4話 南地心中(4)
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その艶なのが、女の童を従えた風で、奴と彳む。……汀に寄って……流木めいた板が一枚、ぶくぶくと浮いて、苔塗れに生簀の蓋のように見えるのがあった。日は水を劃って、その板の上ばかり、たとえば温かさを積重ねた心持にふわふわ当る。
それへ、ほかほかと甲を干した、木の葉に交って青銭の散った状して、大小の亀は十ウ二十、磧の石の数々居た。中には軽石のごときが交って。――
いずれ一度は擒となって、供養にとて放された、が狭い池で、昔売買をされたという黒奴の男女を思出させる。島、海、沢、藪をかけた集り勢、これほどの数が込合ったら、月には波立ち、暗夜には潜んで、ひそひそと身の上話がはじまろう。
故郷なる、何を見るやら、向は違っても一つ一つ、首を据えて目を《みは》る。が、人も、もの言わず、活ものがこれだけ居て余りの静かさ。どれかが幽に、えへん、と咳払をしそうで寂しい。
一頭、ぬっと、ざらざらな首を伸ばして、長く反って、汀を仰いだのがあった。心は、初阪等二人と斉しく、絹糸の虹を視めたに違いない。
「気味の悪いもんですね、よく見るといかにも頭つきが似ていますぜ。」
男衆は両手を池の上へ出しながら、橋の欄干に凭れて低声で云う。あえて忍音には及ばぬ事を。けれども、……ここで云うのは、直に話すほど、間近な人に皆聞える。
「まったく、魚じゃ鯔の面色が瓜二つだよ。」
その何に似ているかは言わずとも知れよう。
「ああああ、板の下から潜出して、一つ水の中から顕れたのがあります。大分大きゅうがすせ。」
成程、たらたらと漆のような腹を正的に、甲に濡色の薄紅をさしたのが、仰向けに鰓を此方へ、むっくりとして、そして頭の尖に黄色く輪取った、その目が凸にくるりと見えて、鱗のざらめく蒼味がかった手を、ト板の縁へ突張って、水から半分ぬい、と出た。
「大将、甲羅干しに板へ出る気だ。それ乗ります。」
と男衆の云った時、爪が外れて、ストンと落ちた。
が、直ぐにすぼりと胸を浮かす。
「今度は乗るぜ。」
やがて、甲羅を、残らず藻の上へ水から離して踏張った。が、力足らず、乗出した勢が余って、取外ずすと、ずんと沈む。
「や、不可い。」
たちまち猛然としてまた浮いた。
で、のしり、のしりと板へ手をかけ、見るも不器用に、堅い体を伸上げる。
「しっかりしっかり、今度は大丈夫。あ、また辷った。大事な処で。」と男衆は胸を乗出す。
汀のお珊は、褄をすらりと足をちょいと踏替えた。奴島田は、洋傘を畳んで支いて、直ぐ目の下を、前髪に手庇して覗込む。
この度は、場処を替えようとするらしい。
斜に甲羅を、板に添って、手を掛けながら、するすると泳ぐ。これが、棹で操るがごとくになって、夥多の可心持に乾いた亀の子を、カラカラと載せたままで、水をゆらゆらと流れて辷った。が、熟として嚔したもの一つない。
板の一方は細いのである。
そこへ、手を伸ばすと、腹へ抱込めそうに見えた。
いや、困った事は、重量に圧されて、板が引傾いたために、だふん、と潜る。
「ほい、しまった。いや、串戯じゃない。しっかり頼むぜ。」
と、男衆は欄干をトントン叩く。
あせる、と見えて、むらむらと紋が騒ぐ、と月影ばかり藻が分れて、端を探り探り手が掛った。と思うと、ずぼりと出る。
「蛙だと青柳硯と云うんです。」
「まったくさ。」
十七
けれども、その時もし遂げなかった。
「ああ、惜い。」
男衆も共に、ただ一息と思う処で、亀の、どぶりと沈むごとに、思わず声を掛けて、手のものを落す心地で。
