売色鴨南蛮

1話 売色鴨南蛮(1)

7,270字 約15分 2003年9月10日 公開

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       一

 はじめ、目に着いたのは――ちと申兼ねるが、――とにかく、緋縮緬(ひぢりめん)であった。その燃立つようなのに、朱で処々(ところどころ)ぼかしの入った長襦袢(ながじゅばん)で。女は(すそ)端折(はしょ)っていたのではない。(つま)を高々と掲げて、膝で挟んだあたりから、(くれない)がしっとり垂れて、白い足くびを(まと)ったが、どうやら濡しょびれた不気味さに、そうして引上げたものらしい。素足に染まって、その(あか)いのが映りそうなのに、藤色の緒の重い厚ぼったい駒下駄(こまげた)、泥まみれなのを、弱々と内輪に揃えて、(また)を一つ(よじ)った姿で、(ふり)しきる雨の待合所の片隅に、腰を掛けていたのである。

 日永(ひなが)の頃ゆえ、まだ(くれ)かかるまでもないが、やがて五時も過ぎた。場所は院線電車の万世橋(まんせいばし)の停車(じょう)の、あの高い待合所であった。

 柳はほんのりと()え、花はふっくりと(つぼ)んだ、昨日今日、緑、(くれない)、霞の紫、春のまさに(たけなわ)ならんとする気を()めて、色の濃く、力の強いほど、五月雨(さみだれ)か何ぞのような雨の灰汁(あく)に包まれては、景色も人も、神田川の小舟さえ、皆黒い中に、紅梅とも、緋桃とも言うまい、横しぶきに、血の滴るごとき紅木瓜(べにぼけ)の、濡れつつぱっと咲いた風情は、見向うものの、(おもて)のほてるばかり目覚しい。……

 この目覚しいのを見て、話の主人公となったのは、大学病院の内科に勤むる、学問と、手腕を世に知らるる、最近留学して帰朝した秦宗吉(はたそうきち)氏である。

 辺幅(へんぷく)を修めない、質素な人の、住居(すまい)が芝の高輪(たかなわ)にあるので、毎日病院へ通うのに、この院線を使って、お茶の水で下車して、あれから大学の所在地まで徒歩するのが(ならい)であったが、五日も七日もこう降り続くと、どこの道もまるで泥海のようであるから、勤人(つとめにん)が大路の往還(ゆきき)の、茶なり黒なり背広で靴は、まったく大袈裟(おおげさ)だけれど、狸が土舟という(てい)がある。

 秦氏も御多分に漏れず――もっとも色が白くて鼻筋の通った処はむしろ兎の部に属してはいるが――歩行(あるき)悩んで、今日は本郷どおりの電車を万世橋で下りて、例の、銅像を横に、(おおき)煉瓦(れんが)(くぐ)って、高い石段を昇った。……これだと、ちょっと歩行(ある)いただけで甲武線は東京の大中央を突抜けて、一息に品川へ……

 が、それは段取だけの事サ、時間が時間だし、雨は降る……ここも出入(ではいり)がさぞ籠むだろう、と思ったより(おびただ)しい混雑で、ただ停車場などと、宿場がって(すま)してはおられぬ。川留(かわどめ)か、火事のように湧立(わきた)揉合(もみあ)う群集の黒山。中野行を待つ右側も、品川の左側も、二重三重に人垣を造って、線路の上まで押覆(おっかぶ)さる。

 すぐに電車が来た処で、どうせ一度では乗れはしまい。

 宗吉はそう断念(あきら)めて、洋傘(こうもり)(しずく)を切って、軽く黒の外套(がいとう)の脇に挟みながら、薄い皮の手袋をスッと手首へ(しご)いて、割合に透いて見える、なぜか、硝子囲(がらすがこい)の温室のような気のする、雨気(あまけ)と人の香の、むっと(こも)った待合の(うち)へ、コツコツと――やはり泥になった――(わびし)い靴の(さき)を刻んで入った時、ふとその目覚しい処を見たのである。

