南地心中

3話 南地心中(3)

6,660字 約13分 2006年12月12日 公開

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「そこに私も居る、……知らぬ間に肥満女(ふとっちょ)の込入ったのと、振向いた娘の顔とを等分に見較べて(和女(あんた)(きまり)が悪いやろ。そしたら(わし)が方へ来て(あが)りなはるか。ああ、そうしなはれ、)と莞爾々々(にこにこ)笑う、気の()い男さ。((えら)いお邪魔にござります。)と、(かが)んで私に挨拶して、一人で合点して弁当を持ったまま、ずいと引退(ひきさが)った。

 娘がね、仕切に手を()くと、向直って、抜いた花簪(はなかんざし)を載せている、涙に濡れた、(ほっそ)り畳んだ手拭(てぬぐい)を置いた、友染の前垂れの膝を浮かして、ちょっと考えるようにしたっけ。その手拭を軽く持って、上気した襟のあたりを二つ三つ(あお)ぎながら、可愛い足袋で、腰を据えて、すっと出て行く。……

 私は煙草(たばこ)がなくなったから、背後(うしろ)運動場(うんどうば)へ買いに出た。

 余り見かねたから、背後(うしろ)向きになっていたがね、出しなに見ると、狂犬(やまいぬ)はそのまま膝枕で、例の鼾で、若い手代はどこへ立ったか居なかった。

 西の運動場には、店が一つしかない。もう幕が開く処、見物は残らず場所へ坐直(すわりなお)している、ここらは大阪は行儀が可いよ。それに、大人で、身の()った芝居ほど、運動場は寂しいもんです。

 風は(つめた)し、呼吸(いき)ぬきかたがた、買った敷島をそこで吸附けて、()かしながら、堅い薄縁(うすべり)の板の上を、足袋の裏冷々(ひやひや)と、()い心持で(すべ)らして、懐手で、一人で桟敷へ帰って来ると、斜違(はすかい)に薄暗い便所が見えます。

 そのね、手水鉢(ちょうずばち)の前に、(おおき)な影法師見るように、脚榻(きゃたつ)に腰を掛けて、綿の厚い()寝子(ねこ)(うずくま)ってるのが、何だっけ、君が云った、その伝五郎。」

「ぼけましたよ、ええ、裟婆気(しゃばっけ)な駕籠屋でした。」

「まったくだね、股引(ももひき)の裾をぐい、と端折(はしょ)った処は豪勢だが、下腹がこけて、どんつくの(おし)に打たれて、猫背にへたへたと滅入込(めいりこ)んで、(へそ)から(おとがい)が生えたようです。

 十四五枚も、(うずたか)く懐に畳んで持った手拭は、汚れてはおらないが、その風だから手拭(てふ)きに出してくれるのが、鼻紙の配分をするようさね、(つぶ)れた古無尽(ふるむじん)の帳面の亡者にそっくり。

 一度、前幕のはじめに行って、手を洗った時、そう思った。

 小さな銀貨を一個(ひとつ)(にぎ)らせると、両手で、頭の上へ押頂いて、(沢山に難有(ありがと)、難有、難有、)と懐中(ふところ)(あご)突込(つッこ)んで礼をするのが、何となく、ものの可哀(あわれ)が身に染みた。

 その爺さんがね、見ると……その時、角兵衛という風で、頭を動かす……坐睡(いねむ)りか、と思うと(もが)いたんだ。仰向(あおむ)けに()って、両手の握拳(にぎりこぶし)で、肩を(たた)こうとするが、ひッつるばかりで手が動かぬ。

 うん、と云う。

 や、老人(としより)の早打肩。危いと思った時、幕あきの鳴ものが、チャンと入って、下座(げざ)三味線(さみせん)が、ト手首を口へ取って、湿(しめり)をくれたのが、ちらりと見える。

 どこか、もの蔭から、はらはらと走って出たのはその娘で。

 突然(いきなり)爺様(じいさん)の背中へ(つか)まると、手水鉢の(わき)に、南天の実の撓々(たわたわ)と、霜に伏さった冷い緋鹿子(ひがのこ)真白(まっしろ)小腕(こがいな)で、どんつくの肩をたたくじゃないか。

 青苔(あおごけ)緑青(ろくしょう)がぶくぶく禿()げた、湿った(のり)の香のぷんとする、山の書割の立て掛けてある暗い処へ凭懸(よっかか)って、ああ、さすがにここも都だ、としきりに可懐(なつかし)(じっ)()た。

