3話 神秘的半獣主義(3)
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『代表的人物』にも、スヰデンボルグを評論してあつて、その六名の人物中、他のもの――モンテーン、シエキスピヤ、ナポレオン、並にゲーテ――よりも、渠とプラトーンとは最も骨を折つて書いてあるらしい。これから、瑞典の神學者スヰデンボルグを、エメルソンの評論と僕が讀んだことのある英譯とに據つて論じようと思ふが,メーテルリンクは神秘説を唱へる者に過ぎない、エメルソンは非常に神秘的傾向があるだけのこと、然しこの人と來ては、その人物が面白いほど神秘家に出來上つて居るのである。
スヰデンボルグはその當時の人には一種の夢想家になつた。四年間、英、蘭、佛、獨の大學を歴訪したり、また、鑛山並に溶鑛業視察の爲め、歐洲諸國を巡廻したこともある。一七一六年から三十年間は、科學的著述に忙しかつたが、つひに神學の研究に熱中することになつたのだ。
その間に著述した大册は五十卷以上もあつて、過半は科學論であつた。その時代は、ハーベーの血液循環説が出て居た時代、キルベルトが地球は一種の磁石であると示した時代,近世哲學の開祖デカートが、『われ考ふ、故にわれ在り』と喝破して、つひに自然渦動説を唱へ、ニユートンが『プリンシピヤ』を著はして、引力説を建てた時代,ライブニツツはその實體論にモナド説を主張し、ロツクは英國に於て實驗哲學を唱道した時代である。スヰデンボルグは、かういふ大觀念、大思想の澤山流行した間に處して、尚嶄然たる頭角をあらはして居るのである。
スヰデンボルグの發表したのは、合一哲學。脊骨のたとへ。重力説もつひには形而上學の現象となるし、天文學もまた人の生命中に解釋が出來る樣になる。たゞ萬事萬物の働きが向上して行くのである。舌は小い舌の寄り合ひで、胃は小胃の集合,餓は小餓の、善は小善の集り。人は乃ち天の小いもので、大くなれば天と同一である。歸するところ、物質界は心靈界の表象となつてしまうのである。
曾て博士三宅雄次郎氏が『我觀小景』といふ書を著はして、宇宙は大なる人體であると云はれた。それでは分泌もやるだらうが、どこからやると、故大西博士が嘲つたが、故博士の樣に哲學史の迷ひ――と僕は名づける心持ち――に這入つて居られた人には、到底こんな大膽な獨斷は出來なかつたのは無理もない。たとへ批評眼の鋭い者でも、一たび自分の説なるものが吐ける時が來たら、他人からは自分がやつたと同じ批評と冷笑とが來るのは、豫期して居なければならないのである。哲學の系統が立つたと思ふ時は、早や獨斷に這入つて居るので、よし又それが立つて居ないにしろ、自家に生命を與へて居る説なら、之を發表する勇氣が出て來るに定つて居る。三宅博士の著が出た頃は、僕もスヰデンボルグを知つて居たので、或は渠の思想が、梨倶吠陀讃歌のプルシヤ(Purusha)、乃ち、『原人』とも譯すべき思想と共に、多少の影響を博士に與へたのではないかと、面白く讀んだことがある。
スヰデンボルグは、世界をかういふ風に料理して行くばかりでは滿足しなかつた。五十四歳の時、一種の靈的光明に接して、かの神夢を見たうらなひ者の樣に、欣喜雀躍、忘我の境に這入つてから、官能的世界を道徳的に説明し初め、科學的著述をやめてしまつた。内的視力と思つたのである。エメルソンは、この思想を『自然論』に應用して、自然はその理法を洞察的に究めて行くと、透明になつて來て、全く心靈ばかりが殘ると云つたのであらう。
