1話 朧夜(1)
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春に近い夕方だ。官立寄宿学校のひと棟になつてゐる少年寮では、大勢の者が芝生の広い中庭に降りてあちこちに塊つてゐた。当時評判だつたハレー彗星がいよ/\現はれるのを観察しようと云ふのである。五十を越した篤学者で、強度の近眼鏡をかけた、痩せて半白の髯を生やした寮長は、懐中から厚ぼつたい銀側時計を出して時間を見計つてゐた。が、さういふ間も、生徒が不精してスリッパの儘庭に降りて来ようとすると、「こら/\。靴をはいて、靴をはいて」と一々丹念に注意してゐた。実際、黄ろく枯れた芝生には、霜解の土がジクリ/\とにじんでゐた。
理科の講師で、綺麗に髪を分けた飯島といふ理学士は、庭の程よい処に望遠鏡を据ゑつけてゐた。太つて快濶な法学士の野田副寮長と、穏和で口数の少ない――何となく病後らしい文学士の森島和作とは、お附合でやはり庭に降りて来て、小さい生徒達のなかに混つてゐた。
いかにも爽々した、一刻千金といふ言葉がふつと頭に浮ぶやうな夕暮である。遠くの賄部屋では、夕食の用意の皿の音を勢よく起ててゐる。建物の裏からは満開を過ぎた梅の蒸すやうな匂が漂つてゐた。それはしかし、あの四君子に喩へられてゐるやうな清楚なものではなく、何処か梅自身欝々と病んでゐるかのやうな、重たい香りだつた。
――丁度この夕方の五時頃からH彗星が肉眼で見える筈だつた。それは地球との数十年目の邂逅であつた。だから春に向ふ都会一帯の陽気な動揺のほかに、この彗星の噂が盛んに新聞に書きたてられて以来といふものは、何か人心に好奇心と、それから一種の気味悪さをいろ/\の臆測入りで与へてゐた。かういふ評判の彗星を、今この寄宿舎の中庭でも大勢たかつて観察しようと云ふのである。
十分、十五分。――しかし肝心の彗星はなか/\現はれない。
森島和作と野田とはすぐに飽きて、建物の窓の下に据ゑてあるベンチに腰を下しながら、互ひに不精な口のきゝ方で雑談を始めた。それは傍から見れば何だかつまらなさうではあるが、しかし実は長い友達の間にしか交はされることのない、親しい愛情のかよつた会話だつた。何故ならば二人は古い幼な友達なのだ。そしてこの官立寄宿学校は――この小学部から中学部、それから高等学部と前後十五年制になつてゐる特殊な組織の学校は――彼等のどちらにとつても母校だつたのである。
野田は前々年に法学士になるとすぐ、この学校から話があつた。元々の楽天家だつたから、彼は普通の授業のほかに少年寮の副寮長などといふ、大抵の者ならば先づ厄介がる役目までも二つ返事で承諾してしまつた。そこで彼は昔の学生服のかはりにフロックコートを着け、昔よりは立木の少し延び、建物の少し色褪せた寄宿舎に、暫くぶりで快濶に帰つて来た。
だが森島和作の方は少し異つた径路をとつて、此処で野田と落ち合つたのである。彼は平穏無事に此処の中学部を終へると、突然高等学校の試験準備を只事ではないやうな熱心さで始めて京都の三高に入つてしまつた。これは同級生の誰にとつても意外な事だつた。その上和作は元の友達とはパツタリ便をしなくなつた。只彼が京都大学で哲学講座を持つてゐる××博士を敬慕しはじめて、三高を出るとその儘大学の文学部に移つた事だけが、昔の仲間に伝はつた。
