8話 八
読み方を変える
神無月十五日の日の早曉である。殘月は猶夜の光を殘し、淡たる其影は武藏野の野廣い遠方に傾きつゝある。六つ七つは未だ星の光も數へられる。滿潮の入江は銀波の動きが漸く薄らぎかけた。煙のやうな水蒸氣は、一郷全體の木立を立ちこめつゝ自然の光景は如何にも靜かに、飛ぶ鳥もなく木の葉も動かずといふ有樣であるが、此の靜かな天地に包まれた人里は、どことなく賑かな鳴り音を潛めて居る。里を押渡してどや/\と物音のどよみを漲らして居る。近くには馬の鼻息を吹く聲、人の物を打つ音、人の走る音など、總てが纏まつた一つの音響となつてどや/\と聞える。將に發せんとする人間の活動が、暫くの間、曉の光の底に働きかけて居るのである。
眞間の岡、木立の繁り深き、縣主日置殿の館から、今しも第一番の太鼓が、白露の空をどよもして鳴り渡つた。大森林の木魂を驚した響きはやがて入江の波上に鳴り渡り、曉天數里の郡内に傳はつた。それと同時に馬蹄の響きが一齊に郡内に起つた。何れも日置の館をさして驅け登る。
殘月全く光を失うて繼橋渡る人の俤が分明に見えるほど夜の明け渡つた頃は、二百餘騎の騎武者が門前長く二列に整列して第二の太鼓を待つて居る。東雲遙かに太陽の光を認めた時第二の太鼓は鳴つた。騎射場一切の準備は整うて、騎士は悉く指定の地に就く。
若殿忍男が白袍赤馬自ら出て騎土に號令を傳へる。第一より第二十に至るまで恩賞の次第を告げて大いに騎土を勵まし、且つ自らも騎手の一人として優劣を爭ふの決意を述べた。誰一人おろかはあらねど、目のあたりに若殿自らの奬勵を聞いては各意氣百倍、心のたけりは巖石をも押通さん許りである。館より朝食の配りがあつて第三の太鼓が鳴れば騎射が始まる順序である。
縣主日置の館は、大木古樹に富めるを以て名高き舊家である。眞間の繼橋より正面に岡へ登れば一里四面もある大森林は、松、杉、檜、楠などの幾百年を經たかも判らぬ巨木が空をおほうてゐる。杉檜許も十餘萬株を算すといふので、鬱として神代の趣きを見る。其中央を割つて日置の館は作られてある。門前十餘町門内又十餘町、蒼龍空に舞ふが如き老松の間にさつぱりとして却て云ふにいはれぬ品格ある舍殿幾棟よりなれるが、日置蟲麿が館である。
門を出でゝ右一町餘りにして大騎射場に達する。東より西へ十餘町楕圓形の芝生がそれである。大森林を後に眞間の入江を前に、前面一帶は開けて遠く武藏の海に、鶴や鴎の群れ飛ぶも見える。空澄める日には富士の烟の靡くさへ見える。大殿蟲麿が關東隨一の騎射場と誇つて居るところ、之れに東葛飾一郡にして、名馬を養ふ武夫二百人を越ゆると云ふが、特に得意禁じ難き點である。
東側の松林中に騎手の控場は軒を竝べて列つて居る。五十騎を一組として四組に別れ、赤黄青緑の服色を別つ。各絹袍を許され烏帽子を着、株槌の劒を佩き、胸間には隨意に玉をうなげたるなど見るめ尊とく、萬人羨みの眼を注ぐのである。
