幻影の盾

3話 幻影の盾(3)

1.3万字 約25分 1998年9月20日 公開

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の何に揺れてか縁を越して卓の上を流れる。その時ルーファスは再び起って夜鴉の城を、城の根に張る巌(いわお)もろともに海に落せと盃を眉のあたりに上げて隼(はやぶさ)の如く床の上に投げ下(くだ)す。一座の大衆はフラーと叫んで血の如き酒を啜(すす)る。ウィリアムもフラーと叫んで血の如き酒を啜る。シワルドもフラーと叫んで血の如き酒を啜りながら尻目にウィリアムを見る。ウィリアムは独り立って吾室(へや)に帰りて、人の入らぬ様に内側から締りをした。

 盾だ愈盾だとウィリアムは叫びながら室の中をあちらこちらと歩む。盾は依然として壁に懸っている。ゴーゴン・メジューサとも較ぶべき顔は例に由(よ)って天地人を合せて呪い、過去現世(げんぜ)未来に渉(わた)って呪い、近寄るもの、触るるものは無論、目に入らぬ草も木も呪い悉(つく)さでは已まぬ気色(けしき)である。愈この盾を使わねばならぬかとウィリアムは盾の下にとまって壁間を仰ぐ。室の戸を叩く音のする様な気合(けはい)がする。耳を峙(そばだ)てて聞くと何の音でもない。ウィリアムは又内懐(うちぶところ)からクララの髪毛(かみげ)を出す。掌(たなごごろ)に乗せて眺めるかと思うと今度はそれを叮嚀(ていねい)に、室の隅に片寄せてある三本脚の丸いテーブルの上に置いた。ウィリアムは又内懐へ手を入れて胸の隠しの裏(うち)から何か書付の様なものを攫(つか)み出す。室の戸口まで行って横にさした鉄の棒の抜けはせぬかと振り動かして見る。締(しまり)は大丈夫である。ウィリアムは丸机に倚(よ)って取り出した書付を徐(おもむ)ろに開く。紙か羊皮か慥(たし)かには見えぬが色合の古び具合から推すと昨今の物ではない。風なきに紙の表てが動くのは紙が己(おの)れと動くのか、持つ手の動くのか。書付の始めには「幻影の盾の由来」とかいてある。すれたものか文字のあとが微かに残っているばかりである。「汝(なんじ)が祖ウィリアムはこの盾を北の国の巨人に得たり。……」ここにウィリアムとあるはわが四世の祖だとウィリアムが独り言う。「黒雲の地を渡る日なり。北の国の巨人は雲の内より振り落されたる鬼の如くに寄せ来る。拳(こぶし)の如き瘤(こぶ)のつきたる鉄棒を片手に振り翳(かざ)して骨も摧(くだ)けよと打てば馬も倒れ人も倒れて、地を行く雲に血潮を含んで、鳴る風に火花をも見る。人を斬るの戦にあらず、脳を砕き胴を潰(つぶ)して、人という形を滅せざれば已まざる烈(はげ)しき戦なり。……」ウィリアムは猛(たけ)き者共よと眉をひそめて、舌を打つ。「わが渡り合いしは巨人の中の巨人なり。銅板に砂を塗れる如き顔の中に眼(まなこ)懸りて稲妻(いなずま)を射る。我を見て南方の犬尾を捲(ま)いて死ねと、かの鉄棒を脳天より下す。眼を遮(さえぎ)らぬ空の二つに裂くる響して、鉄の瘤はわが右の肩先を滑(す)べる。繋(つな)ぎ合せて肩を蔽(おお)える鋼鉄(はがね)の延板の、尤(もっと)も外に向えるが二つに折れて肉に入る。吾がうちし太刀先は巨人の盾を斜(ななめ)に斫(き)って戞(かつ)と鳴るのみ。……」ウィリアムは急に眼を転じて盾の方を見る。彼の四世の祖が打ち込んだ刀痕(とうこん)は歴然と残っている。ウィリアムは又読み続ける。「われ巨人を切る事三度(たび)、三度目にわが太刀は鍔元(つばもと)より三つに折れて巨人の戴く甲の鉢金の、内側に歪(ゆが)むを見たり。巨人の椎(つい)を下すや四たび、四たび目に巨人の足は、血を含む泥を蹴(け)て、木枯の天狗(てんぐ)の杉を倒すが如く、薊(あざみ)の花のゆらぐ中に、落雷も耻(は)じよとばかり※とはわが事ではないかとウィリアムは疑う。表に足音がして室(へや)の戸の前に留った様である。「巨人は薊の中に斃(たお)れて、薊の中に残れるはこの盾なり」と読み終ってウィリアムが又壁の上の盾を見ると蛇の毛は又揺(うご)き始める。隙間(すきま)なく縺(もつ)れた中を下へ下へと潜(もぐ)りて盾の裏側まで抜けはせぬかと疑わるる事もあり、又上へ上へともがき出て五寸の円の輪廓(りんかく)だけが盾を離れて浮き出はせぬかと思わるる事もある。下に動くときも上に揺り出す時も同じ様に清水(しみず)が滑(なめら)かな石の間を《めぐ》る時の様な音が出る。只その音が一本々々の毛が鳴って一束の音にかたまって耳朶(じだ)に達するのは以前と異なる事はない。動くものは必ず鳴ると見えるに、蛇の毛は悉く動いているからその音も蛇の毛の数だけはある筈であるが――如何(いか)にも低い。前の世の耳語(ささや)きを奈落(ならく)の底から夢の間に伝える様に聞かれる。ウィリアムは茫然(ぼうぜん)としてこの微音を聞いている。戦(いくさ)も忘れ、盾も忘れ、我身をも忘れ、戸口に人足の留ったも忘れて聞いている。ことことと戸を敲(たた)くものがある。ウィリアムは魔がついた様な顔をして動こうともしない。ことことと再び敲く。ウィリアムは両手に紙片を捧げたまま椅子を離れて立ち上る。夢中に行く人の如く、身を向けて戸口の方(かた)に三歩ばかり近寄る。眼は戸の真中を見ているが瞳孔(どうこう)に写って脳裏に印する影は戸ではあるまい。外の方では気が急(せ)くか、厚い樫(かし)の扉を拳(こぶし)にて会釈なく夜陰に響けと叩く。三度目に敲いた音が、物静かな夜を四方に破ったとき、偶像の如きウィリアムは氷盤を空裏に撃砕する如く一時に吾に返った。紙片を急に懐(ふところ)へかくす。敲く音は益逼(せま)って絶間なく響く。開けぬかと云う声さえ聞える。

