白金之絵図

1話 白金之絵図(1)

6,428字 約13分 2007年3月9日 公開

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       一

 片側は空も曇って、今にも一村雨(ひとむらさめ)来そうに見える、日中(ひなか)も薄暗い森続きに、(うね)り畝り遥々(はるばる)と黒い柵を(めぐ)らした火薬庫の裏通(うらどおり)、寂しい(ところ)をとぼとぼと一人通る。

「はあ、これなればこそ()けれ、聞くも可恐(おそろ)しげな煙硝庫(えんしょうぐら)が、カラカラとして(はしゃ)いで、日が当っては大事じゃ。」

 と世に(うと)そうな独言(ひとりごと)

 大分日焼けのした顔色で、帽子を(かむ)らず、手拭(てぬぐい)を畳んで頭に()せ、半開きの白扇を額に(かざ)した……一方雑樹交りに干潟(ひがた)のような広々とした(はた)がある。(うり)は作らぬが近まわりに番小屋も見えず、稲が無ければ山田()僧都(そうず)もおわさぬ。

 雲から投出したような遣放(やりぱな)しの空地に、西へ廻った日の赤々と()す中に、大根の葉のかなたこなたに青々と伸びたを(なが)めて、

「さて世はめでたい、豊年の秋じゃ、つまみ菜もこれ太根(ふとね)になったよ。」

 と、一つ腰を()して、(つえ)がわりの繻子張(しゅすばり)蝙蝠傘(こうもりがさ)の柄に、何の禁厭(まじない)やら烏瓜(からすうり)真赤(まっか)な実、(あい)萌黄(もえぎ)とも五つばかり、(つる)ながらぶらりと提げて、コツンと()いて、面長で、人柄な、(あご)の細いのが、鼻の下をなお(のば)して、もう一息、(はげ)頂辺(てっぺん)へ扇子を(かざ)して、

「いや、見失ってはならぬぞ、あの、緑青色(ろくしょういろ)した(とび)が目当じゃ。」

 で、白足袋に穿込(はきこ)んだ日和下駄(ひよりげた)、コトコトと歩行(ある)き出す。

 年齢(とし)六十に余る、鼠と黒の万筋の(あわせ)に黒の三ツ紋の羽織、折目はきちんと正しいが、色のやや()せたを着、焦茶の織ものの帯を胴ぶくれに、懐大きく、腰下りに締めた、顔は()せた、が、目じしの落ちない、鼻筋の通ったお(じい)さん。

 眼鏡(めがね)はありませんか。緑青色の鳶だと言う、それは聖心女子院とか(とな)うる女学校の屋根に立った避雷針の矢の根である。

 もっとも鳥居(かず)(くぐ)っても、世智に()けてはいそうにない。

 ここに廻って来る途中、三光坂を(あが)った処で、こう云って(みち)を尋ねた……

率爾(そつじ)ながら、ちとものを、ちとものを。」

 問われたのは、ふらんねるの茶色なのに、白縮緬(しろちりめん)兵児帯(へこおび)を締めた(ひげ)の有る人だから、事が手軽に()かない。――但し大きな海軍帽を仰向(あおむ)けに(かぶ)せた二歳ぐらいの男の()を載せた乳母車を()いて、その坂路(さかみち)横押(よこおし)に押してニタニタと笑いながら歩行(ある)いていたから、親子の情愛は御存じであろうけれども、他人に路を()かれて喜んで教えるような江戸児(えどっこ)ではない。

 黙然(だんまり)で、眉と髭と、面中(つらじゅう)の威厳を緊張せしめる。

 老人もう一倍腰を(かが)めて、

「えい、この辺に聖人と申す学校がござりまする(はず)で。」

「知らん。」と、苦い顔で極附(きめつ)けるように云った。

「はッ、これはこれは御無礼至極な儀を、(まこと)御歩(おみあし)を留めました。」

 がたがたと下りかかる大八車を、ひょいと避けて、挨拶(あいさつ)に外した手拭も被らず、そのまま、とぼんと()く。(つむり)法体(ほったい)に対しても、余り冷淡だったのが気の毒になったのか。

