4話 神秘的半獣主義(4)
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自然即心靈、物心合一説も一種の形式ではあらうが、井上博士の樣に、わざ/\客觀的實在と主觀的實在とを別ち、存在その物をこと更らに分割して説明することが出來ようか。博士は、『精神は滅とも不滅とも云ふを得べし、唯々其立脚點の如何によるのみ、吾人が個體的精神と認定するものは、其實、假現的たるに過ぎざるものにして、消滅を免れず』と云はれたが、博士の現象即實在論にして、果して大乘佛教的であるとすれば、『現象としての精神』もそのまゝ實在して居るものであるから、滅するとは云へなからう。
兎に角、デカートの云つた樣に、『われ考ふ、故にわれ存ず』にせよ、また『われ食ふ、故にわれ存ず』にしろ、存在して居るのは事實であるから、この事實に結びついて居る限りは、哲學者も――反對の説は立てることが出來るだらうが――僕としての立ち塲を迂闊なものだとは云へまい。たゞ僕は存在と流轉。それで、われなるものは、宇宙といふ大空明を遊動して居るので、宇宙その物にもなるし、また憚るところがないので、勝手次第に變形する――物質ともなり、官能ともなり、思想ともなり、理法、心靈ともなる。心靈も官能になれば、思想も犬や木にもなる。石や鐵も心靈になるのである。有形と無形、見えると見えないの區別は入らない、萬物はすべて循環して居るので、環の一部分に留まれば一部分が現じ、環の全體に觸はれば全體が現ずる。然し、その全體と云つたり、一部と云ふのは、大海とその一滴との樣に、依然として違つて居るのではない,神と云へば神で完全、人と云へば人で完全、つまるところ大小の觀念を脱してからのことであるのだ。
かう云へば、墮落した萬有神教だと攻撃するものもあらうが、別に崇拜する念を起さなければ、何も耶蘇教でいふ神と競爭するわけもないし,且、萬有神教の絶頂に登つて居るスピノーザの樣に、心と物とは一つの本體の二方面だといふ見解をも取らないから、個々別々な物の外に無限に重大な御神體があるとも思はない。存在して居るのは、たゞ時々刻々變形して居るものばかりで――僕等が天を仰いで、燦爛たる星辰を見ると、何だか久遠の救ひを感じ得た樣な氣がするのは、僕等に詩的想像力があるからで――その實、星辰どころでない、天と地とは僕等の心と共に變轉流動して居るのであるから、僕等が廣いと思ふ宇宙には、安んずるところもないし、また安んずる本體もないのである。それで、僕の云ふ自然即心靈の論理的形式中に、殘つて居るものとては表象の轉換ばかりであるのだ。
これは、スヰデンボルグが現象はすべて心靈の表象であると云つたり、シヨーペンハウエルが同じ現象を意志の權化であると云つたりするのとは違つて、僕の所謂表象――英語のシムボル(Symbol)――とは、一つの表象がまた他の表象であるとの意で――詩的に時空的存在を見とめられて居る宇宙は、その目的と極致とがあらうとも思はれないから、表象の奧に何かの教訓を含んでも居なければ、また一如的到達點のあるのでもない。たとへば、立ち木は佇立して居る人間で、倒れて居る人は天人の眠つて居るので、天人が羽衣をかゝげて飛んで行くのは天その物の運行で、天の目が覺めて居るのは草木の芽に萠えて出るといふ樣なわけで,表象が表象を案内して、丁度盲人が盲人を手引く樣に、時空といふ假空的暗處をめぐり廻つて居るのである。僕の説から云ふと、それ以上の事を附會するものは、虚僞と僞善とを宣言するわけになるので、この事は尚あとから出て來る。
(十一) 流轉と生命
三名の神秘家は頻りに理法といふことを説いて居るが、別に理法と云つて、心につかまへて置くべきものはなからう。そんな物を想像するから、メーテルリンクの樣に未知の理法など云つて、分らないところから一つの糸筋を引つ張つて來ようとするし、またエメルソンの樣に、理法の靈化することを云はなければならないことになるので――つまり、因果律のことを云つて居るのであらうが、これは時空といふものを假定して居る習慣から出て來るばかりのことで、未然に分らない理法があると云つたり、理法は心靈の光線であると云ふのは、僕の表象無目的説と見なければならない。
