2話 朧夜(2)
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三十分ばかりした後、和作は廊下の角の副寮長室で野田と差向ひになつてゐた。二人は今しがた冬のをはりらしく熱いほどの麦飯を頬張つたばかりであつた。――いま野田は立上つて和作のために茶を入れてくれた。茶道具は桜草の鉢の陰にかくれた。事務机と本棚と寝台しか具へてない、簡素で小さいその部屋はスティームで十分暖かだつた。
「……まあ、僕は傍にゐなかつたんだから、よく分らないが」椅子のうへに足坐をかいた野田が、話のさきを続けた。そしてしきりに繰り返してゐた。「兎に角卒倒するのはいかん。子供らしくなくていかん」
「いや子供らしい恐怖には違ひなかつたがね」と和作は何となく信一を弁護してゐた。「飯島君の薬も利き過ぎたのさ。――宇宙論なんぞまだ早いのだ。――みんながそろ/\恐がり出した時に、いゝ加減にやめて置けばよかつたんだよ。――あゝいふ宇宙論といふのは結局小乗論ぢやないか」
「そりやさうだ」
野田は大きく首肯いた。
「煙草を禁めてあるくらゐなら、小乗論は勿論いけないよ」
しかし野田の方では、その飯島が、食後の休息に隣の部屋に来てゐはしまいかといふ懸念を持つてゐた。
「つまり信一は血統を重んじなかつたといふ事になるんだよ」彼は冗談に外らせてしまつた。
「もう少し徳次郎の愚図に似るとよかつたんだ。星を見てゐて――蒼くなつて倒れる――どうも徳次郎らしくない」
今度は和作は苦笑した。
野田は、加納の家といふと急に冷やかな態度をとる和作を、近頃もうこれで二三度目撃した。どうしたのだらうと野田は思つた。加納の家庭の空気がこの数年のうちにすつかり変つたので、和作には気に入らなくなつてゐるのではないかとも思つた。そしてその事ならば彼も賛成だつた。彼は不意に、あけすけに尋ねた。
「一体、君はこの頃の加納家の感じが気に入らないのかい?」
「うん?」和作は目に見えて動揺しながら野田を見据ゑた。
「しかし加納の家も変つたなあ!」……わるかつたかなと思ひながら、野田は椅子の背をぐつと反らせて、感歎するやうに云つた。「君はあの家の、引越したあとのハイカラ建築を知るまい?……何故あんなに落着いた日本館を売つてしまつたんだらう。あれあ確かに常子夫人の趣味だな。可哀想なのは鶴子さんさ」
「なぜ」
「なぜつて君、生活から趣味からすつかり姉さんに圧倒されてしまつてゐるんだからね。まだ結婚しないでゐるといふのも、未亡人が淋しがる点もそれはあるかも知れないが、まあ姉さんのお眼鏡で話を探してゐるからだよ。全く大事なお人形さ。……さう思つて見るせゐか、あの鶴子さんといふ人は何となく、綺麗なわりにパツとしない人だなあ」
「さうかね」和作は怒つたやうな返事をした。「兎に角僕はもう、ちつともあの家には行かないんだから……」
かう云ふと彼は無愛想に、茶卓の方へ半身を伸ばしてしまつた。野田は吃驚して彼を見つめた。だが野田はその和作の横顔から、番茶を味つて飲む人間の表情しか観察する事が出来なかつた……
――扉にノックの音が聞えて、寮長が首を出した。
「あゝ、其処でしたか」和作を見つけると寮長はその儘入つて来た。「森島君、少しお頼みがあるんだがね」
「何ですか」
「実は御めんだうだが、君一つ帰りがけに加納を家まで送つて行つて貰へまいかね」寮長はそのとほりに気の毒さうな顔を見せた。「もうあらかた神経の方は鎮まつたやうだが、人気のない医局に今夜寝かすのもどうかと思ふんだ。さうかと云つて、癒つたとも云へない者を普通に扱ふのも心配でね。まあ家で一両日安静にしてゐるのが一番いゝだらう。少し寛大だが、あれはちつと特別扱ひにしてゐるのでね」
「誰か他に人はないでせうか」和作は一寸困惑して云つた。
「それがね、私はこれから寮長会議があるし、野田君は当直だし、小使は夜分一人きりになつてゐる処を空けさせる訳にも行かぬし、まあ、君の都合がわるければ飯島君に、方角は違ふが頼んで見ようと思ふのだが」
