1話 〔序幕〕 第一場 取手の宿・安孫子屋の前
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常陸の国取手は水戸街道の宿場で利根を越えると下総の国。渡しはそこの近くにある。
取手の宿場街の裏通りにある茶屋旅籠で安孫子屋の店頭は、今が閑散な潮時外れである。それは秋の日の午後のこと。
(安孫子屋は棟の低い二階建で、前と横とがT字型に往来になっている。角店のこの家は突ッつきが広い土間、その他は外から余り見えない。階下と二階の戸袋は化粧塗りの、漆喰細工で、階下は家号を浮きあがらせた黒地に白、二階は色漆喰の細工物で波に日の出)
(安孫子屋の角柱の処に菊の鉢が一つ置いてある。外側の窓の脇に榎の老木があり竹垣を四方に結ってある。その中で秋草が少し咲いている)
(二階は三尺障子が閉まっている)
店の前に料理人、帳付け、酌婦お吉、お松、その他が立って、道路の向うでしている喧嘩の方を見ている。そっちの方から喧嘩する男の声が聞えているが、だれの眼にもまだ見えていない、二階では近在からきている放蕩者が、酌婦を相手に遊んでいると見え、三味線の爪弾きの音が聞える。
料理人 (爪先立ちをして喧嘩の方を見る)
お吉 (料理人に)見える。
料理人 うンにゃ見えねえ。
お松 (少し酔っている)こんな時はのッぽが得だと思ったらそうでもないんだね。
料理人 何をいやがる。おッ、人が出てきた。
お松 まさか鬼は出てきッこないさ。
帳付け お松どんお前また酔ってるな。酔うもいいがお前のは質がよくないからなあ。やあ、人がみんな押し出されたように横町から出てきたぞ。
子守子 (息せき走ってくる)
料理人 あれッ雪崩を打って人が――あ、駈ける、みんな駈けてこっちへ来る。
お吉 (子守子を捉まえそうにして)だれが喧嘩してるんだい。
子守子 船戸の弥あ公なんだよ。
お松 えッ、弥八の奴また喧嘩か、仕様のない男だねえ、あれと来ちゃあ。
帳付け お松どんそんなことを当人の前でいうじゃないぜ、頭を半分ブッ欠かれるか知れないからなあ。
お松 いくらあたしだって、真逆あの無法者の前じゃ、迂闊に口を听きやしませんよ。お蔦さんのいい草じゃないが、体をやくざに持扱ってしまっても、まだこれで命は惜しいや。
料理人 (熱心に見続けている)あッ有難え、喧嘩はとうとうこっちへ流れてきそうだ。やあ、追っかけてるのは弥あ公だが、逃げてくるのはどこかの若夫婦らしい。
お吉 あれッ、だれだか、仲人にはいった――。
お松 どれどれ。
帳付け (お松に)おいおい、滅多なことはいっちゃいけないよ。家が迷惑するから。
お松 (耳にもかけず)ありゃ二、三日前に中食をしてった日光街道の木崎の博労だよ。
帳付け 叱ッ叱ッ、黙った黙った。
お松 (口を掌で叩き)あわわわ。
土地の男女が逃げるようにやってきて、二つの群れとなり、二つの道の端に佇んで喧嘩を見ている。婚礼して間もないらしい若い夫婦伊兵衛、おみなが、手を執り合って逃げてくる、後から船戸の弥八(二十八、九歳)船夫にて乱暴者が追いかけ来る。
弥八 (伊兵衛を捉える)何をしやがる。(振り払う伊兵衛を又捉えて引戻す)
おみな (夫の大事と引返し、おろおろと伊兵衛を気遣う)
博労木崎の久太郎(四十二、三歳)仲裁しょうとて弥八に追いつく。