「戸を敲くは誰(た)ぞ」と鉄の栓張(しんばり)をからりと外す。切り岸の様な額の上に、赤黒き髪の斜めにかかる下から、鋭どく光る二つの眼(まなこ)が遠慮なく部屋の中へ進んで来る。

「わしじゃ」とシワルドが、進めぬ先から腰懸の上にどさと尻を卸す。「今日の晩食に顔色が悪う見えたから見舞に来た」と片足を宙にあげて、残れる膝の上に置く。

「さした事もない」とウィリアムは瞬(またた)きして顔をそむける。

「夜鴉(よがらす)の羽搏(はばた)きを聞かぬうちに、花多き国に行く気はないか」とシワルドは意味有気(ありげ)に問う。

「花多き国とは?」

「南の事じゃ、トルバダウの歌の聞ける国じゃ」

「主(ぬし)がいにたいと云うのか」

「わしは行かぬ、知れた事よ。もう六つ、日の出を見れば、夜鴉の栖(す)を根から海へ蹴落(けおと)す役目があるわ。日の永い国へ渡ったら主の顔色が善くなろうと思うての親切からじゃ。ワハハハハ」とシワルドは傍若無人に笑う。

「鳴かぬ烏の闇に滅(め)り込むまでは……」と六尺一寸の身をのして胸板を拊(う)つ。

「霧深い国を去らぬと云うのか。その金色の髪の主となら満更嫌(いや)でもあるまい」と丸テーブルの上を指(ゆびさ)す。テーブルの上にはクララの髪が元の如く乗っている。内懐(うちぶところ)へ収めるのをつい忘れた。ウィリアムは身を伸(の)したまま口籠(くちごも)る。

「鴉に交る白い鳩を救う気はないか」と再び叢中(そうちゅう)に蛇を打つ。

「今から七日(なぬか)過ぎた後(あと)なら……」と叢中の蛇は不意を打れて已(やむ)を得ず首を擡(もた)げかかる。

「鴉を殺して鳩だけ生かそうと云う注文か……それは少し無理じゃ。然し出来ぬ事もあるまい。南から来て南へ帰る船がある。待てよ」と指を折る。「そうじゃ六日目の晩には間に合うだろう。城の東の船付場へ廻して、あの金色の髪の主を乗せよう。不断は帆柱の先に白い小旗を揚げるが、女が乗ったら赤に易(か)えさせよう。軍(いく)さは七日目の午過からじゃ、城を囲めば港が見える。柱の上に赤が見えたら天下太平……」

「白が見えたら……」とウィリアムは幻影の盾を睨(にら)む。夜叉(やしゃ)の髪の毛は動きもせぬ、鳴りもせぬ。クララかと思う顔が一寸見えて又もとの夜叉に返る。

「まあ、よいわ、どうにかなる心配するな。それよりは南の国の面白い話でもしょう」とシワルドは渋色の髭(ひげ)を無雑作に掻(か)いて、若き人を慰める為か話頭を転ずる。

「海一つ向(むこう)へ渡ると日の目が多い、暖かじゃ。それに酒が甘くて金が落ちている。土一升に金一升……うそじゃ無い、本間(ほんま)の話じゃ。手を振るのは聞きとも無いと云うのか。もう落付いて一所に話す折もあるまい。シワルドの名残の談義だと思うて聞いてくれ。そう滅入(めい)らんでもの事よ」宵に浴びた酒の気(き)がまだ醒(さ)めぬのかゲーと臭いのをウィリアムの顔に吹きかける。「いやこれは御無礼……何を話す積りであった。おおそれだ、その酒の湧(わ)く、金の土に交る海の向での」とシワルドはウィリアムを覗(のぞ)き込む。

