3話 南地心中(3)
読み方を変える
「そこに私も居る、……知らぬ間に肥満女の込入ったのと、振向いた娘の顔とを等分に見較べて(和女、極が悪いやろ。そしたら私が方へ来て食りなはるか。ああ、そうしなはれ、)と莞爾々々笑う、気の可い男さ。(太いお邪魔にござります。)と、屈んで私に挨拶して、一人で合点して弁当を持ったまま、ずいと引退った。
娘がね、仕切に手を支くと、向直って、抜いた花簪を載せている、涙に濡れた、細り畳んだ手拭を置いた、友染の前垂れの膝を浮かして、ちょっと考えるようにしたっけ。その手拭を軽く持って、上気した襟のあたりを二つ三つ煽ぎながら、可愛い足袋で、腰を据えて、すっと出て行く。……
私は煙草がなくなったから、背後の運動場へ買いに出た。
余り見かねたから、背後向きになっていたがね、出しなに見ると、狂犬はそのまま膝枕で、例の鼾で、若い手代はどこへ立ったか居なかった。
西の運動場には、店が一つしかない。もう幕が開く処、見物は残らず場所へ坐直している、ここらは大阪は行儀が可いよ。それに、大人で、身の入った芝居ほど、運動場は寂しいもんです。
風は冷し、呼吸ぬきかたがた、買った敷島をそこで吸附けて、喫かしながら、堅い薄縁の板の上を、足袋の裏冷々と、快い心持で辷らして、懐手で、一人で桟敷へ帰って来ると、斜違に薄暗い便所が見えます。
そのね、手水鉢の前に、大な影法師見るように、脚榻に腰を掛けて、綿の厚い寝ン寝子で踞ってるのが、何だっけ、君が云った、その伝五郎。」
「ぼけましたよ、ええ、裟婆気な駕籠屋でした。」
「まったくだね、股引の裾をぐい、と端折った処は豪勢だが、下腹がこけて、どんつくの圧に打たれて、猫背にへたへたと滅入込んで、臍から頤が生えたようです。
十四五枚も、堆く懐に畳んで持った手拭は、汚れてはおらないが、その風だから手拭きに出してくれるのが、鼻紙の配分をするようさね、潰れた古無尽の帳面の亡者にそっくり。
一度、前幕のはじめに行って、手を洗った時、そう思った。
小さな銀貨を一個握らせると、両手で、頭の上へ押頂いて、(沢山に難有、難有、難有、)と懐中へ頤を突込んで礼をするのが、何となく、ものの可哀が身に染みた。
その爺さんがね、見ると……その時、角兵衛という風で、頭を動かす……坐睡りか、と思うと悶いたんだ。仰向けに反って、両手の握拳で、肩を敲こうとするが、ひッつるばかりで手が動かぬ。
うん、と云う。
や、老人の早打肩。危いと思った時、幕あきの鳴ものが、チャンと入って、下座の三味線が、ト手首を口へ取って、湿をくれたのが、ちらりと見える。
どこか、もの蔭から、はらはらと走って出たのはその娘で。
突然、爺様の背中へ掴まると、手水鉢の傍に、南天の実の撓々と、霜に伏さった冷い緋鹿子、真白な小腕で、どんつくの肩をたたくじゃないか。
青苔の緑青がぶくぶく禿げた、湿った貼の香のぷんとする、山の書割の立て掛けてある暗い処へ凭懸って、ああ、さすがにここも都だ、としきりに可懐く熟と視た。
そこへ、手水鉢へ来て、手を洗ったのが、若い手代――君が云う、その美少年の猿廻。」
十二
「急いで手拭を懐中へ突込むと、若手代はそこいらしきりに前後を《みまわ》した、……私は書割の山の陰に潜んでいたろう。
誰も居ないと見定めると、直ぐに、娘をわきへ推遣って、手代が自分で、爺様の肩を敲き出した。
二人はいい中で居るらしい、一目見て様子で知れる、」
「ほう、」
と唐突に声を揚げて、男衆は小溝を一つ向うへ跳んだ。初阪は小さな石橋を渡った時。
「私は旅行をした効があると思った。
声は届かないけれども、趣でよく分る。……両手を働かせながら、若手代は、顔で教えて、ここは可い、自分が介抱するから、あっちへ行って芝居を見るように、と勧めるんです。娘が肯かないのを、優しく叱るらしく見えると、あいあいと頷く風でね、老年を勦る男の深切を、嬉しそうに、二三度見返りながら、娘はいそいそと桟敷へ帰る。その竹の扉を出る時、ちょっと襟を合せましたよ。