然し、エメルソンの實際生活上には、之をひねくツて、或時、客が『主人は居るか』と訪ねて來たので、自分で『居ない』と答へた,すると、客が『その聲はエメルソンではないか』となじつたので、渠はまた『エメルソンは今天の事を考へて居るから、居ない』と云つてしまつた位が落ちだが,然し、スヰデンボルグには、最も不思議なことが實際に起つて居るので、神秘家の本領を示めして居る。それは、三百哩も隔つたところの宴席に臨んで居て、そこから自分の住居地ストツクホルムの火事を見とめたことだ。その火事が自分の家から三軒目のところで止まつたことまで云つたので、人々が跡から之を問ひ合はして見ると、果してその通りに違ひがなかつた。これは有名な話で、當時の大哲學者カントも、その席に居て、大いに驚いたさうである。
少し話がそれるが、スピリチユアリズムといふものがある。之を信じて居る人の説に據ると、空間に一種の靈氣があつて、遠方に居る人の樣子などを通信して呉れる。これは、何でも、印度で生れた英國婦人が唱道し初めたのであるが、現今ロンドンで發行する雜誌、『評論の評論』記者ステツド氏は、頻りに之を應用して居るので――誰れでも善い、隔つて居る人の事情を知りたいとか、その人を呼び寄せたいとか思ふと、手に持つて居るペンがおのづから動き出して、それだけの働きをする。而も間違へることはないのである。これは、いつか、氏の雜誌で氏が詳しく書いたことがあるし、また崎博士は大學で之を説明して居られるさうだ。
ステツドのスピリチユアリズムはどんなに明確な説明が出來るか知らないが、スヰデンボルグの樣な神秘的能力を以つて居た者が、あまり結論を急いだ爲めに、自然の事物を直接に神學的意義を有して居るものゝ樣に斷定してしまつた。『動物界』では、動物體ばかりでない、すべての自然を經て、物質界は心靈界の表象であることを教へ,『天の秘密』と『示されたる天啓』では、心靈の世界、天使の天などで見て來た事を示めしてある。殊に最後の書の如きは、『ユダの支派より出でたる獅子』ばかり解釋が出來るとしてある『默示録』――耶蘇教の神學者が絶望してしまう書――を解釋して、嶄新な意義を附してある。然し、嶄新だといつても、すべてその『天と地獄』の樣に、僕等から見れば、久遠の生命に入る準備ともいふべきことを、宗教の實行觀にあてはめたばかりで、たゞ平凡な宗教家の説明と違つて、スヰデンボルグ獨得の思想が固定してしまつたのに過ぎない。
渠の教義に從へば、すべて物には物質的、心靈的の二方面がある,して、前者は後者の表象に過ぎない。この見解が非常に固定した形式を取つてしまつたのである。『新ジエルサレム、生命の教義』を見て分る,聖書の『エジプトは人にして神にあらず、その馬は肉にして靈にあらず』(以賽亞書三十一ノ三)とあるを解釋して、『エジプト』は人間の智慧から出た科學、『馬』はその肉的理解力の表象として、神がこの世に現はした物。――『人若しわれに居り、われ亦かれに居らば、多くの實を結ぶべし』(約翰傳十五ノ五)とあれば、その『實』とは、善を示めす爲めに、木に出來る物。――また、『木』は人、その『葉と花』は眞理の信仰を意味して居るし、美しい娼婦は乃ち虚僞のことを、ジエルサレムは教會を、アツシリヤは理性を、カルデヤは眞理の妄用を、バビロンは妄用された善を云ふのだ。表象主義もかう極端に狹くなつて來ると、世界の歴史までが何だか重箱の中へ這入つてしまう樣に見えるではないか。
エメルソンが『最も抽象的眞理は最も實際的なものだ』と云つた通り、スヰデンボルグがかう神秘的に又抽象的になつてからは、却つてその教へは單純で、卑近なものになつてしまつた。物質と心靈とを別けるにも、善惡より外はなくなつてしまつた。惡事を罪として避けるものは心靈的になる、然らざるものは肉的である――信仰、眞理、貞節、眞率等は前者に屬し、殺人、姦淫、偸盜、僞證、色慾等は後者のものである。後者を去つて、前者に附くには、理性と自由意志とを以つて、非常に奮鬪しなければならない。然し、理性は思想を導くばかりだが、意志は理性を導くことが出來る。その意志が向上しなければ、根本的に心靈と合一することは出來ない。かう云ふのが『生命の教義』に云つてあるところだが、宗教的に考へたら、これ以上のことは別に云へないだらう。耶蘇は『女を見て色情を起したるものは、その心既に姦淫したるなり』と云つたが、スヰデンボルグはこの意から推して、最も極端に、又最も嚴密に、善惡の區畫をつけたのである。僕が跡で云はうとする説によれば、然し、女を見て色情を起したからつて、何の罪でもないことになるので、渠とは丸で反對である。
