偉大なる夢

10話 指紋の主

4,060字 約8分 2021年10月28日 公開

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 三好憲兵曹長は望月少佐の命を受けて、その日の午後上田市から東京への汽車に乗った。いうまでもなく五十嵐博士殺害未遂犯人の怪指紋照合のためである。

 三好曹長はまだ三十歳を少し過ぎたばかりの若々しい軍人であったが、望月少佐が大陸在任時代からの部下で、少佐の片腕として、大陸の複雑な国際犯人捜査に当り、その道にかけては豊富な経験を持つ老練家であった。

 (しか)し流石の三好曹長も、今度の殺人未遂事件には、少なからず面喰っていた。この事件には何かしら途方もない感じがあった。あれほど厳重に見張っていたにも拘らず、犯人は隠れ(みの)でも身につけているかのように、全く人目に触れないで、博士の寝室に忍び込み、設計室の金庫の書類を盗み去った。

 犯人は大きな目を見はって張り番をしている数人の憲兵の前を通過しないでは、そこへ出入りすることは不可能であった。しかも憲兵は誰一人犯人の影さえ見なかったのである。隠れ簑はお伽噺(とぎばなし)の世界のものである。しかし何かそういう風な術を、例えば人間の身体が透明になるというような、奇怪な術を犯人が心得ていたとでも想像する外に考え方がなかった。

 三好曹長は、その詳しい内容は無論聞かされていなかったけれど、五十嵐博士一行が山荘に立てこもって、この戦局を一挙に左右するほど重要な兵器の設計に従事していることは、十分承知していた。したがって、この犯罪が国家にとって、軍にとって、如何に重大なものであるかもよく分っていた。

「こいつは一通りの犯人ではないぞ。余程の覚悟をしなくてはならんぞ」

 曹長は汽車の中で、何度となく自分自身に云い聞かせた。この犯人を捉えるかどうかは、前線の将兵が敵の拠点を占領するかしないかと同じくらい重大であった。イヤ、全戦局を左右する発明という点から云えば、そんな比較ではまだ軽すぎる。

「俺は今、ただ一人で数万の敵軍に向かって突進しているのと同じだぞ」

 と考えると、曹長はその任務の重さに、武者振いを禁じ得ないのであった。

 曹長はその夜遅く東京に着くと、自宅に一夜を過し、翌朝は先ず憲兵隊司令部に行って、彼の任務を報告し、そこで調べられるだけは調べたが、これという手掛りを掴むこともできなかったので、直ちに警視庁に赴き、知合の外事課長を通じて、犯人の指紋の照合を依頼した。

 暫らく待っていると、指紋係が一枚の指紋カードを手にして入って来た。

「ありましたよ。これです。お持ちになった写真の指紋とピッタリ一致しています」

「エッ、ありましたか」

 三好曹長は案外の吉報に飛び立つ思いであった。写真と指紋カードとを受取って、拡大鏡を借りて見比べると、拇指と人差指の指紋が寸分違わず一致していることが分った。カードの住所氏名欄には「芝区(しばく)××町一丁目六二番地、韮崎庄平(にらざきしょうへい)」と記入してある。

「どんな前科があるのですか」

「ところが、前科というほどの前科はないのです。こいつは僕が指紋を採った男で、よく覚えているのですが、変な奴ですよ。マア途方もない変り(だね)ですね」

 指紋係はなぜかニヤニヤ笑いながら答えた。

「変り種というと。一つ詳しく話して下さいませんか」

「エエ、ようござんす。自分で指紋を採ったからといって、一々その人間を覚えていられるものではありませんが、こいつは、ひどく変っているので、幸い、よく記憶しているのです。僕はこいつの(すま)いも知っているのですよ」

 指紋係はその辺にあった椅子に腰をおろすといささか得意気な面持で、雄弁に語りはじめた。

「韮崎は十五六年支那に住んでいて、大東亜戦争の起る少し前に東京へ帰って来た男です。北京(ペキン)にも南京(ナンキン)にも上海(シャンハイ)にも漢口(ハンコオ)にも、マア支那の目ぼしい都には悉くいたことがある。方々へ転々として商売をしていたというのですね。嘘か本当か分りません。本人がそう云っているのです。

 支那の政治家とも、大抵は知合いだといって有名な政治家の書などを沢山持っている。美術品もいろいろ持っていて、当時、この男を調べた刑事の話によると、古い仏像だとか、面だとか、薄気味の悪いようなものを、実に夥しく持っているのだそうです。支那語は日本語よりもうまいくらいで、本人は支那事変が始まってからは、密偵のようなことを勤めたといって威張っているのですが、嘘か本当か分りません。その頃、警視庁で軍の方に問い合せたところ、結局、はっきりしたことは分らなかったのです。どうも出鱈目(でたらめ)らしいのですね。

 この男は妻も子もなく、全くの一人ぼっちで暮らしていて、親戚知己もないのか、近所の人は、彼の家に客の来たのを見たことがないといっています。小金は持っているらしいのです。支那から帰ると、芝の××町に売物に出ていた外人の家を買い入れて、そこに一人で住んでいるのですからね。この家がまた、化物屋敷のような古い(こわ)れかかった西洋館で、木造二階建の、建てた時には相当の建物だったでしょうが、何分にも年数がたっているので、全くの荒屋(あばらや)です。そこで自炊生活をしているのですね。