 たしか、中央の台に、まだ(おおき)な箱火鉢が出ていた……そこで、ハタと打撞(ぶつか)ったその縮緬の炎から、急に瞳を(わき)()らして、横ざまにプラットフォームへ出ようとすると、戸口の柱に、ポンと出た、も一つ赤いもの。

       二

 (おどか)しては不可(いけな)い。何、黒山の中の赤帽で、そこに腕組をしつつ、うしろ向きに凭掛(もたれかか)っていたが、宗吉が顔を出したのを、茶色のちょんぼり(ひげ)(はや)した小白い横顔で、じろりと()めると、

「上りは停電……下りは故障です。」

 と、人の顔さえ見れば、返事はこう言うものと()めたようにほとんど機械的に言った。そして頸窪(ぼんのくぼ)をその凭掛った柱で小突いて、超然とした。

「へッ! 上りは停電。」

「下りは故障だ。」

 (ひびき)の応ずるがごとく、四五人口々に饒舌(しゃべ)った。

「ああ、ああ、」

(たま)らねえなあ。」

「よく出来てら。」

「困ったわねえ。」と、つい釣込まれたかして、(つれ)もない女学生が猪首(いくび)を縮めて(つぶや)いた。

 が、いずれも、今はじめて知ったのでは無さそうで、赤帽がしかく機械的に言うのでも分る。

 かかる群集の動揺(どよ)む下に、冷然たる線路は、日脚に薄暗く沈んで、いまに(はぜ)が釣れるから待て、と大都市の泥海に、入江のごとく彎曲(わんきょく)しつつ、伸々(のびのび)と静まり返って、その癖底光(そこびかり)のする歯の土手を見せて、冷笑(あざわら)う。

 赤帽の言葉を善意に解するにつけても、いやしくも中山高帽(やまたか)(かぶ)って、外套も服も身に添った、洋行がえりの大学教授が、端近(はしぢか)へ押出して、その際じたばたすべきではあるまい。

 宗吉は――煙草(たばこ)()まないが――その火鉢の(そば)引籠(ひきこも)ろうとして、靴を返しながら、爪尖(つまさき)を見れば、ぐしょ(ぬれ)の土間に、ちらちらとまた(くれない)の褄が流れる。

 緋鯉(ひごい)が躍ったようである。

 思わず視線の向うのと、肩を合せて、その時、腰掛を立上った、もう一人の女がある。ちょうど緋縮緬のと並んでいた、そのつれかとも思われる、大島の羽織を着た、丸髷(まるまげ)の、脊の高い、面長な、目鼻立のきっぱりした顔を見ると、宗吉は、あっと思った。

 再び、おや、と思った。

 と言うのは、このごろ忙しさに、不沙汰(ぶさた)はしているが、知己(ちかづき)も知己、しかもその婚礼の席に(つらな)った、従弟(いとこ)の細君にそっくりで。世馴(よな)れた人間だと、すぐに、「おお。」と声を掛けるほど、よく似ている。がその似ているのを驚いたのでもなければ、思い掛けず出会ったのを驚いたのでもない。まさしくその人と思うのが、近々(ちかぢか)と顔を会わせながら、すっと外らして窓から雨の空を()た、取っても附けない、赤の他人らしい処置(ぶり)に、一驚を(きっ)したのである。

 いや、全く他人に違いない。

 けれども、脊恰好(せいかっこう)から、形容(なりかたち)生際(はえぎわ)の少し乱れた処、色白な容色(きりょう)よしで、浅葱(あさぎ)手柄(てがら)が、いかにも似合う細君だが、この女もまた不思議に浅葱の手柄で。(びん)の色っぽい処から……それそれ、少し仰向(あおむ)いている顔つき。他人が、ちょっと眉を(ひそ)める工合(ぐあい)を、その細君は小鼻から口元に(しわ)を寄せる癖がある。……それまでが、そのままで、電車を待草臥(まちくたび)れて、雨に(わび)しげな様子が、小鼻に寄せた皺に明白(あからさま)であった。