要するに、スヰデンボルグは、プラトーンの樣に寛衣を着た學者ではない、赤裸々の實際家であつただけに、神秘家として見れば大變威嚴のあつた人である――否、人は各自の家と國とを造るのである。渠の考で云へば、犬の樣な所業をする人は既に犬と化して居るので、幽靈の樣な瞹眛な言葉を吐くものは既に幽靈となつて居るのだ。從つて、神を學ぶものは既に神である筈だが、これはユニテリヤンから出たエメルソンにはまだ許されようが、スヰデンボルグには古來の耶蘇教的形式があるので、そこまでは云へなかつたのだらう。然し、メーテルリンクが云つた樣に、『僕等はかうして、一度ならず、二度ならず、生れられる,而して、生れ更る毎に段々と少しは神に近づくのである』とは、スヰデンボルグも同じ意見であるだらう。
兎に角神秘なるものを科學的に説明しようとするのは、再びスヰデンボルグの徹を踏むに過ぎない。人物から云へば、その首を銀河に洗ひ、その足は固く地獄の床を踏んで居た大人物だが、惜しいかな、在來の宗教が仇となつて、古木の朽ちた樣に倒れてしまつたのである。
今日歐洲でのスヰデンボルグ派の景况は知らないから云はない。米國では、ボストンなどにこの派の出版會社があつて、頻りに渠の大小の册子を出版するが、一向に振はない樣だ。日本にも横濱へ一度この派の教師が來て居たことがある。近頃米國から十年目に歸朝した友人の經驗談を云ふが、西部からボストンへ行つた時、紹介状を貰つて居たので、一人の牧師を訪問した。すると、『新教會』と看板が出て居たので、少し不思議に思つて這入つて見ると、それがスヰデンボルグ派の教會であつた。この友人は、僕がエメルソンを讀んで居た頃から、スヰデンボルグの事は知つて居たので、面白半分にその老牧師の話を聽いて居ると、例の『物に二方面がある』と開祖が云つたと云ひ出したので、そんなことはどこでも云ふから珍らしいことはないと笑つたが、如何にも人物が温厚なので、時々頼れて日本の事を演説してやつたさうだ。暫く經つと、こゝへ紹介をして呉れた友人から手紙が來て、讀んで見ると、お前は同派に改宗する見込みがあるさうだが、そんなつもりで紹介したのではないと書いてあるので、これは不思議だ、自分もそんなつもりではないのにと思つて、出した返事が面白い――温厚な老人の頼みがあるので、時々日本の事を演説などはして居るが、先づ當分は改宗の見込みはないと思つて呉れろ。『宗教は偉人の形骸である』とカライルは云つたが、この樣なあはれな状態に墮落したら、他の宗派と同樣、徒らに信者の數をむさぼる餓鬼道である。
これから、スヰデンボルグ、エメルソン、メーテルリンク三者の愛論を述べて、三者の立ち塲と特色とを比較し、それから自説を述べることにしよう。
(七) 三者の愛論
今、スヰデンボルグ、エメルソン並にメーテルリンクの愛に對する論を比較して見ると、三者の特色もよく分るし、また後に云ふ僕の所論が渠等とどんなに異同があるかも明かになるだらう。