処が最近野田は人づてに、和作が毎冬の京都の寒気で身体をこはしたあげく、近頃は流行感冒のあとをこじらせて、医者から他の土地に移るやうに勧告されたといふ話を耳にしたのだ。――まめな彼は早速和作との間に二三度音信を往復すると、もう和作が東京で静養しながら生活費を得るやうな方法を、工夫してやつてゐた。そのあげくが和作はやはり此の寄宿学校で独逸語の授業のほかに、少年寮の図書係といふ呑気な役目を世話して貰ふ事になつたのである。この図書係といふ役は、手当が余計に貰へる関係から野田が独りぎめに添へて置いたものだつた。果して和作はその野田の心遣ひを心から喜んだ。
……京都の土地で職を求める事、郷里の母をやがて呼ぶ事、そしてまだ数年は××教授の傍で一心に研究する事――さういふすべての空想や計画をすつかり擲つて、和作はこの正月東京に戻つて来た。彼はついひと月前から職に就いたのだ。――昔馴染の周囲のなかで、彼は病後の疲れに似た、何かの安らかな休息を感じてゐた。
後ろの遊戯室にパツと電燈が点き、その影が、芝生に明るく落ちた。窓を勢よくあけて一人の生徒が首を出した。同時にピンポンの軽い音が聞えて来た。
「先生!」とその少年は活溌に話しかけた。「まだ星は出ないんですか」
「まだ、まだ」と野田はそつちを見ずに、不精な答へ方をした。「急いては事を仕損じるよ」
「ぢやあ、もう一番!」勝負事で愉快に昂奮してゐるらしい声を、その生徒はその儘部屋のなかへ向けてゐた。「せめて四人は薙ぎ倒さなくつちや!」
「先生!」もう一人、今度は神経質らしい生徒が野田を見つけて、同じ窓から呼びかけた。
「五人抜に入りませんか。僕あ今ずるされて負けちやつたんですよ」
「誰だい」野田は太つた身体を後ろにねぢつて見た。「何だ、徳兵衛か。徳兵衛が相手なら左手で沢山だね」
かう云つて彼は鷹揚にワツハツハと笑つた。が、森島和作は「徳兵衛」といふ名前を聞くと後ろを鋭く振返り、その少年の顔を凝つと見つめてゐた。
「チエツ。徳兵衛だなんて本当に困りますよ」眉を寄せながら、甘えるやうな高い声で云ふのである。「先生がそんな仇名をつけたんで、皆が揶揄つて仕様がないんです」
が、部屋のなかのピンポンの連中は、それを聞きつけると一斉に、「徳兵衛。徳兵衛」と囃し立ててゐた。
「チエツ。チエツ」その少年は大袈裟に口惜しがつた。
「知つてるだらう? 加納君の子供だよ。つまり徳次郎の甥さ」と野田が和作を見返つた。
「君がよく遊びに行つてゐた頃に、水兵服か何か着て部屋の入口までやつて来た、あの男の子だよ」
「さうだつてねえ。……この間はじめて教はつて、驚いたよ」
和作はベンチの背にあてた片腕に首を載せ、前のまゝの動かぬ眸で少年を見据ゑてゐた。彼は我知らず動揺してゐたのだ。
「君は」と和作が少時おいて、突然、その少年に話しかけた。「どうも鶴子叔母さんにそつくりだね」
だが彼はやはり固くなつて、顔を子供のやうに赧らめた。少年の方でもそのやうな事を真顔で云はれたので、同様に羞む様子を見せた。
「さうか知らん? 今日は特別にいゝ血色をしてゐるから、さう思ふんだらう? 今日は加納にあ大出来さ。いや、悪口ぢやないよ」と野田は、子供を扱ふ事にはもう馴れたといふ調子で喋るのだ。「君はいつもそのくらゐ運動してゐるといゝんだよ。あんまり図書室にばかり入り込んでゐるつて、此間寮長に叱られたらう? ちやんと知つてるぞ」
「叱られるもんですか」野田の人の悪い微笑に受身になつて、加納といふその少年はムキに反抗した。「運動をもつとし給へとは云はれたけれども、本を読んぢやいけないなんて、云はれませんでしたよ」
