8話 二の四
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「海が荒れてるのかしら」とおふさが云った、「あれ、波の音でしょ」
「酒がないんじゃないか」
「いまそう云ったところよ、あたしにもちょっと飲ませて」
「なんだ、すすめたときは首を振ったくせに」参太は燗徳利を振ってみてから、それをおふさに渡した、「自分でやってくれ」
「あら、薄情なのね」
「おれは酌がへたなんだ」
「そのお猪口でいただきたいわ」
「そっちにあるじゃないか」
「そのお猪口でいただきたいの」と云ってからおふさはいそいで指を一本立てた、「あ、大丈夫、あんたは女房持ち、わかってますよ」
参太は自分の盃をやった。そう海が近いとも思えないのに、波の音がかなり高く聞えて来た。まもなく、三十四五になるぶあいそな女中が、甘煮と酒を持ってあらわれた。箱根と違って、この大磯の宿は気温も高く、湯あがりの肌には浴衣一枚で充分だった。女中が去るのを待って、おふさは新しい盃を参太に取ってやり、酌をした。
「それからどうした」
「やっぱり半年そこそこ」とおふさが答えた、「その男とも別れちゃったわ」
「浮気性なんだな」
「そうじゃないとは云えないわね、自分ではいつも本気だったし、一生苦労をともにしようと思うんだけれど、どの男もすぐに底がみえて退屈で、退屈でやりきれなくなっちまうのよ」
「みれんは残らずか」
「そんなのは一人もなかったわ」おふさはそっと酒を啜った、「――浮気性っていうより、男みたいな性分に生れたんじゃないかと思うの、自分でよく考えるんだけれど、あたしには女らしい情あいというものがないらしいのね、女のする仕事も好きじゃないし、男の人にじつをつくすとか、こまかしく面倒をみてあげる、なんていう気持になれないのよ」
「そうでもないようだぜ」
「どうして」と云ってから、おふさは片手で頬を押えながら参太を見て、急に眼のまわりをぼうと染めた、「いやだわ、あんたはべつよ、こんなこと初めてなの、よすわ」
「なにを」
「きざだもの」おふさは酒を啜ったが、眼のまわりはいっそう赤くなった、「それよりあんたのことを聞かせてよ、おかみさんてきれえな人、子供さんはなんにん」
「話すようなことはないが、子供はないし、かみさんだって、――」
「どうなの、ねえ」とおふさはからかうような眼をした、「きれいじゃないっていうの」
「病人のある家へいって寺の話をするなって云うぜ」
「なにが寺の話よ」
「なんでもないさ、めしにしよう」
「怒らしちゃったかしら、気に障ったらあやまるわ、ごめんなさい」おふさはちょっと頭をさげた、「あたしどうかしちゃったみたいよ、自分で諄いことが嫌いなのに、こんなに諄いことばかり云うなんてわけがわからないわ」
「酔ったせいだろう、めしにしないか」
おふさは右手を畳へ突いた。膝の上にあった手の右のほうだけ、すべるように畳へ突き、俯向いて口をつぐんだ。急に酔が出たのだろう、参太が呼びかけようとすると、おふさはすばやく立ってゆき、廊下へ出て障子を閉めると、小走りに去る足音が聞えた。――参太はおふさのいなくなった膳の向うを、気ぬけのしたような眼でぼんやりと見まもった。行燈の灯がまたたき、膳の上にある食器の影が動いた。波の音が際立って高く、一人っきりになった座敷の、しんとした空気をふるわせるように響いて来た。
「女があり男がある」参太は手酌で注いだ酒を、ゆっくりと啜りながら、呟いた、「――かなしいもんだな」
彼は両親のことを思った。父の弥兵衛は大工の棟梁だったが、吝嗇なくせに人の好い性分で、いつも損ばかりしていた。普請を請負うたびに損をするか、たまに儲けたと思うとうまく騙されて金を貸し、相手に逃げられてしまう。酒は殆んど飲まないし女あそびもしなかった。参太が五つのときと、八つのときと二度、その父親が深川あたりの芸妓と逃げたことがあった。詳しい事情はわからないが、母親のぐち話から推察すると、二度とも妓に騙されたらしい。どっちの場合もかなり多額な金を使っているのに、三十日そこそこで父親は帰って来たようだ。華やいだ話はその二度だけで、あとはつきあい酒もろくに飲まず、下駄一足を買うのにさえ渋い顔をするといったような、およそ大工の棟梁という職とはかけはなれた、けちくさいくらしかたをしていた。母親は蔭でこそぐちを云うが、良人にさからったり、意見がましいことを云ったりするようなためしは一度もなかった。食事のおかず拵えをするのが好きで、銭を使わずにびっくりするほど美味い物を作ってくれた。人の好いところは良人に似ていて、頼まれるといやと云うことができない。頼まれなくとも、人が困っているなとみると金や物を運んでやる。それに気づいたときの、父親の渋い顔を参太はよく覚えていた。
――二人はどういう縁で夫婦になったのか。
二人はお互いに満足していたのだろうか。参太はじっと思い返してみた。母は彼が十七のとしに死に、父親は二年おくれて死んだ。父のかけおちということはあったが、平生の生活は変化のないおちついたものであった。参太はいまでも忘れずにいるが、死ぬまえの年に、母は出入りの左官屋の女房と話していて、――たしか亭主が道楽ばかりして困る、と左官屋の女房が訴えていたのだと思う。それに対して母親はこう云ったものだ、――うちの人のように堅いばかりでも張合がない、あたしだってたまにはやきもちの一つもやいてみたいわ。左官屋の女房を慰めるつもりもあったろうが、十六歳になっていた参太には、母親の口ぶりに本心が含まれていることを知ってすっかり驚かされた。
「ちょうどいい夫婦だったのかもしれないな」参太はそう呟いた、「世間のたいていの夫婦が似たようなもので、似たりよったりの一生を送るんだろう、おさんとおれのような場合はごく稀なことに違いない」
おふさが戻って来た。燗徳利を二本持っていて、これを貰って来たの、と云いながら元の席へ坐った。参太は女の顔を見ないようにしながら、おれはもうたくさんだと云った。そんなこと云わないで、機嫌を直して飲んでちょうだい、とおふさが云った。
「怒ってなんかいやしない、おかしなやつだな」と参太は苦笑した、「よし、それじゃあと一本だけ飲もう、おれはそんなに飲めるくちじゃないんだ」
「ありがと」とおふさは微笑した、「いまつけるわね」