24話 二重の地下室
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五十嵐新一が敵機の盲爆によってその母を失ってから又一ヶ月余りが過ぎ去った。その間、表面にはこれという出来事もなかったけれど、敵国間諜団の捜査については、憲兵隊は勿論、父と母との二重の仇討を念願する新一青年も亦あらゆる努力をつづけておったのである。
ある夜のこと、目黒区の望月少佐の住居へ新一から電話がかかって来た。少佐と新一とは二十日以上も顔を合せていなかったところへ、実に突然の電話だったのである。しかもその用件は、「非常に重大な報告をもたらして今直ぐお伺いする」というのであった。
暫くすると、いつもの国民服姿の新一が望月邸を訪れ、人を遠ざけて望月氏と密談をとげた。その報告が如何に重大な事柄であったかは、これを聴いた望月少佐のその後の行動によって十分推察することができた。
少佐はあわただしく自から電話口に立って、諸方に電話をかけた上、夜中にもかかわらず憲兵隊の自動車を呼んで、新一と同車して、憲兵隊司令部に急行したのである。
あらかじめ電話によって所要の人員が召集されていたので、司令部での用件は二十分にして終り、二台の大型自動車が、司令部の通用門を静かに辷り出した。望月少佐と五名の部下が残らず国民服を着用して二台の自動車に分乗し、新一は案内役として、前の車に乗っていた。
目的地は世田谷区××町の淋しい屋敷町であった。一同はその二町ほど手前に車を待たせて、新一を先頭にその家まで歩いた。檜の生垣に囲まれた平家の日本建で、低い石門に気取った板の扉が閉まって、その五六間奥にガラスの格子戸がぼんやり見えていた。
新一は望月少佐に何かささやいておいて、門の扉を開き格子戸に近づくと、柱の電鈴の釦を三度、妙な調子をつけて押した。少佐以下六名の国民服は、門内の闇にじっとたたずんで、何事か起るのを待ち構えているように見えた。
格子戸に大きな人の影が映って、それがソッと開かれると、新一はいきなり中へ入って行ったが、突然何か異様な物音がして、目まぐるしく人の影がもつれたかと思うと、一人の大男が右手で目を圧えて、ヨロヨロと格子戸の外へよろめき出た。その男も国民服を着ていたが、新一ではない。この家の住人である。
それを見ると、闇の中に待機していた国民服の内の三人が、左右から大男に飛びついて、そこに圧し倒し、たちまち手足を縛り上げ、猿轡をかませてしまった。この三人が望月少佐の部下の憲兵であることはいうまでもない。
新一は玄関を上って奥へ進んで行った。まるで我家のようにこの家の様子に通じているらしい。縛った大男は玄関の柱にくくりつけておいて、人々は新一のあとに従った。二間ほど奥にもう一人国民服の男がいた。その男は薄暗い電燈の下で押入れの板戸に凭れて坐っていたが、突然目の前の襖が開かれたので、びっくりして立ち上ったが、立ち上って一二歩前に進んだかと思うと、飛び込んで来た新一のために、したたか頬を打たれて、そこに転がっていた。そして憲兵によって忽ち縛り上げられてしまった。
「ごらんなさい。ここに非常ベルがある。こいつはこれを押すひまがなかったのですよ。だから地下にいる奴はまだ何も知らないのです。もっともこのベルを押したところで、今夜はどこへも通じないのですがね」
押入れの敷居から短い紐が出て、その先に電鈴の押釦がついていた。新一はそれを指し示してそんなことを云った。「どこへも通じない」というのは、恐らく前もって切断しておいたという意味であろう。
新一は更らに奥へ踏み込んで、奥庭に面する広い縁側でもう一人の国民服の男を縛り上げた上、また元の押入れの部屋に戻って、その板戸を開いた。押入れの中には品物が入れてあるわけではなく、床板が露出していて、そこに四角な穴があり、地下への階段が見えていた。非常に立派なコンクリート造りの床下式待避壕である。現在はどこの家にもかならず一つ以上の待避壕があるのだから、この怪しい家の地下室も人の疑惑を招く心配はなかった。
新一は非常に用心深く、しかし極めて素早く地下室への階段を降りて行った。憲兵たちもそれにつづいたが、彼らが真暗な地下室の床に達するか達しないに、新一はまたもや一人の男を組み敷いていた。望月少佐の懐中電燈がそれを照らし出すと、二人の憲兵が組み敷かれている男に飛びついて行って、先に捕縛した三人にしたのと同じ処置をとった。すなわち手足を縛り猿轡をかませたのである。
