4話 四
読み方を変える
伊兵衛の調子が思いがけないほどしみじみとしたものだったので、さえも我知らず眼を伏せ肩をすぼめるようにした。
「その意味から云うと」
と、伊兵衛はしずかに続けた。
「……脇田は才能もぬきんでているし、風格もあのとおりだし、身分も家柄も申分のない男だ、難を云えばあまり条件がさえと違いすぎる点だが、これも脇田が自分で手順をつけるという、彼のことだからこれはもちろん信じてもよいだろう、……おれから云えることはこれだけだが、さえはどう思うかね」
「まるでご自分のことのように熱心に仰しゃいますのね」
さえは顫えるような微笑をうかべながら眼をあげた。
「……他の方でしたら伺うのもいやですけれど、頼三郎さまのお言葉ですから考えてみます」
とつぜん幼な名を呼ばれて、伊兵衛はびっくりしたように振向いた。さえは頬のあたりを上気させ、かつて見たことのない、底に光を湛えたような眼でじっとこちらを見まもっていた。それは十八の乙女の情熱を表白するような、眼つきだった。伊兵衛は眼叩きをしながらその視線を避け、
「脇田はだいぶ急いでいるようだから、なるべく返辞は早いほうがいいな」
と云った。
数日して江戸から三人の青年が帰藩した。又木内膳、戸田大学、津村条太郎といい、宗之助が国老就任の場合その帷幄に入る者らしく、帰るとすぐ脇田家に詰めて出入りとも宗之助から離れず、城中での記簿検閲にもこの三人が補助の役をするようになった。……彼らの調査はしばしば越権にわたるほど思い切ったものだったが、国家老大槻又左衛門は温厚一方の人物だし、国老交替の期も迫っているので、あえて違法を鳴らす者もなく、寧ろあっけにとられて眺めているという感じだった。
「これは恐るべき無為だ」
宗之助は伊兵衛の顔を見るとよくそう云った。
「……いかに世が泰平であり、五万石に足らぬ小藩とはいえ、この政治の無能無策はなんとしたことだ、大げさに云えばこの十年間まるで眠っていたようなものだぞ、いったい年寄役としての其許からしてなにを視ていたのかね」
「政治のどこが眠っていたか、その言葉だけでは返辞のしようもないが、領内が平穏に治まって四民に不平がなければ」
「違う違う、そんなことじゃない」
宗之助は突っ放すように笑う。
「……百のものを百に切廻すのは個人の家政で、百のものを千にも万にも活かして働かすのが政治というものだ、しかしこんなことはいま云ってもしようがない、近いうちにその証拠を見せてやる、政治がどういうものかという証拠をな」
そしてそのあとで必ず、
「桃園の娘の返辞を早くたのむぞ」
と、くどく念を押すのだった。
ある日、下城して来る途中、めっきり春めいて来た海の色に誘われて、ふと桃園へ立ち寄った。まだ日の高い時刻で客もなく、海の見える二階座敷へ通って茶を求めた。……この家は茶だけの客もよく来るので、菓子もなかなか凝った物を作る。殊に「鶯」という名のものが美味で、伊兵衛は酒のあとでさえよく口にした。
さえの母親が茶と菓子を運んで来て、先月むすめの招かれた礼を述べて去ると、間もなくさえが縫いかけの着物を持って上って来た。ちょっと肩へ掛けてみて呉れと云う。
「どうするんだ」
「お丈が拝見したいんですの、裄は大丈夫だと思うのですけれど、なんですかお丈がちょっと……」
「なんだ母はまたそんなものを頼んだのか」
「わたくしからお願い申したのですわ」
伊兵衛が立つと、さえは後ろへまわって着物を肩にかけ、丈を当ってみて、
「はい有難うございました」
とそこへ坐った。そのまま針を持って、しずかに縫い続けるさえの姿を、伊兵衛は暫らくぼんやりと見まもっていた。
「先日の話は考えてみたか」
「…………」
さえは眼をあげた、それはこちらの心を覗きでもするような眼つきだった、それからそっと微笑しながらうなずいた。
「……はい」
「それで返辞は、どうなんだ」
「わたくしの一存では、本当にどう申上げようもございませんわ、だって本当にわからないのですもの」
「それでは返辞になっていないよ」
「もし頼さまが」
と、さえはまた彼の幼な名を呼んだ。
「……もしも頼さまが嫁げと仰しゃるんでしたら、……」
「おれの気持はこのあいだ話した筈だ」
「あのときは勧めて下さいましたわ」
「しかしおれの気持はさえの気持じゃない、脇田の知りたいのもさえ自身の気持だろう、問題はおまえの一生なんだ、他人の意見に縋るような弱いことでどうするか」
「ではお返辞を致しますわ」
さえは暫らくしてそう答えた。
「……わたくし、お受け申します」