久太郎 哥兄や、まあさ、勘弁してやってくれ。当人だって詫びをいってるんだ。なあ、もういい加減に勘弁してやってくれ。俺からも頼むからよ。な、もういいだろう。根も葉もあることではねえ、足を踏んだ踏まねえの喧嘩じゃねえか。
弥八 厭だい。
久太郎 何ッ。(むッとしたが、気を取り直し)そういったものじゃねえ。
弥八 黙ってろい。借せッ。(久太郎が持っていた馬の沓を奪って、伊兵衛を打つ)
おみな あれッ。(伊兵衛を庇わんとして、弥八に打たれる)
伊兵衛 (憤然として弥八の腕を押え)温和しくしていればいい気になり、畜生に穿かせる物でよくもぶったな。
おみな (おろおろと伊兵衛に取り縋り、何かいおうとすれど声が出ぬ)
弥八 馬の沓でヒッ敲いてやった、それがどうした。
久太郎 どうもしねえ、こうしてやらあ。(馬の沓を引ッ手繰り弥八を打つ)
弥八 あ痛え。やい止せ、痛えやい。(久太郎から馬の沓を奪わんとする)
久太郎 (いっかな放さず)この野郎。いい加減にのさばれ。
弥八 寄越さねえと蹴殺すぞ。
伊兵衛 (弥八の脚をとって引く)
弥八 あわわ。(引ッ繰り返る、直ぐ起きあがるを、久太郎が馬の沓で打って倒す、又起きるを伊兵衛が蹴り倒す)
久太郎 ちッとは懲りたか、この大馬鹿野郎。
伊兵衛 顔をよく見憶えたから、川向うへ来てみるがいい、ただでは帰しはしないから。
弥八 (瓦破と起き)待ってろッ。(安孫子屋へ飛び込む)
料理人 あれッ。(家の中へ向って)庖丁を片付けろ、庖丁を、(駈け込む奥の方で声がする)庖丁を。(帳付けその他も駈け込む)
久太郎、伊兵衛夫婦は別々の道へ走って去る。見ていた男女も傍杖を恐れて去る。お松とお吉だけが、家の前に小さくなっている。家の中でドタバタ音がする。皿の壊れる音、棚から物の落ちる音などがする。
弥八 (声)退きやがれ。あ奴等突ッ殺しちゃうんだ。退けえッ、退けッ。
料理人 (声)何を乱暴するんだ、いけねえったら、放せ、あッ危ねえッ。
二階の障子が開いて、酌婦お蔦(二十三、四歳)ほろりと酔った顔を出す。
お蔦 (口に啣えた楊子を吐き棄て、店の奥を覗き加減に見る、が見えないので、居どころを替える)
弥八 (刺身庖丁を持ち、肌脱ぎとなり、往来へ飛び出す)
料理人その他が店の入口まで追って出る、それから先へはだれも進み出ぬ。お吉とお松とは店へ駈け込む。
お蔦 (柱にもたれ、髪を櫛で掻きながら下を見ている)
弥八 さあど奴もこ奴も命をフン奪ってやるから出てこい。さあ。(ギロギロ見廻し)畜生、みんな隠れやがったな。
駒形茂兵衛(二十三、四歳位)汚ない単衣物一枚、素足に草鞋を穿く、力士志願で親方をとり、漸く付け出しにはなったが、前途がないと親方に見限られ、旅興行先で追い払われて通りかかる。
茂兵衛 (何とも知らず来り、弥八に行き合う)
弥八 (庖丁を擬して睨む)
茂兵衛 な、なにをするんだ、わしが知るものか。
弥八 野郎ッ。(逃げ廻る茂兵衛を追い廻す)
茂兵衛 (空腹のために、よろめき勝ちで、再々危うくなる)わしは何も知らぬ、な、なにをするんだこの人は。(逃げ廻る)
料理人その他はハラハラするのみで、挺身して弥八を押える者がない。
お蔦 (じッと見ていて、疳癪を起し、盃洗をとって水を弥八に浴びせる)
弥八 ぷッ。(顔を片手でツルリと撫ぜる)
お蔦 水をかぶって少しは気が落ちついたかい弥あ公。