それはいけない、と和作は考へた。
「君、送れ」――野田が彼を真面に見て、無造作に合図した。と、不思議に和作は、自分の細々した感情をその野田にすつかり預けてしまふ心持になつた。
「君がいゝ」――野田は何故かまた繰り返した。
「ぢやあ行かう」と和作は立ち上つた。「すぐでよろしいのですか」
「和作、この間忘れて行つた蝙蝠傘を持つて行けよ」野田が窓の方に背を向けた儘、優しく云つた。「雨になつて濡れでもすると、又いけないぞ」
信一がマントの姿で連れられて来た。二人は玄関に出て靴をはいた。和作は風邪をひき易くなつてゐる身体に夜気を感じて、外套の襟を立てた。
「……君はたゞの眩暈ぢやなかつたんだらう」
今電車が出たばかりの市外線の停車場で、まだ血の気のない顔色を見せながら待合室の腰掛に倚りかゝつてゐる信一に、和作は思ひ切つて口を切つた。「たゞ急に気分が悪くなつたのかい、それとも……」
すると信一は顔を挙げ、少しばかり微笑んで見せた。
「それとも」と和作は追かけるやうにして訊ねた。「飯島先生の話でどうかなつたのぢやあ、ないのかい?」
もしさうならば、本当に気を替へてやる必要があると思つたのだ。
信一はしかしわづかに強ひてゐるやうな微笑をやはり消さなかつた。
「もしさうなら、決してあんな話を気にかけるんぢやないよ。――人間はツマらないものだなんて云ふ奴は馬鹿だよ。――人間は小つぽけでもいゝんだよ」
和作の手厳しい語調に、信一は思はず懶さうな眼を大きく見張つた。
「僕は小つぽけだつて何が構ふものか。僕たちには種族つてものがある。分るだらう。たとへば僕の京都にゐる先生が年をとつてしまへば、僕はそのかはりにうんと働かなくつちやならないよ。その僕が老いぼれたら、今度は君ぐらゐの齢の人が僕の仕事を引き受けるのさ。人間が小さいつたつて、どこが不都合かね。人間は小つぽけだから人間らしいんぢやないか」
だがこんな少年の信一を前に置いて、独りで力んでゐる自身を、和作はわれながら「どうかしてゐる」と気付かずには居られなかつた。
「何のための妙な昂奮なのだらう」
彼はさう思つた。
眼前の信一の少年らしい打撃が現在の自分とも全然無関係ではないためなのだらうか。死ぬる事と只消えてゆく事とを、どうか同じものにしたくないと思ふ焦慮の火を自分のうちに抱いてゐるそのためなのだらうか。それとも……
それともこれから思ひがけなく加納の家に行かなくてはならないのだといふ、その意識のためなのだらうか。
だがその事を考へると、和作は先刻野田に見せたと同じやうな不機嫌な顔付になつて、それきり黙り込んでしまつた。
電車が来た。和作は信一を隅の座席に倚りかゝらせた。そして二人はもう口を利かなかつた。
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同じ晩の八時過ぎに、山手線の停車場と丘向ふの公園とのどちらにも近い加納の家では、親兄弟揃つて賑かな食事をすませたところだつた。主人の信徳も宴会には招ばれず、徳次郎も出歩いてはゐなかつた。が、未亡人は箸を置くとすぐに、レウマチスが痛むと云つて女中に支へられながら、これだけが新築の邸のうちで唯一つの日本間である隠居所に入つてしまつた。未亡人はもうすつかり老いこんでゐた。
「お母さん、すぐにお退けですか」
と、頭を丸刈にして濃い髭をたくはへた、一寸将校のやうな感じのする信徳が、何気ない口調で容体をさぐつた。彼は家の者が時々閉口するほどの細かい世話焼きだつた。
「ぢやあ、折角焚いたものだ。皆あつちへ行つて、あたりながら菓子でも喰はう。ボン/\燃えてるぜ」
信徳は他の者を見廻しながらさつさと立つて、大きい備付の煖炉のある客間に入つて行つた。――それはこの日珍らしく未亡人が気分のいゝ顔付で母屋に出て来たので、信徳は若夫人に云ひつけて家中で一番居心地のいゝその部屋の煖炉に石炭をくべさせ、其処を半日の間一家の中心にしてゐたのだつた。そして今しがた皆で食卓につく際にも、信徳は母親のために火絶えを用心して、石炭を沢山投りこんで置いた、その事を今云つたのである。
