文章と言葉と

1話 文章と言葉と

653字 約1分 2007年8月3日 公開

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     文章

 僕に「文章に()りすぎる。さう()るな」といふ友だちがある。僕は別段必要以上に文章に凝つた覚えはない。文章は何よりもはつきり書きたい。頭の中にあるものをはつきり文章に現したい。僕は(ただ)それだけを心がけてゐる。それだけでもペンを持つて見ると、滅多(めつた)にすらすら行つたことはない。必ずごたごたした文章を書いてゐる。僕の文章上の苦心といふのは(もし苦心といひ得るとすれば)そこをはつきりさせるだけである。他人の文章に対する注文も僕自身に対するのと同じことである。はつきりしない文章にはどうしても感心することは出来ない。少くとも好きになることは出来ない。つまり僕は文章上のアポロ主義を奉ずるものである。

 僕は誰に(なん)といはれても、方解石(はうかいせき)のやうにはつきりした、曖昧(あいまい)を許さぬ文章を書きたい。

     言葉

 五十年(ぜん)の日本人は「神」といふ言葉を聞いた時、大抵(たいてい)髪をみづらに()ひ、首のまはりに勾玉(まがたま)をかけた男女の姿を感じたものである。しかし今日(こんにち)の日本人は――少くとも今日の青年は大抵(たいてい)長ながと顋髯(あごひげ)をのばした西洋人を感じてゐるらしい。言葉は同じ「神」である。が、心に浮かぶ姿はこの位すでに変遷(へんせん)してゐる。

  なほ見たし花に()()く神の顔(葛城山(かつらぎさん)

 僕はいつか小宮(こみや)さんとかういふ芭蕉(ばせを)の句を論じあつた。子規居士(しきこじ)の考へる所によれば、この句は諧謔(かいぎやく)(ろう)したものである。僕もその説に異存はない。しかし小宮さんはどうしても荘厳な句だと主張してゐた。画力は五百年、書力は八百年に尽きるさうである。文章の力の尽きるのは何百年位かかるものであらう?

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