 そこへ、手水鉢へ来て、手を洗ったのが、若い手代――君が云う、その美少年の猿廻(さるまわし)。」

       十二

「急いで手拭を懐中(ふところ)へ突込むと、若手代はそこいらしきりに前後(あとさき)を《みまわ》した、……私は書割の山の陰に(ひそ)んでいたろう。

 誰も居ないと見定めると、直ぐに、娘をわきへ推遣(おしや)って、手代が自分で、爺様(じいさん)の肩を(たた)き出した。

 二人はいい中で居るらしい、一目見て様子で知れる、」

「ほう、」

 と唐突(だしぬけ)に声を揚げて、男衆は小溝を一つ向うへ跳んだ。初阪は小さな石橋を渡った時。

「私は旅行(たび)をした(かい)があると思った。

 声は届かないけれども、趣でよく分る。……両手を働かせながら、若手代は、顔で教えて、ここは可い、自分が介抱するから、あっちへ行って芝居を見るように、と勧めるんです。娘が()かないのを、優しく叱るらしく見えると、あいあいと(うなず)く風でね、老年(としより)(いたわ)る男の深切を、嬉しそうに、二三度見返りながら、娘はいそいそと桟敷へ帰る。その竹の(ひらき)を出る時、ちょっと襟を合せましたよ。

 私も帰った。

 間もなく、何、さしたる事でもなかったろう。すぐに肩癖(けんぺき)(ほぐ)れた、と見えて、若い人は、隣の桟敷際へ戻って来て、廊下へ支膝(つきひざ)以前(もと)のごとし。……

 真中(まんなか)(はさま)った私を御覧。美しい絹糸で、身体(からだ)中かがられる、何だか(くすぐった)い気持に胸が(しま)って、妙に窮屈な事といったらない。

 狂犬(やまいぬ)がむっくり、鼻息を吹直した。

(柿があるか、()けやい、)と(よだれ)滑々(ぬらぬら)した口を切って、絹も(はだ)にくい込もう、長い間枕した、妾の膝で、真赤(まっか)な目を《みひら》くと、手代をじろり、さも軽蔑したように見て、((なん)しとる? (わり)ゃ!)と口汚く、まず怒鳴った。

(何じゃ、返事を待った、間抜け。勘定(ほし)い、と取りに来た金子(かね)なら、払うてやるは知れた事や。何(ぬか)す。……三百や五百の金。うんも、すんもあるものかい、鼻かんで(たた)きつけろ、と番頭にそう()かせ。)

(はい、)と、手を()く。

(さっさと()ね、こない場所へのこのこと面出しおって、(なん)さらす、去ねやい。)

(はい、)とそれでも用ずみ。前垂の下で手を()みながら、手代が立って、五足ばかり()きかかると、

(多一、多一、)と呼んだ。若い人は、多一と云うんだ。

(待てい、)と云う。はっと引返して、また手を()くと、(おんな)の膝をはらばいに乗出して、(何じゃな、向うから金子(かね)くれい、と使が来て店で待つじゃな。人寄越(よこ)いたら催促やい。誰や思う、丸官、)と云ったように覚えている。……」

「ええ、丸田官蔵、船場の大金持です。」

「そうかね、(丸官は催促されて金子(かね)出いた覚えはない。へへん、)と云って、取巻の芸妓徒(げいこてあい)の顔をずらりと見渡すと、例の(すご)いので嘲笑(あざわら)って、軍鶏(しゃも)()つけるように、ポンと起きたが、(寄越せ、)で、一人()いていた柿を引手繰(ひったく)る、と仕切に(ひじ)を立てて、(あご)を、新高(しんたか)に居るどこかの島田(まげ)の上に突出して、丸噛(まるかじ)りに、ぼりぼりと(くい)かきながら、(()めちまえ、)と舞台へ(わめ)く。

 御寮人は、ぞろりと(つま)を引合せる。多一は、その袖の蔭に、(うずくま)っていたんだね。

 するとね、くいほじった柿の(たね)を、ぴょいぴょいと桟敷中へ吐散らして、あはは、あはは、と面相の崩れるばかり、大口を開いて笑ったっけ。

(鉄砲()て、戦争押始(おっぱじ)めろ。大砲でも放さんかい、陰気な芝居や、馬鹿、)と云うと、また急に、険しい、苦い、(とが)った顔をして、じろりと多一を(にら)みつけた。