新一の大胆不敵にしてしかも寸毫の錯誤なき活動は望月少佐を驚歎せしめた。彼はこの怪屋の構造を諳んじ、どこにどんな見張りがいるかを、掌を指すがごとく知り尽していた。
地下室は予想したよりも遙かに広く、十分四畳半ほどの面積があったが、懐中電燈で隅々を照らして見ても、今縛り上げた男の外には全く人の気配はなかった。では、今夜の捕物はこれでお仕舞いなのであろうか。今までの四人が、この怪屋の住人の全部なのであろうか。イヤ、どうもそうではないらしい。その証拠には新一の態度がいよいよ真剣味を加え、彼の身辺に息づまるような緊張が感じられたのである。
新一は望月少佐に懐中電燈の光を地下室の一方の隅に向けるように合図をしておいて、その隅にしゃがむと、コンクリートの壁の床から五六寸の個所に指をかけて何かした。すると、そこに隠し戸があって、スルスルと開き、一尺四方ほどの壁の窪みが現われた。新一はその中に手を入れて、ラジオのレシーバーのようなものを取り出し、それを少佐の方にさし出して、身振りで耳に当てることを勧めた。少佐は帽子をとり、レシーバーを両耳に固定させた。
次に新一はその隅のコンクリートの床の或る個所に指をかけて、栓でも抜くように引張った。すると、丸いコンクリートの蓋がとれて、そのあとに径一寸ほどの小さな穴が開いた。彼は手真似で少佐にそこを覗いて見よと勧めた。少佐はいわれるままに、半ば腹這いになって、その覗き穴に目を近づけた。
望月少佐はそのことを出発に先立って新一から聞いていたのであるが、現実に覗き穴を覗き、レシーバーによって床下からの声を聴き取るにおよんで、悪人共の計画の周到巧緻に一驚を喫しないではいられなかった。待避壕と見せかけた地下室の下に更らに二重の地下室があり、その広さも第一の地下室に比べて二倍ほどであることが分った。覗き穴は漏斗型に先が開いていて、第二の地下室の全景を一望に収め得るように出来ていた。
そこには白木のテーブルを囲んで六人の男が椅子にかけているのが斜上から眺められた。テーブルの上に大きな傘のある電燈がおかれ、その薄暗い光線が人々を照らし出していた。上から見るのでその容貌は十分には分らなかったが六人の内四人までは黄色人種、あとの二人はどうやら欧米人との混血児らしく感じられた。服装は申合せたように一様の国民服である。
六人の者は額を集めて何かしきりと話し合っていた。云うまでもなく間諜団の秘密会議である。会話は凡て英語で行われていたが、それがレシーバーを通じて、望月少佐の耳に手に取るように聞えて来る。あとで聞くと、このレシーバーは、仲間の者が第一の地下室で番兵を勤めながら、第二の地下室の会議の模様を知るためのものであって、壁の窪みの中には、別に電話機も備えられ、上から下へ話しかけることも出来るようになっていた。見張りの男は本来なればこの電話で下の仲間に危急を告げるべきであったのが、新一の攻撃が余りに不意であり素早かったので、そのひまがなかったのである。
十分間ほど辛抱強く聴いていると、話の中途からではあったが、これは敵国間諜団の非常に重要な会合であることが分った。六人は全国の各地方から集まった者共で、日本本土に潜伏する間諜団の全体会議ともいうべきものであることが推察された。
十分間の密談の内にすら、関西の二つの大軍需工場の爆破陰謀が含まれていた。また敵機のわが本土空襲に相呼応して思想攪乱を行うべき密謀の一端が語られた。二人の混血児の内の一人は、もし今後故五十嵐博士の発明のごとき新兵器の考案が現われたならば、如何なる手段を講じてもその完成を不可能ならしめるのだと、昂然として叫んだ。その口吻よりするも、五十嵐博士殺害の陰謀が彼等の一味によって行われたことは疑いの余地がないのであった。
新一はその時少佐の肩を圧して合図をした。敵に悟られない先に、もう攻撃を開始すべきであるという意味を伝えたのである。
少佐はレシーバーを頭からはずして立ち上った。新一は床の別の一隅にある隠し戸を静かに開いた。下からほの暗い光線が四角な降り口とコンクリートの階段とを照らし出した。あらかじめ打合せておいた順序に従って、少佐は腰の拳銃を取出し、先頭に立って第二の地下室への階段を降りて行った。五人の憲兵がそれにつづく。新一は最後まで隠し戸の上に残っていた。
少佐が拳銃を構えて階段の中ほどまで降りた時、六人の怪人物は一斉に立ち上り、十二の眼が少佐を凝視した。そして、六人の右手が揃って腰のポケットに行き、六挺のピストルが取り出され、六つの筒口が少佐の胸を狙った。
