2話 二
読み方を変える
このとつぜんの挑戦は単純なものではない、伊兵衛の神経はそれを感じた。そして袴の紐へ手をかけるのを見て、さえが止めにはいろうとしたが、伊兵衛は、「止めるな」と眼で知らせ、手早く裸になって出ていった。
宗之助は色の白い、しかし逞しく肥えたみごとな体だし、伊兵衛も痩せ形ではあるが、筋肉の発達した浅黒い膚で、どちらも若さの満ち溢れた「ちから盛り」という感じである。……伊兵衛は相手を射ぬくように見て、
「いい体だな」
と呟やき、大きく跳んで庭へ下りた。……中庭のひとところが芝生になっている、二人はそこへいってがっしと組み合った、さえは縁側の柱へ凭り、息を詰めながら見ていた。勝負はながくはかからなかった、肉体と肉体の相い撲つ快よい音が二三度し、両者の位置がぐるりと変ったとき、宗之助は巧みに足を払って、伊兵衛を大きく投げ倒した。しかし投げ倒した刹那、なにを思ったか、いきなり相手の上に馬乗りになり、
「怪しいぞ伊兵衛」
と歯をくいしめたような声で云った。
「わざと負けたな、本気ではあるまい」
「ばかなことを云うな」
「いや不審だ、いまの足は軽すぎた、きさまおれを盲目にする気か」
「よせ脇田、人が見ているぞ」
「云え、本気か嘘か」
宗之助は両手を伊兵衛の喉へかけた。
「……刀にかけて返答しろ」
「まいった、おれの負だよ」
宗之助は、
「たしかだな」
と叫んだが、それと同時に破顔しながら立った。つい一瞬まえまでの執拗な、昂ぶった表情は拭き去ったように消え、まるで人が変りでもしたようなおちつきと威厳をとり戻していた。……縁の柱に倚って、この有様を屏息しながら見ていたさえは、そのとき崩れるように其処へ膝をついてしまった。
その夜の出来事を、家へ帰ってから、伊兵衛はいろいろな角度から考えてみた。宗之助は少年時代から負けず嫌いだった、頭脳的にも肉体的にも常に孤りぬきんでなくては承知しなかった。そして事実それだけの才分に恵まれていたが、伊兵衛だけにはそういう意識をもたず、いつも互いに鞭韃し合うという風で、――おれたちが家督したら鳥羽藩に活きた政治をおこなおうぞ、などと云いあいしたものであった。
――だが今度の彼は違う。伊兵衛は、あらゆる方面から考えてそう思った、酒のしい方も尋常ではなかったし、相撲のときの勝負に対するくどさも昔の彼には無かったものだ。――彼はこの伊兵衛を凌ごうとしている、とつぜん相撲を挑んだ動機はさえにあったかも知れない、さえと自分とが二人きりでいるのを見て、若い血がなにかせずにいられなくなったのかも知れない、しかしあんなに勝ち負けに対する拘わり方は他に理由がある、そしてその真の理由はわからないが、おれを凌ごうとしている点だけはたしかだ。繰返し考えた結果、伊兵衛の掴み得たものはそれだけでしかなかった。
翌日まだ早く、九時まえという時刻に宗之助が訪ねて来た。あがると先に母の部屋へはいり、活溌な声で暫らく話していたが、やがて、
「ああ庭の梅がずいぶん大きくなりましたね」
と、云いながら伊兵衛の居間へやって来た。
「たのみがあるんだ」
彼は座につくとすぐそう云いだした。
「……明日から御政治向きの記録類を調べたい、御納戸、金穀、作事、港、各奉行所の記録方へ資料を揃えるよう、五老職の名で通達して貰いたいんだ」
「それは御墨付が無くてはできないだろう」
「そんなことはない、五年寄役には随時に記簿検察の職権がある筈だ」
「だがそれは事のあった場合に限る」
「事はあるよ」
宗之助は笑いもせずにそう云った。
「……国家老交替という大きな事が迫っている、理由はそれで充分だ、たのむ」
「謀るだけは謀ってみよう」
「いやいけない、是非とも必要なんだ、それも明日からということを断わっておく」
押付けるというのではない、自分の意志は必ず行なわれるという確信のある態度だった。そして伊兵衛が返辞をするのを待とうともせず、急に破顔しながら第二のたのみだと語を継いだ。
「……昨夜の佳麗はあの料亭のむすめだというが、其許はよほど親しくしているのか」
話題がとつぜん変ったので伊兵衛は返答に困った。
「そんなこともないが」
「だって家族の部屋で、二人差向いになっているくらいじゃないか」
「あの家へは小さい時からよく父に伴れられて食事をしにいった、それで普通よりは気安くしているというのだろうかな」
「あの女を嫁に欲しいんだ」
あっさりと宗之助は云った。
「いいむすめだ、あのしっとりとした美しさは類がない、縹緻も良いがあの縹緻は心ざまの良さが裏付けになっている、おれはいきなり楽器を思った、弾き手の腕しだいでどんな微妙な音をも出す名器、そんな感じだ、なんとしてでも嫁に欲しいんだが、其許から話してみて呉れないか」