「酒を頼むよ、何しろ、……熱くして。」
菊屋に着いて、一室に通されると、まだ坐りもしない前、外套を脱ぎながら、案内の女中に註文したのは、此の男が、素人了簡の囘生劑であつた。
其のまゝ、六疊の眞中の卓子臺の前に、《どう》と坐ると、早や目前にちらつく、濃き薄き、染色の葉に醉へるが如く、額を壓へて、ぐつたりと成つて、二度目に火鉢を持つて來たのを、誰とも知らず、はじめから其處に火を裝つて備附けられたもののやうに、無意識に煙草を吸つた。
細い煙も峰に靡く。
「お召しかへなさいまして、お湯へ入らつしやいまし。」
「然うだ、飛込まう。」
と糊の新しい浴衣に着換へて――件の胴震ひをしながら――廊下へ出た。が、する/\と向うへ、帳場の方へ、遙に駈けて行く女中を見ながら、彼は欄干に立つて猶豫つたのである。
湯氣が温く、目の下なる湯殿の窓明に、錦葉を映すが如く色づいて、むくりと此の二階の軒を掠めて、中庭の池らしい、さら/\と鳴る水の音に搖れかゝるから、内湯の在所は聞かないでも分る。
が、通された部屋は、すぐ突當りが壁で、其處から下りる裏階子の口は見えない。で、湯殿へは大りしないと行かれぬ。
處で、はじめ女中に案内されて通つた時から、
「此處では醉へないぞ。」と心で叫んだ、此の高いのに、別に階子壇と云ふほどのものも無し、廊下を一りして、向うへ下りるあたりが、可なりな勾配。低い太鼓橋を渡るくらゐ、拭込んだ板敷が然もつるりと辷る。
彼は木曾の棧橋を、旅店の、部屋々々の障子、歩板の壁に添つて渡つて來た……其も風情である。
雖然、心覺えで足許の覺束なさに、寒ければとて、三尺を前結びに唯解くばかりにしたればとて、ばた/\駈出すなんど思ひも寄らない。
且つは暗い。……前途下りに、見込んで、其の勾配の最も著しい其處から、母屋の正面の低い縁側に成る壁に、薄明りの掛行燈が有るばかり。他は、自分のと一間置いて高樓の一方の、隅の部屋に客がある、其處の障子に電燈の影さすのみ。
「此は、そろり/\と參らう。」
獨りで苦笑ひして、迫上つた橋掛りを練るやうに、谿川に臨むが如く、池の周圍を欄干づたひ。
他の客の前をなぞへに折曲つて、だら/\下りの廊下へ掛ると、舊來た釣橋の下に、磨硝子の湯殿が底のやうに見えて、而して、足許が急に暗く成つた。
ト何處へ響いて、何に通ふか、辿々しく一歩二歩移すに連れて、キリ/\キリ/\と微に廊下の板が鳴る。
ちよろ/\とだけの流ながら、堤防も控へず地續きに、諏訪湖を一つ控へたれば、爪下へ大湖の水、鎬をせめて、矢をはいで、じり/\と迫るが如く思はるゝ。……其の音さへ、途留むか、と耳に響いて、キリ/\と細く透る。……
奧山家の一軒家に、たをやかな女が居て、白雪の絲を谷に繰り引く絲車の音かと思ふ。……床しく、懷しく、美しく、心細く、且つ凄い。
ト又聞える。
(きり/\、きり/\
きいこ、きいこ。)……