半島一奇抄

1話 半島一奇抄(1)

2,865字 約6分 2001年9月17日 公開

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「やあ、しばらく。」

 記者が掛けた声に、思わず力が入って、運転手がはたと自動車を留めた。……実は相乗(あいのり)して席を並べた、修善寺の旅館の主人の談話を、ふと遮った調子がはずんで高かったためである。

「いや、構わず……どうぞ。」

 振向いた運転手に、記者がちょっとてれながら云ったので、自動車はそのまま一軋(ひときし)りして進んだ。

 沼津に向って、浦々の春遅き景色を(はし)らせる、……土地の人は(みっと)と云う三津(みと)の浦を、いま浪打際とほとんどすれすれに通る(ところ)であった。しかし、これは廻り(みち)である。

 小暇を得て、修善寺に遊んだ、一――新聞記者は、暮春の雨に、三日ばかり降込められた、宿の出入りも番傘で、ただ垂籠(たれこ)めがちだった本意(ほい)なさに、日限(ひぎり)の帰路を、折から快晴した浦づたい。――「当修善寺から、口野浜(くちのはま)多比(たひ)の浦、江の浦、獅子浜(ししはま)、馬込崎と、駿河湾(するがわん)を千本の松原へ向って、富士御遊覧で、それが自動車と来た日には、どんな、大金持ちだって、……何、あなた、それまでの贅沢(ぜいたく)でございますよ。」と番頭の(ひざ)(たた)いたのには、少分の茶代を出したばかりの記者は、少からず(おびや)かされた。が、乗りかかった船で、一台(おおい)(おご)った。――主人が沼津の町へ私用がある。――そこで同車で乗出した。

 大仁(おおひと)の町を過ぎて、三福(さんぷく)田京(たきょう)、守木、宗光寺畷(そうこうじなわて)、南条――といえば北条の話が出た。……四日町を抜けて、それから小四郎の江間、長塚を横ぎって、口野、すなわち海岸へ出るのが順路であった。……

 うの花にはまだ早い、山田小田(おだ)紫雲英(げんげ)(のこん)の菜の花、並木の随処に相触れては、狩野(かの)川が綟子(もじ)を張って青く流れた。雲雀(ひばり)は石山に高く(さえず)って、鼓草(たんぽぽ)の綿がタイヤの(あおり)に散った。四日町は、新しい感じがする。両側をきれいな細流が走って、背戸、(まがき)日向(ひなた)に、若木の藤が、結綿(ゆいわた)(きれ)をうつむけたように優しく咲き、屋根に蔭つくる樹の下に、山吹が浅く水に笑う……家ごとに申合せたようである。

 記者がうっかり見愡(みと)れた時、主人が片膝を引いて、前へ(かが)んで、「辰さん――道普請がある(はず)だが前途(さき)は大丈夫だろうかね。」「さあ。」「さあじゃないよ、それだと自動車は通らないぜ。」「もっとも半月の上になりますから。」と運転手は一筋路を山の根へ見越して、やや()った。「半月の上だって落着いている処じゃないぜ。……いや、もうちと後路(あと)で気をつけようと、修善寺を出る時から思っていながら、お客様と話で夢中だった。――」「何、海岸まわりは出来ないのですかね。」「いいえ、南条まで戻って、三津へ出れば仔細(しさい)ありませんがな、気の着かないことをした。……辰さん、一度聞いた方がいいぜ。」「は、そういたしましょう。」「恐ろしく丁寧になったなあ。」と主人は、目鼻をくしゃくしゃとさせて苦笑して、茶の中折帽(なかおれぼう)(かぶ)り直した。「はやい方が()い、聞くのに――」けれども山吹と藤のほか、村路(むらみち)(ひる)(しずか)に、渠等(かれら)差覗(さしのぞ)く鳥の影もなかった。そのかわり、町の出はずれを国道へついて左へ折曲ろうとする角家の小店(こみせ)の前に、雑貨らしい箱車を置いて休んでいた、半纏着(はんてんぎ)の若い男は、軒の藤を(くぐ)りながら、向うから声を掛けた。「どこへ()くだ、辰さん。……長塚の工事は城を()くような騒ぎだぞ。」「まだ通れないのか、そうかなあ。」店の女房も立って出た。「来月半ばまで(かか)るんだとよう。」「いや、難有(ありがと)う。さあ引返しだ。……いやしくも温泉場において、お客を預る自動車屋ともあるものが、道路の交通、是非善悪を知らんというのは、まことにもって不心得。」……と、少々芝居がかりになる時、記者は、その店で煙草(たばこ)を買った。

