偉大なる夢

9話 望月憲兵少佐

4,253字 約9分 2021年10月28日 公開

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 犯罪の行われた時刻を正確にいうと、午前零時十三分であった。庭園を警戒していた憲兵が窓からの老博士の叫び声を耳にした時、素早く腕時計を見ておいたのである。

 それから朝の八時まで、引きつづいて別荘内の捜索がつづけられた。憲兵の半数がそれにたずさわった。部屋という部屋の押入を開き、絨毯をめくり、壁をたたき、天井、床板の継目を調べ、手のおよぶ限りの捜索を行ったが、何等の異状をも発見することはできなかった。

 上田市の警察署長が司法主任をともない、同市の外科病院長と看護婦を同車させて、自動車を別荘に乗りつけたのは、午前二時を少し過ぎたころであった。被害者が国家の重要人物であるという電話によって、署長は特に迅速な取計(とりはか)らいをしたのである。

 五十嵐博士の負傷は、左背肩胛骨(けんこうこつ)を貫き、左肺臓に達する刺傷(ししょう)で、兇器は刃渡り三センチの鋭い諸刃の短刃と鑑定された。傷はあやうく心臓を避けていたので、即死だけはまぬかれたが、老体でもあり、生命をとりとめ得るか否かは疑問であった。

 午前七時、地方裁判所から検事の一行が到着した。検事は古参の憲兵曹長と警察署長と協議の上、取敢(とりあ)えず邸内の人々の取調べを行った。

 午前八時少しすぎ、自動車の警笛とともに、東京憲兵隊司令部の望月憲兵少佐が来着した。少佐は昨夜の事件をしっていたわけではない。

 五十嵐博士の重要書類窃盗未遂事件、護衛憲兵の増派と、五十嵐博士一行の周囲にただならぬ陰謀のおこなわれつつある情勢捨ておきがたく、新一の懇請に応じて単身現場に出向いてきたのであるが、時すでに遅く、五十嵐博士は重傷を負い、その取調べのため出張せる検事と相前後して到着する羽目となったのである。

 検事は事件の性質上、取調べの主導権を望月少佐にゆずる態度をとった。少佐はまず一室に七人の部下をあつめ、三十分以上にわたって密談をとげたのち、検事と立会いの上、あらためて邸内の人々を一人一人呼びよせ、老博士負傷前後の事情を聴取した。新一、京子、南博士らも個別に綿密な質問をうけた。

 事情聴取を終ると、少佐は五十嵐博士の病室を見舞った。医師と看護婦のほかは何人(なにびと)も同席させず、二十分ほどもついやして、容態を聴取(ききと)った上、邸内の人々が病室に立入ることを禁じ、入口に憲兵の一人を絶えず立番させることとした。息子の新一さえも少佐の許しを受けずして父を見舞う事は出来なくなった。

 五十嵐博士夫人は昨夜の打撃によって高熱を発し病床の人となっていた。検事や望月少佐の質問にも応じ得ぬほどの容態であった。人々は協議の上、老博士重傷のことは暫らく夫人の耳に入れぬこととし、その病室を他にうつすよう取計らった。

 新一が望月少佐と差向いでゆっくり話をする機会を得たのは、昼食後のことであった。京子は泊りこみの村の娘二人の外にもう二人の応援を頼み、多人数の食事の用意に忙殺された。食事が終ると検事と警察署長はすべてを憲兵隊の取計らいに任せ、医師と看護婦だけを残して、一先ず別荘を引上げて行った。その一行を見送ってから、望月少佐は新一を人なき設計室に誘いこみ、打ちとけて語り合う機会を作った。

 二人は例の大煖炉のある広間の片隅に、テーブルをさしはさんで向い合っていた。少佐はかつて折鞄の隠し場所となった二重クッションの安楽椅子にもたれ、煙草をふかしながら、ときどき窓越しに庭の芝生を見おろしていた。そこには部下の憲兵の一人が忠実に見張りを勤めている姿が小さく眺められた。

 少佐は鼠色の背広服を着ていた。五分刈り頭と日焼けのした浅黒い顔とが軍人を感じさせるほか、容貌にも言語動作にも(こと)さら軍人らしいものはなかった。四十歳は越しているに違いなかったが、坊主頭のせいか若々しく見えた。理智的な引締った頬、美しい口髭、笑うと非常に愛嬌のある白い歯並、全体に親しみのある顔立ちであったが、その中に一重瞼の余り大きくない目だけが、時折り相手の腹の底を射通すような鋭い輝きを見せた。

「もう一日早く来て下されば、こんなことは起らないですんだかも知れません」

 新一が少佐を尊敬していることは、その見上げるような目附きによっても察せられた。この人物のいるところには如何(いか)なる犯罪も起り得ないと、固く信じているように見えた。

 少佐は愛嬌のある歯並を見せて笑った。

「僕が昨日来れば、相手は一昨日このことを決行していたに違いない」

「じゃ、犯人はあなたの来られるのを知っていたとおっしゃるのですか」

「無論知っていた。こいつは何もかも知っている奴です」

「敵国の間諜と考える外ありませんね」

 新一は一際(ひときわ)声を低くした。

「断定はできない。しかし十分考え得ることです。ところで君の意見を聞きたいのだが、万一お父さんが再起できないとすると、ここの設計事業は中止の外はないのか、それとも他の学者達の手でつづけて行くことができるのかという点です」少佐は真剣な面持で訊ねた。

