5話 五
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婦は輕く吐息して、
「止しませう……最う私、行かないで置きますわ。」と正面に男を見て、早や坂の上を背にしたのである。
「病院へ、」
「はあ、」
「其奴は困りましたな。」
男は實際當惑したらしかつた。
「いや、其は私が弱りました。知らずにおいでなされば何の事はないものを。」
「あら、貴方、何の事はない……どころなもんですか。澤山ですわ。私は最う……」
「否、雖然、不意だつたら、お遁げなすつても濟んだんでせう。お怪我ほどもなかつたんでせうのに。」
「隨分でござんすのね。」
と皓齒が見えて、口許の婀娜たる微笑。……行かないと心が極まると、さらりと屈託の拔けた状で、
「前を通り拔けるばかりで、身體が窘みます。歩行けなく成つた所を、掴つたら何うしませう……私死んで了ひますよ……婦は弱いものですねえ。」
と持つた手巾の裏透くばかり、唇を輕く壓へて伏目に成つたが、
「石を其處へ打たれましたら、どんなでせう。電でも投附けられるやうでせう。……最う私、此處へ兵隊さんの行列が來て、其の背後から參るのだつて可厭な事でございます――歸りますわ。」
と更めて判然言つた。
「しかし、折角、御遠方からぢやありませんか。」
「築地の方から、……貴方は?」
「……芝の方へ、」
と云つたが、何故か、うろ/\と四邊を見た。
「同じ電車でござんすのね。」
「然やう……」
と大きにためらふ體で、
「ですが、行らつしやらないでも可いんですか。お約束でもあつたんだと――何うにか出來さうなものですがね、――又不思議に人足が途絶えましたな。こんな事つてない筈です。」
雲は所々墨が染んだ、日の照は又赫と強い。が、何となく濕を帶びて重かつた。
「構ひません、毎日のやうに參るんですから……まあ、賑かな所ですのに……魔日つて言ふんでせう、こんな事があるものです。おや、尚ほ氣味が惡い、……さあ、參りませう。」
とフト思出したやうに花籠を、ト伏目で見た、頬に菖蒲が影さすばかり。
「一寸、お待ち下さいましよ。……折角持つて參つたんですから、氣ばかり、記念に。……」
で、男は手を出さうとして、引込めた。――婦が口で、其の風呂敷の桔梗色なのを解いたから。百合は、薔薇は、撫子は露も輝くばかりに見えたが、それよりも其の唇は、此の時、鐵漿を含んだか、と影さして、言はれぬ媚かしいものであつた。
花片を憐るよ、蝶の翼で撫づるかと、はら/\と絹の手巾、輕く拂つて、其の一輪の薔薇を抽くと、重いやうに手が撓つて、背を捻ぢさまに、衝と上へ、――坂の上へ、通りの端へ、――花の眞紅なのが、燃ゆる不知火、めらりと飛んで、其の荒海に漾ふ風情に、日向の大地に落ちたのである。
菖蒲は取つて、足許に投げた、薄紫が足袋を染める。
「や、惜い、貴女。」
「否、志です……病人が夢に見てくれますでせう。……もし、恐入りますが、」
花の、然うして、二本ばかり抽かれたあとを、男は籠のまゝ、撫子も、百合も胸に滿つるばかり預けられた。
其の間に、風呂敷は、手早く疊んで袂へ入れて、婦は背後のものを遮るやうに、洋傘をすつと翳す。と此の影が、又籠の花に薄り色を添へつつ映る。……日を隔てたカアテンの裡なる白晝に、花園の夢見る如き、男の顏を凝と見て、
「恐入りました。何うぞ此方へ。貴方、御一所に、後生ですから。……背後から追掛けて來るやうで成らないんですもの。」