ナポレオンが法律を制定した時、これで以つて人間界の事件はすべて網羅し得たと思つたところが、あとからどし/\その規定外の事が出て來た。カントが十二個の範疇を設けて、悟性上のいろんな概念を統一しようとしたが、渠の思つた通り、それで完全不易な組織が立つわけではなかつた。然し、哲學に系統が立たないからと云つて、僕から云へば、耻づべきことではない。それだから、プラトーンにいくら不明なところ、缺陷の點があるにしろ、最古の大哲人でもあり、また諸問題の提出者、解釋者として、詩に於けるホメーロスと同樣、誰れにでも讀まれて居るではないか。殊に愛の問題などになると、乾燥な頭腦で論じたものは、理窟がどんなに附いて居ても、大理石の婦人像と同じで、味ひがないのである。順序として、先づプラトーンの論を簡單に云つて置くが、渠のイデヤ想起説に據ると、僕等は本性からイデヤを知らないのではない、たゞ忘れて居るのであるから、機に應じて之を想ひ起す、その最も切實なのがエロース(ερωσ)、乃ち愛である。それには階段があつて、形體の美にあこがれるのは普通の戀、然し最高のは眞善美その物を慕ふ知力的究理心である。所謂プラトーンの愛。渠の知力なるものは、輪廻的修養の土臺となつて居るだけ、道徳的に見られるから、そういふ説も立つのであらう。
スヰデンボルグはこの説を自分の天才に消化して、『コンジユガルラブで、兩者の一方が一段うへの眞理に目を轉ずると、そのまた一方との關係は絶えてしまうことになる。それで、前者は自分の新たに見る眞理と同一のを見て居るものと一つになるのだが、それも亦向ふの方が一段高くなると、棄てられてしまうのである。人の性根は一定不動のものではない、心の状態に從つて、男ともなるし、また女ともなる。その果は心靈の極度なる神に達して、神は花聟であるし、僕等は花嫁であるのだ。天は對を許さないから、僕等の状態は小い心靈全體の交通となるわけである。聖書の『天使は嫁がず、娶らず』を説明したのであらう。
次に、メーテルリンクはどうかと云ふに、その『婦人論』。油を注ぐものも、注がるゝものも、はじめから豫定されて居るのだ。それは、必らずどこかで一度相見たことがある靈と靈とであるからである。たとへば、深みの奧に隱れて居る遠島から、手紙が來たとする――それが實際生きて居る人だか、居ない人だか分らないながら、その來た手紙の書き手を、まんざら自分の知らない人だとは斷念の出來ないものである。これは自分の知らないうちに、一種の神秘的交通――この刹那が最も興味の盛んな時である。婦人は男子よりも運命に司配されることが多い。今、女を抱いて居るとして、その女の忠實か不忠實か、浮氣か眞面目か、天女か鬼女かを問ふ必要はない――よしんば、下等な淫賣婦であつたにしろ、一たび『一つの心靈が一つの心靈を接吻する』と思ひ得られる時なら、その刹那は不思議であつて、驚嘆すべきものである。――久遠の愛を掴んで居る時――最も原始的本能を以つて、靈的交通をして居る時。
婦人には一種の靈光があつて、男子は知の世界に下つて之を忘れて居るが、再び之に接合しようとすると、神秘の門をくゞらなければならない,婦人は卑怯であるから、一歩も之を出て來ることが出來ないのである。男子が知の形式を破つて、その門を敲けば、婦人は直ぐ、自分に送られた靈だと知つて、開けて呉れるのである。婦人を惡口する男子は、それに接吻するに最も善い高地を知らないのだ。婦人は、父を恐れない小兒と同樣、神の前では無邪氣に笑つて居る。渠等の不斷の樣子を見れば、縫ひ物や編み物をしたり、髮を解いたり、結つたりして居るので、それに智識上の事を話しても分らない。婦人を見舞ひに行くのは、美しい花を見に行くのと同じである、婦人は無意識で、運命のあてがふ結婚を待つて居るのだ。最も善く神秘の面影を今日まで傳へて居るのは、婦人の外にないといふ論である。
僕はスヰデンボルグが瓢箪の上部で、メーテルリンクがその下部だと云つた。以上の愛論でも分る通り、前者は神秘のもとで、後者はその膨張である。もとが偉大に解釋が出來れば、末も亦偉大になるわけであるが、それにはエメルソンといふくゝりもあるので、僕に取つては、まだ/\それ位の説では滿足が出來ないのである。然し、先づ、エメルソンの愛論をも方づけてしまはう。