「うまいゴマカシを云ふやつだな」野田はまた大声で笑つた。
「だつて本当なんですからね。……え?」加納は部屋のなかを振り向いて、何か友達に聞き返してゐた。「ぢやあ、先生、僕の番なんです。星が出たら忘れずに知らせて下さいね」
「あれあ燥ぎ出すと、なか/\利巧で面白いやつなんだが、普段はどうも陰気で困るよ」ピンポンの軽い音のます/\高まつてゐる窓陰に、加納が引込んで行つた後で野田は顎でその方を指しながら云つた。「しかし頭はいゝのだ。敏感過ぎるくらゐだね。加納の家には例外さ」
「……うむ」和作は後ろにねぢつてゐた身体をもとに戻しながら、ぐつたり足を投げ出してゐた。彼は口を噤んでゐた。その少年の叔母の鶴子が聯想に浮んでゐたのである。
「徳兵衛か。古い仇名だなあ!」
暫くして和作は、彗星のやがて出るといふ前方の空を凝視しながら、不意に大きな声をたてた。
「さうだ。三代目の仇名だもの」
――古い事から書かう。今から十何年前の事だ。彼等のずつと上の級に加納信徳といふ生徒がゐた。友達と一緒にその頃の歌舞伎座に「一寸徳兵衛」の狂言を立見に行つたのが元で、同じ徳の字から徳兵衛といふ仇名をつけられた。これがそも/\の起源であつた。その信徳は夙うに卒業してしまつたが、齢の大分違ふ弟の徳次郎が、丁度野田や和作と同じ級に入つて来たのである。そして卒業生の口から伝はつたのだらう。この徳次郎もその儘徳兵衛の仇名を受け継いだ。また時代が変つた。さて今度は信徳が大学に移るとぢきに結婚して出来た長男の信一が、また同じ寄宿舎に入つて来て、野田の口からもう一度その古びた仇名を貰つたのだ。年月が移り二人の人間が卒業して、仇名だけが寄宿舎の建物と一緒に残つたわけである。だが和作はそんな仇名を耳にすると、何か色褪せた過去の匂をかぐ思ひがした。……が、それは彼にとつて特別の理由があつた。
和作はその頃、寄宿舎から加納の家によく遊びに行つたものだつた。それは和作の亡い父親と、当時死んで間もなかつた徳次郎の父との関係から来てゐた。二人は同じ藩の先覚者で、××伯系統の政治家であつた。たゞ早く死んだ和作の父親が不運で、長寿ではなかつたが兎も角も十何年か後れた徳次郎の父は、得意時代の一部を見たわけだつた。――和作が加納の家にはじめて行つた頃、切下髪の品のいゝ老婦人が出て来て、「あなたが和作さん? ふうむ。妾はあなたのお父さんを、よう存じてをりますよ」かう和作の顔を覗き込むやうにして云つた事がある。その時和作は妙に胸に響く懐しさに打たれた。この懐しさはいつまでも消えなかつた。そして段々繁く加納の家に出入りするやうになつた。
主人の亡い家に争はれぬ物静かさを持つた、庭木の多い加納の家庭は、和作がこの最初の印象をそつくり保つには応はしい場所だつた。和作のいつも通る徳次郎の部屋といふのは二階の六畳だつた。――出窓の前の青桐を透して屋根庇の陰に、下座敷の寂そりした障子の腰だけが見えた。其処からは時々若夫人の声が響いて、すぐに消えるのだつた。常子のほかには徳次郎と二つ違ひの妹の鶴子がゐたが、これは二階からその声の聞きとれるほどの活溌な質ではないらしかつた。どうかすると袴をはいた学校帰りの姿が、廊下の角にチラと見えることはあつたが、それもすぐに下座敷の寂びた状態に吸ひ込まれてしまふのが常だつた。「この家は厳格なんだな」と和作は思つた。