常子と徳次郎とは「それぢやあ一つ……」といふ格好で立ち上つた。母親の煙草盆に火を入れてゐた鶴子は、自分を振り返つた嫂に、「すぐよ」かう云つて離の方に起つた。そこで二人だけがさきに、郵便物や書類や編物袋などを携へて、云はれた応接間に入つて行つた。――窓が多くて温室のやうな感じのするその部屋では、大きな石を畳んで煖炉に石炭が一ぱい快くゆらいで居り、三人はその周囲で肘掛椅子の位置を定めると楽々とした。
かういふ休息は、形式から云つても信徳を殊に満足させた。一家が水入らずに暮すといふ考へは、何処か西洋風の匂をも含めて、彼の口喧しいくらゐ世話好な性質に心から適合するのだつた。彼には、同胞が成人するにつれて幾分なりとも互ひに遠々しくなるやうな事があつては自分が済まないといふ妙に律気な心持があつた。――つい最近外交官補になつた徳次郎などはこの兄の永年の細かい世話にもう倦々して、外国在勤に廻される筈のこの秋を心待ちしてゐる形だつた。が、信徳のこの遣り口には、外見の昔臭い割合には実が籠つてゐた。末子の位置だけに鶴子はそれを感じてゐて、心のなかでこの兄に深い愛情を向けてゐた。
「鶴子は何してゐるんだい」
鉛筆を持つて書類に目を通してゐた信徳が、不機嫌な顔を挙げた。常子は形勢を察したので扉のところに行つて「鶴子さん」とさう呼んだ。……彼女が呼び終るまで故意と不機嫌な顔を崩さずにゐた信徳は、それで気が済んだやうに又眼を書類に落した。常子はその世話焼かげんを可笑しく思ふのだつた。
扉が緩く開いて、当の鶴子が両手に縫仕事を持ち、顎に夕刊をはさんだ呑気な格好で入つて来た。
彼女は二十二になつてゐた。地味な紫の羽織と、やはりそんな風の黒つぽい着物を着せられてゐた。彼女にはそれが似合つて美しかつた。が、それにも拘らず、鶴子にはやはり野田の云つたやうに美しさのどうも栄えないところがあつた。それは彼女が自身の美しさに朝夕生々した自覚を持つ、といふやうな性質を欠いてゐるためらしかつた。
鶴子は信徳の傍に行つて夕刊を渡すと、嫂の隣に腰かけて小さい姪の袖口の綻をなほしはじめた。――彼女が万事派手な嫂とそのやうに居並ぶと、その対照は一寸妙だつた。
「まあ、鶴子さん。またそんな事をしてゐたの」と常子が眉を寄せて見せた。「あとでもいゝのに」
「えゝ、一寸出来てよ」鶴子はその儘ずん/\縫ひ続けた。そして少しめんだうな個処に来た。
「本当によして頂戴」常子はそれを見て鶴子の手を遮つた。「女中にお委せなさいよ。みんな手がすいてるぢやないの」
「えゝ。えゝ」
鶴子はしかしかういふ世話にかまけてゐると、自分の性質に一番適した仕事をしてゐるやうな安堵をいつも感じるのだつた。
――夕刊を簡単に取り替へ/\見通してゐた信徳が、残らず無造作にまとめて徳次郎に渡しながら、
「どれもこれもH彗星の事で持ちきりだ。あ――」欠伸まじりに云つて、また元の書類に目を移してしまつた。
「公園にも人出がある見込つて、書いてありますね。そんな気配かしら」
徳次郎は腰をあげ、後ろの窓を勢よく開けて首を出した。
「やあ、駄目、駄目。すつかり薄い雲が出て、どん/\拡つてゐますよ」空を仰いでゐる事が声の響き工合で分るのだ。「……生温かいところを見ると明日は雨かな」
「曇つちや、天文台でもやつぱり困るんでせうね」と常子が口を入れた。「でも明日もやつぱりよく見えるのか知ら」
「さうそ」信徳がそれには構はずに云つた。「天文台で思ひ出したが、俺とお前の宛名で学校から(それは寄宿学校の意味だつた)招待状が来てゐたぜ。何とか博士の彗星の講演があるさうだよ。行つて見るかい?」
「あまり有難くありませんね」
徳次郎は浮かない顔付で答へた。
「学校と云へば」と信徳が同じ寛ろいだ調子で喋つた。「この間電車で野田に逢つたぜ。野田の話だとあの森島ね、森島和作か。あれが今度高等部の講師になつたさうだね。お前、知つてるか」