エメルソンには『愛論、愛すなはち人格の神化は、日々非人格になつて行く。然し、その表號はしまひには實體に歸してしまうのであるから、兩者の胸中に燃えて居た敬意は段々薄らいで行くに定まつて居るが、互ひに之を辛抱して、善い事をして居ると思つて滿足しなければならない。眞の結婚とは知力と心情との年々清淨になつて行くことである。
以上三者のいづれにも神秘の面影は存じて居るが、エメルソンは無理にも、神秘の眞中を沈着な哲理觀を以つて引き締めて居るのだ。三者とも、各々その天才の向ふところに從つて、神秘的趣味を與へるのは事實であらう。スヰデンボルグは宗教家である、エメルソンは哲學者である、メーテルリンクは詩人である。從つて、同じ理法を論じても、甲は靈的理法、乙は知的理法、丙は未知の理法と云つて居るし,愛論に於ても、甲は敬愛を、乙は親愛を、丙は戀愛を説いて居る。
これからいよ/\自説に移らう。
(八) 神秘の語義
自説に入るに先立つて、神秘といふ語の意義といふことから出て居るので、希臘の古代に神秘、乃ちミステーリオン(Μυστη´ριον)と云へば、宗教の儀式で――たとへば、エレウシスに祭つてあつた※。然し、今までに論じて來た人物などは、特に理知を超絶して、一種不可思議な、人間の言語を以つて説き難い情趣に觸れたり、また觸れようとしたところがある病的現象ものだと云つてあるが、そういふ病態は――たとへ、學説の上だけから云つても――僕等の恐れるところではない。生命さへ握つて居れば、強盜に會つても恐れるに及ばないではないか。近世になつてからは、神秘といふ語は、どうせ智識の平凡化に反對して居る意味だから、抱月氏の所謂『智識を絶し、若しくは智識を消したる形』に、生命さへ這入つて居れば善いのである。乃ち、知力の集中情化である。
メーテルリンクは『正義の不可思議』(これは未だ僕は見ないので上田敏氏の譯による。)といふ論文に於ても、本能の威力と心中の正義衝動とを同一であるか、どうか、疑問にしてある。然し、神秘なるものがいづれ分つて來るものだとすれば、別にかれこれ云ふべき程のものではなからう。自然主義のであつて、これは何も不可解を一時面白がるのではない、自然と本能との奧には、とこしなへに知力の及ばない神秘性が潜んで居るのである。僕が先きにメーテルリンクとは思想上の兄弟分だと云つたが、それは僕等の出て來たところが一つだといふ意で、飽くまでも同じ事を云つて居るといふわけではない。それは、これから説くことで分るだらうと思ふ。
僕がこれから云はうとするのも、議論としては、どうしても知力の働きを借らなければならないが、科學と知力とばかりを手頼りとして居る人々の『明瞭』だと思ふ範圍では、まだ/\滿足が出來ないのである。これは、何も思想力が弱いとか、頭腦が不良だとか云はれるべきではない、寧ろ渠等よりも奮發して、自我の覺醒に入らうとするのである。
(九) 自然即心靈
萬法は詮じ詰めれば多と一とになると、プラトーンも云つてあつて、スヰデンボルグはその初め、科學的熱誠を盡して、多のうちに一なる符合を見出さうとした。シエリングは、あとではベーメの思想を受けて、全く神秘的になつてしまつたが、その前には無差別哲學を主張して、多なる自然界が一なる心靈界を生み出すのだと云つた。シヨーペンハウエルは之を上から見て、一切の無機的、有機的世界の自然力には、たゞ一個の意志が客觀の形、乃ち、表彰を以つて表現して居るので、その間には意匠の統一がある――相反して居るやうに見えるのは、同一の力がその方向を違へて居るに過ぎないのだと説明した。
