25話 大秘密
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二重の地下室の冷たい空気は微動だもせず、音というものが消え失せてしまったかのごとく異様に静まり返っていた。
つい今し方まで間諜団の悪漢達が密議をこらしていた粗末なテーブルを囲んで、望月憲兵少佐、五十嵐新一青年、南京子の三人が息づまるような沈黙の中に顔を見合せていた。卓上電燈がテーブルの表面に赤茶けた光を投げ、その反射光線が三人の顔に不気味な陰影を作っていた。
永い沈黙を破って口を開いたのは新一青年であった。彼は嗄がれた低い声で、一大事を打ちあけるかのように、少佐の顔を見つめながら、こんな風に云うのであった。
「この主のない椅子に誰が腰かける筈であったか、僕はそれを知っていますが、望月さん、あなたも無論御承知なのでしょうね。あなたは間諜団の首領が何者であるか、とっくに御存じでしょうね」
望月少佐は暫く考えたあとで、静かに答えた。
「知っている。だが、わたしは今までそれを発表することを恐れていたのです。わたしの推論は殆んど常識をはずれている。日本人の心持をもってしては想像だも許されない奇怪な心理を肯定しなければ、わたしの推論は成り立たないのです。そういう突飛な推論を迂濶に発表することはできない。時期を待っていたのです」
「で、その時期が来たとおっしゃるのですか、今こそその時期だとお考えになるのですか」
新一が熱心な口調で訊ねた。
「わたしはそのように感じる。殊に誰に盗み聴かれるおそれもない地の底で、あなた方二人の前で、わたしの推論を説明するのは、非常な好機会のように考えられる」
少佐はそこでプッツリと言葉を切って、二人の顔を意味ありげにじっと眺めるのであった。
京子は真青になって、その目は少佐の口辺に釘着けになっていた。ソヨともせぬ冷たい空気が液体のように三人を圧えつけ、三人は生人形のように身動きもしなかった。
暫くたって望月少佐が低い声でゆっくりと話しはじめた。
「わたしは昔話をしなければならない。今から七八十年前の昔話です。しかもそれはどんな記録にも残っていない、歴史の裏のささやかな事実です。ささやかな併し途方もない事実です。
わたしはその途方もない事実を、ここ二ヶ月余の間に、非常な苦労をして調べ上げた。殆んどあるかなきかの目にも見えない細い糸を辿って、七十年の国際的罪悪史を研究した。敵国の大秘密です。想像を絶する恐るべき陰謀です。
嘉永六年浦賀に来航したペリーは、日本の眠りを醒ましてくれた恩人だから、銅像を建てなければいけないということを唱えたものがあったが、実に滑稽な話ですね。彼は二度目に浦賀へ来る前、小笠原島を占領したという事実がある。そしてそこをコッフィン島などと名づけて米人を上陸定住せしめたのです。彼はその外琉球その他日本近海の島々を悉く武力占領することを、時の大統領フィルモアに建言している。
だが、それまでしないでも、当時の日本はペリーなどの思惑通り動いて行った。そして安政六年には横浜その他の貿易港が開かれ、神奈川在の一寒村横浜は彼らの商業的制覇のもっとも有力な基地として繁栄したのです。
その頃早くも或る驚くべき陰謀が企てられていた。嘉永から明治にかけての十数年は、日本に取っては維新の大事業の成就せられた極めて重大な時であったが、アメリカも丁度その頃南北戦争という大事件に遭遇していた。南北戦争が終ってリンカーンが暗殺せられたのは慶応元年ですからね。その次には十八代の大統領グラント将軍の来朝という印象的な出来事があった。グラント将軍は色々日本に好意を示したので、朝野の歓迎は非常なものでした。だが、このリンカーンもグラントも、私の謂う大陰謀に無関係ではなかった。彼らといえども当時のアメリカ機密局長官から折にふれ、その報告を受けておったに違いないのです。