「ああ聖心女学校ではないのかい、それなら有ッじゃね。」

「や、女子(おなご)の学校?」

「そうですッ。そして聖人ではない、聖心、(こころ)ですが。」

「いかさま、そうもござりましょう。実はせんだって通掛(とおりかか)りに見ました。聖、何とやらある故に、聖人と覚えました。いや、老人粗忽(そこつ)千万。」

 と照れたようにその頭をびたり……といった爺様(じいさま)なのである。

       二

 その女学校の門を通過ぎた処に、以前は草鞋(わらじ)でも()ら下げて売ったろう。葭簀張(よしずばり)ながら二坪ばかり(かこい)を取った茶店が一張(ひとはり)。片側に立樹の茂った空地の森を風情にして、如法(にょほう)の婆さんが煮ばなを商う。これは無くてはなるまい。あの、火薬庫を前途(まえ)にして目黒へ通う赤い道は、かかる秋の日も見るからに暑くるしく、並木の松が欲しそうであるから。

 老人は通りがかりにこれを見ると、きちんと畳んだ手拭で額の汗を()きながら、端の方の床几(しょうぎ)に掛けた。

「御免なさいよ。」

「はいはい、結構なお日和(ひより)でございます。」

「されば……じゃが、歩行(ある)くにはちと陽気過ぎますの。」

 と今時、珍しいまで(たしなみ)()い扇子を抜く。

「いえ、御隠居様、こうして日蔭に()りましても汗が出ますでございますよ。何ぞ、シトロンかサイダアでもめしあがりますか。」と商売は()れたもの。

「いやいや、老人(としより)の冷水とやら申す、馴れた口です。お茶を下され。」

「はいはい。」

 ちと横幅の広い、元気らしい婆さん。とぼけた手拭、片襷(かただすき)で、古ぼけた塗盆へ、ぐいと一つ形容の拭巾(ふきん)をくれつつ、

「おや、坊ちゃん、お嬢様。」と言う。

 十一二の(あみ)さげで、(そで)の長いのが、(あと)について、七八ツのが森の下へ、(うさぎ)と色鳥ひらりと入った。葭簀(ごし)に、老人はこれを透かして、

「ああ、その森の中は通抜けが出来ますかの。」

「これは、余所(よそ)のお(やしき)様の持地(もちじ)でございまして、はい、いいえ、小児衆(こどもしゅ)は木の実を拾いに入りますのでございますよ。」

「出口に迷いはしませんかの、見受けた処、なかなかどうも、奥が深い。」

「もう口許(くちもと)だけでございます。で、ございますから、(えのき)の実に団栗(どんぐり)ぐらい拾いますので、ずっと中へ入りますれば、栗も(しい)もございますが、よくいたしたもので、そこまでは、可恐(こわ)がって、お(ちいさ)いのは、おいたが出来ないのでございます。」

「ははあいかにもの。」

と、飲んだ茶と一緒に、したたか感心して、

「これぞ、自然(おのずから)なる要害、樹の根の乱杭(らんぐい)枝葉(えだは)逆茂木(さかもぎ)とある……広大な空地じゃな。」

「隠居さん、一つお買いなすっちゃどうです。」

 と唐突(だしぬけ)に云った。土方(てい)半纏着(はんてんぎ)が一人、床几は奥にも空いたのに、婆さんの居る腰掛を小楯(こだて)(しゃが)んで、梨の皮を()いていたのが、ぺろりと、白い横銜(よこぐわ)えに声を掛ける。

 真顔に、(じっ)と肩を細く、膝頭(ひざがしら)に手を置いて、

「滅相もない事を。老人若い時に覚えがあります。今とてもじゃ、足腰が丈夫ならば、飛脚なと致いて通ってみたい。ああ、それもならず……」

 と思入ったらしく歎息(ためいき)したので、成程、服装(みなり)とても秋日和の遊びと見えぬ。この老人(としより)の用ありそうな身過ぎのため、と見て取ると、半纏着は気を打って、悄気(しょげ)た顔をして、剥いて落した梨の皮をくるくると指に巻いて、つまらなく笑いながら、

「ははは、野原や、山路(やまみち)のような事を言ってなさらあ、ははは。」

「いやいや、まるで方角の知れぬ奥山へでも入ったようじゃ。昼日中提灯(ちょうちん)でも松明(たいまつ)でも()けたらばと思う気がします。」

 がっくりと俯向(うつむ)いて、

(つむり)ばかりは光れども……」

 つるりと()でた手、(ぼん)(くぼ)

「足許は(やみ)じゃが、のう。」と(しお)れた肩して膝ばかり、きちんと正しい扇を(しゃく)

