4話 四
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雲が衝と離れると、月の影が、對うの窓際の煤けた戸袋を一間、美人の袖を其處に縫留めた蜘蛛の巣に、露を貫いたが見ゆるまで、颯と薄紙の靄を透して、明かに照らし出す、と見る間に、曇つて、また闇くなり行く中に、もの越は、蟲の音よりも澄んで聞えた。
「否、つゞれさせぢやありません。蟋蟀は、私は大すきなんです。まあ、鳴きますわね……可愛い、優しい、あはれな聲を、誰が、貴方、殿方だつて……お可厭ではないでせう。私のやうなものでも、義理にも、嫌ひだなんて言はれませんもの。」
「ですが、可厭な蟲が鳴いてる、と唯今伺ひましたから。」
「あの、お聞きなさいまし……一寸……まだ外に鳴いて居る蟲がござんせう。」
「はあ、」
と唯吉は、恰もいひつけられたやうに、敷居に掛けた手の上へ、横ざまに耳を着けたが、可厭な、と云ふは何の聲か、其は聞かない方が望ましかつた。
「遠くに梟でも啼いて居ますか。」
「貴方、蟲ですよ。」
「成程、蟲と梟では大分見當が違ひました。……續いて餘り暑いので、餘程茫として居るやうです。失禮、可厭なものツて、何が鳴きます。」
「あの、きり/\きり/\、褄させ、てふ、肩させ、と鳴きます中に、草ですと、其の底のやうな處に、露が白玉を刻んで拵へました、寮の枝折戸の銀の鈴に、芥子ほどな水鷄が音づれますやうに、ちん、ちん……と幽に、そして冴えて鳴くのがありませう。」
「あゝ……近頃聞いて覺えました……鉦たゝきだ、鉦たゝきですね。や、あの聲がお嫌ひですかい。」
「否、」
と壓へる、聲が沈んで、
「聲が嫌ひなのではありません。不厭などころではないんですが、名を思ふと、私は悚然とします……」
と言つた。
其の氣を受けたか、唯吉は一息に身體中總毛立つた。
「だつて、其だつて、」
と力が籠つて、
「可哀さうな、氣の毒らしい、あの、しをらしい、可愛い蟲が、何にも知つた事ではないんですけれど、でも私、鉦たゝきだと思ひますだけでも、氷で殺して、一筋づゝ、此の髮の毛を引拔かれますやうに……骨身に應へるやうなんです……蟲には濟まないと存じながら……眞個に因果なんですわねえ。」
と染々言ふ。
唯吉は敷居越に乘出しながら、
「何か知りませんが、堪らないほど可厭なお心持らしく伺はれますね……では、大抵分りました……手前にお頼みと云ふのは、あの……ちん、ちんの聞えないやうに、蟲を捕へて打棄るか、何うにかしてくれろ、と云ふんでせう……と其奴は一寸困りましたな。其方の……貴女のお庭に、ちよろ/\流れます遣水のふちが、此の頃は大分茂りました、露草の青いんだの、蓼の花の眞赤なんだの、美しくよく咲きます……其の中で鳴いて居るらしいんですがね。……
蟋蟀でさへ、其の蟲は、宛然夕顏の種が一つこぼれたくらゐ小くつて、なか/\見着かりませんし、……何うして掴まりつこはないさうです……貴女がなさいますやうに、雪洞を點けて探しました處で、第一、形だつて目に留るんぢや、ありますまい。」
と唯吉もこゝで打解けたらしく然う云つた。
今は、容子だけでも疑ふ處はない……去年春の半ば頃から、横町が門口の、其の數寄づくりの裏家に住んだ美人である。
其の年の夏が土用に入つて、間もなく……仔細あつて……其家には居なくなつた筈だと思ふ。