何者がこの途方もない陰謀を立案したかは、わたしにも分っていない。第十三代の大統領フィルモアか、十四代のピアスか、十五代のブカナンか、或はその時代の軍部首脳者か、また機密局の天才か、いずれにしてもこの陰謀の創案者は桁はずれの驚嘆すべき怪物です。
その陰謀の種が日本の土に播かれたのは、安政の終りから慶応明治にかけての七八年の間であったと推定される。その種が幾粒播かれたか、恐らく一粒や二粒ではなかったであろうと想像するばかりです。わたしが調査したのはその内のただ一粒の種の成長の跡に過ぎない。
文久年代、新開地横浜村に移住してきた米人にジョン・ブウリーという男があった。貿易商人の番頭であったが、後に主人から暇をとって、横浜百五十番館に英学教授の看板をかけ、月謝三分で日本人の弟子をとった。その広告文が明治元年五月の「万国新聞紙」に載っている。
ブウリーの弟子の中に花輪トミという骨董商の娘があった。その頃外人目当てに横浜に骨董の店を出すものが多かったが、花輪はその先駆者であった。ブウリーと花輪の家とは金儲けについて切っても切れぬ関係を結んでいたと想像すべき節がある。というのは、間もなくブウリーは花輪トミと結婚をしたからです。尤も太政官が日本人と外国人との結婚を許可したのは明治六年ですから、それまでは正式の婚姻はなかったのだが、とも角花輪トミは明治三年に新太郎という混血児を生み落している。
母親のトミは新太郎が三歳の時病死し、ブウリーは後添いも貰わず、新太郎の養育に専念して、新太郎が二十一歳の折これも病歿した。新太郎は外人商館の手代見習に入っていたが、その頃同じ横浜に人力車の帳場を経営していた堂本という者の娘お花を愛してこれを娶ろうとしたところ、母の実家が反対して、どうしても許さぬので、新太郎はお花を連れて駈落ちしたのです。そして諸方を巡り歩いた末、静岡市に落ちついて、新太郎は丸三製氷会社の書記を勤めた。書記をやっている内に段々製氷技術を覚えて、後には技師として働くようになった。
新太郎夫婦はそこで一男一女を挙げたのですが、男子は死亡し、女子の方が残った。新太郎の二十六歳の時生れた娘です。これは二代目の混血児ですが、見た目は殆んど日本人と変りがなかった。美しい娘でした。
新太郎は二三の製氷会社を転々して、最後に東京下谷区の東洋製氷会社工場に勤め、根岸に住居した。明治四十二年、新太郎はそこで病死し、妻のお花と娘の幸子が取残されたのです。新太郎は本来ブウリー新太郎とでも名乗るべきですが、ブウリーは新太郎の少年の頃日本に帰化し、姓も大川と改めておったので、新太郎の娘の幸子は、即ち大川幸子なのです」
望月少佐はそこでちょっと言葉を切って、煙草に火をつけ、その青い煙の中からじっと新一青年の顔を眺めたが、新一は腕組みをして目を閉じて、眠っているのではないかと怪しまれるほど静かにしていた。
「大川幸子は二十歳の頃野田某という医学生と恋愛に陥り、間もなく妊娠したが、野田は幸子と結婚できない事情があって、郷里に帰ってしまった。幸子は非常な不幸に沈んだが、思いもよらぬ救いの手がのべられた。凡ての事情を知った上で彼女を妻にしたいという人が出てきたのです。それ程まで幸子を愛し幸子の容色に溺れた人があったのです。それはその頃大学の助教授であった工学士五十嵐東三氏です」
少佐はここで又言葉を切って、二人の聴手の顔を眺めた。京子はハッとしたように目を見はって話手の顔を見つめていたが、新一青年は目を閉じたまま少しも動かなかった。
「五十嵐博士と結婚して間もなく、幸子は男児を生み落した。五十嵐はその子供を新一と名づけ、自分の子供として届出でたのです。それから二十余年の間、夫婦の間には一人の子供も生れず、新一は両親の寵愛を独占して成長した。新一君、それが君なのです。わたしは二月かかってやっとここまで調べ上げた。新一君、君はこのことをもう知っていたのでしょうね」
