偉大なる夢

6話 敵国の触手

3,914字 約8分 2021年10月28日 公開

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「新一さん、どうかされたんですか。何かあったのですか」新一が息せききって、門を入り、母屋へと走っている横手から、体格のよい背広服の若者が、大声に呼びかけた。五十嵐博士一行を護衛するために出張している私服憲兵下士官の一人である。

「アア、あなたは気づきませんでしたか。今し方怪しい男が屋根から逃げたのです。見晴し台からそれが見えたのです」

「え、屋根から……」

「そいつは煙突から這い出して、屋根伝いに逃げたのです。設計室の煖炉の煙突です」

「アッ、煖炉の煙突。で、そいつはどちらへ逃げました」

 憲兵は警視庁外事課出身の新一を信用していた。この青年がこれほど顔色を変えているのは唯事(ただごと)でない。()しや……

「スパイの疑い十分です。裏口の方へ逃げたらしいのです。こちらへ来て見て下さい」二人は西洋館の横手を裏門の方へ走った。新一は地面に鋭い目を注ぎながら走っていたが、炊事場の横手に来ると、ハッとしたように立止った。

「アッ、これだ。靴下の足跡です。(とい)を伝って屋根から降りたんです。そして、ごらんなさい、この足跡はあの塀のところまでつづいている。塀を乗り越えて逃げたんです」

 二人は、その煉瓦塀の側に行って調べて見たが、新一の判断は間違っていなかった。低い煉瓦塀に、泥足の(すべ)った跡が歴然として残っている。すぐ向うに裏門があるが、そこには人目のあることをおそれたのであろう。

「あなたはこいつを追って下さい。恐らく温泉村の方へ逃げたに違いありません。僕はみんなにこのことを伝え、設計室を調べて見ます」

「承知しました。では後のことは頼みますよ」

 専門家の二人には、くどい問答は不要であった。憲兵の(たくま)しい姿は忽ち飛鳥(ひちょう)の如く裏門に走り、外の小径へと消えて行った。それは丁度設計班の人々の夕飯時であった。毎日四時半には一度仕事を中止して、入浴の後食卓につき、一休みしてから又夜の仕事に取りかかるのが日課になっていた。曲者(くせもの)はその食事時を狙って、空っぽの設計室を襲ったのかも知れない。

 新一は勝手口から屋内に飛び込むと、階下の食堂に走って、ドアを開いた。

「みなさん、今怪しい奴が暖炉の煙突から設計室へ忍び込んだらしいのです。設計室には誰もいなかったのでしょう」

「誰もいない。二十分ほど前から空っぽだ。だが見張りがいる。山下君がいつもの部屋から、見張っている筈だ」五十嵐老博士が叫ぶように答えて、もう立ち上っていた。山下というのは今一人の憲兵下士官である。

「ところが、曲者は廊下を通らなかったのです。煙突から忍び込んだのです」

「馬鹿なッ、設計室の暖炉はちゃんと板で塞いである。忍び込める筈はない」

「とも角、行って調べて見ましょう」

 新一はそのまま裏階段を駈け上った。食堂の人々も捨てておくわけには行かず、五十嵐博士を先頭に、それにつづいた。階段を登った所に山下憲兵の小部屋がある。その部屋の扉を開けば、設計室前の廊下を一目で見渡すことができる。扉はいつも開いたままである。

「山下君、われわれが食事に降りてから、この廊下を通ったものはありませんか」

 南工学博士が部屋を覗きこんで訊ねた。京子の兄さんである。

「誰も通りません。自分は絶えず見張っておったですから、間違いありません」山下憲兵伍長が椅子から立ち上って、明瞭に答えた。

 その時新一は既に設計室の扉を開き、室内に入っていた。すぐ後ろから父老博士が続く。

「お父さん、あれをごらんなさい。僕の想像した通りです」指さすところに、巨大な暖炉が口を開いていた。大理石の堂々たる暖炉棚、その上部の壁にはめ込みになった大鏡、明治時代に建てられたこの洋館には、古風な本格の暖炉が設けてあったのだ。だが、別に蒸気暖房が設備されて以来、この石炭暖炉は、単なる装飾の役目を勤めているに過ぎなかった。

 何者の仕業(しわざ)か、暖炉の前に立ててあった衝立(ついたて)はわきにのけられ、焚口が露出していたが、その中に、板をうちつけた枠のようなものが、半ば壊れて垂れ下っているのが見えた。風よけのために、暖炉と煙突の境に取りつけてあった隔壁が、無残に踏みぬかれていたのである。

