4話 白金之絵図(4)
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「そして、別にお触りはございませんの。おとしよりが、こんなに、まあ、御苦労を遊ばして。」
「いや、老人、胸が、むず痒うて、ただ身体の震えまする外、ここに参ってからはまた格別一段の元気じゃ、身体は決してお案じ下さりょう事はない。かえって何かの悟を得ようと心嬉しいばかりでござる。が、御母堂様は。」
「母はね、お爺様、寝ましたきり、食が細って困るんです。」
「南無三宝。」
「今夜は、ちと更けましてから、それでも蕎麦かきをして食べてみよう、とそう言いましてね、ちょうど父の在所から届きました新蕎麦の粉がありましたものですから、私が枕頭で拵えました。父は、あの一晩泊りにその在へ参って留守なのです。母とまた、お爺様、貴老の事をそう申して……きっとお社においでなさるに違いない、内へお迎えをしたいんですけれど、ああ云った父の手前、留守ではなおさら不可ません。」
「おおおお、いかにも。」
「蕎麦かきは暖ると申します。差上げたらば、と母と二人でそう申しましてね、あの、ここへ持って参りました。おかわりを添えてございますわ。お可厭でなくば召上って下さいましな。」
「や、蕎麦掻を……されば匂う。来世は雁に生りょうとも、新蕎麦と河豚は老人、生命に掛けて好きでござる。そればかりは決して御辞儀申さぬぞ。林間に酒こそ暖めませぬが、大宮人の風流。」
と露店でも開くがごとく、与五郎一廻りして毛布を拡げて、石段の前の敷石に、しゃんと坐る、と居直った声が曇った。
また魅せられたような、お町も、その端へ腰を下して、世帯ぶった手捌きで、白いを取ったは布巾である。
与五郎、盆を前に両手を支き、
「ああ、今夜唯今、与五郎芸人の身の冥加を覚えました。……ついては、新蕎麦の御祝儀に、爺が貴女に御伽を話す。……われら覚えました狂言の中に、鬼瓦と申すがあっての、至極初心なものなれども、これがなかなかの習事じゃ。――まず都へ上って年を経て、やがて国許へ立帰る侍が、大路の棟の鬼瓦を視めて、故郷に残いて、月日を過ごいた、女房の顔を思出で、絶て久しい可懐さに、あの鬼瓦がその顔に瓜二つじゃと申しての、声を放って泣くという――人は何とも思わねども、学問遊ばし利発な貴女じゃ、言わいでも分りましょう。絵なり、像なり、天女、美女、よしや傾城の肖顔にせい、美しい容色が肖たと云うて、涙を流すならば仔細ない。誰も泣きます。鬼瓦さながらでは、ソッとも、嘘にも泣けませぬ。
泣け! 泣かぬか! 泣け、と云うて、先師匠が、老人を、月夜七晩、雨戸の外に夜あかしに立たせまして、その家の、棟の瓦を睨ませて、動くことさえさせませなんだ。
十六夜の夜半でござった。師匠の御新造の思召とて、師匠の娘御が、ソッと忍んで、蕎麦、蕎麦かきを……」
と言が途絶え、膝に、しかと拳を当て、
「袖にかくして持ってござった。それを柿の樹の大な葉の桐のような影で食べました。鬼瓦ではなけれども、その時に涙を流いて、やがて、立って、月を見れば、棟を見れば、鬼瓦を見れば、ほろほろと泣けました。
さて、その娘が縁あって、われら宿の妻に罷成る、老人三十二歳の時。――あれは一昨年果てました。老の身の杖柱、やがては家の芸のただ一人の話対手、舞台で分別に及ばぬ時は、師の記念とも存じ、心腹を語ったに――いまは惜からぬ生命と思い、世に亡い女房が遺言で、止めい、と申す河豚を食べても、まだ死ねませぬは因果でござるよ。