「主(ぬし)が女に可愛(かあい)がられたと云うのか」

「ワハハハ女にも数多(あまた)近付はあるが、それじゃない。ボーシイルの会を見たと云う事よ」

「ボーシイルの会?」

「知らぬか。薄黒い島国に住んでいては、知らぬも道理じゃ。プロヴォンサルの伯とツールースの伯の和睦の会はあちらで誰れも知らぬものはないぞよ」

「ふむそれが?」とウィリアムは浮かぬ顔である。

「馬は銀の沓(くつ)をはく、狗(いぬ)は珠の首輪をつける……」

「金の林檎(りんご)を食う、月の露を湯に浴びる……」と平かならぬ人のならい、ウィリアムは嘲(あざけ)る様に話の糸を切る。

「まあ水を指さずに聴け。うそでも興があろう」と相手は切れた糸を接(つな)ぐ。

「試合の催しがあると、シミニアンの太守が二十四頭の白牛を駆って埒(らち)の内を奇麗に地ならしする。ならした後へ三万枚の黄金を蒔(ま)く。するとアグーの太守がわしは勝ち手にとらせる褒美(ほうび)を受持とうと十万枚の黄金を加える。マルテロはわしは御馳走役じゃと云うて蝋燭(ろうそく)の火で煮焼(にたき)した珍味を振舞うて、銀の皿小鉢を引出物に添える」

「もう沢山じゃ」とウィリアムが笑いながら云う。

「ま一つじゃ。仕舞にレイモンが今まで誰も見た事のない遊びをやると云うて先(ま)ず試合の柵(さく)の中へ三十本の杭(くい)を植える。それに三十頭の名馬を繋ぐ。裸馬ではない鞍(くら)も置き鐙(あぶみ)もつけ轡(くつわ)手綱(たづな)の華奢(きゃしゃ)さえ尽してじゃ。よいか。そしてその真中へ鎧、刀これも三十人分、甲は無論小手(こて)脛当(すねあて)まで添えて並べ立てた。金高(かねだか)にしたらマルテロの御馳走よりも、嵩(かさ)が張ろう。それから周りへ薪(たきぎ)を山の様に積んで、火を掛けての、馬も具足も皆焼いてしもうた。何とあちらのものは豪興をやるではないか」と話し終ってカラカラと心地よげに笑う。

「そう云う国へ行って見よと云うに主も余程意地張りだなあ」と又ウィリアムの胸の底へ探りの石を投げ込む。

「そんな国に黒い眼、黒い髪の男は無用じゃ」とウィリアムは自ら嘲る如くに云う。

「やはりその金色の髪の主の居る所が恋しいと見えるな」

「言うまでもない」とウィリアムはきっとなって幻影の盾を見る。中庭の隅(すみ)で鉄を打つ音、鋼を鍛える響、槌の音、ヤスリの響が聞え出す。夜はいつの間にかほのぼのと明け渡る。

 七日(なぬか)に逼(せま)る戦は一日の命を縮めて愈六日となった。ウィリアムはシーワルドの勧むるままにクララへの手紙を認(したた)める。心が急(せ)くのと、わきが騒がしいので思う事の万分(まんぶ)一も書けぬ。「御身の髪は猶わが懐にあり、只この使と逃げ落ちよ、疑えば魔多し」とばかりで筆を擱(お)く。この手紙を受取ってクララに渡す者はいずこの何者か分らぬ。その頃流行(はや)る楽人の姿となって夜鴉の城に忍び込んで、戦あるべき前の晩にクララを奪い出して舟に乗せる。万一手順が狂えば隙(すき)を見て城へ火をかけても志を遂げる。これだけの事はシーワルドから聞いた、そのあとは……幻影の盾のみ知る。

 逢うはうれし、逢わぬは憂し。憂し嬉しの源から珠を欺く涙が湧いて出る。この清き者に何故流れるぞと問えば知らぬと云う。知らぬとは自然と云う意か。マリアの像の前に、跪(ひざまず)いて祈願を凝せるウィリアムが立ち上ったとき、長い睫(まつげ)がいつもより重た気に見えたが、なぜ重いのか彼にも分らなかった。誠は誠を自覚すれどもその他を知らぬ。その夜の夢に彼れは五彩の雲に乗るマリアを見た。マリアと見えたるはクララを祭れる姿で、クララとは地に住むマリアであろう。祈らるる神、祈らるる人は異なれど、祈る人の胸には神も人も同じ願の影法師に過ぎぬ。祭る聖母は恋う人の為め、人恋うは聖母に跪く為め。マリアとも云え、クララとも云え。ウィリアムの心の中に二つのものは宿らぬ。宿る余地あらばこの恋は嘘(うそ)の恋じゃ。夢の続か中庭の隅で鉄を打つ音、鋼を鍛える響、槌の音、ヤスリの響が聞えて、例の如く夜が明ける。戦は愈せまる。

