売色鴨南蛮

2話 売色鴨南蛮(2)

6,664字 約13分 2003年9月10日 公開

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 ……さて、やがて朝湯から三人が戻って来ると、長いこと便所に居た熊沢も一座で、また花札を(もてあそ)ぶ事になって、朝飯は(すし)にして、湯豆腐でちょっと一杯、と言う。

 この使(つかい)のついでに、明神の石坂、開化楼裏の、あの切立(きったて)の段を下りた宮本町の横小路に、相馬(そうま)煎餅(せんべい)――塩煎餅の、焼方の、醤油(したじ)()に、何となく(くつわ)の形の浮出して見える名物がある。――茶受にしよう、是非お千さんにも食べさしたいと、甘谷の発議。で、宗吉がこれを買いに遣られたのが事の原因(おこり)であった。

 何分にも、十六七の食盛(くいざか)りが、毎日々々、三度の食事にがつがつしていた処へ、朝飯前とたとえにも言うのが、突落されるように(けわ)しい石段を下りたドン底の空腹(ひもじ)さ。……天麩羅(てんぷら)とも、蕎麦(そば)とも、焼芋とも、(ぷん)と塩煎餅の(こうば)しさがコンガリと鼻を突いて、袋を持った手がガチガチと震う。近飢(ちかがつ)えに、冷い汗が垂々(たらたら)と身うちに流れる堪え難さ。

 その時分の物価で、……忘れもしない七銭が煎餅の可なり(かさ)のある中から……小判のごとく、数二枚。

 宗吉は、一坂(ひとさか)戻って、段々にちょっと区劃(くぎり)のある、すぐに手を立てたように石坂がまた急になる、平面な処で、銀杏(いちょう)の葉はまだ浅し、(もみ)(えのき)(こずえ)は遠し、(たて)に取るべき蔭もなしに、(がけ)溝端(どぶばた)真俯向(まうつむ)けになって、生れてはじめて、許されない禁断の(このみ)を、相馬の名に負う、轡をガリリと頬張る思いで、馬の口にかぶりついた。が、(うま)さと切なさと恥かしさに、堅くなった胸は、(おのず)から(どぶ)の上へのめって、折れて、煎餅は口よりもかえって胃の中でボリボリと()れた。

 ト突出(つきだし)(ひさし)に額を打たれ、忍返(しのびがえし)の釘に眼を刺され、(かっ)と血とともに総身(そうしん)が熱く、たちまち、罪ある蛇になって、攀上(よじのぼ)る石段は、お七が火の見を駆上った思いがして、(こうべ)()す太陽は、血の色して段に流れた。

 宗吉はかくてまた明神の御手洗(みたらし)に、更に、氷に(とじ)らるる思いして、悚然(ぞっ)と寒気を感じたのである。

「くすくす、くすくす。」

 花骨牌(はちはち)の車座の、輪に身を()かるる、(あやう)さを感じながら、宗吉が我知らず(おもて)を赤めて、煎餅の袋を渡したのは、甘谷の手で。

「おっと来た、めしあがれ。」

 と一枚めくって合せながら、袋をお千さんの手に渡すと、これは少々疲れた風情で、なかまへは入らぬらしい。火鉢を隔てたのが請取って、膝で(のぞ)くようにして開けて、

「御馳走様ですね……早速お毒見。」

 と言った。

 これにまた胸が痛んだ。だけなら、まださほどまでの仔細はなかった。

「くすくす、くすくす。」

 宗吉がこの座敷へ入りしなに、もうその忍び笑いの声が耳に附いたのであるが、この時、お千さんの一枚(つま)んだ煎餅を、見ないように、ちょっと(わき)へかわした宗吉の顔に、横から打撞(ぶつか)ったのは小皿の平四郎。……頬骨の張った菱形の(つら)に、(くぼ)んだ目を細く、小鼻をしかめて、

「くすくす。」

 とまた遣った。手にわるさに落ちたと見えて札は持たず、鍍金(めっき)銀煙管(ぎんぎせる)を構えながら、めりやすの股引(ももひき)を前はだけに、片膝を立てていたのが、その膝頭に頬骨をたたき着けるようにして、