私も帰った。
間もなく、何、さしたる事でもなかったろう。すぐに肩癖は解れた、と見えて、若い人は、隣の桟敷際へ戻って来て、廊下へ支膝、以前のごとし。……
真中へ挟った私を御覧。美しい絹糸で、身体中かがられる、何だか擽い気持に胸が緊って、妙に窮屈な事といったらない。
狂犬がむっくり、鼻息を吹直した。
(柿があるか、剥けやい、)と涎で滑々した口を切って、絹も膚にくい込もう、長い間枕した、妾の膝で、真赤な目を《みひら》くと、手代をじろり、さも軽蔑したように見て、(何しとる? 汝ゃ!)と口汚く、まず怒鳴った。
(何じゃ、返事を待った、間抜け。勘定欲い、と取りに来た金子なら、払うてやるは知れた事や。何吐す。……三百や五百の金。うんも、すんもあるものかい、鼻かんで敲きつけろ、と番頭にそう吐かせ。)
(はい、)と、手を支く。
(さっさと去ね、こない場所へのこのこと面出しおって、何さらす、去ねやい。)
(はい、)とそれでも用ずみ。前垂の下で手を揉みながら、手代が立って、五足ばかり行きかかると、
(多一、多一、)と呼んだ。若い人は、多一と云うんだ。
(待てい、)と云う。はっと引返して、また手を支くと、婦の膝をはらばいに乗出して、(何じゃな、向うから金子くれい、と使が来て店で待つじゃな。人寄越いたら催促やい。誰や思う、丸官、)と云ったように覚えている。……」
「ええ、丸田官蔵、船場の大金持です。」
「そうかね、(丸官は催促されて金子出いた覚えはない。へへん、)と云って、取巻の芸妓徒の顔をずらりと見渡すと、例の凄いので嘲笑って、軍鶏が蹴つけるように、ポンと起きたが、(寄越せ、)で、一人剥いていた柿を引手繰る、と仕切に肱を立てて、頤を、新高に居るどこかの島田髷の上に突出して、丸噛りに、ぼりぼりと喰かきながら、(留めちまえ、)と舞台へ喚く。
御寮人は、ぞろりと褄を引合せる。多一は、その袖の蔭に、踞っていたんだね。
するとね、くいほじった柿の核を、ぴょいぴょいと桟敷中へ吐散らして、あはは、あはは、と面相の崩れるばかり、大口を開いて笑ったっけ。
(鉄砲打て、戦争押始めろ。大砲でも放さんかい、陰気な芝居や、馬鹿、)と云うと、また急に、険しい、苦い、尖った顔をして、じろりと多一を睨みつけた。
(何しとる、うむ、)と押潰すように云います。
(それでは、番頭さんに、その通り申聞けますでございます、)とまた立って、多一が歩行き出すと(こら!)と呼んで呼び留めた。
(丁稚々々、)と今度は云うのさ。」
聞く男衆は歎息した。
「難物ですなあ。」
十三
「それからの狂犬が、条理違いの難題といっちゃ、聞いていられなかったぜ。
(汝ゃ、はいはいで、用を済まいた顔色で、人間並に桟敷裏を足ばかりで立って行くが、帰ったら番頭に何と言うて返事さらすんや。何や! 払うな、と俺が吩咐けたからその通り申します、と申しますが、呆れるわい、これ、払うべき金子を払わいで、主人の一分が立つと思うか。(五百円や三百円、)と大な声して、(端金子、)で、底力を入れて塗りつけるように声を密めて……(な、端金子を、ああもこうもあるものかい。俺が払うな、と言うたかて払え。さっさと一束にして突付けろ。帰れ! 大白痴、その位な事が分らんか。)
で、また追立てて、立掛ける、とまたしても、(待ちおれ。)だ。
(分ったか、何、分った、偉い! 出来す、)と云ってね、ふふん、と例の厭な笑方をして、それ、直ぐに芸妓連の顔をぎょろり。
(分ったら言うてみい、帰って何と返事をする、饒舌れ。一応は聞いておく。丸官後学のために承りたい、ふん、)と鼻を仰向けに耳を多一に突附けて、そこにありあわせた、御寮人の黄金煙管を握って、立続けに、ふかふか吹かす。
(判然言え、判然、ちゃんと口上をもって吐かせ。うん、番頭に、番頭に、番頭に、何だ、金子を払え?……黙れ! 沙汰過ぎた青二才、)と可恐い顔になった。(誰が?)と吠えるような声で、(誰が払えと言った。誰が、これ、五百円は大金だぞ!
