2話 〔序幕〕 第二場 夏の夜の街(引返)
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前の場と同じ嘉永元年。
江戸の、とある町にある杜に近き夏の夜。
すべて黒い、ただ一つ灯のはいった常夜燈がある。地面に座って三味線を弾き銭を行人に乞うている老婆がある。カンテラが傍に置かれてある。
酔った職人風の男が蹲踞り、老婆に弾かせて唄っている。
番場の忠太郎。江戸に出て草鞋を脱ぎ、着流しで、少し離れて見ている。
老婆 (三味線を弾く)
酔漢 (中音で唄っている。調子づいて声が大きくなる、唄は段物の一部分)馬鹿だね、エヘヘヘヘヘ。さ、今度はと、はやり唄だ。大津絵だよお婆さん。え、さあ弾いたり弾いたり。(首を振り夢中になり唄う)これは世間の女房の名寄。お后様には政所、北の方には御台様、奥方ご新造ご内室、おかみさんにはお内方、嬶左衛門内の奴(坐り込む)馬鹿だね、あははははは。さ今度は都々逸都々逸。お婆さん頼むぜ、いいかいエヘン。船じゃ寒かろ着て行かしゃんせ、わしが着ているこの褞袍。エヘヘヘヘヘ。ああいい気持ちにやッとなった。どッこいしょと。(帰りかける)
老婆 (銭を貰わんと、出した手を、悲しげに引き込める)
忠太郎 (職人の胸倉をとり睨み「銭をやらねえのか」と顔で詰る)
酔漢 (怖れを抱き、やむを得ず銭を老婆に与え忠太郎を振り返って、孤鼠孤鼠と逃げ去る)
老婆 (忠太郎に感謝の頭をたどたどしく下げる)
忠太郎 お婆さん、そんなにしねえでもいいんだよ。幾つだね。年を聞いているんだよ。
老婆 はい。六十になりました。
忠太郎 子供衆はねえのかい。
老婆 ございましたが訳があって、余所へやったまま、今では生き死もわかりません。亭主には死別れ、お恥しいこんな姿で、やッとその日をカツカツ送っております。
忠太郎 (もしや探しあぐねている母かと思い)余所へやったその子は、何という名前だね。
老婆 (我が子のたよりかと喜び)あ、あなたは幸太郎のことをご存じのお方か。
忠太郎 幸太郎といいなさるのか。それじゃ矢ッ張り違っていた。
老婆 (涙声で)左様でございましたか。
忠太郎 (もしやと思い試みに)お婆さんは若い時に、江州の方へ行ってやしなかったか。
老婆 (失望を深く覚って)いいえ。わたくしは江戸ばかり、川崎から先は一向に。
忠太郎 そうか――お婆さん、気を落さずにいるがいいぜ。今に屹と、息子が名乗ってくるだろう。また見かけたらあげるが、今夜はこれだけ(金をやる)あげますよ。
老婆 有難う存じます。おや、これは一朱でございます、こんなに頂いていいのでしょうか。
忠太郎 いいんだとも取っておきねえ。(歩いて少し、思わず立ちどまる)
老婆 (頭を幾度か下げ、三味線を弾く)
忠太郎 (的もなく、母探しにまた歩き出す)