 五日目から四日目に移るは俯(ふ)せたる手を翻がえす間と思われ、四日目から三日目に進むは翻がえす手を故(もと)に還(かえ)す間と見えて、三日、二日より愈戦の日を迎えたるときは、手さえ動かすひまなきに襲い来る如く感ぜられた。「飛ばせ」とシーワルドはウィリアムを顧みて云う。並ぶ轡(くつわ)の間から鼻嵐が立って、二つの甲が、月下に躍(おど)る細鱗(さいりん)の如く秋の日を射返す。「飛ばせ」とシーワルドが踵(かかと)を半ば馬の太腹に蹴込む。二人の頭(かしら)の上に長く挿(さ)したる真白な毛が烈(はげ)しく風を受けて、振り落さるるまでに靡(なび)く。夜鴉の城壁を斜めに見て、小高き丘に飛ばせたるシーワルドが右手(めて)を翳(かざ)して港の方(かた)を望む。「帆柱に掲げた旗は赤か白か」と後(おく)れたるウィリアムは叫ぶ。「白か赤か、赤か白か」と続け様に叫ぶ。鞍壺(くらつぼ)に延び上ったるシーワルドは体(たい)をおろすと等しく馬を向け直して一散に城門の方へ飛ばす。「続け、続け」とウィリアムを呼ぶ。「赤か、白か」とウィリアムは叫ぶ。「阿呆(あほう)、丘へ飛ばすより壕(ほり)の中へ飛ばせ」とシーワルドはひたすらに城門の方へ飛ばす。港の入口には、埠頭(ふとう)を洗う浪を食って、胴の高い船が心細く揺れている。魔に襲われて夢安からぬ有様である。左右に低き帆柱を控えて、中に高き一本の真上には――「白だッ」とウィリアムは口の中で言いながら前歯で唇を噛(か)む。折柄(おりから)戦の声は夜鴉の城を撼(ゆる)がして、淋しき海の上に響く。

 城壁の高さは四(よ)丈、丸櫓(まるやぐら)の高さはこれを倍して、所々に壁を突き抜いて立つ。天の柱が落ちてその真中に刺された如く見ゆるは本丸であろう。高さ十九丈壁の厚(あつさ)は三丈四尺、これを四階に分って、最上の一層にのみ窓を穿(うが)つ。真上より真下に降(くだ)る井戸の如き道ありて、所謂(いわゆる)ダンジョンは尤(もっと)も低く尤も暗き所に地獄と壁一重を隔てて設けらるる。本丸の左右に懸け離れたる二つの櫓は本丸の二階から家根付の橋を渡して出入(しゅつにゅう)の便りを計る。櫓を環(めぐ)る三々五々の建物には厩(うまや)もある。兵士の住居(すまい)もある。乱を避くる領内の細民が隠るる場所もある。後ろは切岸(きりぎし)に海の鳴る音を聞き、砕くる浪の花の上に舞い下りては舞い上る鴎(かもめ)を見る。前は牛を呑むアーチの暗き上より、石に響く扉を下して、刎橋(はねばし)を鉄鎖に引けば人の踰(こ)えぬ濠(ほり)である。

 濠を渡せば門も破ろう、門を破れば天主も抜こう、志ある方に道あり、道ある方に向えとルーファスは打ち壊したる扉の隙より、黒金につつめる狼(おおかみ)の顔を会釈もなく突き出す。あとに続けと一人が従えば、尻を追えと又一人が進む。一人二人の後は只我先にと乱れ入る。むくむくと湧く清水に、こまかき砂の浮き上りて一度に漾(ただよ)う如く見ゆる。壁の上よりは、ありとある弓を伏せて蝟(い)の如く寄手の鼻頭(はなさき)に、鉤(かぎ)と曲る鏃(やじり)を集める。空を行く長き箭(や)の、一矢毎に鳴りを起せば数千の鳴りは一と塊りとなって、地上に蠢(うごめ)く黒影の響に和して、時ならぬ物音に、沖の鴎を驚かす。狂えるは鳥のみならず。秋の夕日を受けつ潜(くぐ)りつ、甲(かぶと)の浪鎧(よろい)の浪が寄せては崩れ、崩れては退(ひ)く。退くときは壁の上櫓の上より、傾く日を海の底へ震い落す程の鬨(とき)を作る。寄するときは甲の浪、鎧の浪の中より、吹き捲くる大風の息の根を一時にとめるべき声を起す。退く浪と寄する浪の間にウィリアムとシーワルドがはたと行き逢う。「生きておるか」とシーワルドが剣で招けば、「死ぬところじゃ」とウィリアムが高く盾を翳す。右に峙(そばだ)つ丸櫓の上より飛び来る矢が戞(かつ)と夜叉の額を掠(かす)めてウィリアムの足の下へ落つる。この時崩れかかる人浪は忽(たちま)ち二人の間を遮(さえぎ)って、鉢金を蔽(おお)う白毛の靡きさえ、暫(しばら)くの間に、旋(めぐ)る渦の中に捲き込まれて見えなくなる。戦は午(ご)を過ぐる二た時余りに起って、五時と六時の間にも未(ま)だ方(かた)付かぬ。一度びは猛(たけ)き心に天主をも屠(ほふ)る勢であった寄手の、何にひるんでか蒼然(そうぜん)たる夜の色と共に城門の外へなだれながら吐き出される。搏(う)つ音の絶えたるは一時(じ)の間か。暫らくは鳴りも静まる。