しかし少佐は少しも躊躇せず、しっかりした足どりで静かに階段を降りて行った。この豪胆極まる行動が数秒間六人の者共を畏縮せしめたかに見えたが、結局、六挺のピストルの引金は引かれたのである。だが不思議なことにカチ、カチ、カチという音がしたばかりで、弾丸は一つも発射されなかった。望月少佐はそのとき階段を降り尽して、六人の悪漢共の目の前に悠然と立っていた。擦り傷一つ受けないで、微笑さえしながら。
六人の者共の顔にサッと狼狽の色が浮かんだが、彼等は更らに二度三度、無駄に引金を引き、空しくカチカチという音をさせた後、腹立たしげにピストルを床に投げ捨てた。同時に悪漢共の中から突拍子もない笑い声が起った。六人の内最も背の高い毒々しい顔をした男が、何がおかしいのかゲラゲラ笑い出したのである。そしてヨロヨロと一方の壁に歩み寄り、どこの国の言葉とも分らぬ叫び声を立てながら、壁の上部に設けられた電線のスイッチに手をかけた。それを見た他の悪漢共の顔に極度の恐怖の色が流れた。アッと声を立てる者すらあった。
大男はなおも笑い声を立てながら、しかし真蒼になった顔に目ばかり赤く血走って、その血走った目で望月少佐を睨みつけたまま、カチッとスイッチを入れた。だが予期した異変は起らなかった。大男は気が違ったかのように何度もスイッチを上下に動かしたが、何の手応えもなかった。大男も他の五人も今はただ茫然として立ちつくすのみであった。彼等は最早あらゆる手段を失った絶望の群像に過ぎなかった。
望月少佐は拳銃を構えたまま一歩身をよけてうしろの部下に合図をした。五人の国民服がコンクリートの階段をかけ降りて、茫然自失せる悪漢共に向かって殺到した。ほとんど格闘らしい格闘もなく、寸時にして事は終った。六人の男はことごとく後手に縛り上げられ、おとなしくそこにたたずんでいた。
かくしてこの夜の大捕物は、殆んどあっけない程たやすく、何等の故障もなくその目的を完了したのである。
悪漢共は数珠つなぎとなって地下室を追い立てられ、上の座敷へ連れ去られた。先に捕縛した見張りの者と合せて十名、あとは自動車の都合をつけて、司令部に連行すればよいのである。
そして、二重の地下室の底には、望月少佐と五十嵐新一とがただ二人残っていた。
「このスイッチがもし利いたとすれば、我々は粉微塵になっていたでしょう。イヤ、この建物全体があとかたもなくなっていたでしょう。彼等の最後の手段だったのです。爆薬です。僕は前もってここに忍び込み、電線を切断しておいたのです」
新一が説明した。
「では、彼等のピストルの弾丸を抜いておいたのも君ですか」
望月少佐はさい前まで悪漢共のかけていた椅子の一つに腰をおろして、驚歎の面持で新一を見つめた。
「そうです。手品師のように、際どい仕事でした。奴等はここの密会が全く安全であると信じこんでいたのです。表と裏と地下室の入口の押入れの前に見張番がいます。何か事があればすぐベルを押すようになっているのです。僕はそれらのベルの電線も皆、分らぬように切っておいたのですが、奴らは不意を突かれてベルを押すひまもなかったようです。仮令押したとしても鳴りはしなかったのですがね。
第一の地下室は防空待避所です。誰に見られても少しも差支えありません。これは町内でも自慢の退避壕なのですよ。よく他所の警防団などが視察に来るほどです。誰知らぬ者もない名物地下室です。ところが、実はこれが人目をくらます手品の種で、その下にもう一つ本当の秘密地下室が出来ていようなどと、誰が気附きましょう。二重底の秘密箱のようなものですね。
なおその上に万々一この待避壕を怪しむ者があったとしても、秘密の会合のある間は、ここにも見張人が頑張っていて、闖入者があれば直ちに第二の地下室へ合図をするようになっているのです。僕らは敵の虚を突いて、この最後の難関をも見事に突破しましたがね。
しかしこれらのあらゆる見張りが駄目になっても、彼等には最後の切札があったのです。それはこの壁のスイッチです。建物と共に敵も味方も粉微塵にしてしまうという恐ろしい火薬仕掛けです」
新一の説明を聴くに従って、望月少佐は愈々感に堪えたという面持で、頻りと肯いて見せるのであった。
「彼等を一人も傷つけないで捕縛できたのは奇蹟といってもよい程ですね。イヤ、そればかりではない。君の周到綿密な用意のお蔭で、我々一同命拾いをしたわけです。その意味でも君には非常に感謝しなければなりません」