 勿論、別人とは納得しながら、うっかり口に出そうな挨拶(こんにちは)を、唇で噛留(かみと)めて、心着くと、いつの間にか、足もやや近づいて、帽子に手を掛けていた(きまり)の悪さに、背を向けて立直ると、雲低く、下谷(したや)、神田の屋根一面、雨も霞も(みなぎ)って濁った(なか)に、神田明神の森が見える。

 と、緋縮緬の女が、同じ方を(じっ)()ていた。

       三

 鼻の(たか)いその顔が、ひたひたと横に寄って、胸に白粉(おしろい)の着くように思った。

 宗吉は、愕然(がくぜん)とするまで、再び、似た人の面影をその女に発見(みいだ)したのである。

 緋縮緬の女は、櫛巻(くしまき)に結って、黒縮緬の紋着(もんつき)の羽織を撫肩(なでがた)にぞろりと着て、()せた片手を、力のない襟に挿して、そうやって、引上げた(つま)(おさ)えるように、膝に置いた手に萌黄色(もえぎいろ)のオペラバッグを大事そうに持っている。もう三十を幾つも越した年紀(とし)ごろから思うと、小児(こども)の土産にする玩弄品(おもちゃ)らしい、粗末な手提(てさげ)を――大事そうに持っている。はきものも、襦袢(じゅばん)も、素足も、櫛巻も、紋着も、何となくちぐはぐな処へ、色白そうなのが濃い化粧、口の大きく見えるまで濡々(ぬれぬれ)(べに)をさして、細い(えり)の、真白な咽喉(のど)を長く、明神の森の遠見に、伸上るような、ぐっと仰向いて、大きな目を(じっ)と《みは》った顔は、首だけ活人形(いきにんぎょう)()いだようで、綺麗(きれい)なよりは、もの(すご)い。ただ、美しく優しく、しかもきりりとしたのは(たぐい)なきその眉である。

 眉は、宗吉の思う、忘れぬ女と寸分違わぬ。が、この似たのは、もう一人の丸髷の方が、従弟の細君に似たほど、適格(しっくり)したものでは決してない。あるいはそれが余りよく似たのに引込まれて、心に刻んだ面影が緋縮緬の方に宿ったのであろうも知れぬ。

 よし、眉の姿ただ一枚でも、秦宗吉の胸は、夢に三日月を呑んだように、きらりと尊く輝いて、時めいて躍ったのである。

 ――お千と言った、その女は、実に宗吉が十七の年紀(とし)生命(いのち)の親である。――

 しかも場所は、面前(まのあたり)彼処(かしこ)に望む、神田明神の春の()の境内であった。

「ああ……もう一呼吸(ひといき)で、剃刀(かみそり)で、……」

 と、今(なが)めても身の毛が悚立(よだ)つ。……森のめぐりの雨雲は、陰惨な鼠色の(くま)を取った可恐(おそろし)い面のようで、家々の棟は、瓦の(きば)を噛み、歯を重ねた、その上に二処(ふたところ)三処(みところ)赤煉瓦(あかれんが)の軒と、亜鉛(トタン)屋根の引剥(ひっぺがし)が、高い空に、(かっ)と赤い歯茎を()いた、人を()う鬼の口に髣髴(ほうふつ)する。……その森、その樹立(こだち)は、……春雨の(けぶ)るとばかり見る目には、三ツ五ツ縦に並べた薄紫の眉刷毛(まゆばけ)であろう。死のうとした身の、その時を思えば、それも(さかしま)に生えた蓬々(おどろおどろ)(ひげ)である。

 その空へ、すらすらと(かりがね)のように浮く、緋縮緬の女の眉よ! 瞳も(すわ)って、(まばた)きもしないで、恍惚(うっとり)と同じ処を凝視(みつ)めているのを、宗吉はまたちらりと見た。

 ああその女?