 日は暮れ果てて黒き夜の一寸(すん)の隙間なく人馬を蔽う中に、砕くる波の音が忽ち高く聞える。忽ち聞えるは始めて海の鳴るにあらず、吾が鳴りの暫らく已(や)んで空しき心の迎えたるに過ぎぬ。この浪の音は何里の沖に萌(きざ)してこの磯の遠きに崩るるか、思えば古き響きである。時の幾代を揺がして知られぬ未来に響く。日を捨てず夜を捨てず、二六時中繰り返す真理は永劫(えいごう)無極の響きを伝えて剣打つ音を嘲り、弓引く音を笑う。百と云い千と云う人の叫びの、はかなくて憐(あわれ)むべきを罵(ののし)るときかれる。去れど城を守るものも、城を攻むるものも、おのが叫びの纔(わず)かにやんで、この深き響きを不用意に聞き得たるとき耻(は)ずかしと思えるはなし。ウィリアムは盾に凝る血の痕(あと)を見て「汝われをも呪うか」と剣を以て三たび夜叉の面を叩く。ルーファスは「烏なれば闇にも隠れん月照らぬ間に斬(き)って棄よ」と息捲く。シーワルドばかりは額の奥に嵌(は)め込まれたる如き双の眼(まなこ)を放って高く天主を見詰めたるまま一言(こと)もいわぬ。

 海より吹く風、海へ吹く風と変りて、砕くる浪と浪の間にも新たに天地の響を添える。塔を繞(めぐ)る音、壁にあたる音の次第に募ると思ううち、城の内にて俄(にわ)かに人の騒ぐ気合(けはい)がする。それが漸々(だんだん)烈しくなる。千里の深きより来(きた)る地震の秒を刻み分を刻んで押し寄せるなと心付けばそれが夜鴉の城の真下で破裂したかと思う響がする。――シーワルドの眉(まゆ)は毛虫を撲(う)ちたるが如く反(そ)り返る。――櫓の窓から黒烟(けむ)りが吹き出す。夜の中に夜よりも黒き烟りがむくむくと吹き出す。狭き出口を争うが為めか、烟の量は見る間に増して前なるは押され、後(あと)なるは押し、並ぶは互に譲るまじとて同時に溢(あふ)れ出(い)ずる様に見える。吹き募る野分(のわき)は真(ま)ともに烟を砕いて、丸く渦を巻いて迸(ほとばし)る鼻を、元の如く窓へ圧し返そうとする。風に喰い留められた渦は一度になだれて空に流れ込む。暫くすると吹き出す烟りの中に火の粉が交じり出す。それが見る間に殖える。殖えた火の粉は烟諸共(もろとも)風に捲かれて大空に舞い上る。城を蔽う天の一部が櫓を中心として大なる赤き円を描いて、その円は不規則に海の方(かた)へと動いて行く。火の粉を梨地(なしじ)に点じた蒔絵(まきえ)の、瞬時の断間(たえま)もなく或(あるい)は消え或は輝きて、動いて行く円の内部は一点として活きて動かぬ箇所はない。――「占めた」とシーワルドは手を拍(う)って雀躍(こおどり)する。

 黒烟りを吐き出して、吐き尽したる後は、太き火(かえん)が棒となって、熱を追うて突き上る風諸共、夜の世界に流矢の疾(と)きを射る。飴(あめ)を煮て四斗樽(だる)大の喞筒(ポンプ)の口から大空に注ぐとも形容される。沸(た)ぎる火の闇に詮(せん)なく消ゆるあとより又沸ぎる火が立ち騰(のぼ)る。深き夜を焦せとばかり煮え返る《ほのお》の声は、地にわめく人の叫びを小癪(こしゃく)なりとて空一面に鳴り渡る。鳴る中には砕けて砕けたる粉が舞い上り舞い下(さが)りつつ海の方へと広がる。濁る浪の憤る色は、怒る響と共に薄黒く認めらるる位なれば櫓の周囲は、煤(すす)を透(とお)す日に照さるるよりも明かである。一枚の火の、丸形に櫓を裏(つつ)んで飽き足らず、横に這うて《ひめがき》の胸先にかかる。炎は尺を計って左へ左へと延びる。たまたま一陣の風吹いて、逆に舌先を払えば、左へ行くべき鋒(ほこさき)を転じて上に向う。旋(めぐ)る風なれば後ろより不意を襲う事もある。順に撫でてを馳(か)け抜ける時は上に向えるが又向き直りて行き過ぎし風を追う。左へ左へと溶けたる舌は見る間に長くなり、又広くなる。果は此所(ここ)にも一枚の火が出来る、かしこにも一枚の火が出来る。火に包まれたるの上を黒き影が行きつ戻りつする。たまには暗き上から明るき中へ消えて入ったぎり再び出て来ぬのもある。

 焦(や)け爛(ただ)れたる高櫓の、機熟してか、吹く風に逆(さから)いてしばらくはと共に傾くと見えしが、奈落までも落ち入らでやはと、三分二を岩に残して、倒(さか)しまに崩れかかる。取り巻くの一度にパッと天地を燬(や)く時、の上に火の如き髪を振り乱して佇(たたず)む女がある。「クララ!」とウィリアムが叫ぶ途端に女の影は消える。焼け出された二頭の馬が鞍付のまま宙を飛んで来る。

 疾く走る尻尾(しりお)を攫(つか)みて根元よりスパと抜ける体なり、先なる馬がウィリアムの前にて礑(はた)ととまる。とまる前足に力余りて堅き爪の半ばは、斜めに土に喰い入る。盾に当る鼻づらの、二寸を隔てて夜叉の面に火の息を吹く。「四つ足も呪われたか」とウィリアムは我とはなしに鬣(たてがみ)を握りてひらりと高き脊に跨(また)がる。足乗せぬ鐙(あぶみ)は手持無沙汰に太腹を打って宙に躍る。この時何物か「南の国へ行け」と鉄被(き)る剛(かた)き手を挙げて馬の尻をしたたかに打つ。「呪われた」とウィリアムは馬と共に空(くう)を行く。