流轉といふことは、神秘説にはどうしても脱しられない,佛教では勿論だが、プラトーン、スヰデンボルグ、エメルソン、メーテルリンクなど、皆之を云つて居る。物靈界を流轉する遊動者は、すべて勝手氣儘に流轉をして居るのであるから、他に向つて恐るゝといふことはない,自生自發、たとへば、かの棒振りがどろ水の中にぴんぴこ跳ねまはつて、その位置を轉じて居る通り、外面から見ると、嬉しさうで、樂しさうで、何の苦もない樣である。然し、これは、スピノーザの所謂自由、乃ち、内部から來る必然であるだけに、若しうツかりして居ると、却つて非常に意外な驚愕と恐怖とが來ないでもない。たとへば、一刹那の奮勵を怠つた爲めに、天女となるべきものが長い蛇となつたり、また、暗黒の境に這入ると思つたのが、急に光明界の星となつたりする時を云ふのである。これに類したことは、僕等が日々の經驗にもあることである。
メーテルリンクは遺傳と運命とを云つたが、この兩者は、流轉といふ不可思議な黒水の流れ,之に氣がついた上に、尚踏みこたへなければならない僕等の運命は實につらいものだと分つても、心の自然になつて來るものであるから、夜の夢にうなされて居る樣に、どうしても之を振り拂ふことが出來ない。僕等の生命はその上を流れて居るのである。
僕等はぬる/\した蛇にはなりたくない,然し、その鱗の樣なものは僕等の毛穴から吹き出て來る。蛇を水平線とし、人を直立線とすれば、直角が出來る、この神秘的四分圖の間に、活動物はすべてその位を得て居るといふことがあるが、僕等が腹這ひになれば、もう蛇體ではないか。その上、手足も蛇の形で、その先きには細い蛇がまた二十匹もついて居る。若し蛇に意識があるとすれば、人間は澤山の蛇から出來た木とも見えよう。運命は目的もなしに僕等を持て遊んで居る、一つの表象が他の表象に移るだけで,無闇な物に轉ずる位なら、たとへ蛇に似て居ようが、棒振りに類して居ようが、今の形と精神とを以つて、殘つて居たくなるのは、僕等の執着心から云つて當り前のことだ。慣れない苦勞をするよりも慣れたまゝの苦勞は、そのうちに親みも出て來る。僕が現世主義を起點としてあるのは、この事實を知つてからで――死なうとしても、どうせ死なれないのではないか。
矢張り仙臺に居た時の經驗であるが、僕は自殺しようと思つたことが二三度ある。その最後の時は、前日に二三の友人に伴はれて、かの青葉城のうしろにある、政宗の立退路と云はれる谷へ、化石を拾ひに行つた。こゝは、自然の開鑿とは思はれない程、規則立つて幅の狹い、また、底深く切り下げた谷合ひであつて,幾條にも道が分れて居るので、どこまで續いて居るのか知れないし、大きな樹がその兩方の絶壁の上からかぶさつて居るので、晝も尚うす暗いところだ。こゝで、あやしな死に神がつきかけたのだらう、高いところからこの谷底に身を投げて、死んでしまはうと决心をした。それで、翌日、ひとりで朝早くから家を出て――前日は城の左から下つて行つたのだが――今度は反對に右手の出口から、谷へ這入らないで、その崖のふちに添ふて登つて行つた。どういふ拍子か、道に迷つて、前日定めて置いた塲所が見えるところへ來なかつたが、同じ谷の分れで、高い絶壁の上に、さかさまなりにくねつて出て居る松の枝があつたので、それを渡つて、今や身は幾仭の空中に氣魂を奪はれようとしたとたんに、幽かに僕の心耳に響く聲があつた。眼を開いて谷底をうかがふと、それは細い流れの潺々たる響きであつた。何だか、自分は夢を見て居た樣な氣がしたが、その谷川へ眞直ぐにいばら、茅の根などを辿つて下りて行つて、清い水を一口飮んだ時は嬉しいやら、悲しいやら、兎に角一生の渇を癒した氣持ちがした。この時から、僕は生命を重んずる心が起つたのである。どうせ死んでも、何かに生れ變るのであるから、自分の心に神はなくなつても、戀は遂げられなくつても、現世に苦痛があるなら、來世にもあるに相違ないから、寧ろ今の僕に執着して、活動しようと思ひ返してしまつたのである。