「執念深いもんですね。」
「あれ迄にしたんだ、揚げてやりたい。が、もう弱ったかな。」
と言う間もなかった。
この時は、手の鱗も逆立つまで、しゃっきりと、爪を大きく開ける、と甲の揺ぐばかり力が入って、その手を扁平く板について、白く乾いた小さな亀の背に掛けた。
「ははあ、考えた。」
「あいつを力に取って伸上るんです、や、や、どッこい。やれ情ない。」
ざぶりと他愛なく、またもや沈む。
男衆が時計を視た。
「もう二時半です、これから中の島を廻るんですから、徐々帰りましょう。」
「しかし、何だか、揚るのを見ないじゃ気が残るようだね。」
「え、私も気になりますがね、だって、日が暮れるまで掛るかも知れませんから。」
「妙に残惜いようだよ。」
男衆は、汀の婦にちょいと目を遣って、密と片頬笑して声を潜めた。
「串戯じゃありませんぜ。ね、それ、何だか薄りと美しい五色の霧が、冷々と掛るようです。……変に凄いようですぜ。亀が昇天するのかも知れません。板に上ると、その機会に、黒雲を捲起して、震動雷電……」
「さあ、出掛けよう。」
二人は肩を寒くして、コトコトと橋の中央から取って返す。
やがて、渡果てようとした時である。
「ちょっと、ちょっと。」
と背後から、優いが張のある、朗かな、そして幅のある声して呼んだ。何等の仔細なしには済むまいと思った半日。それそれ、言わぬ事か、それ言わぬ事か。
袖を合せて、前後に、ト斉しく振返ると、洋傘は畳んで、それは奴に持たした。縺毛一条もない黒髪は、取って捌いたかと思うばかり、痩ぎすな、透通るような頬を包んで、正面に顔を合せた、襟はさぞ、雪なす咽喉が細かった。
「手前どもで、」と男衆は如才ない会釈をする。
奴は黙って、片手をその膝のあたりへ下げた。
「そうどす。」と判然云って莞爾する、瞼に薄く色が染まって、類なき紅葉の中の俤である。
「一遍お待ちやす……思を遂げんと気がかりなよって、見ていておくれやす。私が手伝うさかいな。」
猶予いあえず、バチンと蓮の果の飛ぶ音が響いた。お珊は帯留の黄金金具、緑の照々と輝く玉を、烏羽玉の夜の帯から星を手に取るよ、と自魚の指に外ずして、見得もなく、友染を柔な膝なりに、腰をなよなよと汀に低く居て――あたかも腹を空に突張ってにょいと上げた、藻を押分けた――亀の手に、縋れよ、引かむ、とすらりと投げた。
帯留は、銀の曇ったような打紐と見えた。
その尖は水に潜って、亀の子は、ばくりと紐を噛む、ト袖口を軽く袂を絞った、小腕白く雪を伸べた。が、重量がかかるか、引く手に幽に脈を打つ。その二の腕、顔、襟、頸、膚に白い処は云うまでもない、袖、褄の、艶に色めく姿、爪尖まで、――さながら、細い黒髪の毛筋をもって、線を引いて、描き取った姿絵のようであった。
十八
池の面は、蒼く、お珊の唇のあたりに影を籠めた。
風少し吹添って、城ある乾の天暗く、天満宮の屋の棟が淀り曇った。いずこともなく、はたはたと帆を打つ響きは、幟の声、町には黄なる煙が走ろう、数万人の形を掠めて。……この水のある空ばかり、雲に硝子を嵌めたるごとく、美女の虹の姿は、姿見の中に映るかと、五色の絹を透通して、色を染めた木の葉は淡く、松の影が颯と濃い。
打紐にまた脈を打って、紫の血が通うばかり、時に、腕の色ながら、しろじろと鱗が光って、その友染に搦んだなりに懐中から一条の蛇の蜿り出た、思いかけず、ものの凄じい形になった。
「あ、」
と云う声して、手を放すと、蛇の目輝く緑の玉は、光を消して、亀の口に銜えたまま、するするする、と水脚を引いてそのまま底に沈んだのである。
奴はじりじりと後に退った。