 年ですか、カードに書いてある通り明治二十八年生れですから、丁度五十ですね。なかなか立派な男で、背が高くって、顔も立派な顔をしているのです。八字髭なんか生やしているんですよ。

 ひどい変り者です。第一こいつの家の門はあいていたことがない。いつも鍵がかけてあって商人などが来ても入ることができない。夜も表からは電燈の光も見えないので、(うち)にいるのかいないのか見当もつかないのだそうです。つまり交友関係が全くないのですね。では、食事なんかはどうしているかというと、すべて外食らしいのです。放浪癖があるので、(いえ)をあけて旅行することが多いらしいのですが、いつ出かけて、いつ帰ったかは、近所の人も知らないという有様です。隣組(となりぐみ)の持て余しものですね」

「で、その男が何か罪を犯したのですか」

 三好曹長は、指紋係の話がいつまでもその点に触れないのを、もどかしがって訊ねた。

「サア、それが罪という程の罪ではないのです。ただ非常に変っているのですね。一例をいいますと、他人の邸宅へノコノコ入って行って、主人の居間に坐りこんで、平気な顔で女中にお茶を持って来いなどという。全く知らぬ家でそれをやるのです。別に物を盗んだりする訳じゃありません。そういう訴えが警察に来るのです。

 身の軽い奴でしてね。真昼間、屋根の上を伝い歩くという変な癖も持っていました。他人の家の屋根から屋根と伝って歩き廻るのです。

 それから真夜中に町を歩くのですね。そして犬を殺すのです。飼主のある犬でもなんでも、吠えついてくるやつを片っぱしからピストルで打殺す。ある夜などは同じ町内に犬の死骸が六匹も転がっていたというのですからね。

 これは飼主達から訴えがあって、損害賠償をさせられたのですが、その罪と無届でピストルを所持し、市中でそれを発射したというかどで罰せられたのです。それに以前からのいろいろの不審な行動もあって、その時は、厳重な取調べを受けました。医師の精神鑑定も行われたのですが、精神病者ではない。判断力は正常なのです。一種の極端な変りものということで放免になりました。しかし、それ以来、所轄警察署の注意人物になっているのです。尾行がつくというわけではありませんが、油断のならぬ突飛な男として、絶えず注意を払うことになっているのです。

 で、あなたのお持ちになったこの指紋は、一体どういう事件に関係があるのですか」

「殺人未遂事件です。長野県の山奥で、計画的に行われたのです。一昨晩の出来事です」

「ヘエ、あいつがね。フーン、そうですか。で、憲兵隊でお取扱いになっているのは、無論……」

「そうです。間諜の疑いがあるのです。戦争と密接な関係のある非常に重大な犯罪です。すぐその男を調べて見たいのですが……」

「分りました。幸、その男を手がけた刑事が居りますから、所轄警察署まで御案内させましょう。ちょっと課長に相談して見ますから、暫らくお待ち下さい」

 指紋係はそういって立ち去ったが、程なく給仕がやって来て、三好憲兵曹長は捜査第一課長の室に案内され、課長の紹介で北村(きたむら)というその刑事に会い、韮崎の住居(すまい)に同行して貰うこととなった。

 その自動車の中で、三好曹長は、この犯罪の重大性と犯行の超現実的とも称すべき巧みさについて語ったが、すると、北村刑事はそれに応えて、

「あいつが間諜であろうとは、全く気がつきませんでした。しかし、考えて見れば、如何にもそういう犯罪にはうってつけの男です。あいつは手品使いですからね」

 と、不明を恥じるように云った。

「手品使いといいますと」

「奇術師ですね。実に手品がうまいのです。留置中に、私達の前でやって見せたことがあるのですよ。小手先の手品でしたが、実に玄人はだしのうまさです。あいつなら、どんな大仕掛けの手品だってやり兼ねませんよ。あなたは今隠れ簑とおっしゃいましたね。そういう手品だって、あいつならやれるかも知れません」

 刑事は真面目な顔でそんなことを云った。

「支那語がうまいのだそうですね」

「エエ、それは手に()ったものです」

「日本人であることは確かなのですか」

「原籍は調べたのです。架空の人物ではありません。しかし、十何年も支那にいたので、あの男の顔を見知った友人というようなものが一人もないのです。原籍地は籍があるというだけで親戚も何もありません。しかし、顔立が日本人ですし、言葉にも変な所はないので、取調べの当時は、別に疑っても見ませんでしたが、若し今度の犯人があいつだとすると、何とも云えませんね。私達はまんまと騙されていたのかも知れません。

 それに、あいつの突飛な気違いめいた所業も、実はわれわれの目をあざむく一つの手段だったかも知れないのです。ああして変り者だ、気違いだという風に見せつけておけば、逆手の迷彩になるわけですからね。警察の御厄介になって事なく放免されるというのは、大きな犯罪を企らむ者にとっては、一つの逆手ですからね」

 北村刑事は、如何にも残念でたまらぬという様子であった。

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