 と波を打って(とどろ)く胸に、この停車場は、(おおい)なる船の甲板の廻るように、(みよし)を明神の森に向けた。

 手に取るばかりなお近い。

「なぞえに低くなった、あそこが明神坂だな。」

 その右側の露路の突当りの家で。……

 ――死のうとした日の朝――宗吉は、年紀上(としうえ)(かれ)の友達に、顔を(あた)ってもらった。……その()、明神の境内で、アワヤ咽喉(のんど)に擬したのはその剃刀であるが。

(ちょっと順序を(つけ)よう。)

 宗吉は学資もなしに、無鉄砲に国を出て、行処(ゆきどころ)のなさに、その頃、ある一団の、取留めのない不体裁なその日ぐらしの人たちの世話になって、辛うじて雨露(うろ)(しの)いでいた。

 その人たちというのは、主に懶惰(らんだ)放蕩(ほうとう)のため、世に見棄てられた医学生の落第なかまで、年輩も相応、女房持(にょうぼうもち)なども(まじ)った。中には政治家の半端もあるし、実業家の下積、山師も居たし、真面目(まじめ)に巡査になろうかというのもあった。

 そこで、宗吉が当時寝泊りをしていたのは、同じ明神坂の片側長屋の一軒で、ここには食うや食わずの医学生あがりの、松田と云うのが夫婦で居た。

 その突当りの、柳の樹に、軒燈の掛った見晴(みはらし)のいい誰かの妾宅(しょうたく)の貸間に居た、露の垂れそうな綺麗なのが……ここに緋縮緬の女が似たと思う、そのお千さんである。

       四

 お千は、世を忍び、人目を(はばか)る女であった。宗吉が世話になる、渠等(かれら)なかまの、ほとんど首領とも言うべき、熊沢という、(おっ)て大実業家となると聞いた、絵に描いた化地蔵(ばけじぞう)のような大漢(おおおとこ)が、そんじょその辺のを落籍(ひか)したとは表向(おもてむき)、得心させて、連出して、内証で囲っていたのであるから。

 言うまでもなく商売人(くろうと)だけれど、芸妓(げいしゃ)だか、遊女(おいらん)だか――それは今において分らない――何しろ、宗吉には三ツ四ツ、もっとかと思う年紀上の綺麗な姉さん、婀娜(あだ)なお千さんだったのである。

 前夜まで――唯今(ただいま)のような、じとじと(ぶり)の雨だったのが、花の開くように(あが)った、彼岸前の日曜の朝、宗吉は朝飯前(あさはんまえ)……というが、やがて、十時。……ここは、ひもじい経験のない読者にも御推読を願っておく。が、いつになってもその朝の御飯はなかった。

 妾宅では、前の晩、宵に一度、てんどんのお(あつら)え、夜中一時頃に蕎麦(そば)の出前が、(ぷん)枕頭(まくらもと)を匂って露路を入ったことを知っているので、()けば何かあるだろう……天気が()いとなお食べたい。空腹(すきばら)を抱いて、げっそりと落込むように、(みぞ)の減った裏長屋の格子戸を開けた処へ、突当りの妾宅の柳の下から、ぞろぞろと長閑(のどか)そうに三人出た。

 肩幅の広いのが、薄汚れた黄八丈の書生羽織を、ぞろりと着たのは、この長屋の主人(あるじ)で。一度戸口へ引込(ひっこ)んだ宗吉を横目で見ると、小指を出して、

「どうした。」

 と小声で言った。

「まだ、お()ってです。」

 起きるのに張合がなくて、細君の、まだ裸体(はだか)柏餅(かしわもち)(くる)まっているのを、そう言うと、主人はちょっと舌を出して黙って()く。

 次のは、()りたての頭の青々とした綺麗な出家。細面(ほそおもて)の色の白いのが、鼠の法衣下(ころもした)の上へ、黒縮緬の五紋(いつつもん)、――お千さんのだ、(ふり)(あか)い――羽織を着ていた。昨夜(ゆうべ)、この露路に入った時は、紫の輪袈裟(わげさ)を雲のごとく尊く(まと)って、水晶の数珠(じゅず)を提げたのに。――