お珊は汀にすっくと立った。が、血が留って、俤は瑪瑙の白さを削ったのであった。
この婦が、一念懸けて、すると云うに、誰が何を妨げ得よう。
日も待たず、その翌の日の夕暮時、宝の市へ練出す前に、――丸官が昨夜芝居で振舞った、酒の上の暴虐の負債を果させるため、とあって、――南新地の浪屋の奥二階。金屏風を引繞らした、四海波静に青畳の八畳で、お珊自分に、雌蝶雄蝶の長柄を取って、橘活けた床の間の正面に、美少年の多一と、さて、名はお美津と云う、逢阪の辻、餅屋の娘を、二人並べて据えたのである。
晴の装束は、お珊が金子に飽かして間に合わせた、宝の市の衣裳であった。
まず上席のお美津を謂おう。髪は結いたての水の垂るるような、十六七が潰し島田。前髪をふっくり取って、両端へはらりと分けた、遠山の眉にかかる柳の糸の振分は、大阪に呼んで(いたずら)とか。緋縮緬のかけおろし。橘に実を抱かせた笄を両方に、雲井の薫をたきしめた、烏帽子、狩衣。朱総の紐は、お珊が手にこそ引結うたれ。着つけは桃に薄霞、朱鷺色絹に白い裏、膚の雪の紅の襲に透くよう媚かしく、白の紗の、その狩衣を装い澄まして、黒繻子の帯、箱文庫。
含羞む瞼を染めて、玉の項を差俯向く、ト見ると、雛鶴一羽、松の羽衣掻取って、曙の雲の上なる、宴に召さるる風情がある。
同じ烏帽子、紫の紐を深く、袖を並べて面伏そうな、多一は浅葱紗の素袍着て、白衣の袖を粛ましやかに、膝に両手を差置いた。
前なるお美津は、小鼓に八雲琴、六人ずつが両側に、ハオ、イヤ、と拍子を取って、金蒔絵に銀鋲打った欄干づき、輻も漆の車屋台に、前囃子とて楽を奏する、その十二人と同じ風俗。
後囃子が、また幕打った高い屋台に、これは男の稚児ばかり、すり鉦に太鼓を合わせて、同じく揃う十二人と、多一は同じ装束である。
二人を前に、銚子を控えて、人交ぜもしなかった……その時お珊の装は、また立勝って目覚しや。
十九
宝の市の屋台に付いて、市女また姫とも称うる十二人の美女が練る。……
練衣小袿の紅の袴、とばかりでは言足らぬ。ただその上下を装束くにも、支度の夜は丑満頃より、女紅場に顔を揃えて一人々々沐浴をするが、雪の膚も、白脛も、その湯は一人ずつ紅を流し、白粉を汲替える。髪を洗い、櫛を入れ、丈より長く解捌いて、緑の雫すらすらと、香枕の香に霞むを待てば、鶏の声しばしば聞えて、元結に染む霜の鐘の音。血る潔く清き身に、唐衣を着け、袴を穿くと、しらしらと早や旭の影が、霧を破って色を映す。
さて住吉の朝ぼらけ、白妙の松の樹の間を、静々と詣で進む、路の裳を、皐月御殿、市の式殿にはじめて解いて、市の姫は十二人。袴を十二長く引く。……
その市の姫十二人、御殿の正面に揖して出づれば、神官、威儀正しく彼処にあり。土器の神酒、結び昆布。やがて檜扇を授けらる。これを受けて、席に帰って、緋や、萌黄や、金銀の縫箔光を放って、板戸も松の絵の影に、雲白く梢を繞る松林に日の射す中に、一列に並居る時、巫子するすると立出でて、美女の面一人ごとに、式の白粉を施し、紅をさし、墨もて黛を描く、と聞く。
素顔の雪に化粧して、皓歯に紅を濃く含み、神々しく気高いまで、お珊はここに、黛さえほんのりと描いている。が、女紅場の沐浴に、美しき膚を衆に抽き、解き揃えた黒髪は、夥間の丈を圧えたけれども、一人渠は、住吉の式に連る事をしなかった。
間際に人が欠けては事が済まぬ。
世話人一同、袴腰を捻返して狼狽えたが、お珊が思うままな金子の力で、身代りの婦が急に立った。
で、これのみ巫女の手を借りぬ、容色も南地第一人。袴の色の緋よりも冴えた、笹紅の口許に美しく微笑んだ。
