1話 一
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本所亀沢町の掘割に面した百坪ばかりの空地に、毎晩「貝屋」という軒提灯をかかげた屋台店が出る。貝を肴に酒を飲ませるのと、盛りのいいぶっかけ飯が自慢で、かなり遠い町内にも名が知られていた。
車屋台のまわりを葭簀で囲い、その中に白木の飯台と腰掛が置いてある。屋台の鍋前にも腰掛があり、そこにも三人くらいは掛けられるから、客のたて混むときには十二、三人は入ることができた。――掘割の向うは公儀の御米蔵で、堀沿いにずっと土塀が延びているし、うしろは佐渡屋、丸伍、京伝などという大きな問屋が並んでいる。もちろん、みんな板塀の裏手が見えるだけで、夜になると燈も漏れず、あたりはひっそりと暗くなる。
もう三月中旬だというのに、かなり冷える或夜のこと――
午後から雨もよいになったせいか、夕方のたて混む時刻が過ぎると、「貝屋」は珍しくひまで、九時をまわる頃には、常連の飲む客が四、五人だけになった。担ぎ八百屋の竹造、大川端の土屋の船頭の勇吉、この二人は古い地つきの友達らしく、どちらも二十八、九になる。二人の前に、飯台を挾んで向合っているのは表の佐渡屋の蔵番で、年は五十六、七だろうか、本名は六兵衛というのだが、いつも酔っているので「ずぶ六」と呼ばれている。
そのほかに二人、一人は初めて見る顔で、旅の者らしい、手甲脚絆に草鞋をはき、合羽を着て、頭に塵よけの手拭をかぶっている。年はもう三十六、七、これは鍋前に掛けて、主人の与平とぼつぼつ話しながら、焼き蛤を肴にゆっくりと飲んでいた。
もう一人は、――これは飯台の端に酔いつぶれている。酔いつぶれているのだろう、腰掛から落ちそうな恰好で、飯台に俯伏し、だらしなく曲げた腕に顔をのせたまま動かない。垢じみた布子(木綿の綿入れ)によれよれの三尺をしめ、頭の毛は灰色だし、伸びている無精髭も灰色で、ぜんたいが云いようもなくみじめにうらぶれていた。
「待っておくれ、高次、どこへゆくの」
外でそういう女の声がした。葭簀張りのうしろのほうらしい。「どこへゆくのよう」といい、そのまま聞えなくなった。
「旦那はこれから旅へいらっしゃるんですか」主人の与平が燗徳利を出しながら訊いた。「それとも旅からお帰りになったんですか」
「帰って来たんだが」とその客は少し上方訛りのある言葉で云った。「どうやら、またでかけなければならないようだ」
「この御近所ですか」
「いや、――」
客は口ごもった。「この先に、この先の緑町二丁目に知ってる者がいたんだが、いってみたら引越しちまって、どこへいったかわからないんだ」
「あの辺は辰年(天明四)の火事で焼けましたからね」
向うの飯台から竹造が云った。
「おやじ、酒だ、それから味噌煮を一つ」
「こっちは濁ったのをくれ」と勇吉が云った。「ついでに汁のお代りだ」
旅装の客は自分の盃に酒をつぎ、ゆっくりとひと口すすって、大事そうに下へ置いた。塵よけの手拭を深くかぶっているので眼鼻だちはよくわからないが、日にやけた浅黒い横顔や、甲掛けから出ている手爪先や、また身妝のさっぱりとしたようすでみると、大きな商家の番頭というふうであった。
「どこへ隠れたの、高次、どこよう」
空地の向うで(また)女の声がした。
「京伝のお幸さんじゃねえか」蔵番の六兵衛が云った。「いまの声はお幸さんじゃねえか」
「なにか声がしたか」
「お幸さんは寮だろう」と勇吉が云った。「このあいだ、お梅どんに会ったら、ずっと寮のほうにいるって云ってたぜ」
与平が註文の品を盆にのせて飯台のほうへいった。鍋前にいる旅装の客は、ぎょっとしたように首を擡げ、じっと外のようすに聞き耳をたてた。与平は空いた盆を持って戻り、手酌で一杯ぐっと呷った。それから鍋の下の火を見、炭をついで、洗い物にかかった。
「そこで野郎の云いぐさがいいんだ」と竹造は話を続けた。「死にかたに立派も立派でねえもあるか。死ぬこたあ死ぬこった。男らしく死のうとめめしく死のうと、誰の損にも得にもなりゃあしねえ」
「野郎はいつもその伝だ」
「男らしく死ぬなんてのはみえ坊のするこった。にんげん死ぬときにまでみえをはるこたあねえやってよ」と竹造は云った。「そう云っちまえばそれも理屈だからな。すっかりお座が白けて話はおしめえよ」
「野郎はいつもその伝だ」と勇吉が濁酒の茶碗に口をつけた。「云うことに嘘はねえが、どうにも毒があっていけねえ。なか(廓)へいってまでその伝なんだから、妓にだって好かれる道理がねえや」
旅装の客は与平を見た。
「いま向うで」とその客が上方訛りのある調子で訊いた。「向うにいる人が、お幸さんがどうとかしたっていったようだが」
「へえ」与平が顔をあげた。「――なんで」
「いや、いま向うの人が」
旅装の客はそう云いかけて、ふと口をつぐんだ。この葭簀張りの中へ、女が一人ふらふらと入って来た。
「高次はどこ?」とその女が云った。「うちの高次が来ているでしょ。どこにいるの」
そこにいる者はみんな顔をあげた。だが、旅装の客は反対に眼をそむけ、頬杖をついて顔を隠すようにした。
女は縞小紋の袷に博多の帯をしめ、素足に男物の雪駄をはいていた。年は二十五、六から三十一、二のあいだであろう、老けているようでもあり若くみえるようでもある。おも長のふっくりした顔だちで、品もいいし、かなり美しい。際立って美しいといってもいいだろう。しかし、その美しさはどことなく非人間的で、能面か仏像のような印象を与える。眉をしかめたり眼まぜをしたり、媚びた嬌めかしい微笑をみせたりするが、それでもなお人間ばなれのした感じは消えなかった。
「ねえ、隠さないで教えてちょうだい」と女は云った。「あたし、あの人に坊やを見せるのよ。あの人はまだ坊やが生れたことを知らないんだもの。ねえ、高次はどこにいるの」
「こっちへいらっしゃい。高次は此処にいますぜ」竹造が云った。「それ見えるでしょう、こっちへ来てごらんなさい」
「からかっちゃあいけねえ」
主人の与平が出ていって、竹造を叱り、女をなだめた。
「家へお帰んなさい。家でみなさんが心配しているから」こう云って、外へ送り出そうとした。女は与平の手をふり放した。
「そんなことを云ったってきくもんじゃねえ」と六兵衛が云った。「その病気の出ているときには放っとくよりしようがねえんだ。いまにお梅どんが来るだろうから、うっちゃっとくがいい」
「あんまり親切にすると抱きつかれるぜ」勇吉がそう云って笑った。
「だいじょうぶよ、おじさん」女は与平に笑いかけた。「あたし、なんにもしやあしないわ。ただ、この坊やをあの人に見せるだけよ。あたし自分のすることぐらい、わかってるわ。ねえ、ちょっとでいいからあの人に逢わせて」
女は両手を(まるで赤児でも抱いているように)胸のところで輪にし、それをやさしく揺りながら飯台のほうへいった。
「しようがねえなあ」与平は鍋の前へ戻りながら云った。「おめえたち悪くからかっちゃあいけねえぜ。わけがわからなくなってるんだから、そんな病人をからかうのは罪だぜ」