を極めたる虚偽の御辞儀でありますと断わりたいくらいに思って、高柳君は頭を下げた。道也先生はそれと覚ったかどうか知らぬ。
「ああ、そうですか、私が白井道也で……」とつくろった景色もなく云う。高柳君にはこの挨拶振りが気に入った。両人はしばらくの間黙って控えている。道也は相手の来意がわからぬから、先方の切り出すのを待つのが当然と考える。高柳君は昔しの関係を残りなく打ち開けて、一刻も早く同類相憐むの間柄になりたい。しかしあまり突然であるから、ちょっと言い出しかねる。のみならず、一昔し前の事とは申しながら、自分達がいじめて追い出した先生が、そのためにかく零落したのではあるまいかと思うと、何となく気がひけて云い切れない。高柳君はこんなところになるとすこぶる勇気に乏しい。謝罪かたがた尋ねはしたが、いよいよと云う段になると少々怖くて罪滅しが出来かねる。心にいろいろな冒頭を作って見たが、どれもこれもきまりがわるい。
「だんだん寒くなりますね」と道也先生は、こっちの了簡を知らないから、超然たる時候の挨拶をする。
「ええ、だいぶ寒くなったようで……」
高柳君の脳中の冒頭はこれでまるで打ち壊されてしまった。いっその事自白はこの次にしようという気になる。しかし何だか話して行きたい気がする。
「先生御忙がしいですか……」
「ええ、なかなか忙がしいんで弱ります。貧乏閑なしで」
高柳君はやり損なったと思う。再び出直さねばならん。
「少し御話を承りたいと思って上がったんですが……」
「はあ、何か雑誌へでも御載せになるんですか」
あてはまたはずれる。おれの態度がどうしても向には酌み取れないと見えると青年は心中少しく残念に思った。
「いえ、そうじゃないので――ただ――ただっちゃ失礼ですが。――御邪魔ならまた上がってもよろしゅうございますが……」
「いえ邪魔じゃありません。談話と云うからちょっと聞いて見たのです。――わたしのうちへ話なんか聞きにくるものはありませんよ」
「いいえ」と青年は妙な言葉をもって先生の辞を否定した。
「あなたは何の学問をなさるですか」
「文学の方を――今年大学を出たばかりです」
「はあそうですか。ではこれから何かおやりになるんですね」
「やれれば、やりたいのですが、暇がなくって……」
「暇はないですね。わたしなども暇がなくって困っています。しかし暇はかえってない方がいいかも知れない。何ですね。暇のあるものはだいぶいるようだが、余り誰も何もやっていないようじゃありませんか」
「それは人に依りはしませんか」と高柳君はおれが暇さえあればと云うところを暗にほのめかした。
「人にも依るでしょう。しかし今の金持ちと云うものは……」と道也は句を半分で切って、机の上を見た。机の上には二寸ほどの厚さの原稿がのっている。障子には洗濯した足袋の影がさす。
「金持ちは駄目です。金がなくって困ってるものが……」
「金がなくって困ってるものは、困りなりにやればいいのです」と道也先生困ってる癖に太平な事を云う。高柳君は少々不満である。
「しかし衣食のために勢力をとられてしまって……」
「それでいいのですよ。勢力をとられてしまったら、ほかに何にもしないで構わないのです」
青年は唖然として、道也を見た。道也は孔子様のように真面目である。馬鹿にされてるんじゃたまらないと高柳君は思う。高柳君は大抵の事を馬鹿にされたように聞き取る男である。
「先生ならいいかも知れません」とつるつると口を滑らして、はっと言い過ぎたと下を向いた。道也は何とも思わない。
「わたしは無論いい。あなただって好いですよ」と相手までも平気に捲き込もうとする。
「なぜですか」と二三歩逃げて、振り向きながら佇む狐のように探りを入れた。
「だって、あなたは文学をやったと云われたじゃありませんか。そうですか」
「ええやりました」と力を入れる。すべて他の点に関しては断乎たる返事をする資格のない高柳君は自己の本領においては何人の前に出てもひるまぬつもりである。