弥八 何だあ。(二階だと心づき仰ぎ見て)手前お蔦の阿魔だな。
料理人 (素早く弥八の手から庖丁を取ろうとして仕損じる)
弥八 何をしやがる。(庖丁を振り廻す)
料理人 うわッ。(店へ逃げ込む)
茂兵衛 (喘んでいる息を安めている、弥八の行動に眼をつけ、時々はッとする。二階のお蔦にも眼を向ける)
弥八 やいお蔦、よくも俺に水をヒッかけやがったな。下へこい、叩ッ斬ってやるから。
お蔦 何をいってるんだい。
弥八 降りてこねえな。ようしッ、俺の方から押掛けて行ってやる。
お蔦 来られるなら来るがいい、ここにいるお客さまを、だれだと思っているんだ、流れの三太郎親分だよ。
弥八 えッ、俺ンとこの親分がきてるのか、こいつはいけねえ、本当かおい。
お蔦 嘘だと思ったらあがっといで、親分に叱られるのも稀にゃ面白いだろう。
弥八 (庖丁を抛り出し)べら棒め、面白く叱られる奴があるもんかい。(茂兵衛に)やい、手前よくも俺を大勢と一緒になって殴りゃがったな。
料理人 (庖丁を拾いとり、傍にいる男に板場へ持たせてやる)
茂兵衛 わしは今ここを通りかかったばかりで、何があったか、ちッとも知らないのだ。
弥八 胡麻化すない。俺は殴られている時に、ちゃンと眼を開いてたんだから、どんな奴とどんな奴が殴ったか知ってるんだ。手前も確かに俺を殴った。
茂兵衛 そんな難題を吹ッかけては困る。
料理人 その人のいう通りだ。弥あさん、お前を殴ったのは、さっきの博労と若え男とだけだ。
弥八 手前の知ったことか。(茂兵衛に)手前、職は何だ。(どこの三下かの意)
茂兵衛 角力取りになっている。
弥八 取り的か。
茂兵衛 そうだ取り的だ。横綱でも大関でも、一度はみんな取り的だった。
弥八 ふんどし担ぎめ、豪儀そうな口を听くない。さあ野郎、俺と一緒に利根川沿へこい、二、三番揉んだ揚句、川の中へ飛び込ませてやる。
茂兵衛 水ならもう充分だ。
弥八 手前泳ぎを知らねえのか、犬ッ掻きも出来ねえのか。
茂兵衛 なあにそうでない、わしはきのうから水ばかり飲んで。(はッと心づいて)水中りが怖いからだ。
お蔦 (頬杖をついて見下している)取り的さん、そんな人に交際ってないで、さッさと行っておしまい、とどの詰りは、二つ三つ殴られた揚句に、いくらか銭をとられちまうよ。
弥八 (お蔦を睨む)
茂兵衛 なあに、銭なんか一文もない。
お蔦 へええ。一文なしで何処まで行くの。
茂兵衛 一先ず江戸へさ。
お蔦 ここから千住までだって八里あるよ。第一、そこの川を渡るったって、十六文銭がいるんだ、それを一文なしでどうするんだい。
茂兵衛 どうにかなるだろう。
弥八 一文なしと聞いちゃ、可哀そうで殴れもしねえ。
お蔦 可哀そうだって、あたしあ又、一文なしと聞いて、落胆したというかと思った。
弥八 厭なことばかりいう阿魔だ。
お蔦 前世では敵同士だったかも知れないね。
弥八 家の親分が惚れてなきゃ。とッくの昔に腕の一本ぐらいヘシ折ってある阿魔だ――何だってこんな阿魔ちょの、どこが好いんだ。
お蔦 そういって親分に聞いてごらん、何て返事するか。
弥八 知らねえ勝手に喋舌れ。(行きがけの駄賃に茂兵衛に向い)野郎。(蹴倒す)ヘッ、大飯食いの癖に弱え奴だ。
茂兵衛 (よろよろと倒れて)待て。(起きあがり)よいしょッ。(弥八の胸下に頭搗きをくれる)
弥八 あッ。(引ッ繰り返り、慌てて起きかけ、へたへたとなる)