「えゝ、知つてゐます」気弱な徳次郎はそれをまだ家の誰にも話さなかつたので、工合の悪い顔をした。
「俺は野田にはじめて聞いたんだが、あいつは文科は哲学を出たんだつてね。ふーん」和作に対する印象の淡い信徳は感心して見せた。「昔自家にちよい/\来た時分には、俺はよく知らんが、何でもお前の部屋で騒いだりして、いやに活溌な奴らしかつたぢやないか」
「いや、やつぱりさういふ変つた所もありましたよ」
「誰? 森島さん?」常子が引受けて云つた。「えゝ、えゝ、あの人は昔から哲学者よ。変人よ」
……鶴子が悠くり顔を挙げた。
だが常子はその様子を見てとると、「ねえ、鶴子さん」かう呼びかけて立ち上りながら、長椅子の上に放つて置いた大きな編物袋を取つて来て快活に喋り出した。
「ねえ、あなたにお見せするものがあるのよ。御批評が願ひたいわ」彼女は袋の中から女の子の靴下の出来かけを出して見せた。「昨日お友達にこんないゝ毛糸を教へて戴いてね、すぐと帰りに買つてやりはじめましたの。そのかはりこれは一番大よそゆきよ」
「まあ、柔らか」鶴子は懶さうに手の甲にあてて見た。「ほんたうに柔らかね」
「こゝの処から四本棒を五本使ふのよ。わたしねいま別に信一の靴下も編んでゐるんですけれどね、裏と踵には木綿をどし/\刺し込んでやるの。まあ山賊の靴下ね。だつて一週間に二三足といふ勢で、生優しく継げない穴を開けられちやあ、こつちが堪らないわ」
常子は眉を大げさに顰めて見せながら、この間も、鶴子の一寸した表情の動きをも注意してゐた。
四人は又もや黙り込んだ。
煖炉の石炭が信徳の好みどほりに、居心地よく燃え上つた。
そして五分ほど経つた。
――不意に玄関で呼鈴が鳴つた。四人は一斉に顔を挙げた。
「俺の客だつたら書斎に通せよ」信徳が機嫌の悪い声で常子に云つた。
「誰だらう。今時分」
不規律な客にかけては兄よりも自分に多い徳次郎が、聞き耳を立てた。だが彼にも、公園の周囲を行く電車のポールの音しか聞えなかつた。
女中が入つて来た。
「どなた?」常子は玄関がすぐ其処なのを用心して、小声に尋ねた。
「信一様でいらつしやいました」
「信一? どうしたのだらう」
「何か御気分が悪いとかで、学校から先生のやうなお方が附いておいでになりました」
「やうなお方といふ事はないぢやないの。お名刺は」来客を叮嚀にもてなさないと気持の悪い常子が、不機嫌に云つた。
「戴きました。その儘お帰りになる御様子でしたが……」
「いゝから早く頂戴」彼女はテキパキと名刺を受取つたが、それを一瞥すると急に今までの気忙しさを忘れたかのやうに、「あ、さう」と云つて何気なく立ち上つた。
「兎に角信一を休ませろよ。俺、玄関に行つてやらうか」信徳が気早に、持ち前を出しかけた。
「はい、はい。いま致しますよ」妙に思慮深い色が常子に現はれてゐた。「ではと、信一を長椅子まで連れて行つて、少し横にならせて置いてお呉れ。それから鶴子さん。済みませんけれど体温を計つてやつて頂戴な」
鶴子が部屋を出て行つた。
「あなた。……これなんだと思つて」用心深く間をおいてから、常子は名刺を突き出して見た。「お二人で噂なさるからよ。その罰よ。――森島和作氏。……いかゞ?」半端な笑顔を保ちながら読み上げた。「ひとつ御挨拶して来てよ」
「ほう」と云つた徳次郎には弱々しい困惑の色が現れた。
「森島? それあ気の毒だつたな。此処へ通すか」何の先入主も興味もない信徳が、前と同じ調子で云つた。
「さうねえ。でも玄関で帰るつて仰有りはしないかしら」着ずまひを直しながら常子はもう小刻みに扉口に急いだ。「よくつてよ、わたしがよくお礼云つて置きますから」
……常子は義妹を心から愛してゐた。それは自身の結婚の経験はもう過ぎた婦人の持つ、独特の愛情だつた。彼女は自分が一から十まで世話を焼く事が出来るといふ責任感も含めて――或ひはそれゆゑに一層――鶴子の幸福をいろ/\と工夫案配してゐた。さういふ位置にあつて彼女は鶴子が美しさから云つても気質から云つても可成立派な娘なのに、何となく万事引込思案で印象の栄えないのをしきりと気に懸けてゐた。……だがいま常子には、鶴子のために非常にいゝ縁談のあてがほんの緒ほど出来かゝつてゐた。そのために彼女は、鶴子の事にかけては家中で一番神経質になつてゐた。