 ウィリアムの馬を追うにあらず、馬のウィリアムに追わるるにあらず、呪いの走るなり。風を切り、夜を裂き、大地に疳(かん)走(ばし)る音を刻んで、呪いの尽くる所まで走るなり。野を走り尽せば丘に走り、丘を走り下れば谷に走り入る。夜は明けたのか日は高いのか、暮れかかるのか、雨か、霰(あられ)か、野分(のわき)か、木枯か――知らぬ。呪いは真一文字に走る事を知るのみじゃ。前に当るものは親でも許さぬ、石蹴る蹄(ひづめ)には火花が鳴る。行手を遮(さえぎ)るものは主(しゅ)でも斃(たお)せ、闇吹き散らす鼻嵐を見よ。物凄き音の、物凄き人と馬の影を包んで、あっと見る睫(まつげ)の合わぬ間に過ぎ去るばかりじゃ。人か馬か形か影かと惑うな、只呪いその物の吼(たけ)り狂うて行かんと欲する所に行く姿と思え。

 ウィリアムは何里飛ばしたか知らぬ。乗り斃した馬の鞍に腰を卸して、右手(めて)に額を抑えて何事をか考え出(いだ)さんと力(つと)めている。死したる人の蘇(よみがえ)る時に、昔しの我と今の我との、あるは別人の如く、あるは同人の如く、繋(つな)ぐ鎖りは情けなく切れて、然(しか)も何等かの関係あるべしと思い惑う様である。半時なりとも死せる人の頭脳には、喜怒哀楽の影は宿るまい。空(むな)しき心のふと吾に帰りて在りし昔を想い起せば、油然(ゆうぜん)として雲の湧(わ)くが如くにその折々は簇(むら)がり来(きた)るであろう。簇がり来るものを入るる余地あればある程、簇がる物は迅速に脳裏を馳け廻(めぐ)るであろう。ウィリアムが吾に醒(さ)めた時の心が水の如く涼しかっただけ、今思い起すかれこれも送迎に遑(いとま)なきまで、糸と乱れてその頭を悩ましている。出陣、帆柱の旗、戦……と順を立てて排列して見る。皆事実としか思われぬ。「その次に」と頭の奧を探るとぺらぺらと黄色なが見える。「火事だ!」とウィリアムは思わず叫ぶ。火事は構わぬが今心の眼に思い浮べたの中にはクララの髪の毛が漾(ただよ)っている。何故あの火の中へ飛び込んで同じ所で死ななかったのかとウィリアムは舌打ちをする。「盾の仕業(しわざ)だ」と口の内でつぶやく。見ると盾は馬の頭を三尺ばかり右へ隔てて表を空にむけて横わっている。

「これが恋の果か、呪(のろ)いが醒めても恋は醒めぬ」とウィリアムは又額を抑えて、己れを煩悶(はんもん)の海に沈める。海の底に足がついて、世に疎(うと)きまで思い入るとき、何処(いずく)よりか、微(かす)かなる糸を馬の尾で摩(こす)る様な響が聞える。睡るウィリアムは眼を開いてあたりを見廻す。ここは何処とも分らぬが、目の届く限りは一面の林である。林とは云え、枝を交えて高き日を遮ぎる一抱(かか)え二抱えの大木はない。木は一坪に一本位の割でその大(おおき)さも径六七寸位のもののみであろう。不思議にもそれが皆同じ樹である。枝が幹の根を去る六尺位の所から上を向いて、しなやかな線を描いて生えている。その枝が聚(あつ)まって、中が膨(ふく)れ、上が尖(と)がって欄干の擬宝珠(ぎぼうしゅ)か、筆の穂の水を含んだ形状をする。枝の悉くは丸い黄な葉を以(もっ)て隙間なきまでに綴られているから、枝の重なる筆の穂は色の変る、面長な葡萄の珠で、穂の重なる林の態(さま)は葡萄の房の累々と連なる趣きがある。下より仰げば少しずつは空も青く見らるる。只眼を放つ遙(はる)か向(むこう)の果に、樹の幹が互(たがい)に近づきつ、遠(とおざ)かりつ黒くならぶ間に、澄み渡る秋の空が鏡の如く光るは心行く眺めである。時々鏡の面を羅(うすもの)が過ぎ行様(さま)まで横から見える。地面は一面の苔(こけ)で秋に入(い)って稍(やや)黄食(きば)んだと思われる所もあり、又は薄茶に枯れかかった辺もあるが、人の踏んだ痕(あと)がないから、黄は黄なり、薄茶は薄茶のまま、苔と云う昔しの姿を存している。ここかしこに歯朶(しだ)の茂りが平かな面を破って幽情を添えるばかりだ。鳥も鳴かぬ風も渡らぬ。寂然(せきぜん)として太古の昔を至る所に描き出しているが、樹の高からぬのと秋の日の射透すので、さほど静かな割合に怖しい感じが少ない。その秋の日は極(きわ)めて明(あきら)かな日である。真上から林を照らす光線が、かの丸い黄な無数の葉を一度に洗って、林の中は存外明るい。葉の向きは固(もと)より一様でないから、日を射返す具合も悉く違う。同じ黄ではあるが透明、半透明、濃き、薄き、様々の趣向をそれぞれに凝(こら)している。それが乱れ、雑(まじ)り、重なって苔の上を照らすから、林の中に居るものは琥珀(こはく)の屏(びょう)を繞(めぐ)らして間接に太陽の光りを浴びる心地である。ウィリアムは醒めて苦しく、夢に落付くという容子(ようす)に見える。糸の音(ね)が再び落ちつきかけた耳朶(じだ)に響く。今度は怪しき音の方へ眼をむける。幹をすかして空の見える反対の方角を見ると――西か東か無論わからぬ――爰(ここ)ばかりは木が重なり合(おう)て一畝(ひとせ)程は際立(きわだ)つ薄暗さを地に印する中に池がある。池は大きくはない、出来損(そこな)いの瓜(うり)の様に狭き幅を木陰に横たえている。これも太古の池で中に湛(たた)えるのは同じく太古の水であろう、寒気がする程青い。いつ散ったものか黄な小さき葉が水の上に浮いている。ここにも天(あめ)が下の風は吹く事があると見えて、浮ぶ葉は吹き寄せられて、所々にかたまっている。群を離れて散っているのはもとより数え切れぬ。糸の音は三たび響く。滑(なめら)かなる坂を、護謨(ゴム)の輪が緩々(ゆるゆる)練り上る如く、低くきより自然に高き調子に移りてはたとやむ。

