偉大なる夢

5話 暗影

4,359字 約9分 2021年10月28日 公開

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 五十嵐老博士の大いなる夢は、実現に向かって順調なる歩みをつづけていた。陸軍省の斡旋(あっせん)によって長野県上田(うえだ)市より程遠からぬ××温泉の裏山にある某貴族の別荘が借り入れられ、老博士を首班とする秘密設計班の人々が、その広い建物を独占していた。

 老博士の助力者として航空技術本部の木本(きもと)工学博士、大学助教授(みなみ)工学博士の外に製図専門の技師二名、その護衛役としては老博士の子息新一青年、憲兵隊司令部から特に派遣せられた私服の下士官二人、炊事係りには、南工学博士の若い妹さんと村の娘が二人、別荘番の爺やという、合せて十二人の同勢であった。

 五人の科学者がこの山奥に隠れて、昼夜兼行の大仕事に没頭していることは、陸軍最高首脳部の数名の人々の外は誰も知らなかった。家族達も主人の居所を知っているばかりで、その仕事の性質については、無論一言も漏らされてはいなかった。彼等はまったく世間との交渉を絶ち、浮世を離れて設計三昧の日夜を送っていたのである。

 別荘中でも最も広い洋室が設計室に選ばれ、そこへは五人の科学者と新一青年以外は、誰も入ることを許されなかった。設計室の片隅にはわざわざ都から運ばれた中型金庫が据えつけてあって、重要書類はことごとくその中に納められ、文字盤の暗号は老博士と新一だけが知っており、鍵は新一が預かっていた。

 この秘密設計班が仕事をはじめてから一ヶ月ほどたったある午後のこと、別荘の裏山の見晴し台に、一組の美しい男女が、満山の紅葉に包まれて語り合っていた。男は五十嵐新一青年、女は少壮科学者南博士の若い妹京子(きょうこ)さんである。二人は一行中での年少者として親しみを感ずることも深く、当の設計の仕事に直接関係がないために時間の余裕もあり、自然語り合う機会も多く、この一ヶ月の間にすっかり仲好しになっていた。

 満山の紅葉の斜面を越えて、遙か目の下には温泉宿の瓦屋根、板葺(いたぶき)屋根の一かたまりが小さく眺められ、その側を流れる渓流をさしはさんで、直ちに前方の山々が同じ紅葉の錦に覆われて重なり聳えていた。見晴し台と温泉村のほぼ中間、少し右手寄りの山の中腹に、古風ながっしりした建築の西洋館がただ一軒、紅葉の中からぬっと浮き上って見える。これが五十嵐博士一行のたてこもる某貴族の別荘である。

 見晴し台は温泉客のために山の中腹を切り開いた百坪ほどの狭い平地で、中央にささやかな四阿(あずまや)が建っている。新一と京子とはその四阿の板の腰掛けに国民服と甲斐甲斐しい紺飛白(こんがすり)のもんぺ姿を並べて、眼前の眺望を(ほしいまま)にしながら語り合っているのである。

 会話が少し途切れた時、新一は夢見るような眼差でじっと青空を見つめていたが、そのまま視線を動かさないで、独語のように喋べりはじめた。

「京子さん、あなたには見えませんか、あのすばらしい爆撃機の大編隊が。空の果てを飛んでいるのです。機体は(ほこり)のように小さくしか見えません。しかしその数は蚊柱(かばしら)のように無数です。空一面を覆って、東へ東へと飛んでいるのです。爆音も蚊柱の唸りほどにしか聞えません。それ程高度が高いのです。僕はその(かす)かな爆音を聴きとることができます。京子さん、耳をすましてごらんなさい。ホラね、聞えるでしょう。幽かな幽かな音です。しかし、今に全世界を驚倒せしめる力強い唸り声です。今から数時間の後、あの蚊柱はニューヨーク、ワシントン、それからロンドンの空を黒雲のように覆い尽すのです。そして、その下の大都会は一瞬にして廃墟と化するのです。僕は毎日毎日、東へ東へと驀進(ばくしん)する大編隊の無数の埃のような幻を見るのです。蚊柱のような唸りを聴くのです。ハハハハハハ、むろん幻ですよ。しかし、それは父の発明が完成すれば、実際この目で見、この耳で聴くことのできる幻です。京子さん、分りますか、この驚くべき意味が」

 聴いている内に、京子の長い(まつげ)に覆われた美しい眼も、夢見るようにうるんで行った。彼女もまた天の一方にその幽かな蚊柱を見、唸り声を聴いていたのである。

「エエ、分りますわ」

 僅か一言の答えであったが、彼女がどれほど新一の幻想に共鳴し感動していたかは、彼女の目がそれを語っていた。そこには隠そうとしても隠し切れぬ涙が水晶のように光っていた。

 感動が静まるまで、二人は黙って空を見上げていた。永い間一言も口を利かなかった。しかし、やがて、京子の晴れやかな頬に不安に似た影がさしはじめ、それが少しずつ深まって行った。彼女は云おうか云うまいかと、(しばら)くためらっているように見えたが、遂に思い切って口を開いた。

「新一さん、あなたおからだが悪いのじゃありませんの。気のせいかも知れませんが、あなたは、初めてここでお会いした頃から見ると、なんだかお痩せになったようよ。元気にはなすっているけれど、どこかしらお顔の色がすぐれませんわ。御病気か、そうでなければ何か御心配があるのじゃないかと、あたし、心がかりなものですから……」

