おさん

5話 一の三

2,280字 約5分 2022年6月22日 公開

読み方を変える
字の大きさ
行の間隔
1行の長さ
書体
配色
組み方

 初めてあんたにお茶を持っていったとき、あんたの顔を見るなり好きになったのよ、とおさんは云った。出仕事にいっていて、親方と打合せがあって帰り、店で話していたとき茶を持って来たのだという。こっちはまるで知らなかった。女に不自由しなかったというより、仕事で頭がいっぱいだったからだ。同じとしごろでも、友達なかまでは暇があるとそんな話ばかりする者があるし、いろごとなんぞにはまるっきり無頓着な者もいる。世の中に男と女がある以上、男が女をおもい女が男をおもうのは当然だろう。けれども、人間はそれだけで生きているものじゃあない、生きるためにはまず仕事というものがあるし、人並なことをしていたんでは満足に生きることはできない。いくらかましなくらしをしようと思えば、人にまねのできない仕事、誰も気づかないくふう、新しい手、といったものを作り出さなければならない。それはいつもたやすいことじゃあない、ほんの爪の先ほどのくふうでも、あぶら汗をながし、しんの萎(な)えるほど苦しむことが少なくない。だからこそ、一とくふう仕上げたよろこびも大きいのだろう。男にとっては、惚れた女をくどきおとすより、そういうときのよろこびのほうが深く大きいものだ。女との情事はめしのようだと云っては悪いか。人間が腹がへるとめしが食いたくなるが、喰べてしまえばめしのことなどは考えない。おれはわりにおくてだったが、それでもおさんと夫婦になるまえにかなりな数の女を知っていた。いろ恋というのではない、ちょうど腹がへってめしを食うようにだ。あとはさっぱりして、大部分の相手が顔も名も覚えてはいなかった。なかにいた女とは二年越し馴染(なじ)んだけれども、ただ口に馴れたという気やすさのためだったと思う。そんなふうだから、おさんのことなども眼にはいらなかったのだが、夫婦になってからは、それがびっくりするほど変った。夫婦の情事は空腹を満たすものではない、そういうものとはまるで違うのだ。単に男と女のまじわりではなく、一生の哀楽をともにする夫婦のお互いをむすびつけあうことなのだ。そのむすびつきのうちにお互いを慥(たし)かめあうことなのだ。おれがそう気づいたとき、おれをあんなにのぼせあがらせたおさんの躯が、おさんをおれから引きはなすことに気がついた。おさん自身でも止めることのできない、あの激しい陶酔がはじまると、おさんはそこにいなくなってしまう。完全な譫妄(せんもう)状態で、生きているのはその感覚だけだ。呻吟(しんぎん)も嗚咽(おえつ)もおさんのものではないし、ちぎれちぎれな呼びかけや訴えにもまったく意味がない。それはおれの知っているどんな女の場合にも似ていなかった。情事とはお互いがお互いの中に快楽を認めあうことだろう、与えることと受け止めることのよろこびではないか。おさんはそうではないのだ。初めはそうだったが、日が経つにしたがってそうではなくなった。よろこびが始まるとともに自分も相手もいなくなってしまい、ただその感覚だけしか存在しなくなる。男がもっとも男らしく、女がもっとも女らしくむすびあう瞬間に、むすびあう一点だけが眼をさました生き物のように躍動しはじめ、その他のものはすべて押しのけられるのだ。それは陶酔ではなく、むしろそのたびになにかを失ってゆくような感じだった。そうしてやがて、その譫妄状態の中で、おさんは男の名を呼ぶようになった。初めてそれを聞いたときの気持はひどいものだった。失神しているようなありさまの中で、一と言はっきりと人の名を呼んだのだ。おれはいきなり胸へ錐(きり)でも突込まれたように、ほかに男がいるなと思った。いまでもあのときの気持は忘れることができない、ほかの場合ならともかく、そういう状態のさなかなのだ。自制をなくしているから、ふだん心に隠していたことが口に出た、そう思うのがあたりまえだろう。おれはおさんに男ができたと思った。ほかのこまかい感情をとりあげるまでもない。おれはおさんの肩を掴んで揺り起こし、相手はどこの誰だと問い詰めた。おさんがはっきり意識をとり戻すまでにはいつも暇どる、おれはかっとなっていたから、引きずり起こして頬を打った。ごめんなさい、堪忍して、とおさんはまだはっきりしないままあやまった。おれはなお二つ三つ平手打ちをくれ、おさんは怯(おび)えたようになって眼をさました。どうしたの、なにか気に障るようなことをしたの、とおさんが訊き返した。おれは殺気立っていた。本当に殺してやりたいとさえ思っていたのだ。おさんはあっけにとられ、おれの気が狂いでもしたのではないかというような眼つきで、じっとおれの顔をみつめていた。それからにっと微笑し、固くちぢめていた肩の力を抜くと、大きな息をつきながら云った。ああ驚いた。なにごとかと思ったわ、いやあねえあんたらしくもない、あたしが殺されたってそんなことのできる女じゃないってこと、あんたにはちゃんとわかってるじゃないの。いいえ知らなかったわ、あのときになるとあたしなんにもわからなくなるの、とおさんは云った。なんにも見えないし聞えもしないし、自分がどうなっているかもわからないのよ。そうね、そんな名前には覚えがないわ、ええ、死んだお父っつぁんの名がそうだったわ、でもまさかあんなときに、お父っつぁんの名を呼ぶなんていうことがあるかしら、そしておさんは肩をすくめながら喉で笑った。なにかを隠しているとか、ごまかそうとしている、といったような感じはまったくなかった。うれしいわ、あんたにやきもちをやいてもらえるなんて、こんなうれしいことはないわ、おさんはそう云っておれに抱きついた。

目次に戻る

目次