 ウィリアムの腰は鞍(くら)を離れた。池の方に眼を向けたまま音ある方(かた)へ徐(おもむ)ろに歩を移す。ぼろぼろと崩るる苔の皮の、厚く柔らかなれば、あるく時も、坐れる時の如く林の中は森(しん)として静かである。足音に我が動くを知るものの、音なければ動く事を忘るるか、ウィリアムは歩むとは思わず只ふらふらと池の汀(みぎわ)まで進み寄る。池幅の少しく逼(せま)りたるに、臥(ふ)す牛を欺く程の岩が向側から半ば岸に沿うて蹲踞(うずくま)れば、ウィリアムと岩との間は僅(わず)か一丈余ならんと思われる。その岩の上に一人の女が、眩(まば)ゆしと見ゆるまでに紅なる衣を着て、知らぬ世の楽器を弾(ひ)くともなしに弾いている。碧(みど)り積む水が肌に沁(し)む寒き色の中に、この女の影を倒(さか)しまに《ひた》す。投げ出(いだ)したる足の、長き裳(もすそ)に隠くるる末まで明かに写る。水は元より動かぬ、女も動かねば影も動かぬ。只弓を擦(す)る右の手が糸に沿うてゆるく揺(うご)く。頭(かしら)を纏(まと)う、糸に貫いた真珠の飾りが、湛然(たんぜん)たる水の底に明星程の光を放つ。黒き眼の黒き髪の女である。クララとは似ても似つかぬ。女はやがて歌い出す。

「岩の上なる我(われ)がまことか、水の下なる影がまことか」

 清く淋(さび)しい声である。風の度(わた)らぬ梢(こずえ)から黄な葉がはらはらと赤き衣にかかりて、池の面に落ちる。静かな影がちょと動いて、又元に還る。ウィリアムは茫然(ぼうぜん)として佇(たた)ずむ。

「まこととは思い詰めたる心の影を。心の影を偽りと云うが偽り」女静かに歌いやんで、ウィリアムの方(かた)を顧みる。ウィリアムは瞬きもせず女の顔を打ち守る。

「恋に口惜(くや)しき命の占(うら)を、盾に問えかし、まぼろしの盾」

 ウィリアムは崖(がけ)を飛ぶ牡鹿(おじか)の如く、踵(くびす)をめぐらして、盾をとって来る。女「只懸命に盾の面(おもて)を見給え」と云う。ウィリアムは無言のまま盾を抱(いだ)いて、池の縁に坐る。寥廓(りょうかく)なる天の下、蕭瑟(しょうしつ)なる林の裏(うち)、幽冷なる池の上に音と云う程の音は何(なん)にも聞えぬ。只ウィリアムの見詰めたる盾の内輪が、例の如く環(めぐ)り出すと共に、昔しながらの微(かす)かな声が彼の耳を襲うのみである。「盾の中に何をか見る」と女は水の向より問う。「ありとある蛇の毛の動くは」とウィリアムが眼を放たずに答える。「物音は?」「鵞筆(がひつ)の紙を走る如くなり」

「迷いては、迷いてはしきりに動く心なり、音なき方に音をな聞きそ、音をな聞きそ」と女半ば歌うが如く、半ば語るが如く、岸を隔ててウィリアムに向けて手を波の如くふる。動く毛の次第にやみて、鳴る音も自(おのず)から絶ゆ。見入る盾の模様は霞(かす)むかと疑われて程なく盾の面に黒き幕かかる。見れども見えず、聞けども聞えず、常闇(とこやみ)の世に住む我を怪しみて「暗し、暗し」と云う。わが呼ぶ声のわれにすら聞かれぬ位幽(かす)かなり。