 と、うしろから、拳固(げんこ)で、前の円い頭をコツンと(たた)く真似して、宗吉を流眄(ながしめ)で、ニヤリとして続いたのは、頭毛(かみのけ)真中(まんなか)に皿に似た禿(はげ)のある、色の黒い、目の(くぼ)んだ、口の(おおき)な男で、近頃まで政治家だったが、飜って商業に志した、ために紋着(もんつき)を脱いで、綿銘仙の羽織を裄短(ゆきみじか)に、めりやすの股引(ももひき)痩脚(やせずね)穿()いている。……小皿の平四郎。

 いずれも、花骨牌(はちはち)で徹夜の今、明神坂の常盤湯(ときわゆ)へ行ったのである。

 行違いに、ぼんやりと、宗吉が妾宅へ入ると、食う物どころか、いきなり跡始末の掃除をさせられた。

「済まないことね、学生さんに働かしちゃあ。」

 とお千さんは、伊達巻一つの(えん)蹴出(けだ)しで、お召の重衣(かさね)(すそ)をぞろりと引いて、黒天鵝絨(くろびろうど)座蒲団(ざぶとん)を持って、火鉢の前を()げながらそう言った。

「何、目下は(あっし)たちの小僧です。」

 と、甘谷(あまや)という横肥(よこぶと)り、でぶでぶと脊の低い、ばらりと髪を長くした、太鼓腹に角帯を巻いて、前掛(まえかけ)真田(さなだ)をちょきんと結んだ、これも医学の落第生。追って大実業家たらんとする準備中のが、笑いながら言ったのである。

 二人が、この妾宅の貸ぬしのお(めかけ)――が、もういい加減な中婆さん――と兼帯に使う、次の()へ立った()に、宗吉が、ひょろひょろして、時々浅ましく下腹をぐっと泣かせながら、とにかく、きれいに掃出すと、

「御苦労々々。」

 と、調子づいて、

「さあ、貴女(あなた)。」

 と、甘谷が座蒲団を引攫(ひっさら)って、もとの処へ。……身体(からだ)に似ない腰の軽い男。……もっとも甘谷も、つい十日ばかり前までは、宗吉と同じ長屋に貸蒲団の一ツ夜着(よぎ)で、芋虫ごろごろしていた処――事業の運動に外出(そとで)がちの熊沢旦那が、お千さんの見張兼番人かたがた妾宅の方へ引取って置くのであるから、日蔭ものでもお千は御主人。このくらいな事は当然で。

 (つい)の蒲団を、とんとんと小形の長火鉢の内側へ直して、

「さ、さ、貴女。」

 と自分は退()いて、

「いざまず……これへ。」と口も気もともに軽い、が、起居(たちい)石臼(いしうす)引摺(ひきず)るように、どしどしする。――ああ、無理はない、脚気(かっけ)がある。夜あかしはしても、朝湯には行けないのである。