「ええ、知っていました」
新一は目を開いて、じっと少佐の顔を見ながら、落ちついて答えた。顔色は真青であったが態度も口調も極めて静かであった。
「では、わたしの推論が正しいことを認めるのですか。ブウリーから君に至るまで四代に亙る大陰謀を、君は認めるのですか」
新一は再び目を閉じて黙り込んでしまった。
「わたしは君の先祖を調査してブウリーに行当った時、わたし自身の推論の恐ろしさに身震いしないではいられなかった。ブウリーの名は戸籍簿にはない。大川新太郎で行止りになっている。大川新太郎からブウリーまで辿りつくのに、わたしは非常な苦労をした。五十嵐博士は無論君のお母さんが第二代の混血児であることは知らなかった。お母さんの方からは決して打明けなかったのだ。博士は恐ろしい間諜を妻とし子として、それに少しも気づかず研究に没頭しておられたのだ。
この陰謀の計画者が第何代の大統領であったか、第何代の軍部首脳者であったか、わたしは知らない。併しブウリーという男が、その大使命を負び、十分の訓練を受けて日本にやって来たことは間違いない。そして、出来るだけ純粋な日本婦人を選んで結婚したのだ。彼はそういう命令を受けて来たのです。そして、その日本婦人との間に生れた子供にアメリカ流の愛国心を植えつけ、日本にいながら、日本人とよく似た顔をしながら、しかも日本国に深い憎悪を抱き敵愾心を持ちつづけさせるように教育するのが、彼ブウリーの一生の仕事だったのです。
二代目の混血児は更らに純粋な日本婦人と結婚して女児を生んだ。二代目の父の仕事は、今はもう日本人と少しも違わぬ顔をしている三代目の女児に、自分が受けたと同じ教育訓練を施すことであった。敵愾心と憎悪を植えつけ、沈着勇猛なる間諜に育て上げることであった。三代目の女児即ち大川幸子は、最も純粋な日本人と愛し合って四代目の男児即ち君を生んだ。そして、五十嵐博士に妻としてかしずきながら、一方君を自分と同じアメリカ人に育て上げるために、秘かなる情熱を傾けつくしたのだ。
四代に亙って外形は真実の日本人になろうとする努力、しかも一方では日本人になればなる程アメリカ魂を濃厚にし、日本への敵愾心を強めて行く努力、これは実に恐るべき命がけの大手品です。その根気と執念とはただもう戦慄驚嘆の外はない。まるで悪夢にうなされているような恐ろしさです」
少佐は三たび言葉を切って、新一青年の蒼白な顔を眺めた。新一はパッチリ目を開いて、少佐の目を見返すように、低い声で云った。
「あなたは悪夢にうなされていらっしゃるのですよ。僕がアメリカ人の血をひいているということは母から聞いています。また僕が父の本当の子でなかったことも知っています。しかしこの僕が四代がかりで造り上げられた間諜だなんて、恐らくあなたの夢ですよ。悪夢ですよ。あらゆる事実がそれを証明しています」
「証明だって、一体何を証明しているというんだね」
「例えば、僕は父を殺し得なかったということをです。子が父を殺すということがあり得ないばかりでなく、それは物理的に不可能だったではありませんか。あなたはこれをどうして証明しようというのです」
新一は青ざめていたけれど、少しも狼狽してはいなかった。彼の表情には何かしら不思議なものがあった。好意と悪意と、肯定と否定との奇妙な混淆が感じられた。
「では、殺害事件そのものについて、わたしの推論を試みよう。君がそれを望むならば」
「エエ、聞かせて下さい。僕はそれを待っていたのです」
望月少佐は居住いを直して語り始めた。
「わたしが山の研究所へ出向いて、最初に見つけたものは、金庫や窓ガラスなどに残っていた犯人の指紋だった。わたしの部下はその指紋の主を突き止めて逮捕した。だが、彼は犯人ではなかった。わたしは彼と一時間ほど会話をしてそれを悟ってしまった。彼の奇矯な性格と、その指紋が警視庁の指紋カードに採られていたこととが、彼を飛んだ目にあわせる動機となったのだ。現場に残っていたのは、指紋カードから複写したゼラチン版を捺したものに過ぎなかった。本人が来たのではなくて、指紋の印判だけが現場へやって来たのだ。