「闇に烏を見ずと嘆かば、鳴かぬ声さえ聞かんと恋わめ、――身をも命も、闇に捨てなば、身をも命も、闇に拾わば、嬉しかろうよ」と女の歌う声が百尺(せき)の壁を洩(も)れて、蜘蛛(くも)の囲(い)の細き通い路より来(きた)る。歌はしばし絶えて弓擦る音の風誘う遠きより高く低く、ウィリアムの耳に限りなき清涼の気を吹く。その時暗き中に一点白玉(はくぎょく)の光が点ぜらるる。見るうちに大きくなる。闇のひくか、光りの進むか、ウィリアムの眼の及ぶ限りは、四面空蕩(くうとう)万里の層氷を建て連らねたる如く豁(ほがら)かになる。頭を蔽う天もなく、足を乗する地もなく冷瓏(れいろう)虚無の真中(まなか)に一人立つ。

「君は今いずくに居(お)わすぞ」と遙かに問うはかの女(おんな)の声である。

「無の中(うち)か、有の中か、玻璃(ハリ)瓶(びん)の中か」とウィリアムが蘇(よみ)がえれる人の様に答える。彼の眼はまだ盾を離れぬ。

 女は歌い出す。「以太利亜(イタリア)の、以太利亜の海紫に夜明けたり」

「広い海がほのぼのとあけて、……橙色(だいだいいろ)の日が浪から出る」とウィリアムが云う。彼の眼は猶盾を見詰めている。彼の心には身も世も何もない。只盾がある。髪毛の末から、足の爪先に至るまで、五臓六腑を挙げ、耳目口鼻(じもくこうび)を挙げて悉く幻影の盾である。彼の総身は盾になり切っている。盾はウィリアムでウィリアムは盾である。二つのものが純一無雑の清浄界(しょうじょうかい)にぴたりと合(お)うたとき――以太利亜の空は自(おのず)から明けて、以太利亜の日は自から出る。

 女は又歌う。「帆を張れば、舟も行くめり、帆柱に、何を掲げて……」

「赤だっ」とウィリアムは盾の中に向って叫ぶ。「白い帆が山影を横(よこぎ)って、岸に近づいて来る。三本の帆柱の左右は知らぬ、中なる上に春風(しゅんぷう)を受けて棚(たな)曳(び)くは、赤だ、赤だクララの舟だ」……舟は油の如く平(たいら)なる海を滑って難なく岸に近づいて来る。舳(へさき)に金色(きんいろ)の髪を日に乱して伸び上るは言うまでもない、クララである。

 ここは南の国で、空には濃き藍(あい)を流し、海にも濃き藍を流してその中に横(よこた)わる遠山(とおやま)もまた濃き藍を含んでいる。只春の波のちょろちょろと磯を洗う端だけが際限なく長い一条の白布と見える。丘には橄欖(かんらん)が深緑りの葉を暖かき日に洗われて、その葉裏には百(もも)千鳥(ちどり)をかくす。庭には黄な花、赤い花、紫の花、紅(くれない)の花――凡(すべ)ての春の花が、凡ての色を尽くして、咲きては乱れ、乱れては散り、散りては咲いて、冬知らぬ空を誰(たれ)に向って誇る。

 暖かき草の上に二人が坐って、二人共に青絹を敷いた様な海の面を遙かの下に眺めている。二人共に斑(ふ)入(い)りの大理石の欄干に身を靠(もた)せて、二人共に足を前に投げ出している。二人の頭の上から欄干を斜めに林檎(りんご)の枝が花の蓋(かさ)をさしかける。花が散ると、あるときはクララの髪の毛にとまり、ある時はウィリアムの髪の毛にかかる。又ある時は二人の頭と二人の袖にはらはらと一度にかかる。枝から釣るす籠(かご)の内で鸚鵡(おうむ)が時々けたたましい音(ね)を出す。

「南方の日の露に沈まぬうちに」とウィリアムは熱き唇をクララの唇につける。二人の唇の間に林檎の花の一片(ひとひら)がはさまって濡(ぬ)れたままついている。

「この国の春は長(とこし)えぞ」とクララ窘(たしな)める如くに云う。ウィリアムは嬉しき声に Druerie ! と呼ぶ。クララも同じ様に Druerie ! と云う。籠の中なる鸚鵡が Druerie ! と鋭どき声を立てる。遙か下なる春の海もドルエリと答える。海の向うの遠山もドルエリと答える。丘を蔽う凡ての橄欖(かんらん)と、庭に咲く黄な花、赤い花、紫の花、紅の花――凡ての春の花と、凡ての春の物が皆一斉にドルエリと答える。――これは盾の中の世界である。しかしてウィリアムは盾である。

 百年の齢(よわ)いは目出度(めでたく)も難有(ありがた)い。然しちと退屈じゃ。楽(たのしみ)も多かろうが憂も長かろう。水臭い麦酒(ビール)を日毎に浴びるより、舌を焼く酒精(アルコール)を半滴味わう方が手間がかからぬ。百年を十で割り、十年を百で割って、剰(あま)すところの半時に百年の苦楽を乗じたらやはり百年の生を享(う)けたと同じ事じゃ。泰山もカメラの裏(うち)に収まり、水素も冷ゆれば液となる。終生の情けを、分(ふん)と縮め、懸命の甘きを点と凝らし得(う)るなら――然しそれが普通の人に出来る事だろうか? ――この猛烈な経験を嘗(な)め得たものは古往今来ウィリアム一人(にん)である。(二月十八日)

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