西洋画のやうな日本画

1話 西洋画のやうな日本画

973字 約2分 2007年7月22日 公開

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 中央美術社の展覧会へ行つた。

 行つて見ると三つの室に、七十何点かの()が並んでゐる。それが皆日本画である。しかし唯の日本画ぢやない。いづれも経営惨憺(けいえいさんたん)()になつた、西洋画のやうな日本画である。まづ第一に絹や紙へ、日本絵具をなすりつけて、よくこれ程油絵じみた効果を与へる事が出来たものだと、その点に(いささか)敬意を表した。

 そこで素人(しろうと)考へに考へて見ると、かう云ふ画を描く以上、かう云ふ画の作者には、自然がかう云ふ風に見えるのに違ひない。逆に云へばかう云ふ風に自然が見えればこそ、かう云ふ画が此処(ここ)に出来上つたのだから、一応(いちおう)至極(しごく)御尤(ごもつと)もである。が、素人(しろうと)はかう云ふ画を見ると、何故(なぜ)これらの画の作家は、絵具皿の代りにパレツトを、紙や絹の代りにカンヴアスを用ひないかと(たづ)ねたくなる。その方が作者にも便利なら、僕等素人の見物にも難有(ありがた)くはないかと尋ねたくなる。

 しかしこれらの画の作者は、「我々には自然がかう見えるのだ。かう見えると云ふ意味は、西洋画風にと云ふ意味ぢやない。我々の日本画風にと云ふ意味だ」と、立派(りつぱ)な返答をするかも知れない。よろしい。それも心得た。が、これらの画の中には、どう考へても西洋画と選ぶ所のない画が沢山(たくさん)ある。たとへば吉田白流(よしだはくりう)氏の「奥州路(あうしうぢ)」の如き、遠藤教三(ゑんどうけうざう)氏の「嫩葉(ふたば)の森」の如き、乃至(ないし)穴山義平(あなやまぎへい)氏の「盛夏」の如きは、皆この(たぐひ)の作品である。もし「我々の日本画風」が、かう云ふものであるとすれば、それは遺憾(ゐかん)ながら僕なぞには、余り結構なものとは思はれない。まづ冷酷(れいこく)に批評すると、本来剃刀(かみそり)()るべき(ひげ)を、薙刀(なぎなた)で剃つて見せたと云ふ御手柄(おてがら)に感服するだけである。さうして一応感服した(あと)では、或は剃刀を使つた方が、もつとよく剃れはしなかつたらうかと尋ねたくなるだけである。

 (もつと)も七十何点かの画が、(ことごと)くこの種類だと云ふ次第ぢやない。たとへば畠山錦成(はたけやまきんせい)氏の「貴美子(きみこ)」の如きは、少くともかう云ふ西洋かぶれの(へい)は受けてゐない作品である。如何(いか)奇抜(きばつ)がつた所が、せめて此処(ここ)までは()ぎつけてゐないと、どうも僕等素人(しろうと)には、ちと新しい日本画としてのレエゾン・デエトルが覚束(おぼつか)ないかと思ふ。もつと書きたい事もないではないが、何しろ原稿を受け取りに来た人が、玄関に待つてゐる始末(しまつ)だから、今度はまづこの(へん)御免(ごめん)(かうむ)る事にする。悪口(わるぐち)岡目八目(をかめはちもく)の然らしむる所以(ゆゑん)だと大目(おほめ)に見て頂きたい。(九・七・十八)

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