森を背にした北側の高棧敷には、大殿を始め一門のもの數を盡して座を列らね、大殿自ら評決を與ふるといふので、騎手の勇み樣も格別である。老女の計らひによつて手古奈も母と共に高棧敷の一隅に顯はれた。手古奈の姿が此棧敷に顯はれた時二百の騎士は勿論、見物一切の視線はそこに集注された。手古奈の姿が美しいからといふ許りではない。此馬競べが濟めば手古奈は若殿忍男の戀妻として館に迎へらるゝといふことが隱れなく知れ渡つて居るからである。手古奈に寸分得意らしき風の無かつた事と、忍男が手古奈の居るをば殆んど知らざるものゝ如き風ありし事が大いに騎士中に評判がよかつた。太都夫の赤袍、丹濃の黄袍、少歳の緑袍、皆それ/″\に人柄にかなつて、衆目を引いた。太都夫も丹濃も今は手古奈を及ばぬ戀と諦らめ別に言ひ交はした人さへ出來た位だが、晴の場所に手古奈が見て居る前での勝負には、容易ならぬ勵みを持つて、心底に必勝を誓つて居る。太都夫の如きは命に替へてもと神に念じつゝある決心の色はおのづから人の目にもつくほど故、以心傅心に騎士全體の氣を引き立て其氣組の旺なことは實に空前のことゝいふ有樣であつた。
高棧敷の正面馬場の中央に一より四迄四箇の的が立てられた。馬場の中心より各三十間を隔てゝ一が藁人形竝の人だけありて、胸の中心を射たるを甲とし以下四つの階級を附す。二は尋常の楯にて是れも中央の墨點を射たるを甲として四つの等級を附す。三は雁形の鳥的を絲にて釣れるもの 是には等級なく四は鐵楯である 是は矢を立てたるを成功者となす 點數等しければ姿勢のよろしきを上となすの定めである。一組四人宛一週一回の放矢なれば馬場四週して一組の勝負を終る。
白袍白馬の老縣主が靜々と評決場に顯はれて第三の太鼓は鳴つた。待ちに待つた定めの騎士は赤袍を先とし黄青緑と順を逐うて左方より疾騙して場に出づれば、評決場より直に相圖の旗を擧ぐる。同時に騎士は矢を番へて弓を張る。馬は飛躍つて走馳して來る。第一回の勝負は四箇の的に三箇を命中したるもの一人二箇に命中したるもの一人、他は僅に一箇を射得たるのみ。評決所は一に一々矢を調べて優劣を録するのである。かくて水車の廻る如くに十回二十回と繰返し、其日夕刻迄に遂に五十回を決行し得たは實に盛なものであつた。
忍男はさすがに若殿の資格を以て、服裝も一際目立つた綾織の白袍に駒は紅もて染めたらん如き駿馬である。黄金作りの太刀打佩き白檀弓豐かに單騎の射撃を試みる。一回化粧乘をして二回目に矢をつがへた。三回四回と見事に矢を立て五回目に例の最も至難なる鐵楯に、鳴を響かして矢の立つた時は、萬衆一時に歡賞の聲を揚げた。
手古奈は忍男の望みを諾しては居るものゝ、どうしても餘儀ないからといふ風は見える。小室に對する口實許りでなく、眞に餘儀ないからと思うて居るらしい。それと知つての母の心配は一通りではない。今日も母は手古奈の樣子に少しも目を離さぬのであつた。忍男の矢が最後の鐵楯に立つて歡呼の聲の湧き立つた時には、さすがに手古奈も眞から嬉しさうな笑を漏らし、さうしてすぐに其悦びの羞を氣づいたか、半顏を袂に隱した。此手古奈の素振は母を悉く安心させた。
賤しきものゝ女を若殿の物好にも困る位に考へて居た老女も、今日萬人の中にあつて愈光あるさまの手古奈を見て悦びの心躍りが包みきれぬのであつた。
最後の騎射が濟むと間もなく、恩賞の評決が直に發表される。日置忍男第一物部太都夫第二物部丹濃第三物部少歳第四といふ順であるべきを、老女はかねて心得あるものから、恩賞望みのまゝとの口約に依り若殿には別に望みの存する旨を申し立てた。老縣主は悦びに堪へざる面持にて、よしよしさらば物部太都夫第一物部丹濃第二と順を逐ふべしと決定して今日の馬競べも大滿足を以て終りを告げた。太都夫丹濃の二人は從令其戀は協はずとも其戀人の前にて、是程の晴業を遂げたは人には知られぬ愉快であつた。
即夜大殿より許しがあつて、忍男手古奈の婚儀は月を經ず行ふ事となつた。