「くすくすくす。」

 続けて忍び(わらい)をしたのである。

 立続(たてつ)けて、

「くッくッくッ。」

       七

「こっちは、びきを泣かせてやれか。」

 と黄八丈が骨牌(ふだ)(めく)ると、黒縮緬の坊さんが、(あか)い裏を翻然(ひらり)(かえ)して、

「餓鬼め。」

 と投げた。

「うふ、うふ、うふ。」と平四郎の忍び笑が、歯茎を()れて声に出る。

「うふふ、うふふ、うふふふふふ。」

「何じゃい。」と片手に猪口(ちょく)を取りながら、黒天鵝絨(くろびろうど)蒲団(ふとん)の上に、萩、菖蒲(あやめ)、桜、牡丹(ぼたん)の合戦を、どろんとした目で見据えていた、大島揃(おおしまぞろい)大胡坐(おおあぐら)の熊沢が、ぎょろりと平四郎を見向いて言うと、笑いの虫は蕃椒(とうがらし)を食ったように、赤くなるまで(かっ)競勢(きお)って、

「うはははは、うふふ、うふふ。うふふ。えッ、いや、あ、あ、チ、あははははは、はッはッはッはッ、テ、ウ、えッ、えッ、えッ、えへへ、うふふ、あはあはあは、あは、あはははははは、あはははは。」

「馬鹿な。」

 と唇を横舐(よこな)めずって、熊沢がぬっと突出した猪口に、酌をしようとして、銅壺(どうこ)から抜きかけた銚子(ちょうし)の手を留め、お千さんが、

「どうしたの。」

「おほほ、や、お尋ねでは恐入るが、あはは、テ、えッ。えへ、えへへ、う、う、ちえッ、(たま)らない。あッはッはッはッ。」

「魔が()したようだ。」

 甘谷が(あき)れて(つぶや)く、……と寂然(しん)となる。

 寂寞(しん)となると、(わらい)ばかりが、

「ちゃはははは、う、はは、うふ、へへ、ははは、えへへへへ、えッへ、へへ、あははは、うは、うは、うはは。どッこい、ええ、チ、ちゃはは、エ、はははは、ははははは、うッ、うッ、えへッへッへッ。」

 と横のめりに平四郎、煙管の雁首(がんくび)脾腹(ひばら)(つつ)いて、身悶(みもだ)えして、

「くッ、苦しい……うッ、うッ、うッふふふ、チ、うッ、うううう苦しい。ああ、切ない、あはははは、あはッはッはッ、おお、コ、こいつは、あはは、ちゃはは、テ、チ、たッたッ堪らん。ははは。」

 と込上げ揉立(もみた)て、真赤(まっか)になった、七(てん)(とう)息継(いきつぎ)に、つぎ(ざま)しの茶を取って、がぶりと遣ると、

「わッ。」と()せて、灰吹を(つか)んだが間に合わず、火入の灰へぷッと吐くと、むらむらと灰かぐら。

「ああ、あの()、障子を一枚開けていな。」

 と黒縮緬の袖で払って出家が言った。

 宗吉は針の(むしろ)を飛上るように、そのもう一枚、肘懸窓(ひじかけまど)の障子を開けると、(さっ)と出る灰の吹雪は、すッと蒼空(あおぞら)に渡って、(はるか)に品川の海に消えた。が、蔵前の煙突も、十二階も、睫毛(まつげ)一眸(ひとめ)の北の(かた)、目の下、一雪崩(ひとなだれ)(がけ)になって、崕下の、ごみごみした屋根を隔てて、日南(ひなた)の煎餅屋の小さな店が、油障子も覗かれる。

 ト(ななめ)に、がッくりと(くぼ)んで暗い、崕と石垣の間の、遠く明神の裏の石段に続くのが、大蜈蚣(おおむかで)のように胸前(むなさき)(うね)って、突当りに(きば)噛合(かみあ)うごとき、小さな黒塀の忍び(がえし)の下に、(どぶ)から這上(はいあが)った(うじ)の、醜い汚い筋をぶるぶると震わせながら、()()めるような形が、歴然(ありあり)と、自分(おの)が瞳に映った時、宗吉はもはや蒼白(まっさお)になった。