この度の釣狐も、首尾よく化澄まし、師匠の外聞、女房の追善とも思詰めたに、式のごとき恥辱を取る。
さて、申すまじき事なれども、せんだって計らずもおがみました、貴方のお姿、お顔だちが、さてさて申すまじき事なれども、過去りました、あの、そのものに、いやいや貴女、令嬢、貴女とは申すまい、親御でおわす母君が。いやいや……恐多い申すまい。……この蕎麦掻が、よう似ました。……
やあ、雁が鳴きます。」
「おお、……雁が鳴く。」
与五郎は、肩をせめて胸をわななかして、はらはらと落涙した。
「お爺様、さ、そして、懐炉をお入れなさいまし、懐中に私が暖めて参りました。母も胸へ着けましたよ。」
「ええ!」と思わず、皺手をかけたは、真綿のようなお町の手。
「親御様へお心遣い……あまつさえ外道のような老人へ御気扱、前お見上げ申したより、玉を削って、お顔にやつれが見えます。のう……これは何をお泣きなさる。」
「胸がせまって、ただ胸がせまって――お爺様、貴老がおいとしゅうてなりません。しっかり抱いて上げたいわねえ。」と夜半に莟む、この一輪の赤い花、露を傷んで萎れたのである。
人は知るまい。世に不思議な、この二人の、毛布にひしと寄添ったを、あの青い石の狐が、顔をぐるりと向けて、鼻で覗いた……
「これは……」
老人は懐炉を取って頂く時、お町が襟を開くのに搦んで落ちた、折本らしいものを見た。
「……町は基督教の学校へ行くんですが、お導き申したというお社だし、はじめがこの絵図から起ったのですから、これをしるしにお納め申して、同じに願掛をしてお上げなさいと、あの母がそう申します。……私もその心で、今夜持って参りましたよ。」
与五郎野雪、これを聞くと、拳を握って、舞の構えに、正しく屹と膝を立てて、
「むむ、いや、かさねがさね……たといキリシタンバテレンとは云え、お宗旨までは尋常事ではない。この事、その事。新蕎麦に月は射さぬが、暗は、ものじゃ、冥土の女房に逢う思。この燈火は貴女の導き。やあ、絵図面をお展き下され、老人思う所存が出来た!」
と熟と《みは》った、目の冴は、勇士が剣を撓むるがごとく、袖を抱いてすッくと立つ、姿を絞って、じりじりと、絵図の面に――捻向く血相、暗い影が颯と射して、線を描いた紙の上を、フッと抜け出した足が宙へ。
「カーン。」と一喝。百にもあまる朱の鳥居を一飛びにスーッと抜ける、と影は燈に、空を飛んで、梢を伝う姿が消える、と谺か、非ずや、雷神坂の途半ばのあたりに、暗を裂く声、
「カーン。」と響いた。
「あれえ。」
「いや、怪いものではありません。」
「老人の夥間ですよ。」
社の裏を連立って、眉目俊秀な青年二人、姿も対に、暗中から出たのであった。
「では、やっぱりお狂言の?……」
「いや、能楽の方です。――大師匠方に内弟子の私たち。」
「老人の、あの苦心に見倣え、と先生の命令で出向いています。」
と、斉しく深くした帽子を脱いで、お町に礼して、見た顔の、蝋燭の灯に二人の瞼が露に濡れていた。
「若先生。」
「おお大沼さん。」
「貴方もかい。」
大沼善八は、靴を穿いた、裾からげで、正宗の四合壜を紐からげにして提げていた。
「対手が、あの意気込じゃあ、安閑としていられません。寒い!(がたがたと震えて、)いつでもお爺さんに河豚鍋のおつきあいで嘲笑われる腹癒せに、内証で、……おお、寒! ちびちびと敵を取ろうと思ったが、恐入って飲めんのでした。――お嬢さん、貴女は、氏神でおいでなさる。」
大正五(一九一六)年一月