可厭(いや)ですことねえ。」

 と、婀娜な目で、襖際(ふすまぎわ)から(のぞ)くように、友染の(すそ)()いた櫛巻の立姿。

       五

 桜にはちと早い、木瓜(ぼけ)か、何やら、枝ながら障子に映る花の影に、ほんのりと日南(ひなた)(かおり)が添って、お千がもとの座に着いた。

 向うには、旦那の熊沢が、上下大島の金鎖、あの大々したので、ドカリと胡坐(あぐら)を組むのであろう。

「お留守ですか。」

 宗吉が何となく甘谷に言った。ここにも見えず、湯に行った中にも居なかった。その熊沢を()いたのである。

 縁側の片隅で、

「えへん!」と屋鳴りのするような咳払(せきばらい)を響かせた、便所の(なか)で。

「熊沢はここに()るぞう。」

「まあ。」

「随分ですこと、ほほほ。」

 と家主(いえぬし)のお妾が、次の()を台所へ(とおり)がかりに笑って()くと、お千さんが俯向(うつむ)いて、莞爾(にっこり)して、

(あんま)り色気がなさ過ぎるわ。」

「そこが御婦人の毒でげす。」

 と甘谷は前掛をポンポンと(たた)いて、

「お千さんは大将のあすこン処へ落ッこちたんだ。」

「あら、随分……(ひど)いじゃありませんか、甘谷さん、(あんま)りだよ。」

 何にも知らない宗吉にも、この間違は直ぐ分った、汚いに相違ない。

「いやあ、これは、失敗、失敬、失礼。」

 甘谷は立続けに叩頭(おじぎ)をして、

「そこで、おわびに、一つ貴女の顔を(あた)らして頂きやしょう。いえ、自慢じゃありませんがね、昨夜(ゆうべ)ッから申す通り、野郎図体(ずうたい)は不器用でも、勝奴(かつやっこ)ぐらいにゃ(たしか)に使えます。剃刀(かみそり)を持たしちゃ(たしか)です。――秦君、ちょっと奥へ行って、剃刀を借りて来たまえ。」

 宗吉は、お千さんの、湯にだけは(そっ)と行っても、床屋へは()けもせず、呼ぶのも慎むべき境遇を(うなず)きながら、お妾に剃刀を借りて戻る。……

「おっと!……ついでに金盥(かなだらい)……気を利かして、気を利かして。」

 この間に、いま何か話があったと見える。

「さあ、君、ここへ顔を出したり、一つ手際を御覧に入れないじゃ、奥さん御信用下さらない。」

「いいえ、そうじゃありませんけれどもね、私まだ、そんなでもないんですから。」

「何、御遠慮にゃあ及びません。間違った処でたかが小僧の顔でさ。……ちょうど、ほら、むく毛が生えて、(あんこ)撮食(つまみぐい)をしたようだ。」

 宗吉は、可憐(あわれ)やゴクリと()を呑んだ。

「仰向いて、ぐっと。そら、どうです、つるつるのつるつると、鮮かなもんでげしょう。」

「何だか(あぶな)ッかしいわね。」

 と少し膝を浮かしながら、手元を覗いて憂慮(きづかわ)しそうに、動かす顔が、鉄瓶の湯気の陽炎(かげろう)に薄絹を掛けつつ、宗吉の目に、ちらちら、ちらちら。

「大丈夫、それこの通り、ちょいちょいの、ちょいちょいと、」

「あれ、()して頂戴、止してよ。」

 と浮かした膝を揺ら揺らと、袖が薫って伸上る。

「なぜですてば。」

「危いわ、危いわ。おとなしい、その優しい眉毛(まみえ)を、落したらどうしましょう。」

「その事ですかい。」

 と、ちょっと留めた剃刀をまた当てた。

「構やしません。」

「あれ、目の縁はまだしもよ、上は止して、後生だから。」

「貴女の襟脚を()ろうてんだ。何、こんなものぐらい。」

「ああ、ああああ、ああーッ。」

 と便所の(なか)で屋根へ投げた、筒抜けな大欠伸(おおあくび)

「笑っちゃあ……不可(いけな)い不可い。」

「ははははは、笑ったって泣いたって、何、こんな小僧ッ子の眉毛(まゆげ)なんか。」

(いや)、厭、厭。」

 と支膝(つきひざ)のまま、するすると寄る衣摺(きぬずれ)が、遠くから羽衣の音の(ちかづ)くように宗吉の胸に響いた……畳の波に人魚の半身。

「どんな(おっか)さんでしょう、このお方。」

 雪を欺く(かいな)を空に、甘谷の剃刀の手を支え、突いて離して、胸へ、抱くようにして(じっ)()た。

(うらやま)しい事、まあ、何て、いい眉毛(まみえ)だろう。親御はさぞ、お可愛いだろうねえ。」

 乳も白々と、優しさと可懐(なつか)しさが透通るように()えながら、(きぬ)(あや)衣紋(えもん)の色も、黒髪も、宗吉の目の真暗(まっくら)になった時、肩に袖をば掛けられて、(おもて)を襟に伏せながら、忍び兼ねた胸を絞って、思わず、ほろほろと熱い涙。

 お妾が次の()から、

「切れますか剃刀は……あわせに()ろう遣ろうと思いましちゃあ……ついね……」

 自殺をするのに、宗吉は、床屋に持って()きましょう、と言って、この剃刀を取って出た。それは同じ日の()()ってからである。

 仔細(しさい)は……

       六

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