「それならいい訳だ。それならそれでいい訳だ」と道也先生は繰り返して云った。高柳君には何の事か少しも分らない。また、なぜですと突き込むのも、何だか伏兵に罹る気持がして厭である。ちょっと手のつけようがないので、黙って相手の顔を見た。顔を見ているうちに、先方でどうか解決してくれるだろうと、暗に催促の意を籠めて見たのである。
「分りましたか」と道也先生が云う。顔を見たのはやっぱり何の役にも立たなかった。
「どうも」と折れざるを得ない。
「だってそうじゃありませんか。――文学はほかの学問とは違うのです」と道也先生は凜然と云い放った。
「はあ」と高柳君は覚えず応答をした。
「ほかの学問はですね。その学問や、その学問の研究を阻害するものが敵である。たとえば貧とか、多忙とか、圧迫とか、不幸とか、悲酸な事情とか、不和とか、喧嘩とかですね。これがあると学問が出来ない。だからなるべくこれを避けて時と心の余裕を得ようとする。文学者も今まではやはりそう云う了簡でいたのです。そう云う了簡どころではない。あらゆる学問のうちで、文学者が一番呑気な閑日月がなくてはならんように思われていた。おかしいのは当人自身までがその気でいた。しかしそれは間違です。文学は人生そのものである。苦痛にあれ、困窮にあれ、窮愁にあれ、凡そ人生の行路にあたるものはすなわち文学で、それらを甞め得たものが文学者である。文学者と云うのは原稿紙を前に置いて、熟語字典を参考して、首をひねっているような閑人じゃありません。円熟して深厚な趣味を体して、人間の万事を臆面なく取り捌いたり、感得したりする普通以上の吾々を指すのであります。その取り捌き方や感得し具合を紙に写したのが文学書になるのです、だから書物は読まないでも実際その事にあたれば立派な文学者です。したがってほかの学問ができ得る限り研究を妨害する事物を避けて、しだいに人世に遠かるに引き易えて文学者は進んでこの障害のなかに飛び込むのであります」
「なるほど」と高柳君は妙な顔をして云った。
「あなたは、そうは考えませんか」
そう考えるにも、考えぬにも生れて始めて聞いた説である。批評的の返事が出るときは大抵用意のある場合に限る。不意撃に応ずる事が出来れば不意撃ではない。
「ふうん」と云って高柳君は首を低れた。文学は自己の本領である。自己の本領について、他人が答弁さえ出来ぬほどの説を吐くならばその本領はあまり鞏固なものではない。道也先生さえ、こんな見すぼらしい家に住んで、こんな、きたならしい着物をきているならば、おれは当然二十円五十銭の月給で沢山だと思った。何だか急に広い世界へ引き出されたような感じがする。
「先生はだいぶ御忙しいようですが……」
「ええ。進んで忙しい中へ飛び込んで、人から見ると酔興な苦労をします。ハハハハ」と笑う。これなら苦労が苦労にたたない。
「失礼ながら今はどんな事をやっておいでで……」
「今ですか、ええいろいろな事をやりますよ。飯を食う方と本領の方と両方やろうとするからなかなか骨が折れます。近頃は頼まれてよく方々へ談話の筆記に行きますがね」
「随分御面倒でしょう」
「面倒と云いや、面倒ですがね。そう面倒と云うよりむしろ馬鹿気ています。まあいい加減に書いては来ますが」
「なかなか面白い事を云うのがおりましょう」と暗に中野春台の事を釣り出そうとする。
「面白いの何のって、この間はうま、うまの講釈を聞かされました」
「うま、うまですか?」
「ええ、あの小供が食物の事をうまうまと云いましょう。あれの来歴ですね。その人の説によると小供が舌が回り出してから一番早く出る発音がうまうまだそうです。それでその時分は何を見てもうまうま、何を見なくってもうまうまだからつまりは何にもつけなくてもいいのだそうだが、そこが小供に取って一番大切なものは食物だから、とうとう食物の方で、うまうまを専有してしまったのだそうです。そこで大人もその癖がのこって、美味なものをうまいと云うようになった。だから人生の煩悶は要するに元へ還ってうまうまの二字に帰着すると云うのです。何だか寄席へでも行ったようじゃないですか」