丸官、たかを聞いてさえぶるぶるする。これ、この通り震えるわい。)で、胴肩を一つに揺り上げて、(大胆ものめが、土性骨の太い奴や。主人のものだとたかを括って、大金を何の糟とも思いくさらん、乞食を忘れたか。)
と言う。
目に涙を一杯ためて、(御免下さいまし、)と、退って廊下へ手を支くと、(あやまるに及ばん、よく、考えて、何と計らうべきか、そこへくい附いて分別して返答せい。……石になるまで、汝ゃ動くな。)とまた柿を引手繰って、かツかツと喰いかきながら、(止めちまえ、馬鹿、)と舞台へ怒鳴る。
(旦那様、旦那様、)多一が震声で呼んだと思え。
(早いな、汝がような下根な奴には、三年かかろうと思うた分別が、立処は偉い。俺を呼ぶからには工夫が着いたな。まず、褒美を遣る。そりゃ頂け、)と柿の蔕を、色白な多一の頬へたたきつけた。
(もし、御寮人様、)と熟と顔を見て、(どうしましたら宜しいのでございましょう、)と縋るようにして言ったか言わぬに、(猿曳め、汝ゃ、婦に、……畜生、)と喚くが疾いか、伸掛って、ピシリと雁首で額を打ったよ。羅宇が真中から折れた。
こちらの桟敷に居た娘が、誰より先に、ハッと仕切へ顔を伏せる、と気を打たれたか、驚いた顔をして、新高の、ちょうど下に居た一人商人風の男が、中腰に立って上を見た。
芸妓達も一時に振向いて目を合せた、が、それだけさ。多一が圧えた手の指から、たらたらと糸すじのように血の流れるのを見たばかり、どうにも手のつけようがなさそうな容子には弱ったね。おまけに知らない振をして、そのまま芝居を見る姉さんがあるじゃないか。
私は、ふいと立って、部屋へ帰った。
傍に居ちゃ、もうこっちが撮出されるまでも、横面一ツ打挫がなくッては、新橋へ帰られまい。が、私が取組合った、となると、随分舞台から飛んで来かねない友だちが一人居るんだからね。
頭痛がする、と楽屋へ横になったッきり、あとの事は知りません。道頓堀で、別に半鐘を打たなかったから、あれなり、ぐしゃぐしゃと消えたんだろう。
その婦だ、呆れたぐうたらだと思ったが、」
「もし、もし、」
と男衆が、初阪の袖を、ぐい、と引いた。
十四
歩行くともなく話しながらも、男の足は早かった。と見ると、二人から十四五間、真直に見渡す。――狭いが、群集の夥しい町筋を、斜めに奴を連れて帰る――二個、前後にすっと並んだ薄色の洋傘は、大輪の芙蓉の太陽を浴びて、冷たく輝くがごとくに見えた。
水打った地に、裳の綾の影も射す、色は四辺を払ったのである。
「やあ、居る……」
と、思わず初阪が声を立てる、ト両側を詰めた屋ごとの店、累り合って露店もあり。軒にも、路にも、透間のない人立したが、いずれも言合せたように、その後姿を見送っていたらしいから、一見赤毛布のその風采で、慌しく(居る、)と云えば、件の婦に吃驚した事は、往来の人の、近間なのには残らず分った。
意気な案内者大に弱って、
「驚いては不可ません。天満の青物市です。……それ、真正面に、御鳥居を御覧なさい。」
はじめて心付くと、先刻視めた城に対して、稜威は高し、宮居の屋根。雲に連なる甍の棟は、玉を刻んだ峰である。
向って鳥居から町一筋、朝市の済んだあと、日蔽の葭簀を払った、両側の組柱は、鉄橋の木賃に似て、男も婦も、折から市人の服装は皆黒いのに、一ツ鮮麗に行く美人の姿のために、さながら、市松障子の屋台した、菊の花壇のごとくに見えた。
「音に聞いた天満の市へ、突然入ったから驚いたんです。」
「そうでしょう。」
擦違った人は、初阪の顔を見て皆笑を含む。
両人は苦笑した。
「ほっこり、暖い、暖い。」
蒸芋の湯気の中に、紺の鯉口した女房が、ぬっくりと立って呼ぶ。
「おでんや、おでん!」
「饂飩あがんなはらんか、饂飩。」
「煎餅買いなはれ、買いなはれ。」
鮨の香気が芬として、あるが中に、硝子戸越の紅は、住吉の浦の鯛、淡路島の蝦であろう。市場の人の紺足袋に、はらはらと散った青い菜は、皆天王寺の蕪と見た。……頬被したお百姓、空籠荷うて行違う。