 と、思わず釣込まれたようになって、二人とも何かそこへ落ちたように、きょろきょろと土間を《みまわ》す。葭簀(よしず)の屋根に二葉三葉。森の影は床几に迫って、雲の白い蒼空(あおぞら)から、()の実が降って来たようであった。

       三

 半纏着は、急に日が蔭ったような足許(あしもと)から、目を上げて、()げた老人(としより)(つむり)と、手に持った梨の実の白いのを見較べる。

 婆さんが口を出して、

「御隠居様は御遠方でいらっしゃるのでございますか。」

下谷(したや)じゃ。」

「そいつあ遠いや、電車でも御大抵じゃねえ。へい、そしてどちらへお越しになるんで。」

「いささかこの(あたり)へ用事があっての。当年たった一度、極暑(ごくしょ)(みぎり)参ったばかり、一向に覚束(おぼつか)ない。その節通りがかりに見ました、(おおき)な学校を(あて)にいたした処、唯今(ただいま)立寄って見れば門が違うた。」

 腕を(のば)して、来た方を(ゆびさ)すと共に、(ひとし)く扇子を膝に()いて身体(からだ)ごと向直る……それにさえ一息して、

「それは表門でござった……坂も広い。私が覚えたのは、もそっと道が狭うて、急な上坂(のぼりざか)の中途の処、煉瓦塀(れんがべい)が火のように赤う見えた。片側は一面な野の草で、(いき)れの可恐(おそろし)い処でありましたよ。」

「それは裏門でございますよ。道理こそ、この森を抜けられまいか、とお尋ねなさった、お目当は違いませぬ。森の中から背面(うしろ)大畠(おおばたけ)が抜けられますと道は近うございますけれども、空地でもそれが出来ませんので、これから、ずっと煙硝庫(えんしょうぐら)の黒塀について、(のぼ)ったり、(くだ)ったり、大廻りをなさらなければなりませぬ。何でございますか、女学校に御用事はございませんか。それだと表門でも用は足りましょうでござりますよ。」と婆さんは一度掛けた腰掛をまた立って、森を(のぞ)いたり、(とおり)()たり。

「いやいや、そこを目当に、別に尋ねます処があります。」

「ちゃんとわかっているんですかい、おいでなさる先方(さき)ってのは。こう寂しくって疎在(まばら)でね、(うち)の分りにくい処ですぜ。」と、煙草(たばこ)盆は有るものを、口許で燐寸(マッチ)を《ぱっ》、と目を細うして仰向(あおむ)いて、半分消しておいた煙草をつける。

「余り確かでもないのでの。また家は分るにしてもじゃ。」

 と扇子を倒すのと、片膝力なく叩くのと、打傾くのがほとんど一緒で、

仔細(しさい)なく当方の願が届くかどうかの、さて、」

 と沈む……近頃見附けた縁類へ、無心合力にでも()きそうに聞えて、

「何せい、煙硝庫と聞いたばかりでも、清水が()くようではない。ちと(あらた)まっては出たれども、また一つ山を越すのじゃ、御免を(こうむ)る。一度羽織を脱いで参ろう。ああ、いやお婆さん、それには及ばぬ。」

 紋着(もんつき)の羽織を脱いだのを、本畳みに、スーッスーッと襟を()して、ひらりと焦茶の(ひも)(さば)いて、(もつ)れたように手を控え、

扮装(いでたち)ばかり凜々(りり)しいが、足許はやっぱり暗夜(やみ)じゃの。」と(すそ)も暗いように、また陰気。

 半纏着は腕組して、

「まったく、足許が悪いんですかい、(おぶ)って()く事もならねえしと……隠居さん、提灯(ちょうちん)でも上げてえようだ。」

「夜だとほんとうにお貸し申すんだがねえ。」

「どうですえ、その森ン中の暗い枝に、烏瓜ッてやつが(とも)っていまさあ。真紅(まっか)なのは提灯みたいだ。ねえ、持っておいでなさらねえか、何かの禁厭(おまじない)になろうも知れませんや。」