「馬鹿にしていますね」
「ええ、大抵は馬鹿にされに行くんですよ」
「しかしそんなつまらない事を云うって失敬ですね」
「なに、失敬だっていいでさあ、どうせ、分らないんだから。そうかと思うとね。非常に真面目だけれどもなかなか突飛なのがあってね。この間は猛烈な恋愛論を聞かされました。もっとも若い人ですがね」
「中野じゃありませんか」
「君、知ってますか。ありゃ熱心なものだった」
「私の同級生です」
「ああ、そうですか。中野春台とか云う人ですね。よっぽど暇があるんでしょう。あんな事を真面目に考えているくらいだから」
「金持ちです」
「うん立派な家にいますね。君はあの男と親密なのですか」
「ええ、もとはごく親密でした。しかしどうもいかんです。近頃は――何だか――未来の細君か何か出来たんで、あんまり交際してくれないのです」
「いいでしょう。交際しなくっても。損にもなりそうもない。ハハハハハ」
「何だかしかし、こう、一人坊っちのような気がして淋しくっていけません」
「一人坊っちで、いいでさあ」と道也先生またいいでさあを担ぎ出した。高柳君はもう「先生ならいいでしょう」と突き込む勇気が出なかった。
「昔から何かしようと思えば大概は一人坊っちになるものです。そんな一人の友達をたよりにするようじゃ何も出来ません。ことによると親類とも仲違になる事が出来て来ます。妻にまで馬鹿にされる事があります。しまいに下女までからかいます」
「私はそんなになったら、不愉快で生きていられないだろうと思います」
「それじゃ、文学者にはなれないです」
高柳君はだまって下を向いた。
「わたしも、あなたぐらいの時には、ここまでとは考えていなかった。しかし世の中の事実は実際ここまでやって来るんです。うそじゃない。苦しんだのは耶蘇や孔子ばかりで、吾々文学者はその苦しんだ耶蘇や孔子を筆の先でほめて、自分だけは呑気に暮して行けばいいのだなどと考えてるのは偽文学者ですよ。そんなものは耶蘇や孔子をほめる権利はないのです」
高柳君は今こそ苦しいが、もう少し立てば喬木にうつる時節があるだろうと、苦しいうちに絹糸ほどな細い望みを繋いでいた。その絹糸が半分ばかり切れて、暗い谷から上へ出るたよりは、生きているうちは容易に来そうに思われなくなった。
「高柳さん」
「はい」
「世の中は苦しいものですよ」
「苦しいです」
「知ってますか」と道也先生は淋し気に笑った。
「知ってるつもりですけれど、いつまでもこう苦しくっちゃ……」
「やり切れませんか。あなたは御両親が御在りか」
「母だけ田舎にいます」
「おっかさんだけ?」
「ええ」
「御母さんだけでもあれば結構だ」
「なかなか結構でないです。――早くどうかしてやらないと、もう年を取っていますから。私が卒業したら、どうか出来るだろうと思ってたのですが……」
「さよう、近頃のように卒業生が殖えちゃ、ちょっと、口を得るのが困難ですね。――どうです、田舎の学校へ行く気はないですか」
「時々は田舎へ行こうとも思うんですが……」
「またいやになるかね。――そうさ、あまり勧められもしない。私も田舎の学校はだいぶ経験があるが」
「先生は……」と言いかけたが、また昔の事を云い出しにくくなった。
「ええ?」と道也は何も知らぬ気である。
「先生は――あの――江湖雑誌を御編輯になると云う事ですが、本当にそうなんで」
「ええ、この間から引き受けてやっています」
「今月の論説に解脱と拘泥と云うのがありましたが、あの憂世子と云うのは……」
「あれは、わたしです。読みましたか」
「ええ、大変面白く拝見しました。そう申しちゃ失礼ですが、あれは私の云いたい事を五六段高くして、表出したようなもので、利益を享けた上に痛快に感じました」
