3話 半島一奇抄(3)
読み方を変える
「……時に、お話につれて申すようですけれども、それを伺ってはどうやら黙っておられないような気がしますので。……さあ、しかもちょうど、昨年、その頃です。江の浦口野の入海へ漾った、漂流物がありましてな、一頃はえらい騒ぎでございましたよ。浜方で拾った。それが――困りましたな――これもお話の中にありましたが、大な青竹の三尺余のずんどです。
一体こうした僻地で、これが源氏の畠でなければ、さしずめ平家の落人が隠れようという処なんで、毎度怪い事を聞きます。この道が開けません、つい以前の事ですが。……お待ち下さい……この浦一円は鰯の漁場で、秋十月の半ばからは袋網というのを曳きます、大漁となると、大袈裟ではありません、海岸三里四里の間、ずッと静浦の町中まで、浜一面に鰯を乾します。畝も畑もあったものじゃありません、廂下から土間の竈まわりまで、鰯を詰込んで、どうかすると、この石柵の上まで敷詰める。――ところが、大漁といううちにも、その時は、また夥多く鰯があがりました。獅子浜在の、良介に次吉という親子が、気を替えて、烏賊釣に沖へ出ました。暗夜の晩で。――しかし一尾もかかりません。思切って船を漕戻したのが子の刻過ぎで、浦近く、あれ、あれです、……あの赤島のこっちまで来ると、かえって朦朧と薄あかりに月がさします。びしゃりびしゃり、ばちゃばちゃと、舷で黒いものが縺れて泳ぐ。」
「鼠。」
「いや、お待ち下さい、人間で。……親子は顔を見合わせたそうですが、助け上げると、ぐしょ濡れの坊主です。――仔細を聞いても、何にも言わない。雫の垂る細い手で、ただ、陸を指して、上げてくれ、と言うのでしてな。」
「可厭だなあ。」
「上げるために助けたのだから、これに異議はありません。浜は、それ、その時大漁で、鰯の上を蹈んで通る。……坊主が、これを皆食うか、と云った。坊主だけに鰯を食うかと聞くもいいが、ぬかし方が頭横柄で。……血の気の多い漁師です、癪に触ったから、当り前よ、と若いのが言うと、(人間の食うほどは俺も食う、)と言いますとな、両手で一掴みにしてべろべろと頬張りました。頬張るあとから、取っては食い、掴んでは食うほどに、あなた、だんだん腹這いにぐにゃぐにゃと首を伸ばして、ずるずると鰯の山を吸込むと、五斛、十斛、瞬く間に、満ちみちた鰯が消えて、浜の小雨は貝殻をたたいて、暗い月が砂に映ったのです。(まだあるか、)と仰向けに起きた、坊主の腹は、だぶだぶとふくれて、鰯のように青く光って、げいと、口から腥い息を吹いた。随分大胆なのが、親子とも気絶しました。鮟鱇坊主と、……唯今でも、気味の悪い、幽霊の浜風にうわさをしますが、何の化ものとも分りません。――
といった場処で。――しかし、昨年――今度の漂流物は、そんな可厭らしいものではないので。……青竹の中には、何ともたとえがたない、美しい女像がありました。ところが、天女のようだとも言えば、女神の船玉様の姿だとも言いますし、いや、ぴらぴらの簪して、翡翠の耳飾を飾った支那の夫人の姿だとも言って、現に見たものがそこにある筈のものを、確と取留めたことはないのでございますが、手前が申すまでもありません。いわゆる、流れものというものには、昔から、種々の神秘な伝説がいくらもあります。それが、目の前へ、その不思議が現われて来たものなんです。第一、竹筒ばかりではない。それがもう一重、セメン樽に封じてあったと言えば、甚しいのは、小さな櫂が添って、箱船に乗せてあった、などとも申します。
何しろ、美い像だけは事実で。――俗間で、濫に扱うべきでないと、もっともな分別です。すぐに近間の山寺へ――浜方一同から預ける事にしました。が、三日も経たないのに、寺から世話人に返して来ました。預った夜から、いままでに覚えない、凄じい鼠の荒れ方で、何と、昼も騒ぐ。……(困りましたよ、これも、あなたのお話について言うようですが)それが皆その像を狙うので、人手は足りず、お守をしかねると言うのです。猫を紙袋に入れて、ちょいとつけばニャンと鳴かせる、山寺の和尚さんも、鼠には困った。あと、二度までも近在の寺に頼んだが、そのいずれからも返して来ます。おなじく鼠が掛るので。……ところが、最初の山寺でもそうだったと申しますが、鼠が女像の足を狙う。……朝顔を噛むようだ。