2話 〔政治は国民の反響なり〕
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術には天才もあるが、これには何でも稽古しなければいかぬ。学ばなければいかぬものである。この政治も実をいうと、よほど経済的に少なく労して多く収めることを主にしなければいかぬ。政治はある意味から言えば、専門に相違ない。専門には相違ないが、例えば芝居を見ても団十郎とか菊五郎とかいう名人がおっても、これを批評するものがないとその真の技倆は分らない。見物の目がこれを見るだけの明がなくては仕方がないわけである。それを褒めないで、却って壮士芝居の方が面白いというようなことになる。これはつまり批評家がないからである。有ってもその批評が悪いからである。何でも人の上に働く術はそういうもので、批評家が悪いと如何に巧妙なる術を行っても一向それが分らぬ。これを嫉妬心よりして言うと拙ないと言うて笑う。
予は今日日本のすべての政治的国民の心理が甚だ幼稚であると思わざるを得ないのである。こう言うと自分がえらそうに聞えるが、見物人が甚だ度が低い。その度の低いところには如何なる天才も術を施すところがないと思う。ここに於て平凡な話であるが、政治は国民の反響なりといわなければならぬ。かの支那で民主国を拵えた。しかしながら、事実支那人はなんらそういうことの考えはない。それで直ぐ革命も失敗してしまった。かくの如く国民の心理が発達せずして批評家が幼稚なるは何に基するかというと、教育が悪いからである。教育が悪いに依って高尚なる意味に於ける政治が出来よう訳がない。政治家が起らぬ。芸術家が起らぬ。而してすべての事が段々卑近になって来る。思想界に一度病が起ると、文学でも画でも甚だ卑猥なるものが流行して来る。政治もまた同様で、政治家が段々堕落する。これは政治家も悪いに相違ないが、批評家が悪いのである。この批評家が盛んに起って来て、初めて政治という術を行う人の技倆が現れて来るのである。
さて今日の教育は段々進んでは来た。それに従ってよほど学問は進んだが、しかしながらこの政治団体たる国家、政治の舞台、政治の芝居に於て役者がその術を行うに当って、なんら批評をしない。即ち高い意味に於て批評することをしない。これではとても善い政治の出来よう道理がない。今日、日本の状態はどうもそういう有様ではないかと思う。我輩は果して技倆があるかどうか知らんが、自己自らの自信はある。大いなる自信力をもっている。而して一般の批評眼はどうかというと、甚だ浅薄な卑近なものの外にはない。その証拠には去る一週間の臨時議会に現れたところの種々の質問を見ると、実に驚くべき批評である。これではとても善い政治を望むことは出来ないのである。
かつて昔西班牙を造る時分に、西班牙人は神に祈って、どうか西班牙という国は景色の好い、気候の好い国に拵えてもらいたいと言うと、神が宜しいと言ってその通りにした。次にはどうか美人を拵えてくれ、これも宜しいと承知した。次には善い政治を望みたいと言ったという。そういうような風で、今日のすべての社会は卑近なことが発達して来たのである。そういうことが発達すると、政治は段々悪くなるばかりだ。
この有様を見て、その批評をする新聞はどういう風であるかというと、新聞の批評も心を空しくして見れば、果して正確なる批評であるや否や。公論とかなんとか言うが、これは何に依って現れるかというと、新聞で現れるのが最も有効なものである。ところでそれで果して今日の輿論が成り立っているかというと、どうも成り立ってはいないように思う。社会の制裁があるかというと、なんら制裁はない。議会の質問を聞くと、盛んな議論である。道徳論も起った。しかし道徳論が起ると、よほど方角の違った論が起る。こういう次第で、今日紀綱が紊れて少しも振わない。而してこれに対する新聞の批評はどういう工合に現れているかというと、これもなんだか要領を得ないようである。これではどうも善い政治を望むことは出来ない。