白金之絵図

4話 白金之絵図(4)

2,842字 約6分 2007年3月9日 公開

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「そして、別にお(さわ)りはございませんの。おとしよりが、こんなに、まあ、御苦労を遊ばして。」

「いや、老人、胸が、むず(がゆ)うて、ただ身体(からだ)の震えまする外、ここに参ってからはまた格別一段の元気じゃ、身体(からだ)は決してお案じ下さりょう事はない。かえって何かの(さとり)を得ようと心嬉しいばかりでござる。が、御母堂様は。」

「母はね、お爺様、寝ましたきり、食が細って困るんです。」

南無三宝(なむさんぽう)。」

「今夜は、ちと更けましてから、それでも蕎麦(そば)かきをして食べてみよう、とそう言いましてね、ちょうど父の在所から届きました新蕎麦の粉がありましたものですから、私が枕頭(まくらもと)(こしら)えました。父は、あの一晩泊りにその在へ参って留守なのです。母とまた、お爺様、貴老(あなた)の事をそう申して……きっとお(やしろ)においでなさるに違いない、内へお迎えをしたいんですけれど、ああ云った父の手前、留守ではなおさら不可(いけ)ません。」

「おおおお、いかにも。」

「蕎麦かきは(あたたま)ると申します。差上げたらば、と母と二人でそう申しましてね、あの、ここへ持って参りました。おかわりを添えてございますわ。お可厭(いや)でなくば召上って下さいましな。」

「や、蕎麦(かき)を……されば匂う。来世は(かり)(うま)りょうとも、新蕎麦と河豚(ふぐ)は老人、生命(いのち)に掛けて好きでござる。そればかりは決して御辞儀申さぬぞ。林間に酒こそ暖めませぬが、大宮人(おおみやびと)の風流。」

 と露店でも開くがごとく、与五郎一廻りして毛布(けっと)を拡げて、石段の前の敷石に、しゃんと坐る、と居直った声が曇った。

 また魅せられたような、お町も、その端へ腰を下して、世帯ぶった手捌(てさば)きで、白いを取ったは布巾である。

 与五郎、盆を前に両手を()き、

「ああ、今夜唯今、与五郎芸人の身の冥加(みょうが)を覚えました。……ついては、新蕎麦の御祝儀に、(じい)が貴女に御伽(おとぎ)(もう)す。……われら覚えました狂言の中に、鬼瓦(おにがわら)と申すがあっての、至極初心なものなれども、これがなかなかの習事(ならいごと)じゃ。――まず都へ上って年を経て、やがて国許(くにもと)へ立帰る侍が、大路の棟の鬼瓦を(なが)めて、故郷(さと)に残いて、月日を過ごいた、女房の顔を思出(おもいい)で、(たえ)て久しい可懐(なつかし)さに、あの鬼瓦がその顔に瓜二つじゃと申しての、声を放って泣くという――人は何とも思わねども、学問遊ばし利発な貴女じゃ、言わいでも分りましょう。絵なり、(すがた)なり、天女、美女、よしや傾城(けいせい)肖顔(にがお)にせい、美しい容色(きりょう)()たと云うて、涙を流すならば仔細(しさい)ない。誰も泣きます。鬼瓦さながらでは、ソッとも、嘘にも泣けませぬ。

 泣け! 泣かぬか! 泣け、と云うて、先師匠が、老人を、月夜七晩、雨戸の外に夜あかしに立たせまして、その家の、棟の瓦を(にら)ませて、動くことさえさせませなんだ。

 十六夜(いざよい)の夜半でござった。師匠の御新造の思召(おぼしめし)とて、師匠の娘御が、ソッと忍んで、蕎麦、蕎麦かきを……」

 と(ことば)が途絶え、膝に、しかと(こぶし)を当て、

「袖にかくして持ってござった。それを柿の樹の(おおき)な葉の桐のような影で食べました。鬼瓦ではなけれども、その時に涙を流いて、やがて、立って、月を見れば、棟を見れば、鬼瓦を見れば、ほろほろと泣けました。

 さて、その娘が縁あって、われら宿の妻に罷成(まかりな)る、老人三十二歳の時。――あれは一昨年(おととし)果てました。(おい)の身の杖柱、やがては家の芸のただ一(にん)の話対手(あいて)、舞台で分別に及ばぬ時は、師の記念(かたみ)とも存じ、心腹を語ったに――いまは(おし)からぬ生命(いのち)と思い、世に亡い女房が遺言で、()めい、と申す河豚を食べても、まだ死ねませぬは因果でござるよ。

