2話 二
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「近所の娘さんか」と旅装の客が声をひそめて訊いた。彼は女のほうは見なかった。
「この表の京伝という麻問屋の娘ですよ」と与平が云った。「いつもは温和しいんだが、月の障りの前後になるとおかしくなりましてね。それにはいろいろ事情もあるんだが」
女は腰掛に掛け、そこにいる三人に自分の赤児を見ろとせがんでいた。蔵番の六兵衛が覗きこんで、可愛い丈夫そうな子だと褒めた。竹造と勇吉も褒めた。女は得意そうに眼を輝やかしたが、勇吉が「ちょっと抱かせてくれ」と云って手を出すと、この子は人見知りをするからだめだと云い、さも、その子が泣きだしでもしたかのように、腰掛から立って、躯を左右に揺りながらあやし始めた。
「おうよしよし、泣くんじゃないの」と女は云った。「いまにお父ちゃんに逢わせてあげるからね、泣かないのよ。坊やが泣くと母ちゃんまで泣きたくなるからね、おうよしよし」
「うるせえ、がきを泣かせるな」
飯台の端でどなる声がした。酔いつぶれたまま眠っていた老人である。腕を枕に飯台へのめって、死んだようになっていた老人がどなったのであった。――外にある提灯とはべつに、車屋台の横に仮名で「かいや」と書いた軒行燈が懸けてあり、それが囲いの中を照しているのだが、その行燈にとまっていた大きな蝶が、老人の声に驚きでもしたようにはたはたと飛びたち、囲いの中を狂ったように飛びまわってから、また元の行燈へ戻ってとまった。
「がきを外へ伴れてゆけ」と老人がまたどなった。「うるさくってしようがねえ、うるせえぞ」
「ほらみなさい坊や、よそのおじさんに怒られるじゃないの」女はおろおろと云った。「どうしてそんなに泣くの、泣かないでって云ったら、ねえ、どうしたの」女は腕の中を覗きこんだ。「どうしたのよ坊や。おっぱいが欲しいの。おなかがすいたのね。そうなの、おなかがすいてたのね。おうよしよし、可哀そうに、そうだったの」
「うるせえぞ」と老人がどなった。「どっかへ伴れてけ、そのがき、泣かせるな」
六兵衛が笑いだし、竹造と勇吉も笑った。
女は腰掛に掛け、衿をぐっとひろげて、左の乳房を出した。三人は笑いやめて、さりげなく眩しそうにそれを眺めた。仄かな行燈の光りの中で、彼女の胸のなめらかな白さと、乳暈の鴇色をした豊かな張りきった乳房とが、どきっとするほど嬌めかしく色めいてみえた。
「さあ、おっぱいよ。坊や、噛まないでね」女は右の手で重そうに乳房を支え、飲みよくしてやるように胸を反らせた。「あらあら、そんなに飲みたかったの、悪い母ちゃんね。いいから好きなだけおあがり。よしよし、よしよし」
旅装の客は、それを眼の隅で見ていた。それから与平に向って囁くように訊いた。
「子供があるんだね」
「とんでもねえ、まだ生娘ですよ」と与平が云った。「あっしは又聞きで詳しいことは知らねえが、十五年ばかりまえ、京伝の店にお幸さん――というのは、あの娘さんの名前ですが、お幸さんの婿になる筈の手代がいましてね。それがその祝言をあげようてえときになって、店の金を千両とか二千両とか持ってずらかっちまったんで」
「それあ違うよ与平さん」六兵衛が云った。云いながら自分の燗徳利と盃を持って、こっちへ来て、旅装の客の脇へ腰をおろし、「それあ、おめえの聞き違えだ」と与平に向って云った。「その手代――高次てえ名前だったが、その手代のずらかったのは、祝言のめえじゃあねえ、旦那の亡くなったときのこった」
「六兵衛さんは詳しいんだな」
「詳しいってわけじゃあねえんだ。おれも、そのちょっとめえから佐渡屋の飯を食うようになったばかりで、古くからのいきさつは知らねえんだが、その騒ぎのときのことはまだ覚えてる。あれあ京伝の旦那の亡くなったすぐあとのこったよ」
飯台のほうでは、女が静かに子守り唄をうたいだした。旅装の客は口のところまで盃を持ってゆき、そのまま飲みもせずに(口の前で盃を支えたまま)、ふと眼をつむった。
「その男は子飼いからの人間だったそうじゃねえか」と与平が云った。
「子飼いも子飼いだが」六兵衛は手酌で酒を注ぎ、その空になった燗徳利を与平に振ってみせ、「もう一本」と云って続けた。「おれの聞くところじゃあ、なんでも旦那の遠い身内で、孤児になったのを引取られたらしい。そのとき十になるか、ならねえかだったということだ」
「ほんとのことを云おうか」
突然そうどなる声がした。飯台の端に酔いつぶれているあの老人であった。やっぱり酔いつぶれたままで、どなったのである。
「ほんとのことを云うぜ」と老人は嗄れた声でどなった。「云っていいか」
話の腰を折られて、六兵衛がちょっと口をつぐんだ。すると、女のうたう子守り唄が、その僅かな沈黙のなかで、ひそやかに聞えた。
「そんなわけだから」と六兵衛が続けた。「旦那だって、おかみさんだって、表面はともかく心の中では、ほかの奉公人とはべつに考えていたろう。当人も珍しく気だての良い、温和しい性分だったそうだ」
「こっちを一つやって下さい」旅装の客が六兵衛に酒を差出した。「燗のつくまでのつなぎにあげましょう」
「さようですか、これあどうも」六兵衛は、きように受けた。「では遠慮なしに――」
「それじゃあ、なんだな」と与平が云った。「旦那は初めから、その男とお幸さんをいっしょにするつもりだったんだな」
「どうだかな」と六兵衛が云った。「そうだったかもしれねえが、その頃はお幸さんの上に男の子が一人いたそうだ。高次と同じ年で、これは十五の年に亡くなったそうだが、それからだって、高次の扱いに変ったところはなかった。二人を夫婦にするってえ話は、旦那が亡くなるちょっとめえに、親類を集めて披露したことだっていうぜ」
「それなのに、当人はずらかったんだな」
「店は左前になってたらしい。京伝といえば御府内でも知られた麻問屋だが、旦那が人が好いもんだからな」と六兵衛が云った。「なんでも悪い手形にひっかかったのがもとで、当時は相当に苦しい遣繰りだったということだ」
「それなのに野郎はずらかったのか」
「ちょうど仕切り前で、旦那が苦しい遣繰りをして金を集めた。無理な遣繰りだったんだろう。そいつが祟って卒中で倒れ、二日めにお亡くんなりなすった。すると高次のやつめ、その旦那の集めた金を掠って消えやがった」
「ひでえ野郎だ」
与平は、燗のついた徳利を六兵衛のまえへ置き、自分も(自分の酒を)一杯、すばやくあおった。
「ひでえことをする野郎だ。首くくりの足を引張るような野郎だ」
「掠った金が八百幾十両、――子飼いから一人前にしてもらった恩を忘れ、あれほど想い焦れているお幸さんを棄てて」と六兵衛は深い溜息をついた。「まったくひでえ野郎だ。世の中にゃあ、ひでえ野郎がいるもんだ」
女は低い声で子守り唄をうたっていた。