軒より高い競売もある。
傘さした飴屋の前で、奥深い白木の階に、二人まず、帽子を手に取った時であった。――前途へ、今大鳥居を潜るよと見た、見る目も彩な、お珊の姿が、それまでは、よわよわと気病の床を小春日和に、庭下駄がけで、我が別荘の背戸へ出たよう、扱帯で褄取らぬばかりに、日の本の東西にただ二つの市の中を、徐々と拾ったのが、たちまち電のごとく、颯と、照々とある円柱に影を残して、鳥居際から衝と左へ切れた。
が、目にも留まらぬばかり、掻消すがごとくに見えなくなった。
高く競売屋が居る、古いが、黒くがっしりした屋根越の其方の空、一点の雲もなく、冴えた水色の隈なき中に、浅葱や、樺や、朱や、青や、色づき初めた銀杏の梢に、風の戦ぐ、と視めたのは、皆見世ものの立幟。
太鼓に、鉦に、ひしひしと、打寄する跫音の、遠巻きめいて、遥に淀川にも響くと聞きしは、誓文払いに出盛る人数。お珊も暮るれば練るという、宝の市の夜をかけた、大阪中の賑いである。
十五
「御覧なさい、これが亀の池です。」
と云う、男衆の目は、――ここに人を渡すために架けたと云うより、築山の景色に刻んだような、天満宮の境内を左へ入って、池を渡る橋の上で――池は視ないで、向う岸へ外れた。
階を昇って跪いた時、言い知らぬ神霊に、引緊った身の、拍手も堅く附着たのが、このところまで退出て、やっと掌の開くを覚えながら、岸に、そのお珊の彳んだのを見たのであった。
麩でも投げたか、奴と二人で、同じ状に洋傘を傾けて、熟と池の面を見入っている。
初阪は、不思議な物語に伝える類の、同じ百里の旅人である。天満の橋を渡る時、ふとどこともなく立顕れた、世にも凄いまで美しい婦の手から、一通玉章を秘めた文箱を託って来て、ここなる池で、かつて暗示された、別な美人が受取りに出たような気がしてならぬ。
しかもそれは、途中互にもの言うにさえ、声の疲れた……激しい人の波を泳いで来た、殷賑、心斎橋、高麗橋と相並ぶ、天満の町筋を徹してであるにもかかわらず、説き難き一種寂寞の感が身に迫った。参詣群集、隙間のない、宮、社の、フトした空地は、こうした水ある処に、思いかけぬ寂しさを、日中は分けて見る事がおりおりある。
ちょうど池の辺には、この時、他に人影も見えなかった。……
橋の上に小児を連れた乳母が居たが、此方から連立って、二人が行掛った機会に、
「さあ、のの様の方へ行こか。」と云って、手を引いて、宮の方へ徐々帰った。その状が、人間界へ立帰るごとくに見えた。
池は小さくて、武蔵野の埴生の小屋が今あらば、その潦ばかりだけれども、深翠に萌黄を累ねた、水の古さに藻が暗く、取廻わした石垣も、草は枯れつつ苔滑。牡丹を彫らぬ欄干も、巌を削った趣がある。あまつさえ、水底に主が棲む……その逸するのを封ずるために、雲に結えて鉄の網を張り詰めたように、百千の細な影が、漣立って、ふらふらと数知れず、薄黒く池の中に浮いたのは、亀の池の名に負える、水に充満た亀なのであった。
枯蓮もばらばらと、折れた茎に、トただ一つ留ったのは、硫黄ヶ島の赤蜻蛉。
鯡鯉の背は飜々と、お珊の裳の影に靡く。
居たのは、つい、橋の其方であった。
半襟は、黒に、蘆の穂が幽に白い、紺地によりがらみの細い格子、お召縮緬の一枚小袖、ついわざとらしいまで、不断着で出たらしい。コオトも着ない、羽織の色が、派手に、渋く、そして際立って、ぱっと目についた。
髪の艶も、色の白さも、そのために一際目立つ、――糸織か、一楽らしいくすんだ中に、晃々と冴えがある、きっぱりした地の藍鼠に、小豆色と茶と紺と、すらすらと色の通った縞の乱立。
蒼空の澄んだのに、水の色が袖に迫って、藍は青に、小豆は紅に、茶は萌黄に、紺は紫の隈を染めて、明い中に影さすばかり。帯も長襦袢もこれに消えて、山深き処、年古る池に、ただその、すらりと雪を束ねたのに、霧ながら木の葉に綾なす、虹を取って、細く滑かに美しく、肩に掛けて背に捌き、腰に流したようである。汀は水を取廻わして、冷い若木の薄もみじ。
光線は白かった。
十六