しかしそれにも拘らず、彼にはやはり加納の家の成育盛りの娘を持つた家庭に独特な、目に見えない派手な空気を何処かに漂はせてゐる事実を感じないわけにはゆかなかつた。寄宿育ちの和作にとつて、この艶めかしい空気は子供の時にはじめてかいだ海の匂に似てゐた。梧桐が茂り、大きな葉が陰影をさし延べると、彼は前よりも大胆に枝を見透かして、下の物音を注意深く窺はうとした。やがて和作はその日本風な謎を解きあかされた。紹介された。
鶴子はやつと下げ髪から替へたての、まだ何処か身につかない可笑しな感じのする束髪に結つた娘だつた。彼女は十七で、見かけよりはずつと稚げであつた。彼女は一度引き合はされると、もう兄の部屋に何の躊躇もなく入つて来て、まだ知り合ひになつて日の浅い和作に宿題の手助けを頼んだりした。和作の方が却つて、そんな事をしてもいいのか知らといふ様な眼差を徳次郎に向けなければならなかつた。しかし徳次郎は妹の世話には冷淡だつたし、第一学科のことはあまり得意でなかつた。――これがごく普通な事柄になつてしまふと、今度は英語の本をそつと持つて来て、「ねえ、お願ひ。寄宿舎に持つて帰つていゝから仮名をつけて置いて頂戴」こんな事を云ふやうになつた。彼女は子供らしく徳次郎を批難した。子供らしく秘密を弄んだ。が――書籍包のなかにタヅコ、カノウと下手な羅馬字で署名してある英読本の手触りをさぐつて見ると、和作はやはり何か友達を売つたやうな心地になつた。下座敷の寂そりしたあの謎が、今では却つて平凡なものにうち変つたやうな気さへした。……
しかし、鶴子は子供らしい秘密をもつと増やして行つた。拡げて行つた。
かういふ関係の正体を、和作自身よりも簡単明瞭に察したのは、怜悧な若夫人の常子だつた。突然鶴子は二階に登つて来ないやうになつた。その代りに青桐は意味ありげに繁茂した。常子は意味ありげに和作を持てなした。徳次郎は意味ありげに気弱な顔を見せた。――この漠然とした意味ありげなものが、和作には何物よりもこたへた。死んだ父との深い聯想をこの家に持ち、父の壮年時代の謂はゞ形見をこの家に感じてゐただけに、彼の受けた打撃は大きかつた。そして彼は物の音響が遠のくやうに、この都会人の家庭から遠のいた。
――親しい友達が小川の上で手をつないで両岸の径を歩く。一寸した切株に出逢ふ。二人は一時のつもりで手を離す。だが川はだん/\と広くなつて行き、二人の手と手との間隔は大きくなる。――その頃の英語の教科書で習つたこの感傷的な喩へ話は、和作の心に適切だつた。
彼の頭のなかでくる/\と動いてゐたものが稍々静まる時期に入るにつれ、和作は加納家に対してはじめて正体のはつきりした屈辱を感じるやうになつた。鶴子の子供らしい親しみが加納の家に「法度」だといふのではなく、和作といふ人間に対する評価からすべての現象の生じたことを、今更はつきりと呑み込んだのである。
中学部を卒業すると、和作は急に思ひ立つて地方の高等学校の入学試験を受けた。彼には東京人の上手に立ち廻る社交術が堪らなかつた。彼は穀物の素朴さを思ひ出した。残りの日数の少ない点からも、彼の試験勉強は気狂じみたものだつた。京都の三高に入学した事の通知は、徳次郎には出さなかつた。
和作の気狂じみた一本気は、入学した後もずつと続いた。もと彼には、不運だつた父親を持つた息子に特有な、自分の未知の生涯に対する負けん気が潜んでゐた。それがいま焚きつけられたのだつた。
それから今に六年経つ。
……「見えた。見えた」といふ声がした。影絵になりはじめた人群がガヤ/\と動揺した。部屋のなかに残つてゐた生徒も中庭で遊んでゐた生徒も一斉に集まつて来た。野田と和作も立ち上つてその仲間に入つた。
