17話 滝の乙女
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ちょうどその時、東半球日本国信濃の国の山中、清々しい山気と朝靄の中に、一つの奇蹟がおこなわれていた。
五十嵐新一は父博士の死後も、温泉村の山荘に踏みとどまって、高速度飛行機設計班の学者たちと起居をともにしていた。科学者でない彼は直接設計の仕事に加わるわけではなかったが、母夫人がまだ病床に横わったまま東京に帰ることもできない状態にあったので、一つはそのために山荘の滞在が長引いていたのである。
しかし新一青年の心の底を探って見ると、彼をこの山荘に引きつけているものは、まだその他にもあった。それは南工学博士の妹京子である。五十嵐博士の死後、この清純なる乙女の容貌に一種聖なる窶れともいうべき変化が現われて、その身辺にただならぬ気配が感じられた。新一は誰よりも先にこの変化に気づき、それとなく京子の動作に注意を怠らなかったが、ある早朝、彼は遂にその謎を解くことができた。
まだ明け切らぬ朝靄の木立のなかを縫うように、京子の姿が温泉村の谿谷へと急いでいた。山荘の人々は誰も起き出でてはいなかった。新一青年も寝間着のまま、ガラス窓越しに、夢のような京子の姿を垣間見たのである。
果して京子は人知れず何事かを行っているのだ。新一は手早く衣服をつけて、そのあとを追った。相手に悟られぬよう朝露に裾を濡らして尾行した。
京子のおぼろな姿は、林を縫い草を分けて、温泉村の遙か上手の谿谷へと降りて行く。谷川のせせらぎは近づくに従ってその音色を高め、遂に滝の音と変る。木の枝越しに天降る白い帯が見える。冷たいしぶきが頬に感じられる。
三丈ほどの断崖から、落ちる細い美しい一本の滝、その滝壺の岩の上に、何かしら神々しい白いものの姿がスックと立っている。
新一は声を呑んでそれを見入った。黎明の山気に包まれ、滝しぶきと朝靄に霞んだその姿は、白い浴衣一枚になった京子であった。京子が滝にうたれているのであった。
黒髪はとけて肩に流れ、白衣の長い袂はもつれて肌にまとい、瞑目した白い顔には血の気もなくて、合掌せる手先と、岩をふまえた素足の指にほのかな桃色がただよっていた。
滝つせは黒髪を乱し、肩をうち、白衣の肌を伝い流れ、弾き飛んで、濛々たる水煙となり、神秘なる乙女の姿を神々しくぼかしていた。
水煙の中に色をうしなった唇はかすかに動き、合掌せる手首は烈しく震えて、彼女は一心不乱に何事かを念じているのである。
新一は乙女心の烈しさにうちひしがれて、晩秋の冷気の中に立ちすくんでいた。長い長い間、身動きもせず、息さえ止まる思いで、その神々しいものを見守っていた。手に汗を握り、涙を流し、憑かれたように立ちつくしていた。
どれほどの時がたったのか、ふと夢がさめたようにわれにかえって見ると、すぐ目の前の林の中に、いつの間に着更えたのか、もんぺ姿の京子の現実の姿があった。
新一は木の枝をかき分けて、その傍へ近づいて行った。京子も物音に気づいて振り返った。
「マア、新一さん、とうとうあなたに見られてしまいましたのね」
京子はまだ青ざめた片頬に、ほのかな微笑を浮かべて、静かにいうのであった。
「毎朝、ここへ来るのですか」
「エエ」
「何を祈るためにです」
「お分りになりませんの」京子は幽かな憤りを見せて、やや烈しく聞き返した。
「分っているような、分っていないような」
新一は曖昧な答え方しかできなかった。
「あなたは残念ではありませんの。お父さまはあんな目におあいになり、設計は駄目になり、お国は計ることもできない大きな損害をこうむったのです。男の方はそれをどう考えていらっしゃるのでしょう。なんだか暢気すぎるような気がするのです。わたしはじっとしていられませんでした。でも、女には物を考える力も、事をなしとげる力もありません。ただ祈るばかりです。命を的に祈るばかりです」
京子の烈しい言葉は、滝の音を圧して新一の耳に響き渡った。冷たい水しぶきとともにその声が彼の頬を打った。
「わたしは、五十嵐先生のあとをついで、このむずかしい仕事をなしとげようとしている兄達の念願を、どうかお叶え下さいと祈るのです。あなたがお父さまの敵を見つけて、お国のために仇をお討ちになれますようにと、それから、お可哀そうなあなたのお母さまの御病気が一日も早く治りますようにと祈るのです。
そして、それらをひっくるめて、帰するところは、この大戦争にお国が勝利を得ますようにと、わたしのこの小さい生命を捧げて祈っているのです」
新一は乙女心の烈しさに鞭うたれる思いで、涙ぐんで京子の気高い顔を見上げた。
「京子さん、有難う。父のことや母のことを祈って下さって有難う。京子さん、いま僕がどんな心持でいるか、あなたには到底分りません。僕はそれを云い表わすことができないのです。今はできないのですが、しかし京子さん、よく覚えておいて下さい。この滝の前で、この林の中で、涙を流している僕を、よく覚えていて下さい。いつかお話しする折があるでしょう。僕の本当の心持をいつか詳しくお話しする折があるでしょう」
新一は真実涙を流していた。なめらかな白い頬をキラキラ光る露の玉が、つぎつぎと辷り落ちて行くのが眺められた。
新一は京子の手をとっていた。二人はまだ明けやらぬ山気の中に、じっと立ちつくしていた。この朝のこの一ときが、二人の運命にとって、どのような深い意味を持つかも知らずして、彼らは銘々の心の中を、静まり行く激情の波頭を静かに眺め入るのであった。