「絶望ではなくても、非常な困難にぶっつかるわけです。昨夜も南博士とこのことについて話し合ったのですが、非常に重要な部分の設計がまだ完成していないのだそうです。その部分は全く父の受持ちで、父でなくては分らない点が多いのだそうです。しかし、この設計に参加した学者達は父の計画の原理は理解しているのですから、父がいなくても、時間さえかければ何とかなるだろうというのですが、その時間が非常に永くかかるかも知れない。一年かかるか二年かかるか分らないというのです。つまり犯人は父をなきものにし、父のノートを奪うことによって、この設計事業を十分妨害することが出来たわけです。そういう目的を(もっ)て行動する奴は敵国の間諜の外には無いではありませんか」

「お父さんに万一のことがあれば、お父さんの一身上だけのことではない。国家の大損失であるということは、僕もよく分っている。僕の部下達は申訳(もうしわけ)ないといって泣いているのです。僕は彼等を信じていた。今でも信じている。優秀な憲兵達です。こんな失敗を演じたことは今まで一度もないのです。彼等が取逃がすほどの敵なれば、たとえ僕がいたとしても、どうすることも出来なかったかも知れない。

 僕は部下を信じている。信じているだけに、今度の犯人が決して並々の奴でないことを感じるのです。僕の部下は、七人もいて、寝ずの番をしていて、犯人がどこからどうして逃げたか分らないなんて信じられないというのです。どこにも一分の隙さえなかった筈だ。自分達は完全に任務を果していたというのです」

「そうです。私もそう思います。犯行直後のことだけを考えても、犯人の逃げる隙は全くなかったのです。それほど敏速に警戒網が張られたのです。蟻の這い出る隙も無かったのです。それにも拘らず犯人は消えてしまった。私はふと妙なことを考えることがあります。犯人は若しや我々の中にいるのではないかと……」

「僕の部下達も同じ考えを持っている。ある者は固くその説を()って譲らないほどです。しかしね、五十嵐君、それには一つの重大な反証があるんだ。犯人はここに住んでいる人々の中にはいないという確かな証拠がある」

「え、証拠が」

「動かし難い証拠だ。僕の部下達はここへ来てから人知れずいろいろな仕事をなしとげていた。その内の最も大きな仕事は、犯人の指紋を発見したことです。

 犯人は最初煙突からこの部屋に忍び込んで、金庫を開いた。僕の部下は金庫の指紋を採集したのです。それから犯人はこの部屋の窓ガラスを切って侵入したことがある。その時ガラスに残った指紋も無論採集した。最近では昨夜犯人は金庫の中から折鞄を盗み出したが、その折の指紋も調べた。又部下達は、一方ではここに住んでいる全部の人々の指紋を片っ端から採集した。爺やから女中に到るまで(ことごと)く指紋を採った。君も例外ではありませんよ。君が食事の時手にしたコップがその資料になったのです。それらの指紋は小型写真機によって同じ大きさに写され、レンズの力を借りて比較対照せられた。その結果、ここの住人の誰の指紋とも一致しない一つの指紋が、金庫の扉にも窓ガラスにも残っていたことが確かめられたのです。

 僕の部下は、最初金庫の指紋を採った時、その滑かな面や把手(ハンドル)を綺麗に拭き取っておいた。犯人が再び金庫に触れることを予期したからです。だから、最初そこにあった指紋には金庫を運んだ人夫などの指あとが混っていたかも知れぬが、昨夜そこに残っていた指紋はここの住人のものの外は当の犯人の指紋でなくてはならない。しかもそこに一つの特異な指紋があったのです。最初の金庫の表面にも、窓ガラスにも残っていた同じ指紋で、ここの住人のではない指紋がハッキリと検出されたのです。

 分りますか。その特異な指紋の主は、外部から侵入したと考える外はない。彼は誰にも見咎(みとが)められず侵入し誰にも見咎められず立去ったのです。僕の部下は口を揃えて、そういう事はあり得ない、信じ得ないというけれども、人間の感覚によって歴然たる物的証拠を否定することはできない。誰の目にも見えなかったとしても犯人は確かにこの家に出入していたのです」

「ああ、そうでしたか。私は少しも知りませんでしたが、憲兵さん達はそこまで調べていてくれたのですか。何も喋べらないで黙々として任務を遂行すという軍人流のやり方ですね」

 新一は感に()えて、恥じ入るように云うのであった。

「その特異な指紋というのはこれです。右手の拇指(おやゆび)と人差指とが採集されている。外の指の痕も残っていたが、不明瞭で資料とするに足らぬのです。今のところ犯人の手掛りはこの指紋だけです。指紋によって犯人を探し出すというのは、もしそれが指紋台帳にない場合は、難事中の難事ですが、ともかく我々はこの指紋から出発する外はない。三好(みよし)曹長がこの写真を持って午後東京へ帰る事となっています。そして先ず憲兵隊司令部と警視庁の指紋台帳を照合して見るわけです。三好は最も信頼できる憲兵です」

 新一は少佐の手から一葉の写真を受取って、そこに黒く渦巻いている二つの指紋に見入った。肉眼では十分見分けられぬけれど、二つとも横に流れた蹄状紋(ていじょうもん)であった。

「こいつですね。父をあんな目に合わせた奴は。そして、この大事業を挫折させた奴は。僕は復讐しないではおきません。必ず復讐します。望月さん、今日からあなたの弟子にして下さい。僕はあなたの助手になって、こいつを捉えるのです。このスパイの奴、捉えないでおくものですか」新一は歯ぎしりをして、叫ぶように云うのであった。

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