「多一さん、美津さん、ちょっと、どないな気がおしやす。」
唐織衣に思いもよらぬ、生地の芸妓で、心易げに、島台を前に、声を掛ける。
素袍の紗に透通る、燈の影に浅葱とて、月夜に色の白いよう、多一は照らされた面色だった。
「なあ?」とお珊が聞返す、胸を薄く数を襲ねた、雪の深い襲ねの襟に、檜扇を取って挿していた。
「御寮人様。」
と手を下げて、
「何も、何も、私は申されませぬ。あの、ただ夢のようにござります。」とやっと云って、烏帽子を正しく、はじめて上げた、女のような優しい眉の、右を残して斜めに巻いたは、笞の疵に、無慚な繃帯。
お珊は黒目がちに、熟と《みは》って、
「ほんに、そう云うたら夢やな。」
と清らかな襖のあたり、座敷を衝と《みまわ》した。
ト柱、襖、その金屏風に、人の影が残らず映った。
映って、そして、緋に、紫に、朱鷺色に、二人の烏帽子、素袍、狩衣、彩あるままに色の影。ことにお珊の黒髪が、一条長く、横雲掛けて見えたのである。
二十
時に、間を隔てた、同じ浪屋の表二階に並んだ座敷は、残らず丸官が借り占めて、同じ宗右衛門町に軒を揃えた、両側の揚屋と斉しく、毛氈を聯ねた中に、やがて時刻に、ここを出て、一まず女紅場で列を整え、先立ちの露払い、十人の稚児が通り、前囃子の屋台を挟んで、そこに、十二人の姫が続く。第五番に、檜扇取って練る約束の、我がお珊の、市随一の曠の姿を見ようため、芸妓、幇間をずらりと並べて、宵からここに座を構えた。
が、その座敷もまだ寂寞して、時々、階子段、廊下などに、遠い跫音、近く床しき衣摺の音のみ聞ゆる。
お珊は袖を開き、居直って、
「まあな、ほんに夢のようにあろな。私かて、夢かと思う。」
と、丈けた黛、恍惚と、多一の顔を瞻りながら、
「けど、何の、何の夢やおへん。たとい夢やかて。……丸官はんの方もな、私が身に替えて、承知させた……三々九度やさかい、ああした我ままな、好勝手な、朝云うた事は晩に変えやはる人やけど、こればかりは、私が附いているよって、承合うて、どないしたかて夢にはせぬ。……あんじょう思うておくんなはれや。
美津さん、」
と娘の前髪に、瞳を返して、
「不思議な御縁やな。ほほ、」
手を口許に翳したが、
「こう云うたかて、多一さんと貴女とは、前世から約束したほど、深い交情でおいでる様子。今更ではあるまいけれど、私とは不思議な御縁やな。
思うてみれば、一昨日の夜さり、中の芝居で見たまでは天王寺の常楽会にも、天神様の御縁日にも、ついぞ出会うた事もなかったな。
一見でこうなった。
貴女な、ようこそ、芝居の裏で、お爺はんの肩摺って上げなはった。多一さんも人目忍んで、貴女の孝行手伝わはった。……自分介抱するよって、一条なと、可愛い可愛い女房はんに、沢山芝居を見せたい心や。またな、その心を汲取って、鶉へ嬉々お帰りやした、貴女の優しい、仇気ない、可愛らしさも身に染みて。……
私はな、丸官はんに、軋々と……四角な天窓乗せられて、鶉の仕切も拷問の柱とやら、膝も骨も砕けるほど、辛い苦しい堪え難い、石を抱く責苦に逢うような中でも、身節も弛んで、恍惚するまで視めていた。あの………扉の、お仕置場らしい青竹の矢来の向うに……貴女等の光景をば。――
悪事は虎の千里走る、好い事は、花の香ほども外へは漏れぬ言うけれど、貴女二人は孝行の徳、恋の功、恩愛の報だすせ。誰も知るまい、私一人、よう知った。
逢阪に店がある、餅屋の評判のお娘さん、御両親は、どちらも行方知れずなった、その借銭やら何やらで、苦労しなはる、あのお爺さんの孫や事まで、人に聞いて知ったよって、ふとな、彼やこれや談合しよう気になったも、私ばかりの心やない。