神にも苦痛があるとは、たしかカライルが喝破したのである。苦とは何かと問ふのは、既に道學者の口吻か、宗教家の方便かを眞似て居るので、すべて僞善者の態度と云つて善い。苦痛の絶えないのは事實である。人間は弱いものであるから、失戀だの、絶望の塲合に立ち至ると、直ぐ死んでしまいたい氣になるものだが、死んでも死ねないものが、それにつき纒つて居る苦痛ばかりを斷つてしまへると思ふのは間違ひである。全體、自殺の裏面から見ると、これがまた裏面にある表象の意味して居るところと同じであるのだ。かういふ譯からして、シヨーペンハウエルの斷言した通り、僕等は苦痛をそのまゝ男性的勢力を以つて辛抱するより外はないのである。自我の最も發揮するのはかういふ時だ。フレデリツキが周圍の外敵に追迫されて、自分の國どころか、自分の身の存在に窮し、腰の劍を拔いて、わが身でわが身を刺さうとしたが、たゞこの危急な瞬間に堪へた時、既に大王たる資格は定つて居たのである。然し、これは絶望と苦痛とがなくなつたのではない、僕があとから云はうとする文藝的慰籍を得たからであるのだ。
(十二) 意志と現象
自我の發揮して來るのは、生きたいと云ふ本能の然らしめるところであつて、本能の内部的必然力を運命と云つても善いし、また意志と見ても善い。
僕の云ふ運命を、活動の方面から見ると、意志である。岩から見れば、僕等もそれ/″\岩に見えるのだらう――萬物はこの轉換の感じがあるので、生命もある――この表象的轉換がなくなつたら、宇宙の外形と内部とは忽ち絶滅してしまうことが想像せられるのである。
さすが、シヨーペンハウエルは印度思想を知つて居ただけ、その云ふところの意志も面白く解釋が出來る。例の華嚴經中の譬に比べて云ふと、萬物はすべて十、乃ち、意志を本性として居るので、如何に極小な本性でも――乃ち、十から云へば、五、六、四又は一中の十,意志から云へば、最小最低の現象でも――若し之を世界から消滅さすことが出來るとすれば、同時に全世界の消滅が出來ることになるのだ。僕等の本能が死を好まないのは、自然の結果である。火から熱を取れば火もなくならうし、熱から火を取れば熱もなくなる,と云つて、火即熱の實體を別に持つて來るのは、假定と云はなければならない。僕の運命とか、生命とかいふものは、科學者のエネルギー又は宗教家の神などの樣な、假定の永存實體ではない、たゞ表象の轉換移動の個處個處を連ねて見たばかりで、その間に意志もあり、自我もあるのだから、表象その物を離れては宇宙は全滅するのである。
僕のは、物質的並に精神的の現象が互ひに相轉換する表象として存在するといふのであるから、現象唯一論と同一視されては困るが,また、それと反對の方面で、シヨーペンハウエルは、井上博士の客觀主觀の立論と同じ缺陷を生じ、意志の眞實體なるものを定め、その物は時空と現象以外に存ずるので、多なることを得ないと云つた。これが早や無駄でなければ、この種の傾向がある論者の止むを得ない窮策だが,かう云ふことになると、その眞實體なるものが現象界に權化するには、種々の段階があつて、下は木や石から上は人類の樣なもので、高等なものが段々下等なものを制服するに從つて、完美な理想が現はれて來ると云はなければならなくならう。これは矢張りプラトーンのイデヤ想起説から來たので、スヰデンボルグ、エメルソン、その他すべての理想論者が、僕等を誤まる僞善的論法。近頃、渠等の口吻を眞似て、理想とか向上主義とかぶものが多い,然し、これは最も善を僞はるもの等で、僞善者の最下級である、道學的根性の最も嚴密に墮落した標本である。その古びた師匠とまだ固つて居ない末流とに論なく、渠等はすべてあるべからざる善惡を規定して、自分の怠慢と無氣力とを裝ふばかりである。
