3話 三
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「しかしそれは、両方の身分がゆるさないだろう」
「なにそういう点は自分で処理する、其許はただ相手へおれの意志を伝えて呉れればいいんだ」
「信じ兼ねるなあ」
伊兵衛は首を振った。
「……なにしろこっちは国家老になる体だし、向うは料亭のむすめだからな、少し違いすぎるよ」
「ばかを云え、江戸では芸者を妻にする者だって珍しくはないんだ、もし本人に来る気持があれば正式に人を立てるから、頼むぞ」
これで要談は済んだと云って、宗之助はさっさと立って帰っていった。……伊兵衛はそのあとで香をたき、もう、さかりを過ぎた庭の梅を見ながら、登城の刻の来るまでじっと考えこんでいた。昨夜の宴の酒から始まって、なにか決定的なものが動きだしている、それは単に「伊兵衛を凌ごう」とする程度のものではない、昨夜に続いて各奉行所の記簿検察、さえに対する求婚、こうして矢継ぎ早に、先手先手とのしかかってくる宗之助の態度には、たしかになにかを決定的にしようとする意志がある。
――宗之助と自分との、かつて最も親しかった関係が、今や新しい方向へ転換しようとしている、この転換がどんな意味をもつかまだわからない、しかし見はぐらない要心は欠かせないぞ。
伊兵衛は肚をきめるという感じでそう思い、やがて登城するために立った。……彼は肚をきめたのである、その日すぐ年寄役四人を集めて相談し、現国老である大槻又左衛門の加判を得て、各奉行所へ「記簿検閲」の旨を通告した。下城するとき脇田家へ寄ってその由を伝えると、宗之助は、
「では明日、金穀方から始めよう」
と云い、帰ろうとする伊兵衛の背中へ、
「桃園のことも忘れないで呉れ」
と、投げつけるように云った。
伊兵衛は振返って相手の眼を見、しずかにうなずいて門を出た。
その月二十日は伊兵衛の誕生日で、毎年ごく親しい者ばかり招いて、ささやかに祝うのが例になっている。その日も数人の客を招いて昼※と会った。父が亡くなってから、いちど伊兵衛が母を桃園へ食事をしに案内した。それ以来ときどき母は、親しい夫人たちと食事にゆき、桃園の家族とも口をきくようになった。
「さえというむすめはよいこですね」
そんなことを云い云いしたが、去年あたりからは時おり自宅へ呼んだりするようにさえなったのである。
「ここでいいでしょう」
伊兵衛がさえを呼びにゆくと、母はちょっと気遣わしそうな眼つきでそう云った。
「……話ならここでなさいな」
「いや少しこみいった事ですから」
伊兵衛はそう答えてさえを自分の居間へ伴れていった。……着ている物も化粧もかくべつ常と変ってはいないのだが、明るく冴え冴えとした顔つきや、楽しそうな起ち居のようすが、毎とは際立って美しくみえる、伊兵衛はちょっと眩しそうな表情で、暫らくさえの姿を見まもっていた。
「どうあそばしましたの、そんなにしげしげとごらんなすって」
「毎もとは人違いがしているようだから」
「珍らしいことを仰しゃいますこと」
さえは頭を傾げながらじっと伊兵衛を見た。
「……そう申せば貴方さまも常とはごようすが違うようにみえますわ」
「そうかも知れない、おれにはその理由があるんだから、そしてぶっつけに云ってしまうが、さえを嫁に欲しいという者があって、おれからさえに意向を訊いて呉れと頼まれたんだ」
「まあ、大変でございますこと」
「笑いごとではない、本当の話なんだ」
「ですけれどそんな」
と、さえは半信半疑に伊兵衛の眼を見つづけた。
「……そんなことがございますかしら、他処のむすめを欲しいからといって、親をも通さず直に気持を訊くなどということが」
「習慣というものはその人間の考え方と事情に依ってずいぶん変り兼ねないものだ、うちあけて云えば相手は脇田宗之助だよ」
「脇田さま、江戸からお帰りになったあの」
「去年あたりからだ」
伊兵衛はさえの追求するような眼から外向きながら、ふと述懐するような調子で云った。
「……おれは時どきさえの結婚する場合のことを考えた、おれのなかには初めて父に伴れられて食事をしにいった頃のさえの姿がそのまま成長しているので、結婚ということに結びつけて考えることはどうにもしっくりしない、なんだかおかしいんだ、しかし年齢がその時期に来ていることはたしかだ、いつかは、それもそう遠くない将来に、さえが眉をおとし歯を染める時が来る、……そう思うたびに考えたことは、どうか仕合せな結婚であるように、相手にもゆくすえにも恵まれた仕合せな縁組であるようにということだった」