茂兵衛 (力なくよろめき、辛くも踏止まったが、へたへたと坐る)
弥八 この取り的め。ああ痛え。(跛をひく如く、搗かれたところを押え)てッて。てッて。(折り曲って去る)
お蔦 (弥八が倒れるのを見て喝采し、茂兵衛が意気地なく坐るのを見て惘れる)
お松 (お吉に)この人、病人らしいけど、さすが取り的でも力士は力士だねえ。
料理人 (門口に出て弥八の後姿を眺め)ヘッ、弥あ公の無法者も頭搗きを一本カマされて、耐えたと見えて、海老みたいに体を曲げて歩いてやがる。いい気味だなあ。
お松 (お吉に)だけどさあ。(茂兵衛を指さし)あれじゃ色気がなさ過ぎるね。いくらあたしでも、これを客に取れといわれたって願いさげだ。からだらしが無さ過ぎるもの。
お吉 そりゃそうだよ、あたしだってさ。まだ弥あ公の方がいくらか増しだ。
お蔦 そうかねえ。
お吉 (前へ出て二階を見あげ)お蔦ちゃんてばさっきから、いつもの伝でポンポン弥あ公に当ってたけど、いいのかえ。
お蔦 どうなったって構やしないさ。
お松 (お吉に)およしおよし、あの人のお株なんだ。何をいったって徒労さ。やけくそな女なんだからねえ。
茂兵衛 (漸く立ちあがり)もし、水を一杯飲ましてくれますまいか。
料理人 水ならその先に井戸がある。遠慮なく沢山飲んで行きな。(他の者に)今の草双紙の読み続きを聞こうぜ。八、読んでくんな。
八公 ええ。(料理人と共に内へ去る)
お吉 あたいも聞こう。(お松の手をとり)お出でよお前さんも。
お松 暇ッ潰しに聞くかねえ。(お吉と共に内へ去る)
茂兵衛 (井戸の方へ行き、飲みおわって戻り)ごッそあンで。(去りかける)
お蔦 ちょいとちょいと。
茂兵衛 (振り返ってお蔦を、ちょっと見ただけで歩く)
お蔦 取り的さん、お前さんを呼んでるんだ。
茂兵衛 わしか。何だね。
お蔦 お前さんどこが悪いんだ。
茂兵衛 おなかさ。
お蔦 食い過ぎたんだね。
茂兵衛 根ッから食わないからいけないんさ。
お蔦 あ、そうそう、一文なしだといったっけねえ。
茂兵衛 乞食の真似すれば、人が銭をくれるといって教えてくれた者があるんだ。
お蔦 する気かえ。
茂兵衛 するもんか。わしは立派な関取になるんだからなあ。
お蔦 親方がそういったのかい。見込みがあるとか何とか。
茂兵衛 親方は、見込みがないといった。
お蔦 へええ。それでも立派なお角力さんになれるのかねえ。
茂兵衛 なれるさ、わしは一所懸命だもの。成れなかったらわし、どうしていいか判らなくなるなあ。
お蔦 国はどこさ。
茂兵衛 上州だ。勢多郡の駒形という処だ。前橋から二里ばかりの処さ。
お蔦 成り損ったら田舎へ帰って、鋤鍬を握るさ、家はお百姓なんだろう。
茂兵衛 家か――家は灰になった。
お蔦 焼けちゃったのかい。それで今、家がないの。
茂兵衛 無い。
お蔦 親兄弟が田舎にいるんじゃないのか。
茂兵衛 わしは一人ッ子。おやじは何処かへ行ったまんま、二十年も便りがない。どこかでどうにか成ったんだろう。
お蔦 お母さんだけいるんだね。
茂兵衛 ああ居るよ。駒形の上広瀬川が見える処に。
お蔦 なあんだ、家があるんじゃないか。
茂兵衛 なあに、そこはね、お墓さ。
お蔦 (急にホロリとなる)
茂兵衛 姐さんはここのおかみさんですか。
お蔦 酌とり女さ。白粉で面の皮が焼けてる阿婆摺れさ。