 砂を挙げて南条に引返し、狩野川を横切った。古奈(こな)、長岡――長岡を出た山路には、遅桜(おそざくら)牡丹咲(ぼたんざき)が薄紫に咲いていた。長瀬を通って、三津の浜へ出たのである。

 富士が浮いた。……よく、言う事で――佐渡ヶ島には、ぐるりと周囲に欄干(まわり)があるか、と聞いて、……その島人に叱られた話がある。が、巌山(いわやま)巉崕(ざんがい)を切って通した、栄螺(さざえ)(つの)に似たぎざぎざの(ふもと)(こみち)と、浪打際との間に、築繞(つきめぐ)らした石の(しがらみ)は、土手というよりもただ低い欄干に過ぎない。

「お宅の庭の(ながれ)にかかった、橋廊下の欄干より低いくらいで、……すぐ、富士山の(すそ)を引いた波なんですな。よく風で()つけませんね。」

「大丈夫でございますよ。後方(あと)が長浜、あれが弁天島。――自動車は後眺望(あとながめ)がよく利きませんな、むこうに山が一ツ浮いていましょう。淡島です。あの島々と、上の鷲頭山(わしずやま)に包まれて、この海岸は、これから先、小海(こうみ)重寺(しげでら)、口野などとなりますと、御覧の通り不穏な駿河湾が、山の根を奥へ奥へと深く入込(いりこ)んでおりますから、風波の恐怖(おそれ)といってはほとんどありません――そのかわり、山の麓の隅の隅が、山扁の(ぐう)といった僻地(へきち)で……以前は、里からではようやく木樵(きこり)が通いますくらい、まるで人跡絶えたといった交通の不便な処でございましてな、地図をちょっと御覧なすっても分りますが、絶所、悪路の記号という、あのパチパチッとした線香花火が、つい頭の上の山々を飛び廻っているのですから。……手前、幼少の頃など、学校を(ずる)けて、船で淡島へ渡って、鳥居前、あの頂辺(てっぺん)で弁当を食べるなぞはお茶の子だったものですが、さて、この三津、重寺、口野一帯と来ますと、行軍の扮装(いでたち)でもむずかしい冒険だとしたものでしてな。――沖からこの辺の浦を一目に眺めますと、弁天島に尾を()いて、二里三里に余る大竜が一条(ひとすじ)、白浪の(うろこ)、青い(いわ)(はだ)(よこた)えたように見える、鷲頭山を(かむり)にして、多比の、就中(なかんずく)入窪(いりくぼ)んだあたりは、腕を張って竜が、爪に珠を(つか)んだ形だと言います。まったく見えますのでな。」

「乗ってるんですね! その上にいま……何だか足が(くすぐ)ったいようですね。」

 記者はシイツに座をずらした。

「いえ、決して、その驚かし申すのではありません。それですから、弁天島の端なり、その……淡島の峯から、こうこの巌山を(なが)めますと、本で見ました、仙境、魔界といった工合(ぐあい)で……どんなか、拍子で、この(がけ)(そで)の長い女でも居ようものなら、竜宮から買ものに(あら)われたかと思ったもので。――前途(さき)の獅子浜、江の浦までは、大分前に通じましたが、口野からこちら……」

 自動車は、既に海に張出した石の欄干を、幾処(いくところ)か、折曲り折曲りして通っていた。

「三津を長岡へ通じましたのは、ほんの近年のことで、それでも十二三年になりましょうか。――可笑(おかし)な話がございますよ。」

 主人は、パッパッと二つばかり、巻莨(まきたばこ)を深く吸って、

「……この石の桟道が、はじめて(かか)りました。……まず、開通式といった日に、ここの村長――唯今(ただいま)でも存命で居ります――年を取ったのが、大勢と、村口に客の歓迎に出ておりました。県知事の一行が、真先(まっさき)に乗込んで見えた……あなた、その馬車――」

 自動車の警笛に、繰返して、

「馬車が、真正面に、この桟道一杯になって(おおき)く目に入ったと思召せ。村長の爺様(じいさま)が、突然七八歳(ななやッつ)小児(こども)のような奇声を上げて、(やあれ、見やれ、(ねずみ)が車を()いて来た。)――とんとお話さ、話のようでございましてな。」

「やあ、しばらく!」

 記者が、思わず声を掛けたのはこの時であった――

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