「エエ、あなたがそれを気にしていて下さることは、僕にも分っていました。京子さん、これにはわけがあるのです。まだ父にも打開(うちあ)けていない不安があるのです。母も知りません。母は二三日前から別荘に来ていますが、父の世話で手一杯なものですから、僕の顔色など気にしている余裕がないのです。京子さん、あなただけですよ。僕のことをそれ程気にしていて下さるのは。……ありがとう。……だから、そのあなたの好意にむくいる意味で、僕はこの秘密を先ずあなたにうちあけます。ここなら誰も聴く者はありません。安心してお話ができるのです」

「マア、やっぱりそうでしたの」

 京子は眉のあたりに皺をよせて、新一の顔を覗き込むようにしながら、思わず身をすり寄せるのであった。

「京子さん、驚いてはいけませんよ。僕らは敵のスパイに狙われているのです。どこから漏れたか、父の仕事が敵側のものに気づかれたのです。そうとしか考えられないような事が度々起るのです」

 新一は真剣な低い声で云った。

「マア」

 京子はびっくりして、軽い叫び声を発したが、急には信じられない様子で、ただ新一の顔を見つめるばかりであった。

「僕は警視庁の外事課に勤めていたので、よく知っているのですが、敵の諜報網は、厳重な監視の目を潜りぬけて、日本全国に張りめぐらされているのです。いかなる力をもってしても、それを根絶することは出来ないのです。敵国人が殆んど日本から退去した今でも、憲兵隊や外事課が忙しく活動しているのはそのためです。

 (もっと)も、僕はまだこの辺で敵のスパイを見たわけではありません。ひょっとしたらおもい(すご)しかも知れません。しかし、僕の直覚がそれを感じるのです。絶えず何者かにつき纒われているような不安を覚えるのです。

 十日程前の昼すぎ、僕は自分の部屋に入ったとき、それを感じたのです。僕の部屋を家探しした奴があるなと感じたのです。品物が取り乱されていたわけではありません。すべてのものがキチンとしている。しかし、僕が部屋を出た時とは、物の置き場所や置き方が、ひどく違っているのです。僕はみんなにそれとなく、僕の部屋に入って物を動かさなかったかと(たず)ねて見ましたが、誰も入った人はありません。部屋の掃除は朝早くすんでいるのですから、これとは無関係です。

 そういうことが、今日までに三度ほどありました。あなたもご承知のように、僕は金庫の鍵を持っているのですからね。僕の部屋が家探しされたというのは、決して何でもないことではありません。それ以来僕は絶えず身辺に影のようなものを感じているのです。姿のない敵を意識しているのです。

 むろんそれだけではありません。もっと外にも怪しいことがあるのです。一昨日はそいつの足跡らしいものを見たのです」

「エッ、足跡ですって」

「そうです。われわれ別荘にいる者は誰も穿いていない型の靴跡です。それが設計室の窓の外についていたのです。僕はその靴跡の紙型を()って保存してあります。別荘には塀があり門があるのですから、温泉客や村人がむやみに入って来る筈はありません。何か目的があって忍び込んだ奴の足跡です」

「マア……」京子は大きく目を見はったまま二の句がつげなかった。

「しかも、そいつは足音も立てないで、僕の身辺につき纒っているような気がします。時とすると、僕はそいつの息遣いさえ聴くのです。ハッとしてあたりを見廻しても、むろん誰もおりません。しかし、どこか物の蔭から僕をじっと見つめているのです。今でも、僕はそいつがごく近くにいるような気がします。……ごく近くに、……ごく近くに……」

 新一は同じ言葉を夢見るように繰返(くりかえ)したきり、黙り込んでしまった。彼の目はどこか遠くを見つめたまま、釘づけのように動かなくなった。そしてその目が段々大きく見開かれて行った。顔の筋肉が異常にひきしまって行った。

 京子は何かしらゾッとして、恐る恐る新一の視線を辿って見た。新一は目の下の別荘の屋根を見つめているらしく思われた。京子もそこを見た。するとハッと息を呑むような異様な光景が眺められた。

 別荘は古風な建て方の西洋館で、スレート葺きの屋根の上に、長方形の煖炉の煙出しが、ニューッと突出していた。その四角な煉瓦(れんが)造りの煙突の中から、今、一人の黒い洋服を着た男が、這い出しているのである。

 別荘ではむろん煖炉など焚いていないので、煙突掃除夫が来ている筈はない。そうかと云って、別荘の人々の中に、煙突の中をもぐるような酔狂(すいきょう)な人物がいようとは考えられぬ。見晴台から別荘までは一町以上も(へだた)っているので、その男の顔などは到底見分けられないが、全体の姿が別荘の人でないことは一目で分った。むろん爺やでもない。

 アア、新一の直覚は正しかったのだ。何者かが煙突から屋内に忍び込み、何事かを行って、今立去ろうとしているのだ。

 黒服の男は煙突を這い出すと、猿のように屋根の上を走って、(たちま)ち向う側に姿を隠してしまった。煙突の中から半身を現わしてから、全く姿の見えなくなるまで、ほんの十数秒間の出来事であった。

「京子さん、あなたはあとからいらっしゃい。じゃ失敬します」新一は急がしく云い捨て、もう駈け出していた。たとえ今からでは間に合わぬまでも、敵の姿を見て、じっとしているわけには行かなかったのだ。

「待って。あたしも一緒に……」京子は脅えた声で叫んで、新一の後を追った。この淋しい山中に唯一人取残されることを恐れたのである。

 新一はその声に振り返りもしなかった。弾丸(だんがん)のような早さでつづら折の坂道を駈けおりていた。そして、追いすがる京子の視野から、忽ちその姿を消してしまった。

 京子は一人ぼっちで走る外はなかった。息を切らせて走った。すぐ背後(うしろ)から、何か恐ろしいものが追い駈けてでも来るように、ひた走りに走りつづけた。

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