「はあ、烏瓜の提灯か。」

 目を(つむ)って、

「それも一段の趣じゃが、まだ持って出たという(ためし)を聞かぬ。」と羽織を脱いでなお()せた二の腕を扇子で(さす)る。

       四

凍傷(しもやけ)の薬を売ってお歩行(ある)きなさりはしまいし、人。」

 と婆さんは、老いたる客の真面目なのを気の毒らしく、半纏着の背中を立身(たちみ)(おさ)えて、

()い加減な、前例(ためし)にも禁厭(まじない)にも、烏瓜の提灯(ちょうちん)だなんぞと云って、狐が(とぼ)すようじゃないかね。」

「狐が点す……何。」

 と顔を(おお)うた(しわ)を払って、雲の晴れた目を《みは》る、と水を切った光が添った。

「何、狐が点すか。面白い。」

 扇子を(さっ)と胸に開くと、懐中(ふところ)を広く身を正して、

「どれ、どこに……おお、あの葉がくれに(とぼ)れて(あか)いわ。お職人、いい事を云って下さった。どれ一つぶら下げて参るとします。」

「ああ、隠居さん、気に入ったら(わっし)(ひっ)ちぎって持って来らあ。……串戯(じょうだん)にゃ言ったからって、お年寄(としより)のために働くんだ。先祖代々、これにばかりは叱言(こごと)を言うめえ、どっこい。」と立つ。

 老人(としより)は肩を()んで、(こうべ)を下げ、

「これは何ともお手を頂く。」

「何の、隠居さん、なあ、おっかあ、今日は父親(おやじ)の命日よ。」

 と、葭簀(よしず)を出る、と入違いに境界の柵の(ゆる)んだ鋼線(はりがね)(また)ぐ時、(たばこ)(いきおい)よく、ポンと投げて、裏つきの(やぶれ)足袋、ずしッと草を踏んだ。

 紅いその実は高かった。

 音が、かさかさと此方(こなた)に響いて、樹を抱いた半纏は、梨子(なし)を食った(けもの)のごとく、向顱巻(むこうはちまき)で葉を分ける。

「気を付きょうぞ。(わか)い人、落ちまい……」と伸上る。

「大丈夫でございますよ。電信柱の突尖(とっさき)へ腰を掛ける人でございますからね。」

「むむ、侠勇(いさみ)じゃな……杖とも柱とも思うぞ、老人、その狐の提灯で道を(てら)す……」

可厭(いや)ではございませんかね、この真昼間(まっぴるま)。」

「そこが縁起じゃ、禁厭(まじない)とも言うのじゃよ、金烏玉兎(きんうぎょくと)と聞くは――この赫々(あかあか)とした日輪の中には三脚の(からす)()むと言うげな、日中(ひなか)の道を照す、老人が、暗い心の補助(おぎない)に、烏瓜の(ともしび)は天の与えと心得る。難有(ありがた)い。」と(たなそこ)を額に(かざ)す。

 婆さんは希有(けう)な顔して、

「でも、狐火(きつねび)か何ぞのようで、薄気味が悪いようでございますね。」

「成程、……狐火、……それは耳より。ふん……かほどの森じゃ、狐も()ろうかの。」

「ええ、で、ございますのでね、……居りますよ。」

「見たか。」

(ぜん)には、それは見たこともございますとも。」

 老人これを聞くと腰を入れて、

「ああ、たのもしい。」

「ええ……」

 と退(しさ)った、今のその……たのもしい老人の声の力に()されたのである。

「さて、鳴くか。」

「へい?……」

「やはりその、」

 と張肱(はりひじ)になった呼吸(いき)を胸に、下腹(したはら)を、ずん、と据えると、

「カーン! というて?」

 どさりと樹から下りた音。瓜がぶらり、赤く宙に動いて、カラカラと森に響く。

 婆さんの顔を見よ。

 半纏着が飛んで帰って、同じくきょとつく目を合せた。

「驚いた……烏が一斉(いっとき)に飛びやあがった。何だい、今の、あの声は。……烏瓜を《もぎ》っただけで下りりゃ()いのに、何だかこう、樹の枝に、(きのこ)があったもんだから。」

       五

「これ、これ、いやさ、これ。」

「はあ、お呼びなされたは(てまえ)の事で。」

 と、羽織の紐を、両手で結びながら答えたのは先刻(さっき)の老人。一方青煉瓦(あおれんが)の、それは女学校。片側波を打った亜鉛塀(トタンべい)に、ボヘミヤ人の数珠のごとく、烏瓜を引掛(ひっか)けた、(くだん)繻子張(しゅすばり)(もた)せながら、畳んで懐中(ふところ)に入れていた、その羽織を引出して、今着直した処なのである。