僕は渠等に向つて、眞率におのれの立脚地を究めたなら、意志その物も無目的な表象の所爲であることが分ると知らせたいのである。
(十三) 善惡の否定
性善性惡の爭論はもう古臭くなつてしまつた。僕の論旨から云ふと、宇宙は根より水を吸ふ時は草木である、口より食を入れる時は人畜である,性善を標榜し、または性惡を主張する時は、その間ばかりは、孟子又は荀子の樣に、内容もない善惡の別塊である。善惡混合を云ふ時は、またその間ばかりは、善惡の混合物である。假りに僕に内外の區別があるとして、その内外からやつて來る必然の前には、君子もあらう筈はない、小人もあらう筈はない。
存在は盲目で、道徳的に云へば、無目的である,その時だけそう見えたので、偶然の思ひ付きである。――尤も詩には之が非常な意味を以つて來る――たとへば、田鼠が地下に穴を堀ると、たゞ一直線に堀つて行くのでなく、追はれた時の用意に、左右にところ/″\隱れ塲を拵へて置く。また、雲雀が空から下りる時、眞直ぐに地下の巣には行かないで、それから少し隔つたところへ落ちる。兩者の賢いのは、よく似て居るやうであるが、これが果して神の與へた割り符であらうか。北國と南海との片田舍で、同じ姓名の人が出來る、これが果して本能の統一的作用の然らしめたのであらうか。猿の手の親指は外へ向いて居る、人間のは内へ向いて居る、これが造化に意匠のあるところだと云へようか。そうだと答へるものは、狹い範圍の智識で安眠を貪らうとするのである。渠等に深遠な神秘を説いたところで、到底之を味へるものではない。無目的な事物を善といふ方便に使つて、それで滿足して居るに過ぎない。スヰデンボルグの熱烈な科學的研究が、つひに頑迷な宗教家を生み出すに至つたのは、從來の習慣的宗教並に哲學の到底度すべからざるを證明して居るのである。
莊子の『齊物論』には、『言いまだ始めより常なるにあらず』と云つてあつて、常なるものがあれば、常ならざるものが豫想出來るし、物に始めがあれば、その始めあるの始めがなければならない譯である。無限なるものに目的のあらう筈はない。元良博士、曾てどこかの演説又は雜誌で、『道』といふ物を解釋して、道とはたゞ人の歩む跡の如しと云はれたと、僕は記憶して居るが、間違ひがなければ、これは道學的習慣を離れた卓見と云はなければならない。――僕等はエメルソンなどの所謂物質と理法と心靈なるものを循環して、――實は同じ物であるから――行けども/\目的地を發見することが出來ないのである。
(十四) 表象の効果
僕等の意志は運命と同じで、盲目である,だからいつも手を虚空に擧げて、何か觸れるものを求めて居るので、その觸れるものがあつたと思へば、それがまた自分の意志であるから、仕方がない。たとへば、病床にあつて、自分の枕をして居るのが分らないで、何だか暗いところへ引つ込まれるやうな氣になつて來るから、何か縋るものをとうめくとたん、握つたものは矢張り自分の手である。その手も運命の黒水に浸つて、段々なへてしまつたから、ああ、これで幸ひ、安樂淨土に入ることが出來たのかと思ふと、そうでもない――死んだと思つたのは、意志がまた他の有限物に變體したので、現世から他界に齎らす土産は、絶對不易のものではない、たゞ神秘な表象ばかりで,その身も亦意外の表象であつたことに氣が附くと、以前に生れた時と同じ樣に、何だか嶄新な樣な、恐ろしい樣な、それで未練の絶えない樣な、あかるくツても暗い樣な岡に立つて、悲風萬里より來たるかの心持ちがしよう。この時、教訓もなければ、眞理もない、たゞ新らしい自我といふものが深い底から目を覺まして來て、美はしい活動の姿を見せるのである。これが表象の與へる効果である。
