紅さいた二ツの愛々しい唇が、凍てて櫻貝の散つて音するばかり、月にちら/\と、それ、彼處に此處に――
「あゝ、寒い。」
温泉に行かうとして、菊屋の廣袖に着換へるに附けても、途中の胴震ひの留まらなかつたまで、彼は少なからず怯かされたのである。
東京を出程つ時から、諏訪に一泊と豫定して、旅籠屋は志した町通りの其の菊屋であつた。
心細い事には、鹽尻でも、一人も同じ室へ乘込まなかつた。……其の宿の名は、八重垣姫と、隨筆の名で、餘所ながら、未見の知己。初對面の從姉妹と、伯父さんぐらゐに思つて居たのに。………
下諏訪へ來ると、七八人、田螺を好きさうな、然も娑婆氣な商人風のが身を光らして、ばら/\と入つて來た。其の中で一人、あの、其の女二人居た處へ、澄まして腰を掛けた男があつた。
はつと思つたが、一向平氣で、甲府か飯田町へ乘越すらしい。上諏訪に彼が下車した時まで、別に何事もなく、草にも樹にも成らず、酒のみと見えて、鼻の尖の赤いのが、其のまゝ柿の實にも成らないのを寧ろ怪む。
はじめ、もう其のあたりから、山も野も眇として諏訪の湖の水と成る由、聞いては居たが、ふと心着かずに過ぎた、――氣にして、女の後ばかり視めて居たので。
改札口を冷く出ると、四邊は山の陰に、澄渡つた湖を包んで、月に照返さるゝ爲か、漆の如く艶やかに、黒く、且つ玲瓏として透通る。
白きは町家の屋根であつた。
水から湧いた影のやうに、すら/\と黒く煽つて、俥が三臺、つい目の前から駈出した。
――俥が三臺、人が三人――
「待てよ、先刻の紳士は、あゝして、鹽尻で下車たと思ふが、……其とも室を替へて此處まで來たか、俥が三臺、揃つて。」
と見る、目の前へ、黄色い提灯の灯が流れて、がたりと青く塗つた函車を曳出すものあり。提灯には赤い蕋で、車には白い紋で、菊屋の店に相違ない。
「一寸、菊屋の迎かい。」
「然うで。」
とぶつきら棒立。仲屋の小僧と云ふ身の、から脛の、のツぽが答へる。
「おい、其處へ行くんだ、俥はないかね。」
「今ので出拂つたで、」
「出拂つた……然うか。……餘程あるかい。」
「何、ぢき其處だよ。旦那、毛布預ろかい。」
縞の膝掛を函に載せて、
「荷もつも寄越すが可いよ。」
「追剥のやうだな。」
と思はず笑つたが、これは分らなかつた。奴はけろりとして、冷いか、日和下駄をかた/\と高足に踏鳴らす。
「おい來た。」
と出さうとした信玄袋は、顧みるに餘りに輕い。函に載せると、ポンと飛出しさうであるから遠慮した。
「これは可いよ。」
「然うかね、では、早く來さつせいよ。寒いから。」
ありや、と威勢よく頭突に屈んで、鼻息をふツと吹き、一散に黒く成つてがら/\と月夜を駈出す。……
猪が飛出したやうに又驚いて、彼は廣い辻に一人立つて、店々の電燈の數より多い、大屋根の石の蒼白い數を見た。
紙張の立看板に、(浮世の波。)新派劇とあるのを見た。其の浮世の波に、流れ寄つた枯枝であらう。非ず、湖の冬を彩る、紅の二葉三葉。