茂兵衛 阿婆摺れだって、そんなことはない、わしはそう思わない。(頭をさげて行きかける)
お蔦 お待ちよ取り的さん。お前、れっきとした親類はないのかえ。
茂兵衛 無いこともないが、わしに構ってくれる者はない。
お蔦 みんな気を揃えて薄情でいやがるんだねえ。取り的さん、お前、本当に、精出して立派な関取におなり、辛いことがあったら、その薄情な親類どもの顔を思い出して、一所懸命おやり、出世したら故郷へ錦を飾って、薄情揃いの奴等に、土下座させておやり、屹といい気味だよ。
茂兵衛 いやあ、わしは親類の者に見て貰いたいとて、立派な関取にはならないんだ。
お蔦 おや。ああ、見せて喜ばす可愛い女があるんだねえ。ホホホ、安くないねえ。
茂兵衛 わしは、故郷のお母さんのお墓の前で横綱の土俵入りをして見せたいんだ、そうしたら、もう、わしは良いんだ。
お蔦 取り的さん、お前さんもお母さんが恋しいのだねえ。夢をよく見るだろうねえ。
茂兵衛 当り前だ。姐さんのお母さんも死んでしまったのか。
お蔦 あたしのお袋は生きてるのさ。
茂兵衛 そんならわしより少し増しだ。
お蔦 なあに――生きていたとて、どうで満足には暮しちゃいないに極まってらあ。
茂兵衛 どうしてるか知らないのか。
お蔦 遠いんだよ、国が。だもの、判りゃしない。
茂兵衛 どこだ。
お蔦 信濃の善光寺様よりもッと先さ、越中富山から南へ六里、山の中さ。
茂兵衛 信州から先なら、わしはまだ知らない。
お蔦 (思い出して泣けてくる顔を隠すとて、後向きになり、声を低めて唄い出す、故郷の名物、八尾の小原節)おらちゃ友達や、さたね(菜種)の花よ、ハア、どこいしょのしょ。
茂兵衛 (お蔦を見あげ、黙って行きかける)
お蔦 (唄いつづける)盛り過ぎればオワラちらばらと。取り的さんちょいと。
茂兵衛 まだわしは八里余り歩かなくてはならないのだ、行くよ。
お蔦 利根川の渡し船は十六文だよ。(帯の間から巾着を出して投げてやる)
茂兵衛 え。
お蔦 食べる物をあげたいけど、ここの家は吝ッ垂れで話にならない。あたしの身上ありッたけやるから、どこかで何か食べてお行き。
茂兵衛 貰って行ってもいいのか。後で姐さんお前が困りゃしないか。
お蔦 あたしあ、年がら年中困りつづけだから、有っても無くっても同じことさ。遠慮しないで持ってお行き。
茂兵衛 半分貰います。
お蔦 吝ッ垂れな、今に横綱になる取り的さんじゃないか。
茂兵衛 だってな、わしも一文なしで困ってきたんだ、姐さんだって一文なしでは。
お蔦 やけの深酒は毒と知りながら、ぐいぐい呷って暮すあたしに、一文なしも糸瓜もあるもんか。お前さん大食いだろうから、それじゃ足りない、これもあげるから持ってお行き。(櫛と簪を髪からとる)
茂兵衛 いいよ、いいよ、そんなに貰わないでもいいよ。
お蔦 持って行くんだよ。(扱帯に櫛簪を結びつける)
茂兵衛 へえ。
お蔦 (扱帯をたらし)さあ受取んな。何を愚図愚図してるのさ。おや厭だ、泣いてるの。
茂兵衛 わしこんな女の人にはじめて逢った。
お蔦 横綱の卵は泣きベソだねえ。早くお取り、人が見るとおかしいよ。
茂兵衛 へえ。(櫛簪を手にとる)
お蔦 (扱帯を引きあげ)もし、だれかに咎められたら、あたしに貰ったとおいい、出る処へ出て明りを立ててあげるから。
茂兵衛 姐さんは、名を何というんでしょう。