……唯今でも皆がそう言うのでございますがな、これが変です。足を狙うのが、朝顔を噛むようだ。爪さきが薄く白いというのか、裳、褄、裾が、瑠璃、青、紅だのという心か、その辺が判明いたしません。承った処では、居士だと、牡丹のおひたしで、鼠は朝顔のさしみですかな。いや、お話がおくれましたが、端初から、あなた――美しい像は、跣足だ。跣足が痛わしい、お最惜い……と、てんでに申すんですが、御神体は格段……お仏像は靴を召さないのが多いようで、誰もそれを怪まないのに、今度の像に限って、おまけに、素足とも言わない、跣足がお痛わしい――何となく漂泊流離の境遇、落ちゅうどの様子があって、お最惜い。そこを鼠が荒すというのは、女像全体にかかる暗示の意味が、おのずから人の情に憑ったのかも知れません。ところで、浜方でも相談して、はじめ、寄り着かれた海岸近くに、どこか思召しにかなった場所はなかろうかと、心して捜すと、いくらもあります。これは陸で探るより、船で見る方が手取り早うございますよ。樹の根、巌の角、この巌山の切崖に、しかるべき室に見立てられる巌穴がありました。石工が入って、鑿で滑にして、狡鼠を防ぐには、何より、石の扉をしめて祭りました。海で拾い上げたのが巳の日だった処から、巳の日様。――しかし弁財天の御縁日だというので、やがて、皆が(巳の時様)。――巳の時様、とそう云っているのでございます。朝に晩に、聞いて存じながら、手前はまだ拝見しません。沼津、三島へ出ますにも、ここはぐっと大廻りになります。出掛けるとなると、いつも用事で、忙しいものですから。……
――御都合で、今日、御案内かたがた、手前も拝見をしましても……」
「願う処ですな。」
そこで、主人が呼掛けようとしたらしい運転手は、ふと辰さん(運転手)の方で輪を留めた。
「どうした。」
あたかもまた一つ、颯と冷い隧道の口である。
「ええ、あの出口へ自動車が。」
「おおそうか。……ええ、むやみに動かしては危いぞ。」
「むこうで、かわしたようです。」
隧道を、爆音を立てながら、一息に乗り越すと、ハッとした、出る途端に、擦違うように先方のが入った。
「危え、畜生!」
喚くと同時に、辰さんは、制動機を掛けた。が、ぱらぱらと落ちかかる巌膚の清水より、私たちは冷汗になった。乗違えた自動車は、さながら、蔽いかかったように見えて、隧道の中へ真暗に消えたのである。
主人が妙に、寂しく笑って、
「何だか、口の尖がった、色の黒い奴が乗っていたようですぜ。」
「隧道の中へ押立った耳が映ったようだね。」
と記者が言った。
「辰さん。」
いま、出そうとする運転手を呼んで、
「巳の時さん――それ、女像の寄り神を祭ったというのは、もっと先方だっけね。」
「旦那、通越しました。」
「おや、はてな、獅子浜へ出る処だと思ったが。」
「いいえ、多比の奥へ引込んだ、がけの処です。」
「ああ、竜が、爪で珠をつかんでいようという肝心の処だ。……成程。」
「引返しましょうよ。」
「車はかわります。」
途中では、遥に海ぞいを小さく行く、自動車が鼠の馳るように見えて、岬にかくれた。
山藤が紫に、椿が抱いた、群青の巌の聳えたのに、純白な石の扉の、まだ新しいのが、ひたと鎖されて、緋の椿の、落ちたのではない、優い花が幾組か祠に供えてあった。その花には届くが、低いのでも階子か、しかるべき壇がなくては、扉には触れられない。辰さんが、矗立して、巌の根を踏んで、背のびをした。が、けたたましく叫んで、仰向けに反って飛んで、手足を蛙のごとく刎ねて騒いだ。
おなじく供えた一束の葉の蔭に、大な黒鼠が耳を立て、口を尖らしていたのである。
憎い畜生かな。
石を打つは、その扉を敲くに相同じい。まして疵つくるおそれあるをや。
「自動車が持つ、ありたけの音を、最高度でやッつけたまえ。」
と記者が云った。
運転手は踊躍した。もの凄まじい爆音を立てると、さすがに驚いたように草が騒いだ。たちまち道を一飛びに、鼠は海へ飛んで、赤島に向いて、碧色の波に乗った。
――馬だ――馬だ――馬だ――
遠く叫んだ、声が響いて、小さな船は舳を煽り、漁夫は手を挙げた。
その泳いだ形容は、読者の想像に任せよう。
巳の時の夫人には、後日の引見を懇請して、二人は深く礼した。
そのまま、沼津に向って、車は白鱗青蛇の背を馳せた。
大正十五(一九二六)年十月