真犯人はこの可哀相な男を一応逮捕させておいて、取調べが進まぬ内に毒殺してしまった。差入れの弁当の中に毒物が入っていたのだ。この第一の替え玉が役に立たなくなると、真犯人は次に第二の替え玉を用意していた。××温泉村山中の洞穴に隠れていた怪人物、それから大和航空機製作所の爆破を企らんだ男、今度も常人ではない、けだもののような異常な人物が選ばれた。そして、こいつこそ五十嵐博士殺害犯人だと思い込ませるように仕向けられた。この男も間諜団の一員ではなかった。韮崎と同様純粋の日本人であった。何も知らないで間諜の手先に買収せられ、命ぜられたことを機械的にやったばかりで、それが戦争にどういう影響を与えるかということには、全く無智であった。この男も韮崎と同じに毒薬自殺をとげた。イヤ自殺と見せかけて、実は毒殺せられたのだ。
では真犯人はどこにいるのか。君は今夜ここにいたではないかというであろう。如何にも十名のものが一網打尽となった。又彼等が間諜団一味の者共であることも疑いない。併し例によって肝腎の男がいない。彼等の首領、真犯人は姿を現わさない。空の椅子があるばかりだ。
新一君、君はさっきこの椅子の主を待っているといったが、君は君自身を待っていたのだ。五十嵐博士殺害犯人、韮崎と今一人の替玉を毒殺した下手人、アメリカ人の血を受けたペリー以来の大陰謀の主、憎みても余りある売国間諜団の首魁は君を措いて外にはないのだ」
望月少佐の低いが力強い、叱りつけるような声がピタリと止まり、その余韻が消えうせると、三人のまわりに再び墓場の静寂が押寄せた。重い冷い空気が三人を圧えつけた。殆んど五分間も、誰も口も利かず身動きもしなかった。
その時、さい前から一言も物をいわなかった南京子が、堪りかねたように口を開いた。二人の男子とは違い、彼女はさすがに昂奮を隠し兼ね、その声は幽かに震えていた。
「違います。それは違います。新一さんは下手人ではありません。わたし、それをこの目で見ているのでございます。あの時新一さんとわたしとは月夜の庭を肩を並べて歩いていました。そして、五十嵐博士が二階の窓から助けてくれと叫んでいらっしゃるのを見たのです。何者かが博士を部屋の中へ引戻そうとしているのを、この目でちゃんと見たのです。新一さんとわたしの立っている所から博士のお部屋まで、いくら急いでも三分かかるほど離れていたのです。
そして、その二階の部屋へ駈けつけて見ると、博士は傷ついて倒れていらっしたのです。新一さんは外の人達と一緒にその部屋へ入ったのですから、新一さんが下手人である筈がないのです。
まだあります。その夜は新一さんのお母さまが博士の隣の部屋でお寝みになっていたのですが、犯人はお母さまを縛って洋服箪笥の中へとじこめて逃げて行きました。新一さんにどうしてそんなことをする隙があったでしょう。お母さまを縛って逃げた奴が下手人です。新一さんではありません。新一さんは博士が傷つけられた時には、わたしと一緒に庭にいたのです。こんなはっきりした証拠があるでしょうか。
それから、それから、傷ついた博士がとうとうお亡くなりになったのは、あの晩犯人が博士のお薬の中へ毒薬を入れたからですが、その時新一さんは手足を縛られ猿轡をはめられて深い穴の底にころがっていたのです。そんな目にあっていた新一さんが、どうして博士の病室へ忍び寄ることが出来たでしょう。新一さんは下手人ではありません」
京子は息をはずませて、彼女の確信するところを述べ終ると、敵意に似た目遣いで食い入るように望月少佐の顔を見つめるのであった。