 また妙な処で御装束。

 雷神山の急昇りな坂を(あが)って、一畝(ひとうね)り、町裏の路地の隅、およそ礫川(こいしかわ)工廠(こうしょう)ぐらいは空地(くうち)を取って、周囲(ぐるり)はまだも広かろう。町も世界も離れたような、一廓(ひとくるわ)蒼空(あおぞら)に、老人がいわゆる緑青色の(とび)の舞う聖心女学院、西暦を算して紀元幾千年めかに相当する時、その一部分が武蔵野の丘に開いた新開の町の一部分に接触するのは、ただここばかりかも知れぬ。外廓(がいかく)のその煉瓦と、角邸(かどやしき)の亜鉛塀とが向合って、道の幅がぎしりと狭い。

 さて、その青鳶(あおとび)も樹に(とま)った(てい)に、四階造(しかいづくり)窓硝子(まどがらす)の上から順々、日射(ひざし)晃々(きらきら)と数えられて、仰ぐと避雷針が真上に見える。

 この突当りの片隅が、学校の通用門で、それから、ものの半町程、両側の家邸。いずれも雑樹林や、(はた)を抱く。この荒地(あれち)の、まばら垣と向合ったのが、火薬庫の長々とした塀になる。――人通りも何にも無い。地図の上へ鉛筆で楽書(らくがき)したも同然な道である。

 そこを――三光坂上の葭簀張(よしずばり)を出た――この老人はうら(がれ)を摘んだ(かご)をただ一人で手に提げつつ、曠野(あらの)の路を辿(たど)るがごとく、烏瓜のぽっちりと赤いのを、蝙蝠傘(こうもりがさ)(から)めて()いて、青い鳶を目的(めあて)に、扇で日を避け、日和下駄を踏んで、大廻りに、まずその寂しい町へ入って来たのであった。

 いや、火薬庫の暗い森を背中から離すと、邸構えの寂しい町も、桜の落葉に日が燃えて、梅の枝にほんのりと薄綿の霧が薫る……百日紅(さるすべり)の枯れながら、二つ三つ咲残ったのも、何となく思出(おもいで)の暑さを見せて、世はまださして秋の末でもなさそうに心強い。

 そこをあちこち、(のぞ)いたり、()たり、立留(たちどま)ったり、考えたり、庭前(にわさき)、垣根、格子の中。

「はてな。」

 屋の棟を仰いだり、後退(あとずさ)りをまたしてみたり。

(たしか)に……」

 歩行(あるき)出して、

「いや、待てよ……」

 と首を(すく)めて、こそこそと立退(たちの)いたのは、日当りの()い出窓の前で。

「違うかの。」と独言(ひとりごと)。変に、跫音(あしおと)を忍ぶ形で、そのまま通過ぎると、女学校のその通用門を正面(まとも)に見た。

「このあたり……ああ緑青色の鳶じゃ、待て、待て、念のためよ。」

 あの、輝くのは目ではないか、もし、それだと、一伸(ひとの)しに(さら)って持って()かれよう。金魚の木伊乃(みいら)に似たるもの、狐の提灯、烏瓜を、(あらた)めて、蝙蝠傘の柄ぐるみ、ちょうと腕長に前へ突出し、

「迷うまいぞ、迷うな。」

 と云い云い……(これ、これ、いやさ、これ。……)ここに言咎(いいとが)められている処は、いましがた一度通ったのである。

 そこを通って、両方の塀の間を、鈍い稲妻形に(うね)って、狭い四角(よつかど)から坂の上へ、にょい、と皺面(しわづら)を出した……

 坂下の下界の住人は驚いたろう。山の(おじ)が雲から(のぞ)く。眼界濶然(かつぜん)として目黒に(ひら)け、大崎に伸び、伊皿子(いさらご)かけて一渡り麻布(あざぶ)を望む。烏は(かもめ)が浮いたよう、遠近(おちこち)の森は晴れた島、目近(まぢか)き雷神の一本の大栂(おおとが)の、旗のごとく、(つるぎ)のごとく(そび)えたのは、巨船天を摩す柱に似て、屋根の浪の風なきに、泡の(しぶき)か、白い小菊が、ちらちらと日に輝く。白金(しろがね)の草は深けれども、君が住居(すまい)と思えばよしや、玉の(うてな)は富士である。

       六

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