お蔦 まだいわなかったね。取手の宿の安孫子屋にいるだるまで名はお蔦、越中八尾の生れで二十四になる女だとはっきりいっておやり。
茂兵衛 へえ。(口の中で記憶するために繰返していっている)
お蔦 その代り、取り的さん、屹とだよ、立派なお角力さんになっておくれね。いいかい。そうしたら、あたし、どんな都合をしたって一度は、お前さんの土俵入りを見に行くよ。
茂兵衛 あい――あい――屹となります。横綱に屹となって、きょうの恩返しに、片屋入を見て貰います。
お蔦 どこへ飛んで行くか知れない体だけれど、楽しみにして角力が興行にきたら番付に気をつけてみるよ。あ、取り的さんの名は、まだ聞かなかったっけねえ。
茂兵衛 わしの親方の名は立科磯右衛門と申します。
お蔦 旅先から銭もあてがわずに追い返すような親方の名なんかどうだっていい。
茂兵衛 銭は六百くれました。これで何処へでも行けといって。けど、みんな食ってしまった。
お蔦 あらッ、江戸へ追い返されるのかと思ったら、お払い箱。じゃ、困るねえ。
茂兵衛 いえ、江戸へ行けば、親方のおかみさんに縋って、もう一度弟子にして貰います。おかみさんは、わしを可哀そうだといっていてくれますから。
お蔦 何だか少し心細いねえ。
茂兵衛 いやあ大丈夫です、わしは、石に咬りついても横綱に出世しなけりゃ。
お蔦 その料簡でみッちりおやり。名は何ていうのだい。
茂兵衛 わしは、駒形と名を付けて貰っています。駒形というのは故郷の名だ。名は茂兵衛といいます。
お蔦 駒形茂兵衛だね。
茂兵衛 あい。姐さん、わし出世して三段目になっても、二段目になっても、幕へはいろうが、三役になろうが、横綱を張るまでは、いかなことがあっても駒形茂兵衛で押通します。
お蔦 それだとあたし直ぐわかっていいねえ。じゃあ、お行き、左様なら。
茂兵衛 はい。(嬉し喜んで頭をさげ)左様なら姐さん。(行きかける)
お蔦 (見送り)出世を待ってるよ。
茂兵衛 はいッ。(振返り振返り去る)
お蔦 (頬杖つき鼻唄をやっていたが、気がつき)あれ、まだこっち向いてお辞儀してる。そんなに嬉しかったのかねえ。(扱帯を振って)駒形あ――。
船戸の弥八が、仲間の無法者、赤金の升公、いわしの北公、盆持ちの良公を引きつれ、祭礼の日の如く騒いで駈け来る、四人とも鍬の柄その他を持っている。
升公 どこだ。どこだ。どこだ。
北公 わあッ、わあッ、わわッ。
良公 わッしょ、わッしょ。
弥八 (長脇差を帯し、先頭に立っている)
お蔦 (冷然と見ている)
弥八 やあ、もう行っちゃったな。渡し場だ渡し場だ。(駈け出しかける)
お蔦 ちょいとちょいと、弥あさん、又暴れるのかい、親分に叱られるよ。
弥八 お蔦の阿魔か。この嘘つきめ、親分は家にいたぞ。
お蔦 そうだろう。さっき帰るといって出て行ったもの。
弥八 嘘をつけこの阿魔。渡し場へ行って、ふんどし担ぎを叩ッ挫け。(駈けだしかける)
お蔦 ヘン何だい、あたしが怖くって、手出しがならないんだろう、ホホホ。
弥八 そうぬかせば、畜生、みんな、阿魔から先へ叩ッ挫け。
北公 だってお前、あの女には家のがお前。(鼻の下へ指を二本やり)じゃねえか。
良公 怒られちゃ詰らねえから止せ。
弥八 渡し場へゆけ。それ行け、それ。
お蔦 (鼻唄に小原節をうたいながら、手をのばして酒徳利と盃洗をとり、盃洗に冷え燗の酒をつぐ。窓に腰かけ酒を呷る)