 ここから()られたに相違ない。

 と思う平四郎は、(よだれ)と一所に、濡らした膝を、手巾(ハンケチ)で横撫でしつつ、

「ふ、ふ、ふ、ふ、ふ。」……大歎息(おおためいき)とともに尻を()いたなごりの(わらい)が、更に、がらがらがらと雷の鳴返すごとく少年の耳を打つ!……

「お(せん)をめしあがれな。」

 目の下の崕が切立(きった)てだったら、宗吉は、お千さんのその声とともに、(さかしま)に落ちてその場で五体を微塵(みじん)にしたろう。

 (うみ)の親を可懐(なつか)しむまで、眉の一片(ひとひら)(かば)ってくれた、その人ばかりに恥かしい。……

「ちょっと、(うち)まで。」

 と息を呑んで言った――宅とは露路のその長屋で。

 宗吉は、しかし、その長屋の前さえ、遁隠(にげかく)れするように素通りして、明神の境内のあなたこなた、人目の(すき)の隅々に立って、(うえ)さえ忘れて、半日を泣いて泣きくらした。

 星も曇った暗き()に、

「おかみさん――床屋へ剃刀を持って参りましょう。ついでがございますから……」

 宗吉はわざと格子戸をそれて、蚯蚓(みみず)の這うように台所から、(そっ)と妾宅へおとずれて、家主の手から剃刀を取った。

 ()を隔てた座敷に、(あで)やかな影が気勢(けはい)に映って、香水の(かおり)は、つとはしり(もと)にも薫った。が、寂寞(ひっそり)していた。

 露路の長屋の赤い(あかり)に、珍しく、大入道やら、五分刈やら、中にも小皿で禿(かむろ)なる影法師が動いて、ひそひそと声の漏れるのが、目を忍び、()(はばか)る出入りには、宗吉のために、むしろ僥倖(さいわい)だったのである。

       八

「何をするんですよ、何をするんですよ、お前さん、串戯(じょうだん)ではありません。」

 社殿の裏なる、空茶店(あきちゃみせ)葦簀(よしず)の中で、一方の柱に使った片隅なる大木の銀杏(いちょう)の幹に凭掛(よりかか)って、アワヤ剃刀を咽喉(のど)に当てた時、すッと音して、滝縞(たきじま)の袖で抱いたお千さんの姿は、……宗吉の目に、高い樹の梢から(さっ)と下りた、美しい女の顔した不思議な鳥のように映った――

 剃刀をもぎ取られて後は、茫然(ぼうぜん)として、ほとんど夢心地である。

「まあ! ()かった。」

 と、身を()じて、肩を抱きつつ、(やしろ)の方を片手拝みに、

「虫が知らしたんだわね。いま、お前さんが台所で、剃刀を持って()くって声が聞えたでしょう、ドキリとしたのよ。……秦さん秦さんと言ったけれど、もう居ないでしょう。何だかね、こんな間違がありそうな気がしてならない、私。私、でね、すぐに後から駆出したのさ。でも、どこって(あて)はないんだもの、鳥居前のあすこの床屋で聞いてみたの。まあね、……まるでお見えなさらないと言うじゃあないの。しまった、と思ったわ。半分夢中で、それでも私がここへ来たのは神仏(かみほとけ)のお助けです。秦さん、私が助けるんだと思っちゃあ不可(いけな)い。()うござんすか、()いかえ、貴方(あなた)。……親御さんが影身に添っていなさるんですよ。(よう)ござんすか、分りましたか。」

 と小児(こども)のように、柔い胸に、帯も扱帯(しごき)もひったりと抱き締めて、

「御覧なさい、お月様が、あれ、仏様(ののさん)が。」

 忘れはしない、半輪の五日の月が黒雲を下りるように、荘厳なる銀杏の枝に、梢さがりに(かか)ったのが、可懐(なつかし)い亡き母の乳房の輪線の面影した。

「まあ、これからという、……女にしても(つぼみ)のいま、どうして死のうなんてしたんですよ。――私に……私……ええ、それが私に恥かしくって、――」

 その()(ふるえ)が胸に響く。

「何の塩煎餅の二枚ぐらい、貴方が掏賊(ちぼ)でも構やしない――私はね、あの。……まあ、とにかく、内へ()きましょう。()塩梅(あんばい)に誰も居ないから。」

 促して、急いで脱放しの駒下駄を(さぐ)る時、白脛(しらはぎ)()が散った。お千も(あわただ)しかったと見えて、宗吉の穿物(はきもの)までは心着かず、可恐(おそろ)しい処を()げるばかりに、息せいて手を引いたのである。