(何しとる、うむ、)と押潰(おしつぶ)すように云います。

(それでは、番頭さんに、その通り申聞けますでございます、)とまた立って、多一が歩行(ある)き出すと(こら!)と呼んで呼び留めた。

丁稚々々(でっちでっち)、)と今度は云うのさ。」

 聞く男衆は歎息した。

「難物ですなあ。」

       十三

「それからの狂犬(やまいぬ)が、条理(すじ)違いの難題といっちゃ、聞いていられなかったぜ。

(わり)ゃ、はいはいで、用を済まいた顔色(がんしょく)で、人間並に桟敷裏を足ばかりで立って行くが、帰ったら番頭に何と言うて返事さらすんや。何や! 払うな、と俺が吩咐(いいつ)けたからその通り申します、と申しますが、呆れるわい、これ、払うべき金子(かね)を払わいで、主人の一分が立つと思うか。(五百円や三百円、)と(おおき)な声して、(端金子(はしたがね)、)で、底力を入れて(なす)りつけるように声を(ひそ)めて……(な、端金子を、ああもこうもあるものかい。俺が払うな、と言うたかて払え。さっさと一束にして突付けろ。帰れ! 大白痴(おおたわけ)、その位な事が分らんか。)

 で、また追立(おった)てて、立掛ける、とまたしても、(待ちおれ。)だ。

(分ったか、何、分った、偉い! 出来(でか)す、)と云ってね、ふふん、と例の(いや)笑方(わらいかた)をして、それ、直ぐに芸妓連(げいこれん)の顔をぎょろり。

(分ったら言うてみい、帰って何と返事をする、饒舌(しゃべ)れ。一応は聞いておく。丸官後学のために承りたい、ふん、)と鼻を仰向(あおむ)けに耳を多一に突附けて、そこにありあわせた、御寮人の黄金煙管(きんぎせる)を握って、立続けに、ふかふか吹かす。

判然(はっきり)言え、判然、ちゃんと口上をもって()かせ。うん、番頭に、番頭に、番頭に、何だ、金子(かね)を払え?……黙れ! 沙汰過ぎた青二才、)と可恐(おそろし)い顔になった。(誰が?)と()えるような声で、(誰が払えと言った。誰が、これ、五百円は大金だぞ!

 丸官、たかを聞いてさえぶるぶるする。これ、この通り震えるわい。)で、胴肩を一つに(ゆす)り上げて、(大胆ものめが、土性骨の太い(やち)や。主人のものだとたかを(くく)って、大金を何の(かす)とも思いくさらん、乞食を忘れたか。)

 と言う。

 目に涙を一杯ためて、(御免下さいまし、)と、退(すさ)って廊下へ手を()くと、(あやまるに及ばん、よく、考えて、何と計らうべきか、そこへくい附いて分別して返答せい。……石になるまで、(わり)ゃ動くな。)とまた柿を引手繰(ひったく)って、かツかツと喰いかきながら、(()めちまえ、馬鹿、)と舞台へ怒鳴る。

(旦那様、旦那様、)多一が震声(ふるえごえ)で呼んだと思え。

(早いな、(われ)がような下根(げこん)な奴には、三年かかろうと思うた分別が、立処(たちどころ)は偉い。(おれ)を呼ぶからには工夫が着いたな。まず、褒美(ほうび)を遣る。そりゃ頂け、)と柿の(へた)を、色白な多一の頬へたたきつけた。

(もし、御寮人様、)と(じっ)と顔を見て、(どうしましたら(よろ)しいのでございましょう、)と(すが)るようにして言ったか言わぬに、(猿曳(さるひき)め、(われ)ゃ、(おんな)に、……畜生、)と(わめ)くが(はや)いか、伸掛(のしかか)って、ピシリと雁首(がんくび)で額を()ったよ。羅宇(らう)真中(まんなか)から折れた。

 こちらの桟敷に居た娘が、誰より先に、ハッと仕切へ顔を伏せる、と気を打たれたか、驚いた顔をして、新高の、ちょうど下に居た一人商人風の男が、中腰に立って上を見た。

 芸妓達も一時(いっとき)に振向いて目を合せた、が、それだけさ。多一が(おさ)えた手の指から、たらたらと糸すじのように血の流れるのを見たばかり、どうにも手のつけようがなさそうな容子(ようす)には弱ったね。おまけに知らない(ふり)をして、そのまま芝居を見る姉さんがあるじゃないか。

 私は、ふいと立って、部屋へ帰った。

 (そば)に居ちゃ、もうこっちが撮出(つまみだ)されるまでも、横面(よこつら)一ツ打挫(うちひしゃ)がなくッては、新橋へ帰られまい。が、私が取組合(とっくみあ)った、となると、随分舞台から飛んで来かねない友だちが一人居るんだからね。