「……本当に玄関で帰つてくれるといゝが」
常子は薄暗い廊下に満ちてゐる春の空気を感じながら、それを心から願つた。以前から非常に遠慮深い時と、その全く反対の時との予想のつかぬ和作を思ふと、彼女は昔ながらの妙な不安を受けた。
「さうだ。……どうしても玄関で帰つて貰はなければ」
一家の平穏のためにはどんな些細な邪魔でも嫌悪したい本能から気の引き緊るのを感じながら、彼女は玄関の厚い硝子戸をゆつくり開けた。
だが戸外には、いま廊下に漂つてゐたと同じしつとりした、動かぬ空気があり、漆喰の庇の陰から照らしてゐる燈が石だゝみの上にぽつと落ちてゐるばかりだつた。
「おや」
常子は扉を開けた儘立ち尽した。
「……まあ、よかつた。帰つてくれたのだ」
彼女は何かの香気のこもつてゐさうな夜気を大きく吸ひながら、こみ上げて来る安堵の表情を抑へる事が出来なかつた。
「まあ、よかつた、よかつた」
幸福を無事に護りおほせた気持になりながら、彼女はスリッパアの音を立てて、その儘信一の横になつてゐる奥の方へ入つてしまつた。
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森島和作は、加納の住居のある閑静な邸町から電車通の往来に、電車通の往来から更に街路樹と街燈の並んでゐる眩しい大通りに出てゐた。彼はまだ自分の後ろに、あの植込みに取巻かれた建物の冷静さを感じてゐた。
彼にはその建物の屋根や壁が、夜の寒気だの不慮の災だのをしつかり防ぎながら、闇のなかで凝つと微笑んでゐたやうに思はれた。彼は温室から今出て来たばかりの人のやうに深呼吸をした。
「やはりあれでよかつたのだ。俺はほかの世界の一家を驚かす前に、出て来たのだ」
……そして彼は古外套の下に決断力を感じた。
和作は大通りの賑かな人道を、夜店の前に立ち止る人を縫ひながら大跨に歩いた。
――空にはいつの間にか変化が行はれてゐた。一時間ばかり前からどん/\解けて拡がつてゐた霞のやうなあの淡い雲は、今はもう都会の上を低く覆つて、肝心の彗星も何もかも、すつかり隠してしまつてゐた。そしてあとには浮々した春の夜気が、独り顔に空間を領してゐた。それは宇宙の巨大、人間の微小といふやうな比喩を無理にも暗示してゐた先刻の空とは、似ても似つかないものだつた。
月の在処だけが茫んやり分る。……
和作は三高時代に読んだ、「朧夜や顔に似合はぬ恋もあらん」といふ句をふと思ひ出した。そして歩きながら月の在処を凝つと視た。
だがやがて、彼はさういふ自身を冷やかに観察してゐる自分に気づいた。彼は赧くなつた。彼は腹立しく頭を振つた。
あれはたわいもなかつた事ではないか! 鶴子の結婚の噂が耳に入れば、やがて跡方もなく消えてしまふ程度のものではないか!
二丁目、三丁目と彼は同じ早さで、数間先きを茫んやり見ながら歩いて行つた。
「過去、眠れ」稍々あつて彼は、激したやうに自分に云つた。「あんな過去……」
沈んだ空虚が来た。そして又例の病後の疲れが、彼の身体を徐々に占めた。こんな事ぢやいけない。彼は古外套の下の決断力を焚きつけた。
「さうだ。……春になつたら身体をなほして、早くまとまつた仕事に手をつけなくては!」
彼は、京都を去る時に××先生から大体の方針を親切に教へられて来た、或る研究のことを思ひ出したのである。――この健康さへ恢復したら、そしてその仕事にさへ手を着けたら、もう少しは今の自分を笑つて見下せる自分になれるだらう。かう考へた。
和作は焦りがちな今の自分を、労つてやりたい心持で一ぱいになつた。
五丁目と突き当つて、濠端の電車の交叉点に出た。和作は歩き過ぎを恐れて電車に乗つた。寄寓してゐる家に帰れば丁度十時になると思つた。だがこんな浮々した朧夜に、果してその儘眠つかれるかどうかを気遣つた。
(大正十二年四月)