 魔を()け、死神を払う禁厭(まじない)であろう、明神の御手洗(みたらし)の水を(すく)って、(しずく)ばかり宗吉の頭髪(かみ)を濡らしたが、

「……息災、延命、息災延命、学問、学校、心願成就。」

 と、手よりも濡れた瞳を閉じて、(えり)白く、御堂(みどう)をば伏拝み、

「一口めしあがれ、……気を静めて――私も。」

 と柄杓(ひしゃく)を重げに口にした。

動悸(どうき)を御覧なさいよ、私のさ。」

 その胸の(とどろ)きは、今より先に知ったのである。

「秦さん、私は貴方を連れて、もうあすこへは戻らない。……身にも命にもかえてね、お手伝をしますがね、……実はね、今明神様におわびをして、貴方のお(つむ)を濡らしたのは――実は、あの、一度内へ帰ってね。……この剃刀で、貴方を、そりたての今道心にして、一緒に寝ようと思ったのよ。――あのね、実はね、今夜あたり紀州のあの坊さんに、私が抱かれて、そこへ、熊沢だの甘谷だのが踏込んで、不義いたずらの罪に落そうという相談に……どうでも、と言って乗せられたんです。

 ……あの坊さんは、高野山とかの、金高(かねだか)なお宝ものを売りに出て来ているんでしょう。どことかの大金持だの、何省の大臣だのに売ってやると言って、だまして、熊沢が皆質に入れて使ってしまって、催促される、苦しまぎれに、不断、何だか私にね、坊さんが厭味(いやみ)らしい目つきをするのを知っていて、まあ大それた美人局(つつもたせ)だわね。

 私が弱いもんだから、身体(からだ)も度胸もずばぬけて強そうな、あの人をたよりにして、こんな身裁(しだら)になったけれど、……そんな相談をされてからはね……その上に、この眉毛(まみえ)を見てからは……」

 と、お千は(そっ)と宗吉の肩を撫でた。

「つくづく、あんな人が可厭(いや)になった。――そら、どかどかと踏込むでしょう。貴方を抱いて、ちゃんと起きて、居直って、あいそづかしをきっぱり言って、夜中に直ぐに飛出して、溜飲(りゅういん)を下げてやろうと思ったけれど……どんな発機(はずみ)で、自棄腹(やけばら)の、あの人たちの乱暴に、貴方に怪我でもさせた日にゃ、取返しがつかないから、といま胸に手を置いて、分別をしたんですよ。

 さ、このままどこかへ()きましょう。私に任して安心なさいよ。……貴方もきっとあの人たちに二度とつき合っては不可(いけ)ません。」

 裏崕(うらがけ)の石段を降りる時、宗吉は狼の峠を越して、花やかな都を見る気がした。

「ここ……そう……」

 お千さんが莞爾(にっこり)して、塩煎餅を買うのに、昼夜帯を()いたのが、安ものらしい、が、萌黄(もえぎ)金入(かねいれ)

「食べながら歩行(あるき)ましょう。」

「弱虫だね。」

 大通(おおどおり)へ抜ける暗がりで、甘く、且つ(かんば)しく、皓歯(しらは)でこなしたのを、口移し……

       九

 宗吉が夜学から、徒士町(おかちまち)のとある裏の、空瓶屋と襤褸屋(ぼろや)の間の、貧しい下宿屋へ帰ると、引傾(ひきかし)いだ濡縁(ぬれえん)づきの六畳から、男が一人摺違(すれちが)いに出て()くと、お千さんはパッと障子を開けた。が、もう床が取ってある……