最後の明るみの残つてゐる夕空に、いつの間にか肉眼で見えるやうになつた彗星がくつきりと現はれてゐた。斜めに落ちかゝつたやうな位置で皎々と懸つてゐた。細かい羽根のやうな冷たさを含んだ尾は、途方もなく大きい穹形でゆるく消えてゐた。それは人間には一寸諳では画かれない線だつた。柔和な顔付で凝つとそれを仰いでゐた和作の顔色は思はず変つた。人間性とはあまりに違ふ冷やかさを持つたものに対する驚きと畏怖とのまじつた顔色だつた。
寮長は顎髯を上に向け、南画のなかの人物のやうに背中を丸くして、一心に凝視めてゐた。強度の近眼でよく見ようとする努力のために、今年の芽を可愛く萌いてゐる花床を知らず/\踏んでゐた。野田副寮長は帽子を阿弥陀にずらし、両方の手を胴にあてて、愉快さうに観察した。理学士は忙しさうにピントを合せた。
空の闇が少しづゝ深くなるにつれ、彗星は一層くつきりと目立つて来た。彗星は時々冷え/″\とまたゝいた。それはいかにも長い軌道の旅を過して来たものの、倦まず撓まずといふやうな無関心を保つてゐた。いかにも何万年となく何万回となく、一旦環り出したらいつまでも同じ歩みで環つてゐるものの冷やかさを持つてゐた。――その冷やかさには、人間がぢきに形態を変へなくてはならないなどといふ事は、「そんな事は知らないよ」と云つたやうな、始めから生きてゐないものの不気味な魅力が含まれてゐた。
「……成程」
と和作は独りで感服した。そして彼は膚寒を感じたやうに身震した。何百万光年、何億光年――そんな遙々とした距離の長さに考を向けてゐると、彼の平常の尺度は混乱して、気の遠くなるやうな心地を感じるのだ。
「さあ/\。見たい者は来給へ。押し合つちやいけないぜ!」
望遠鏡から眼を離した、ハイカラな理学士が快活に云つた。生徒達は、忽ちドヤ/\とその周囲に塊つて、順々に機械を覗いた。そして少年の澄んだ声でひとり/\感嘆詞を発して行つた。
「ね、よく見えるだらう? どうだい、彗星がこんな見事なものだとは思はなかつたらう?」理学士は上機嫌で、そんな風に雄弁に説明してゐた。「しかしあれで実に軽い、つまり稀薄なもので出来てゐるんだぜ。どんなに淡い霞にしても、それを透して向う側の星を見たら、多少は星の光が薄らぐものだけれど、彗星となるとそれが少しもないんだ。彗星の尾を透して他の星がはつきり見えるんだ。覆衣のやうな春霞とよくいふが、彗星はあれで春霞よりもう一枚上手に軽いわけさ」
和作は思はず微笑した。この年上の理学士が、彼には無邪気な感じがしたからである。
「それあいゝがあつちに雲が出たよ」和作はぽつと浮んで来た幾つかの雲を見つけて、彼に注意してやつた。
「あゝ成程。しかし急には拡るまい」そして又理学士は望遠鏡を覗いてゐる生徒を、一人々々見廻した。「いゝなあ君達の時代は! 君達の時代が、かういふものを見るには一番印象が深いんだよ。せい/″\覗いて置き給へ。僕がまだ子供で彗星を見た時分には、田舎の事でまだまだ開けなかつたものだから、村の人間がしきりと箒星は凶事の徴だと云つて心配するのさ。僕も夜分畑に出て見ながら、どういふ凶事が降つて来るのだらうと思つて、子供なりに悲しかつたよ。あの印象は一生忘れられないね」
「それあ先生」と生徒のひとりが尋ねた。先刻遊戯室から首を出した加納信一だつた。「やつぱりハレー彗星だつたんですか」
