四人

2話 四人(2)

1,856字 約4分 2020年11月8日 公開

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(一枚抜ケテヰル 作者)

よくなりましたからね。」

「相変らずぢやありませんこと。」

「よくなりましたよ。不思議に。さつき……あなたの涙を見たとき。」

 俊一はさう云つてはつとした。良子は何も云はなかつた。細かい感動がちよつと顔に、特に唇に表はれて、すぐ消えた。それから無言で、二人は公園の端まで歩いて行つた。

「ほんとに、僕帰りますよ。」

「ええ、わたしも帰りますわ。何だか一降り来さうですわね。」

「降りますね。今日はいい天気過ぎたかな。ぢやあ……さよなら。」

「さやうなら。弘さんによろしくね。」

「ええ。」

 俊一はやつと一人になつた。もう何を考へるのもいやになつて、すた/\歩いて行つた。案の定、空気が気味の悪い動揺を始めて来た。太陽は、相変らず空に頑張つてゐる。俊一はすた/\と歩きつゞけて、家の門についた。弟のやつ……と又怒りが出さうになつた。とにかく、中へ入らう。戸に鍵がかゝつてゐるかな。すこし決心みたいなものを持つて、俊一は戸の把手に手をかけた。するすると開いた。それから玄関の格子戸もするすると開けて、中へ入つた。

 弟が居た。新聞を読んでゐた。俊一を見ると、顔を上げて、「おかへりなさい」と云つた。俊一は黙つて腰を下した。不思議と、初めに、疲れたといふ感じが出た。力士(すまふ)が土俵で呼吸をはかるやうに、彼は何だか計つてゐるやうであつた。それから、「おい弘。」と云つた。弟は顔を上げた。頭から怒鳴られるだらうと思つてゐた彼はちよつと意外に思つてゐた。

「おまへ、ひどいことをしたな。戸に鍵をかけて、一人で外出したりして。」

「わるかつた。あやまります。」

「おれはもう怒らん。実は良子さんに会つたんだ。あのひとは、おまへに会つたと云つてゐた。」

「ええ、会ひました。」

「そして、おまへがあのひとに云つたことを、みんな聞いて来た。」

「彼女は正直ですからね。」

「なんだか、おれがおまへを誤解してるつて話だつたが。」

「ええ、兄さんは僕を誤解してます。」

 俊一は、自分がどうしてかう落ちついて話が出来るのか分らなかつた。別に怒る必要もないぢやないか、といふ考へが奇妙に存在して、その考へは否定するどころではなく、寧ろ肯定すべきものだと俊一には思へるやうだつた。俊一としては珍らしいことである。

「誤解してるならそれでいい。改めよう。たゞし、何処で何故誤解したか、そんなことは面倒くさいから考へない。実際今日は疲れたよ。そのくせ、あんまり不快にもならなかつた。坂谷と、良子さんに会つたからかも知れない。」

「兄さんとしては珍らしいな。」

「うん。珍らしいね。」

「良子さん、何か他のこと云つてましたか。」

「いいや。……」

 それから俊一は何か考へ込む風だつた。沈黙がつづいた。その間、雲が蒼空を次第に侵して行き、太陽に迫つて行つた。太陽は逃げ場がなくてうろ/\してゐるやうだつた。そして、とうとう黒いむつくりした触手の中へ捉へられてしまつた。

「暗くなつたな。」

 二人は空を見上げた。それから俊一は、「飯の仕度にかゝらうか。」と云つて腰を上げた。女中は今日遊びにやらせたのである。

「おれが、副食物(おかず)を買つて来る。」俊一はやゝ疲れてゐるにも拘らず副食物を買ひに出る気になつた。益々珍らしいことである。

 茶の間を出ようとするとき、ふと立止つて弟の方を見た。それから、引返して、弟の傍へ坐つた。

「おまへ、良子さん好きかい。」

 弟は、うなづいた。すこしあわてた。それから、仕方がない、といふ顔付をした。

「別に何でもない。」独り言のやうに云つて、俊一は立上り、外へ出た。拡げた傘へ、最初の雨滴がぽつんと当つた。

「しばらくあいつ一人だけにして置いてやるんだ。仕方がない。」

 間もなく、物凄い雨が来た。俊一は構はず傘を楯にして歩いて行つた。

 今日といふ日は、珍らしい日だつた。俊一自身もさう思つてゐた。けれど、明日は、どうなるか分らない。又もとの、頑固な、利己的な、陰険な、彼自身も限りない嫌悪を抱いてゐる卑怯な暮し方を取り戻すかも知れない。恐らく、さうなるだらう。が、しかし今日だけは、今日一日だけは異つてゐた。今、雨の中を歩いて行く姿。不思議に今日だけ異つた姿。

 雨は烈しい。夏のやうな雨。土砂降りだ。土砂がはね上つて、雨と共に落ちて来る。俊一は、懸命に傘を握つて一人歩いて行つた。雨のため、すぐ近くのものも見えない。ほら、もうその姿は幻のやうになつた。そして、忽ち、水幕の中へ消え失せてしまつた。あとに、雨水が滝のやうにざあつと流れた。一面水であつた。

(了)

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