 枕元の火鉢に、はかり炭を継いで、目の破れた金網を(はす)に載せて、お千さんが懐紙(ふところがみ)であおぎながら、豌豆餅(えんどうもち)を焼いてくれた。

 そして熱いのを口で吹いて、嬉しそうな宗吉に、浦里の話をした。

 お千は、それよりも美しく、雪はなけれど、ちらちらと散る花の、小庭の湿地(しけち)の、石炭殻につもる可哀(あわれ)さ、痛々しさ。

 時次郎でない、頬被(ほおかぶり)したのが、黒塀の外からヌッと覗く。

 お千が脛白(はぎしろ)く、はっと立って、障子をしめようとする目の前へ、トンと下りると、つかつかと縁側へ。

「あれ。」

「おい、気の毒だがちょっと用事だ。」

 と袖から蛇の首のように捕縄(とりなわ)をのぞかせた。

 膝をなえたように()きながら、お千は宗吉を背後(うしろ)に囲って、

「……この人は……」

「いや、小僧に用はない。すぐおいで。」

「宗ちゃん、……朝の御飯はね、煮豆が買って(ふた)ものに、……紅生薑(べにしょうが)と……紙の(おおい)がしてありますよ。」

 風俗係は草履を片手に、もう入口の(ふすま)を開けていた。

 お千が穿(はき)ものをさがすうちに、風俗係は、内から、戸の錠をあけたが、軒を出ると、ひたりと腰縄を打った。

 細腰はふっと消えて、すぼめた肩が、くらがりの柳に浮く。

 ……そのお千には、もう(とう)に、羽織もなく、下着もなく、(はだえ)ただ白く(しま)の小袖の()えたるのみ。

 宗吉は、跣足(はだし)で、めそめそ泣きながら後を追った。

 目も心も真暗(まっくら)で、町も処も覚えない。(さっ)と一条の冷い風が、電燈の細い光に桜を誘った時である。

「旦那。」

 とお千が立停(たちど)まって、

「宗ちゃん――宗ちゃん。」

 振向きもしないで、うなだれたのが、気を感じて、眉を優しく振向いた。

「…………」

「姉さんが、魂をあげます。」――辿(たど)りながら折ったのである。……懐紙の、白い折鶴が()にあった。

「この飛ぶ処へ、すぐおいで。」

 ほっと吹く息、薄紅(うすくれない)に、折鶴はかえって蒼白(あおじろ)く、花片(はなびら)にふっと乗って、ひらひらと空を舞って行く。……これが落ちた(おおき)な門で、はたして宗吉は拾われたのであった。

 電車が上り下りともほとんど同時に来た。

 宗吉は身動きもしなかった。

 と見ると、丸髷(まるまげ)の女が、その緋縮緬(ひぢりめん)(そば)()と寄って、いつか、肩ぬげつつ裏の(すべ)った効性(かいしょう)のない羽織を、上から引合せてやりながら、

「さあ、来ました。」

「自動車ですか。」

 と目を《みは》ったまま、緋縮緬の女はきょろんとしていた。

       十

 年若(としわか)い駅員が、

「貴方がたは?」

 と言った。

 乗り余った黒山の群集も、三四輛立続けに来た電車が、泥まで綺麗に(さら)ったのに、まだ待合所を出なかった女二人、(別に一人)と宗吉をいぶかったのである。

 宗吉は言った。

「この御婦人が御病気なんです。」

 と、やっぱり、けろりと仰向(あおむ)いている緋縮緬の女を、外套(がいとう)(ひじ)(かば)って言った。

 駅員の去ったあとで、

唯今(ただいま)、自動車を差上げますよ。」

 と宗吉は、優しく顔を(のぞ)きつつ、丸髷の女に瞳を返して、

「巣鴨はお見合せを願えませんか。……きっと御介抱申します。(わたくし)はこういうものです。」

 なふだに医学博士――秦宗吉とあるのを見た時、……もう一人居た、散切(ざんぎり)で被布の女が、P形に直立して、Zのごとく敬礼した。これは附添の雑仕婦(ぞうしふ)であったが、――博士が、その従弟の細君に似たのをよすがに、これより(さき)、丸髷の女に(ことば)を掛けて、その人品のゆえに人をして疑わしめず、(つれ)は品川の某楼の女郎で、気の狂ったため巣鴨の病院に送るのだが、自動車で行きたい、それでなければ(いや)だと言う。そのつもりにして、すかして電車で来ると、ここで自動車でないからと言って、何でも下りて、すねたのだと言う。……丸髷は某楼のその娘分。女郎の本名をお千と聞くまで、――この雑仕婦は物頂面(ぶっちょうづら)して(にら)んでいた。

 不時の回診に驚いて、ある日、その助手たち、その白衣の看護婦たちの、ばらばらと急いで、しかも、静粛に駆寄るのを、(おもむ)ろに、左右に辞して、医学博士秦宗吉氏が、

「いえ、個人で見舞うのです……皆さん、どうぞ。」

 やがて博士は、特等室にただ一人、膝も胸も、しどけない、けろんとした狂女に、何と……手に剃刀(かみそり)を持たせながら、臥床(ベッド)(ひざまず)いて、その胸に額を埋めて、ひしと(すが)って、潸然(さんぜん)として泣きながら、微笑(ほほえ)みながら、身も世も忘れて愚に返ったように、だらしなく、涙を(ひげ)に伝わらせていた。

大正九(一九二○)年五月

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