 この度の釣狐も、首尾よく化澄(ばけす)まし、師匠の外聞、女房の追善とも思詰(おもいつ)めたに、(かた)のごとき恥辱を取る。

 さて、申すまじき事なれども、せんだって計らずもおがみました、貴方(あなた)のお姿、お顔だちが、さてさて申すまじき事なれども、過去りました、あの、そのものに、いやいや貴女(あなた)令嬢(おあねえさま)、貴女とは申すまい、親御でおわす母君が。いやいや……(おそれ)多い申すまい。……この蕎麦掻が、よう似ました。……

 やあ、(がん)が鳴きます。」

「おお、……(かり)が鳴く。」

 与五郎は、肩をせめて胸をわななかして、はらはらと落涙した。

「お爺様、さ、そして、懐炉(かいろ)をお入れなさいまし、懐中(ふところ)(わたくし)が暖めて参りました。母も胸へ着けましたよ。」

「ええ!」と思わず、皺手(しわで)をかけたは、真綿のようなお町の手。

「親御様へお心遣い……あまつさえ外道(げどう)のような老人へ御気扱(おきあつかい)(ぜん)お見上げ申したより、玉を削って、お顔にやつれが見えます。のう……これは何をお泣きなさる。」

「胸がせまって、ただ胸がせまって――お爺様、貴老(あなた)がおいとしゅうてなりません。しっかり抱いて上げたいわねえ。」と夜半(よなか)(つぼ)む、この一輪の赤い花、露を(いた)んで(しお)れたのである。

 人は知るまい。世に不思議な、この二人の、毛布(けっと)にひしと寄添(よりそ)ったを、あの青い石の狐が、顔をぐるりと向けて、鼻で(のぞ)いた……

「これは……」

 老人は懐炉を取って頂く時、お町が襟を開くのに(から)んで落ちた、折本らしいものを見た。

「……町は基督(キリスト)教の学校へ()くんですが、お導き申したというお社だし、はじめがこの絵図から起ったのですから、これをしるしにお納め申して、(おんな)じに願掛(がんかけ)をしてお上げなさいと、あの母がそう申します。……私もその心で、今夜持って参りましたよ。」

 与五郎野雪、これを聞くと、(こぶし)を握って、舞の構えに、正しく(きっ)と膝を立てて、

「むむ、いや、かさねがさね……たといキリシタンバテレンとは云え、お宗旨までは尋常事(ただごと)ではない。この事、その事。新蕎麦に月は()さぬが、(やみ)は、ものじゃ、冥土の女房に逢う(おもい)。この燈火(あかり)は貴女の導き。やあ、絵図面をお(ひら)き下され、老人思う所存が出来た!」

 と(じっ)と《みは》った、目の(さえ)は、勇士が(つるぎ)()むるがごとく、袖を抱いてすッくと立つ、姿を絞って、じりじりと、絵図の(おもて)に――捻向(ねじむ)く血相、暗い影が(さっ)()して、線を描いた紙の上を、フッと抜け出した足が宙へ。

「カーン。」と一喝。百にもあまる朱の鳥居を一飛びにスーッと抜ける、と影は(あかり)に、(くう)を飛んで、(こずえ)を伝う姿が消える、と(こだま)か、(あら)ずや、雷神坂の(みち)半ばのあたりに、(やみ)を裂く声、

「カーン。」と響いた。

「あれえ。」

「いや、(あやし)いものではありません。」

「老人の夥間(なかま)ですよ。」

 (やしろ)の裏を連立って、眉目俊秀(びもくしゅんしゅう)青年(わかもの)二人、姿も対に、暗中(くらがり)から出たのであった。

「では、やっぱりお狂言の?……」

「いや、能楽(のう)の方です。――大師匠方に内弟子の私たち。」

「老人の、あの苦心に見倣(みなら)え、と先生の命令(いいつけ)で出向いています。」

 と、(ひと)しく深くした帽子を脱いで、お町に礼して、見た顔の、蝋燭(ろうそく)()に二人の(まぶた)が露に濡れていた。

「若先生。」

「おお大沼さん。」

貴方(あなた)もかい。」

 大沼善八は、靴を穿()いた、裾からげで、正宗の四合壜(しごうびん)を紐からげにして提げていた。

対手(あいて)が、あの意気込じゃあ、安閑としていられません。寒い!(がたがたと震えて、)いつでもお爺さんに河豚鍋のおつきあいで嘲笑(あざわら)われる腹癒(はらい)せに、内証(ないしょ)で、……おお、寒! ちびちびと(かたき)を取ろうと思ったが、恐入って飲めんのでした。――お嬢さん、貴女は、氏神でおいでなさる。」

大正五(一九一六)年一月

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