然し、あまり西洋のことばかりを云はないで、わが東洋の方に向いて見ると、シヨーペンハウエルの云つたやうな事實は、第一、神秘的な易哲學にもあつて、陰陽といふ抽象的法則となつて居るのである。スヰデンボルグの脊骨の話の樣に、この法則が宇宙の萬物に一貫して居るので,たとへば、君と臣と相對する時はそれが陰陽であるが、その孰れかゞ男性として女性に對すると、またそれが陰と陽とである。男女を人類として禽獸に對すると、またそれが陰陽である。人獸を一括して天に對すると、また陰陽の形が出來,天と地とを相對せしむると、また同じ形が出來る。一物を分析しても陰陽はあるし、具體的物象を見てもまたこの關係がある。推移、進動、行爲などに於ても、この法則は流行して居るのである。ピタゴラスの哲學が數を以つて宇宙の萬有を説明しようとした通り、易にもこの數の觀念がつき纒つて居るので、僕から見れば、この數は乃ち僕等の免るべからざる運命の樣なものと見て善い。
この運命の上に隱現する萬有はどう云ふ風に解釋が出來るか――莊子は『道いまだ始めより對あるにあらず』云々と云つて、甲と云へば必ずその甲に非ざるものを豫想して居るので、エメルソンが自然を論ずるのに、我と非我とを別けた方便の樣なものである。邵子に至つて、面白い言を云つた、『自然の外、別に天なし。』――邵子は易を祖述して、一派の哲理を考へ出した人で、人物もなか/\面白い,天津橋上で杜鵑の聲を聽いて、王安石新法の事變を豫言したことがある。今、假りに邵子の言を以つて問題を起し、僕の考へを解釋して行かう。『自然の外、別に天なし』とは、自然が乃ち天だといふのか、天が自然のうちにあるといふのか――換言せば、物質ばかりだといふのか、心靈のみあるといふのか、或は又物質と心靈とが同一だといふのか。エメルソンは、邵子の説と同じで、唯心論を取つたが、その實、運命なるものを脊にして、この三問題を輪廻して居たのである。
この問題は、佛教では甘く説いてある。大乘佛教の極致ともいふべき法界縁起説。――エメルソンが『一滴の水は海の具性はあるが、暴風を現はすことが出來ない』と云つたのは、差別の方面を見た時である。
これは、マクロコズム、大宇宙とマイクロコズム、小宇宙、即ち大我と小我の説と同じであつて、この圓滿な全體と圓滿な部分とが相融合して居るところを眞如といふ。之を鏡に例へて見ると、華嚴は表面から見て、萬法は一心から起ると説き,天台は裏面から見て、一念にも三千の法があるといふ。井上博士が、その著『認識と實在との關係』に於て、『若し一たび是等一切の關係は、絶對的に之れあるにあらず、即ち皆もと否定すべきものなることを看破せば、唯一の觀念を惹起し來らん』と云はれたところを、そこだけで見れば、華嚴の樣に一如に偏して居る我執だと天台派は云ふだらうし,華嚴派から云へば、また、天台は諸法の實相を稱へて、煩惱即菩提と説くので、その眞如なるものは純全でないのだらう。
然し、純不純は別に論ずるまでもないので、この明鏡に映つるものは何か、心靈の目から見れば、心靈そのものであるのだらう。從つて、神の目から云へば、神なのであらう。その神とか、心靈とかを云はないでも、一つの觀じ方が出來る――それは、何も唯物論や唯心論に住しないでも、佛教の論法の通り、物質であるなら、それも圓滿、心靈であるなら、それも圓滿,圓滿な物と圓滿な物とは、既に同一なことを意味して居るのである。
僕の現象即實在論を用ゐて見ると、自然の事物が官能になつて、官能がまた知覺になる,知覺が思想に、思想が洞察に、洞察が理法に、理法がまた心靈になるので――これは、何も、向上して行くわけではない、犬から猫、猫から蛇と流轉して行く樣に、その機その機の状態を示めしただけで、心靈はまた自然であるのだ。僕は乃ち自然即心靈を主張するのである。この説ぐらゐ、人間の状態を活動せしむるものはない、エメルソンの如きは、あまり達觀してしまつたので、スヰデンボルグの聖書説明と同樣、固定して行つた傾きがある。
(十) 表象の轉換――無目的