 頭痛がする、と楽屋へ横になったッきり、あとの事は知りません。道頓堀で、別に半鐘を打たなかったから、あれなり、ぐしゃぐしゃと消えたんだろう。

 その(おんな)だ、呆れたぐうたらだと思ったが、」

「もし、もし、」

 と男衆が、初阪の袖を、ぐい、と引いた。

       十四

 歩行(ある)くともなく話しながらも、男の足は早かった。と見ると、二人から十四五間、真直(まっすぐ)に見渡す。――狭いが、群集(ぐんじゅ)(おびただ)しい町筋を、斜めに(やっこ)を連れて帰る――二個(ふたつ)前後(あとさき)にすっと並んだ薄色の洋傘(こうもり)は、大輪の芙蓉(ふよう)太陽()を浴びて、冷たく輝くがごとくに見えた。

 水打った(つち)に、(もすそ)(あや)の影も()す、色は四辺(あたり)を払ったのである。

「やあ、居る……」

 と、思わず初阪が声を立てる、ト両側を詰めた屋ごとの店、(かさな)り合って露店もあり。軒にも、路にも、透間(すきま)のない人立(ひとだち)したが、いずれも言合せたように、その後姿を見送っていたらしいから、一見赤毛布(あかげっと)のその風采(ふう)で、(あわただ)しく(居る、)と云えば、(くだん)(おんな)吃驚(びっくり)した事は、往来(ゆきき)の人の、近間なのには残らず分った。

 意気な案内者(おおい)に弱って、

「驚いては不可(いけ)ません。天満の青物市です。……それ、真正面(まっしょうめん)に、御鳥居を御覧なさい。」

 はじめて心付くと、先刻(さっき)(なが)めた城に対して、稜威(みいず)は高し、宮居(みやい)の屋根。雲に連なる(いらか)の棟は、玉を刻んだ峰である。

 向って鳥居から町一筋、朝市の済んだあと、日蔽(ひおおい)葭簀(よしず)を払った、両側の組柱は、鉄橋の木賃に似て、男も(おんな)も、折から市人(いちびと)服装(なり)は皆黒いのに、一ツ鮮麗(あざやか)()く美人の姿のために、さながら、市松障子の屋台した、菊の花壇のごとくに見えた。

「音に聞いた天満の市へ、突然(いきなり)入ったから驚いたんです。」

「そうでしょう。」

 擦違(すれちが)った人は、初阪(もの)の顔を見て皆(わらい)を含む。

 両人(ふたり)は苦笑した。

「ほっこり、(あったか)い、暖い。」

 蒸芋(ふかしいも)の湯気の中に、紺の鯉口(こいぐち)した女房が、ぬっくりと立って呼ぶ。

「おでんや、おでん!」

饂飩(うどん)あがんなはらんか、饂飩。」

煎餅(せんべい)買いなはれ、買いなはれ。」

 (すし)香気(かおり)(ぷん)として、あるが中に、硝子戸越(ガラスどごし)(くれない)は、住吉の浦の鯛、淡路島の(えび)であろう。市場の人の紺足袋に、はらはらと散った青い菜は、皆天王寺の(かぶら)と見た。……頬被(ほおかむり)したお百姓、空籠(からかご)(にの)うて行違(ゆきちが)う。

 軒より高い競売(せり)もある。

 (からかさ)さした飴屋(あめや)の前で、奥深い白木の(きざはし)に、二人まず、帽子を手に取った時であった。――前途(ゆくて)へ、今大鳥居を(くぐ)るよと見た、見る目も(あや)な、お珊の姿が、それまでは、よわよわと気病(きやみ)の床を小春日和(こはるびより)に、庭下駄がけで、我が別荘の背戸へ出たよう、扱帯(しごき)(つま)取らぬばかりに、日の本の東西にただ二つの市の中を、徐々(しずしず)と拾ったのが、たちまち(いなずま)のごとく、(さっ)と、照々(てらてら)とある円柱(まるばしら)に影を残して、鳥居際から()と左へ切れた。

 が、目にも留まらぬばかり、掻消(かきけ)すがごとくに見えなくなった。

 高く競売屋(せりうりや)が居る、古いが、黒くがっしりした屋根(ごし)其方(そなた)の空、一点の雲もなく、()えた水色の(くま)なき中に、浅葱(あさぎ)や、(かば)や、朱や、青や、色づき()めた銀杏の(こずえ)に、風の(そよ)ぐ、と(なが)めたのは、皆見世ものの立幟(たてのぼり)

 太鼓に、(かね)に、ひしひしと、打寄する跫音(あしおと)の、遠巻きめいて、(はるか)に淀川にも響くと聞きしは、誓文払いに出盛る人数(にんず)。お珊も暮るれば練るという、宝の市の()をかけた、大阪中の(にぎわ)いである。