「それはありがたい。それじゃ君は僕の知己ですね。恐らく天下唯一の知己かも知れない。ハハハハ」
「そんな事はないでしょう」と高柳君はやや真面目に云った。
「そうですか、それじゃなお結構だ。しかし今まで僕の文章を見てほめてくれたものは一人もない。君だけですよ」
「これから皆んな賞めるつもりです」
「ハハハハそう云う人がせめて百人もいてくれると、わたしも本望だが――随分頓珍漢な事がありますよ。この間なんか妙な男が尋ねて来てね。……」
「何ですか」
「なあに商人ですがね。どこから聞いて来たか、わたしに、あなたは雑誌をやっておいでだそうだが文章を御書きなさるだろうと云うのです」
「へえ」
「書く事は書くとまあ云ったんです。するとねその男がどうぞ一つ、眼薬の広告をかいてもらいたいと云うんです」
「馬鹿な奴ですね」
「その代り雑誌へ眼薬の広告を出すから是非一つ願いたいって――何でも点明水とか云う名ですがね……」
「妙な名をつけて――。御書きになったんですか」
「いえ、とうとう断わりましたがね。それでまだおかしい事があるのですよ。その薬屋で売出しの日に大きな風船を揚げるんだと云うのです」
「御祝いのためですか」
「いえ、やはり広告のために。ところが風船は声も出さずに高い空を飛んでいるのだから、仰向けば誰にでも見えるが、仰向かせなくっちゃいけないでしょう」
「へえ、なるほど」
「それでわたしにその、仰向かせの役をやってくれって云うのです」
「どうするのです」
「何、往来をあるいていても、電車へ乗っていてもいいから、風船を見たら、おや風船だ風船だ、何でもありゃ点明水の広告に違いないって何遍も何遍も云うのだそうです」
「ハハハ随分思い切って人を馬鹿にした依頼ですね」
「おかしくもあり馬鹿馬鹿しくもあるが、何もそれだけの事をするにはわたしでなくてもよかろう。車引でも雇えば訳ないじゃないかと聞いて見たのです。するとその男がね。いえ、車引なんぞばかりでは信用がなくっていけません。やっぱり髭でも生やしてもっともらしい顔をした人に頼まないと、人がだまされませんからと云うのです」
「実に失敬な奴ですね。全体何物でしょう」
「何物ってやはり普通の人間ですよ。世の中をだますために人を雇いに来たのです。呑気なものさハハハハ」
「どうも驚ろいちまう。私なら撲ぐってやる」
「そんなのを撲った日にゃ片っ端から撲らなくっちゃあならない。君そう怒るが、今の世の中はそんな男ばかりで出来てるんですよ」
高柳君はまさかと思った。障子にさした足袋の影はいつしか消えて、開け放った一枚の間から、靴刷毛の端が見える。椽は泥だらけである。手の平ほどな庭の隅に一株の菊が、清らかに先生の貧を照らしている。自然をどうでもいいと思っている高柳君もこの菊だけは美くしいと感じた。杉垣の遥か向に大きな柿の木が見えて、空のなかへ五分珠の珊瑚をかためて嵌め込んだように奇麗に赤く映る。鳴子の音がして烏がぱっと飛んだ。
「閑静な御住居ですね」
「ええ。蛸寺の和尚が烏を追っているんです。毎日がらんがらん云わして、烏ばかり追っている。ああ云う生涯も閑静でいいな」
「大変たくさん柿が生っていますね」
「渋柿ですよ。あの和尚は何が惜しくて、ああ渋柿の番ばかりするのかな。――君妙な咳を時々するが、身体は丈夫ですか。だいぶ瘠せてるようじゃありませんか。そう瘠せてちゃいかん。身体が資本だから」
「しかし先生だって随分瘠せていらっしゃるじゃありませんか」
「わたし? わたしは瘠せている。瘠せてはいるが大丈夫」
七
白き蝶の、白き花に、
小き蝶の、小き花に、
みだるるよ、みだるるよ。
長き憂は、長き髪に、
暗き憂は、暗き髪に、
みだるるよ、みだるるよ。
いたずらに、吹くは野分の、
いたずらに、住むか浮世に、
白き蝶も、黒き髪も、
みだるるよ、みだるるよ。