若し宇宙に生命が滿ちて居るとしたら、この表象が溢れて居るのである。エメルソンとスヰデンボルグとは、自然の位置を大心靈の中に定めてから、自然の理法を悟るに從つて、自然は消えて行つて、心靈ばかりが見える樣に云つたが,それでは、また、心靈の理法を悟るに從つて、心靈は消えて行つて、心靈以上のものか、またはもとの自然かが見えて來る筈だ。詩人ゲーテが明暗の融和を以つて色の原理を説明したのはもう時代後れになつてしまつたが、明暗とか、透明不透明とか、見える見えないとか、物質心靈とか、すべてかう云ふ兩極端を置くのは、説明の便法として、假定したものに過ぎない。生慾からして活動して居なければならない僕等には、そんな單純な假定に滿足のしようがないのである。一つの表象としては有限に見えるものも、その表象のそのまた表象となつて行くので、生きて居るのだ。人は數を計へて居るばかりでも、その生命は續いて行く。然し、一刹那をまごついて、その位を忘れてしまうと、もう別な人間になつて居るのである。存在はいつも常がない、また限りのないものであるから、その間にあつて、表象が僕等の運命の杖となつて呉れるのである。
然し、それは盲人の杖である。僕等は目が開いては却つて一大表象としての生命が縮まる動物であつて、暗い中をその杖で以つて探つて行けばこそ、その先きへ無限の道が響いて來るので――一たび目が開いたら、位を忘れてしまつた暗算家と同樣、もう、別な人間である。かう云ふ點から推して行くと、シヨーペンハウエルが世界の本體と假定した意志も亦表象で,それは、渠の所謂理想發現の等級を登りつめれば、その意志も亦下級の自然力と同じく盲動的で、目的があらうとも思へないからである。かうなると、哲學の用語はすべて消極的となつて、智識上の説明を絶してしまう。老子の無名、佛教の無我、スペンサーの不可思議、ハルトマンの無意識――盲動と云つたり、超絶と云つたりするのも、また別樣の消極である。
井上博士は現象即實在論に『活動』といふ問題を入れられた。これは、シヨーペンハウエルの『運動』と同じく、ミルトンがその詩に於て豫想して居た星霧説、乃ち、カントやハーシエルやラプラスが種々の形を以つて發表した臆説――宇宙の中心には廻轉して居る一大勢力があるといふ――から出て來たのであらうが、尤もこれは、近世の哲學でヴントや、ジエームスや、プラグマチズム論者等も云つてるが、博士は活動その物が實在だといふのならまだ受け取れようが、活動といふのが實在の本性に最も近いとあるので――それでは、活動の解釋も消極的であつて、一向活動が出來なくならう。これは、矢張り、實在なるものを一如的に區別して、活動のミイラの樣に見られたからで、僕の現象即實在論は絶えず活動して轉換を生命とする表象の効果を説くのである。
(十五) 表象の直觀
かうなると、向上したと思はれて居る心靈が、また草木に轉化することがあると同前、哲學はまた科學と同一徹に出たことになる。近世非常に進歩したと云はれる心的科學は、偉大な形而上學の破碎した斷篇に過ぎない。人にたとへて見れば、エメルソンの云つた通り、身づから短縮墮落した天である。その杓子定規を打破しないと、到底今日の思想界は救ふべからざるものである。『われ等は知力の地平線以上に登ることはない』と、メーテルリンクも云つた。大雪の降つた日に、小高い岡に登つて見ると、見渡す限りは銀世界、家も道路も白い平等の手に平均せられて、一つの勝れた物もない。凡人が泰山に登つて、孔子が新高山に立たうが、五十歩百歩の差であつて、地平の純化力。暗黒の中から自分を探つて行くのである。隆盛が『盲人の手引きだ』と云つた評言は、某政治家にばかり當て填つて居るのではない。