       十五

「御覧なさい、これが亀の池です。」

 と云う、男衆の目は、――ここに人を渡すために()けたと云うより、築山(つきやま)の景色に刻んだような、天満宮(てんまんぐう)の境内を左へ入って、池を渡る橋の上で――池は()ないで、向う岸へ()れた。

 (きざはし)を昇って(ひざまず)いた時、言い知らぬ神霊に、引緊(ひきしま)った身の、拍手(かしわで)も堅く附着(くッつい)たのが、このところまで退出(まかんで)て、やっと(たなそこ)の開くを覚えながら、岸に、そのお珊の(たたず)んだのを見たのであった。

 ()でも投げたか、(やっこ)と二人で、同じ(さま)洋傘(こうもり)を傾けて、(じっ)と池の(おも)を見入っている。

 初阪は、不思議な物語に伝える(たぐい)の、同じ百里の旅人である。天満の橋を渡る時、ふとどこともなく立顕(たちあらわ)れた、世にも(すご)いまで美しい(おんな)の手から、一通玉章(たまずさ)を秘めた文箱(ふばこ)(ことずか)って来て、ここなる池で、かつて暗示された、別な美人(たおやめ)が受取りに出たような気がしてならぬ。

 しかもそれは、途中(たがい)にもの言うにさえ、声の疲れた……激しい人の波を泳いで来た、殷賑(いんしん)心斎橋(しんさいばし)高麗橋(こうらいばし)と相並ぶ、天満の町筋を(とお)してであるにもかかわらず、説き難き一種寂寞(せきばく)の感が身に迫った。参詣群集(さんけいぐんじゅ)、隙間のない、宮、(やしろ)の、フトした空地は、こうした水ある処に、思いかけぬ寂しさを、日中(ひなか)は分けて見る事がおりおりある。

 ちょうど池の(ほとり)には、この時、他に人影も見えなかった。……

 橋の上に小児(こども)を連れた乳母が居たが、此方(こなた)から連立って、二人が行掛(ゆきかか)った機会(しお)に、

「さあ、のの様の方へ行こか。」と云って、手を引いて、宮の(かた)徐々(そろそろ)帰った。その(さま)が、人間界へ立帰るごとくに見えた。

 池は小さくて、武蔵野の埴生(はにゅう)の小屋が今あらば、その(にわたずみ)ばかりだけれども、深翠(ふかみどり)萌黄(もえぎ)(かさ)ねた、水の古さに藻が暗く、取廻わした石垣も、草は枯れつつ(こけ)(なめらか)牡丹(ぼたん)を彫らぬ欄干も、(いわお)を削った(おもむき)がある。あまつさえ、水底(みなぞこ)(ぬし)()む……その逸するのを封ずるために、雲に(ゆわ)えて(くろがね)の網を張り詰めたように、百千の(こまか)な影が、(ささなみ)()って、ふらふらと数知れず、薄黒く池の中に浮いたのは、亀の池の名に負える、水に充満(みちみち)た亀なのであった。

 枯蓮(かれはす)もばらばらと、折れた茎に、トただ一つ留ったのは、硫黄(いおう)ヶ島の赤蜻蛉(あかとんぼ)

 鯡鯉(ひごい)の背は飜々(ひらひら)と、お珊の(もすそ)の影に(なび)く。

 居たのは、つい、橋の其方(そなた)であった。

 半襟は、黒に、(あし)の穂が(かすか)に白い、紺地(こんのじ)によりがらみの細い格子、お召縮緬(めしちりめん)の一枚小袖、ついわざとらしいまで、不断着で出たらしい。コオトも着ない、羽織の色が、派手に、渋く、そして際立って、ぱっと目についた。

 髪の(つや)も、色の白さも、そのために一際目立つ、――糸織か、一楽(いちらく)らしいくすんだ中に、晃々(きらきら)()えがある、きっぱりした地の藍鼠(あいねずみ)に、小豆色(あずきいろ)と茶と紺と、すらすらと色の通った(しま)乱立(らんたつ)

 蒼空(あおぞら)の澄んだのに、水の色が袖に迫って、藍は青に、小豆は(くれない)に、茶は萌黄(もえぎ)に、紺は紫の(くま)を染めて、(あかる)い中に影さすばかり。帯も長襦袢もこれに消えて、山深き処、年()る池に、ただその、すらりと雪を(つか)ねたのに、霧ながら()の葉に(あや)なす、(にじ)を取って、細く(なめら)かに美しく、肩に掛けて背に(さば)き、腰に流したようである。(みぎわ)は水を取廻わして、冷い若木の薄もみじ。

 光線は白かった。

       十六

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