「アア、そうです。京子さん、あなたのおっしゃる通りです。さっき新一君もちょっと漏らしたように、それは物理的に不可能だったのです。完全無欠のアリバイというやつですね。しかも新一君はその不可能をなしとげた。祖父から曾孫に至る四代の執念を見事に成就して見せたのです」
「信じられません。わたし、信じられません」
京子はこの物理的不可能を絶対のものとして動かなかった。
「不可能ではない。不可能に見せかけた巧みな手品にすぎないのですよ。こういう手品はアングロサクソンの最も得意とするところです。五十嵐博士に重傷を負わせた夜は丁度満月に近い月夜であった。ここに一つの意味があるのです。その兇行の行われた時、あなたと新一君が博士の寝室の窓の見える庭を歩いていたという点にも今一つの意味があるのです。
若しあの時、あなたが庭へ出て行かなかったならば、恐らく犯罪は行われなかったに違いない。あなたと新一君とが肩を並べて月光の下を歩いている。丁度その時、博士の寝室において兇行が演じられるというのが、絶対に必要な条件だったのです。
犯人は無論、博士を殺してしまうつもりだった。そして一応目的を果したものと信じたのですが、実は少し急所をそれていた。博士は絶命しなかった。犯人は非常な失敗を演じたのです。そこで更らに色々な手品が必要になって来た。そこで案出せられたのが、例のいつも洞穴の中にいる怪人物です。そしてその怪人物が叢の中を蛇のように這って行った。新一君がそのあとを追ったなどという、怪談が生れて来たのです。あなたはあの時蛇のような怪物を目撃したわけではない。そこに立っている新一君を見たばかりです。新一君の脅えた表情と、憑かれたような行動を見たばかりです。あなたはその怪談を信じてしまった。
そうして、新一君は行方不明になってしまった。怪物に誘拐監禁せられたと信じさせるような手段が採られた。怪物は唯一の護衛者である新一君を博士の身辺から遠ざけておいて最後の手段を講じた。――毒殺を敢行したと信じさせるように仕組まれた。そして、ここにも又新一君の完全なアリバイが成立したのです。山奥の洞穴の中に高手籠手に縛められて監禁されていた新一君が、同時に博士の枕頭に現われて毒薬を盛るなどということは全く不可能としか考えられませんからね。こうして新一君は最後の目的を達したのです」
「どうしてそういうことが出来たのでしょうか」
京子は依然として彼女の所信を捨てなかった。愛人新一の悪業を信じまいとして惨憺たる苦闘をつづけていた。
「極めて簡単です。新一君は監禁などされていなかったからです。或は夜の更けるまであの洞窟の中に隠れていたかも知れません。併しそれは新一君の自由意志によって身を隠していたのに過ぎません。決して縛られてなぞいなかったのです。そして適当な時間に博士の寝室の外に忍び寄り、憲兵の見巡りの隙を窺って、縄梯子で病室の窓によじ登り、カーテンの間から手を入れて毒薬を盛ったのです。
それから六日の間新一君は山中に姿をくらましていた。食事はあの替え玉のけだもののような男が麓の村から運んだのでしょう。その時にはまだ誰もあの男の顔を知らなかったのですからね。そして六日目に、わたしが山中を散歩するのを見すまして、新一君はあの男に自分を縛らせ、猿轡まではめさせて、洞穴の底に横たわっていたというわけですよ」
不可能は実に易々と可能となった。併しもう一つの不可能は、月夜のアリバイはどうして打破ることができるのであろう。この方は全く物理的不可能であって、如何なる欺瞞もあり得ないではないか。
「イイエ、それは一つの考え方です。そういう考え方も出来るということが分るだけです。あの月夜の晩のことが説きあかされないでは、あなたのお考えを信じることが出来ません。あの時はこの目で見たのです。博士がうしろから引戻され、短刀で刺されるのを、この目で見たのです。そして、その時新一さんはわたしのすぐ側に、肩もすれすれに立っていたのです」
京子は愛人のために最後の抗弁を試みるのであった。