僕は、曾て、身づから安心が出來ないので、いツそこの苦悶を傳へて、世の惱んで居る人々を啓發し、同情相憐む間に慰藉と救濟との道を開くつもりで、傳道者にならうと决心して居たことがある。然し、耶蘇教の神觀に滿足が出來ないで、之を放棄してから、まだ詩に安立して居たわけでなかつたので、哲學に自分の救ひを求めた。その時、カントを讀めないながら字引の案内でのぞいて見たが、その組織が――大きいと云へば、大きいのだらうが――如何にも繁雜で、假定が多いので、矢張滿足が出來なかつた。ミルトンの詩は、譬へや引用が五行も六行も重なつて來て、それから云ひ表はさうとする感想が躍り出て來るので、窮屈なのは窮屈だが、力と威嚴のあるので、當時面白く讀めた,然し、カントの哲學と來ては、その思想の道筋が窮屈なこと、ミルトンどころではない、その上、何だか乾燥無味、蝋を噛む樣なところがあるので、『理性批判』だけでよしてしまつたのである。
然しインチユイシヨン、直觀の必要。世に傳へて來た神なるものが假定だといふことは、かのニーチエも説破した。――假定といふのが惡ければ、概念と云ひ更へても善い。哲學も宗教も、共に、直觀の邪魔になる概念を立てたので失敗に終はつたので――殆ど概念ばかりを傳へる歴史の樣なものは、ニーチエの云つた通り、人間の自由を束縛して、思想の自在なる發展を妨害して居るのである。人はこの概念といふ抽象物に由つて生活することになつてから、全く救ふべからざるものとなつてしまつた。
貨幣論を讀むと、グレシヤムの法といふものがある。これは、惡貨が善貨を市塲から追ひ出してしまうから、年を限つて、古くなつた貨幣を改鑄しなければ、同じ價格を持たすわけに行かないといふことである。人間も之と似たもので、大悟したのは、改鑄された當座であつて、また段々價値のないものになり下つてしまう。たゞ哲學者や宗教家があつて、自分の迷ひを僞つて、眞理とか神とかいふものに、無理に勿體をつけて呉れるのである。古貨幣にも意識があるとすれば、金八九圓の代物を十圓に通用させて貰ふのを有難がつて居るだらう。
僕がはじめて直觀といふことに思ひ付いた當座、松島の大仰寺へ登つて獨禪を試みたことがあるが、ずツと跡になつてから、人の云ふ坐禪はどう云ふ工合のものかを知りたいと思つて、江州の紅葉の名所、永源寺を訪ふて、同派の管長、今は故人となつた某氏に會つて見た。話の中で、『禪の主眼となつて居るものは何でしよう』と、僕は尋ねた――尋ねたのも、何といふかとためして見たので――すると、向ふは少し考へてから、『まア、ありません、な』と答へた。この人、どんなにえらかつたのか、それは僕にも分らないが、おのれの立ち塲に主眼がないと云ひ切る勇氣のあつたのは賞すべきである。大悟したのはまた別な迷ひに這入るので――人は自己の救ひを刹那刹那に求めて居る。他人の手を引ツ張つて天國に入ることは、到底出來ない相談である。アリストテレースの樣に、徳は以つて教ゆべく、また練習すべきものだとは、愚論の極と云はなければならない。
若し不平を訴ふるところが實際あつたなら、そこで泣きつぶれて、そのまゝ宇宙と縁を切つてしまつても滿足であらう。然し、同情なるものは不完全と不完全との誤魔かし合ひであつて、慈悲とは弱點を以つて弱點を裝ふの具に過ぎない。僕等の悲痛はこの無目的な宇宙に持つて行きどころがないのであるを以つて滿足するが善い。解脱と涅槃とを古事つけて來るのは未練である。病めるもの、艱めるものは、如何にも憐むべきではあるが、之に同情し、之を救はうとする餘裕があると思ふのは、自己の本性を僞るので――加藤博士の愛己説は、たゞ普通の究理的形式を以つて説いてあるのであるが、僕の刹那觀から云ふと、博士の所謂愛己の變形なる愛他をも許さないのである。自我の眠つて居る時、非我なる假定物の見えよう筈はなし,また、自我の覺めて居る時、之があるとしても、之を救ふまでの餘地がない。解脱と涅槃とは、直ちに自我の滅亡を意味して居るので――その實、滅亡することがないから、井上博士の云はれた無邪氣な小供ばかりではない、僕等はすべて解脱が出來ないのである。
ああ、表象の直觀ばかりが悲痛のうちに機々相傳へて、刹那的存在である僕等の生命をつないで呉れるのである。
(十六) 運命の杖――悲痛の靈