「お褒めに預って恐縮です。苦心の甲斐があったというものです。何しろ僕に取っては父と母との仇討ちですからね。一月余りというもの殆んど夜も寝ないで走り廻り、やっとここまで漕ぎつけました。そして、奴らの全員がここに集まっている好機会を捉えることが出来たのは全く幸運でした。父母の霊が導いてくれたのかも知れません。これで僕もいささかお国の為に尽すことができたというものです。少くとも僕の調べたところでは、今夜ここに集まっていたのが、内地に潜入している敵国間諜団員の全部です。もう心配はありません。工場爆破計画も、思想攪乱工作も、これでおしまいです」
新一は非常に昂奮しているように見えた。地下室の中をあちこちと歩き廻りながら、上ずった声で喋りつづけた。
「だが、新一君、僕等の仕事はまだ全く完了したとは云えないようだね」
望月少佐は新一の言葉の途切れるのを待って静かにいった。
「エ、それはどういう意味でしょうか」
新一は歩き廻るのをやめて、少佐と相対して椅子に腰をおろした。
「あの椅子だよ」
少佐はテーブルの一端にキチンと行儀よく据えてある一つの椅子を指さして、意味ありげに云った。他の椅子は先程の騒ぎで皆位置が乱れているのに、その椅子だけは真直ぐに置かれたまま誰も手を触れなかったように見えた。
「エ、あの椅子とは」
「分りませんか。あの椅子だけに主がなかったのですよ。椅子は七つ、人間は六人、つまり椅子が一つだけ多いのです。来るべき人がまだ来ていなかったのではないでしょうかね。それについて思い出すのは、この上の地下室で耳に受話器をあてていた時、ここから聞えて来た話の内に、彼等の首領ともいうべき人を待っている、やがて来るのを待ちながら話しているという感じがハッキリ出ていたことです」
「アア、あなたはそれをお気附きになったのですね、そうです。我々はあの椅子の主を捉えなければなりません。お考えの通りそいつが首領なのです」
「エッ、君はそこまで知っていたのですか。それじゃ我々は少し早まったのではないかな。首領を逃がしてしまっては……」
「イヤ、逃がしたのではありません。僕はそんなへマはしなかったつもりです」
「エッ、では、それはどこにいるのです。君は居所を知っているのですか」
「待っているのです。ここに待っていれば、今にそいつの方からここへやって来るのです」
新一は非常な自信をもって断言した。望月少佐はこの意外な言葉をさして驚く様子もなく受け入れた。少佐は微笑さえ浮かべて、軽く肯いて見せると、その首領の来着を待ちでもするように、腕を組んで、椅子の背に深く凭れて、黙り込んでしまった。新一も物を云わなかった。二人は長い間身動きもしないで、まじまじとお互の顔を眺め合った。
二重の地下室の圧えつけるような重い空気、大きな傘に覆われた置電燈、部屋の隅々に籠る暗い影、何かしら異常なる出来事を暗示するがごとき不気味な雰囲気が、ひしひしと身に応えるのであった。
その時、突如として、二人の頭の上にあわただしい物音が起った。人が走っている。一人ではない、二人のようだ。天井の出入口に国民服の男の姿が現われた。急がしく階段を駈け降りて来る。憲兵の一人であった。彼は階段を降り切ると不動の姿勢をとり、少佐に向かって挙手の礼をした。
「五十嵐さんに会いたいという女の人が来ています。一応お断りしたのですが、どうしても会わせてくれといって聞きません」
「どんな女だ、名前は」
少佐が訝しげに訊ねた。
「南という人です」
「アア、京子さんが来たのです。ここへ連れて来て下さい。私が呼んだのです。待っていたのです」
新一が新たなる昂奮を示して叫んだ。少佐はそれに同意して肯いて見せた。憲兵は南京子にこの旨を伝えるために引返そうとしたが、それには及ばなかった。京子が早くも階段の上部に姿を現わしたからである。
京子はいつもの飛白のモンペを着ていた。しっくりと足に合ったズックの靴を穿いていた。顔は昂奮に青ざめていた。その白い顔が飛白の濃紺に映えて、非常に美しく見えた。薄暗いコンクリートの背景の前に、その姿はなにかしら神々しいもののようにさえ感じられた。彼女は瞬きもせず新一の顔を見つめて、静かに階段を降りて来るのであった。
新一の目も京子の姿に釘着けになっていた。彼の表情には一層の昂奮が加わったかに見えた。その顔は京子と同じく紙のように白かった。ア、新一が待っているといったのは、もしかしたらこの京子のことではなかったのか。
それにしても長野県の大和航空機製作所に女工員として働いているはずの京子が、どうしてここに現われたのであろう。しかもこの恐ろしい捕物のさなかに、不気味な地下室へ、彼女はそもそも何の目的をもって、その美しい姿を現わしたのであろう。