「何? 君は新聞を読まないね」さう云つて理学士が微笑むだ。「ハレー彗星を二度も見覚えるといふやうな、長寿な人は先づ少ないよ。七十五年が一まはりで、地球の傍に来るのだからね」
「七十五年で一まはり!」
「なんだ。七十五年ぐらゐで驚いちやあ困るね」そんな事を云つてゐる理学士は、軽い愉快な昂奮状態にあるらしかつた。「それよりか千八百十一年彗星といふ名のやつは加納君。三千年で一まはりだよ。その他われ/\が現在出逢つたきりで、永久にお別れだと思ひ込んでゐる種類の彗星でも、実は非常に大きな円を画いてゐて、或ひは何万年かの後にやつと一まはりで又やつて来るかも知れないんだ。さういふ事は人間一代や十代では分らないのさ。人間はつまらないものさ……。現に十万年で一まはりといふ彗星も、ある事になつてゐるのだからね」
「……十万年?」信一が神経質な鋭い眼を、あてどなく挙げた。「十万年といふと、大変だなあ」
「いゝ加減で止せばいゝのに」
和作は上機嫌でゐる理学士の方をチラと見た。信一の神経過敏を彼は気に懸けたのである。
「やあ、こつちに落つこちかゝつたやうな格好をしてゐらあ」望遠鏡を覗く順番にあたつた信一の同級生が大発見と云はんばかりに怒鳴つた。「あれで先生どつちの方角に飛んで行くんです?」
「いやに原始的な恐怖だね」理学士は相変らず興に乗つた気分で笑つてゐた。「しかし君ばかりぢやないよ。この頃でも学者連が、地球と打つかる/\。危い/\つて騒いでゐるんだよ」
「ぢやあ」その生徒は吃驚して眼を機械から離した。「あの――新聞に出てゐた事は、あれあ本当なんですか」
「まづ大丈夫だね、今度は大丈夫だね」理学士も今はくつきりと銀色に冴えてゐるその異様な形を仰いだ。「……しかし厳密に云へば、これは彗星に限つた事ではないが、今後永い間のうちにはさういふ衝突も全然ないとは断言出来ないんだね」
「なぜですか? 先生!」
「いゝ加減にしないか!」和作は妙な不安から、心のなかで強く云つた。
「なぜつて」と理学士は考へ込むやうな様子をした。「われ/\の太陽系は宇宙に拡がつてゐる銀河系のほんの一部分なんだ。粟粒よりも小さい一部分なんだ。そのわれ/\の太陽系は広い宇宙を旅してるんだ。無論宇宙の広さに比べては、それは蝸牛の歩みに等しいけれども、それでも少しづゝ、旅してゐる事は確かなんだ。だから何十万、何百万年の後には、他の星との衝突が全然ないとも限らないんだ。だからわれ/\の世界は……」
「あゝ、そいつあ厭だなあ!」
和作は凶い予感を受けたやうに、その声のする方へ振り返つた。
すると彼は、信一が友達の群から一人離れて、只ぽかんと立つてゐるのを見つけた。……首を妙に凝固させて、無感覚な表情で眼をひと処に据ゑてゐた。血の気のない唇をしつかり結んでゐる様子も普通ではなかつた。と、信一は弱々しく手を額にあてた。
「加納君!」
和作は大声で呼びかけた。信一が振り返つた。和作はその眼に表情のないのに驚いた。
「加納君、どうした」彼は急いで近寄つた。
信一は何か答へようとした。だが同時に眩暈を感じたと見えて、又もや手で額を覆ひながら近寄る和作を待ち切れず、靠れかゝるやうに倒れて来た。
「誰か!」和作は支へながら呼んだ。「誰か早く」
野田が飛んで来た。二人は信一を前後から抱へながら、家のなかに担ぎ込んだ。……和作が足を踏みしめながら昇降口の階段を登つて行く時に、「あいつ、何時もあゝなんだよ。弱虫なやつ」と云つてゐる同級生の冷笑と、建物のなかに淀んでゐた例の欝々と病んだやうな梅の重たい匂とが、薄暗闇をとほして彼の感覚を掠めた。