天満の天神様へ行た、その帰途に、つい虚気々々と、もう黄昏やいう時を、寄ってみたい気になって、貴女の餅屋へ土産買う振りで入ったら、」
と微笑みながら、二人を前に。
「多一さんが、使の間をちょっと逢いに寄って、町並灯の点された中に、その店だけは灯もつけぬ、暗いに島田が黒かったえ。そのな、繃帯が白う見えた。」
二十一
小指を外らして指の輪を、我目の前へ、……お珊はそれが縁を結ぶ禁厭であるようにした。
「密々、話していやはったな。……そこへ、私が行合わせたも、この杯の瑞祥だすぜ。
ここで夫婦にならはったら、直ぐにな、別に店を出してもらうなり、世帯持ってそこから本店へ通うなり、あの、お爺はんと、三人、あんじょ暮らして行かはるように、私がちゃと引受けた。弟、妹の分にして、丸官はんに否は言わせぬ。よって、安心おしやすや。え、嬉しいやろ。美津さんが、あの、嬉しそうなえ。
どうや、九太夫はん。」
と云った、お珊は、密と声を立てて、打解けた笑顔になった。
多一は素袍の浅葱を濃く、袖を緊めて、またその顔を、はッと伏せる。
「ほほほほ多一さん、貴下、そうむつかしゅうせずと、胡坐組む気で、杯しなはれ。私かて、丸官はんの傍に居るのやない、この一月は籍のある、富田屋の以前の芸妓、そのつもりで酌をするのえ。
仮祝言や、儀式も作法も預かるよってな。後にまたあらためて、歴然とした媒妁人立てる。その媒妁人やったら、この席でこないな串戯は言えやへん。
そない極らずといておくれやす。なあ、九太夫はん。」
「御寮人様。」
と片手を畳へ、
「私はもう何も存じません、胸一杯で、ものも申されぬようにござります。が、その九太夫は情のうござります。」
と、術なき中にも、ものの嬉しそうな笑を含んだ。
「そうやかて、貴方、一昨日の暮方、餅屋の土間に、……そないして、話していなはった処へ、私が、ト行た……姿を見ると、腰掛框の縁の下へ、慌てもうて、潜って隠れやはったやないかいな。」
言う――それは事実であった。――
「はい、唯今でこそ申します、御寮人様がまたお意地の悪い。その框へ腰をお掛けなされまして、盆にあんころ餅寄越せ、茶を持てと、この美津に御意ござります。
その上、入る穴はなし、貴女様の召しものの薫が、魔薬とやらを嗅ぎますようで、気が遠くなりました。
その辛さより、犬になってのこのこと、下屋を這出しました時が、なお術のうござりましてござります。」
「ほほほ可厭な、この人は。……最初はな、内証で情婦に逢やはるより何の余所の人でないものを、私の姿を見て隠れやはった心の裡が、水臭いようにあって、口惜いと思うたけれど、な、……手を支いて詫言やはる……その時に、門のとまりに、ちょんと乗って、むぐむぐ柿を頬張っていた、あの、大な猿が、土間へ跳下りて、貴下と一所に、頭を土へ附けたのには、つい、おろおろと涙が出たえ。
柿は、貴下の土産やったそうに聞くな。
天王寺の境内で、以前舞わしてやった、あの猿。どないなった問うた時、ちと知縁のものがあって、その方へ、とばかり言うて、預けた先方を話しなはらん、住吉辺の田舎へなと思うたら、大切な許に居るやもの。
おお、それなりで、貴方たちを、私が方へ、無理に連れもうて来てしもうたが、うっかりしたな、お爺はんは、今夜は私の市女笠持って附いてもらうよって、それも留守。あの、猿はどうしたやろな。」
「はい、」
と娘が引取った、我が身の姿と、この場の光景、踊のさらいに台辞を云うよう、細く透る、が声震えて、
「お爺さんが留守の時も、あの、戸を閉めた中に居て、ような、いつも留守してくれますのえ。」
二十二