「やっぱり、あいつはこの広間へ入ったのです。昔の西洋の泥棒のように、煙突から忍び込んで、又そこから逃げ出して行ったのです」

 新一のうしろから、老博士も暖炉の中を覗きこみ、新一の判断の間違いないことを確めたが、思いもよらぬ出来事に、ただあっけにとられて、暫くは茫然と立ちつくすばかりであった。

 だが、やがて老博士の心中に、突如として恐ろしい不安が湧き起った。博士の目は室の片隅に据えてある金庫に釘づけとなった。その中に例の黒の大型折鞄が入っている。鞄の中には博士が七年間の苦心を圧縮した構想と(おびただ)しい計算のノートが充満しているのだ。他人が見ても判断の出来ない記号のようなノートだから、盗み出した奴に取っては大した値打ちもないけれど、博士自身には命に換えて大切な記録である。

 博士は猛然として金庫に飛びついて行った。昨日の午後以来、博士達の仕事は、折鞄の中のノートを必要としなかった。金庫の鍵はかけたままになっている筈だ。博士は把手(ハンドル)を廻して見た。把手はカチッと音を立てて回転した。引く手につれて、重い扉が音もなく開いた。鍵はいつの間にか外れていたのだ。扉が開ききった。中は空っぽである。折鞄は影も形もない。

 博士は把手を放してヨロヨロとよろめいた。だが、一同の中で、新一青年だけは少しも驚きの色を見せなかった。

「お父さん、大丈夫です」

 彼は、父を力づけるように大声に云っておいて、部屋の一方の安楽椅子に近づいて行った。革張りの大きな安楽椅子である。新一はその椅子の革のクッションに両手をかけると、グイグイと引きはがすように、それをとり外してしまった。この椅子は二重クッションになっていて、普通のクッションの上に、もう一つ厚い革蒲団のようなものが填め込みになっているのだ。

「や、誰がそんなところへ……」取外したクッションの下に大きな折鞄が隠されているのを見て、老博士は再び驚きの目をみはった。

「僕です。こういうこともあろうかと思って、僕が鍵を預かっている間、金庫はいつも空にしておいたのです。こんな単純な金庫など、その道の玄人(くろうと)は、鍵がなくても、文字盤の組合せを知らなくても、何の造作もなく開くことができます。現に昨日鍵をかけておいた金庫がこうしてちゃんと開かれているのですからね。僕は数日前から、何者かがこの部屋を窺っているらしい気色(けはい)を感じていたのです。そして相手はこの金庫を狙っているということが、僕にはよく分っていました。だから、(わざ)と鞄を誰でも手の届く椅子の中へ置きかえて、金庫は空にしておいたのです。この大切な鞄がクッションの下などに隠してあろうとは、如何に老練なスパイでも、一寸想像もつかないでしょうからね」若い新一は得意の面持を隠すことが出来なかった。

「え、スパイだって。それじゃお前は、これをスパイの仕業(しわざ)だというのか」

「そうとしか考えられません。この建物の持主はお金持でしょうが、今ここを占領しているのは、金に縁の遠い学者ばかりです。その学者が持ち込んだ古金庫の中に、これほどの冒険に値する大金が入っていよう筈はありません。それに遣り口が普通の盗賊とは違っています。曲者はお父さんの設計事業を妨害しようとしているのです。発明を盗もうとしているのです」

「だが、どうしてそれが分る。この発明のことを知っている者は、日本中に数人しかいない。しかもれっきとした高官ばかりだ。スパイの嗅ぎつける隙は少しもなかった筈だ」

「だから、猶更(なおさ)ら恐ろしいのです。奴のやり口には、何だか途方もない、(けた)はずれなところがあります。決して尋常の敵ではありません」

 新一は何者かに脅えるような目つきをして、真剣な調子で云うのであった。で、期せずしてそこに盗難対策、或はスパイ対策の会議が開かれた。三人の学者と二人の技師とは、或は長椅子に腰かけ、或は立ちはだかったまま、一時間余りもこの問題について語り合った。

 航空技術本部の木本博士は、余り口を利かなかったが、新一のスパイ説に同意していることは明かであった。若い助教授の南博士は雄弁に説を立てた。彼は間諜技術について一見識を持っていた。それは一つの科学であるといい、これを防ぐのにも(また)科学的頭脳を要することを説いた。結局南博士もスパイ説に(くみ)したのである。

「だが、こんな山奥に敵国人が入り込んだら、忽ち発見せられるではありませんか。それともあなたは、日本人の中にそんな売国奴がいるとでもいうのですか」

 五十嵐老博士はむきになって反駁した。

「イヤ、間諜組織というやつは、そんな単純なものではありません。必ずしも敵国人がここへ入り込んでいなくても、その手先を勤める黄色人種がいないとは云えぬし、日本人にしても情を知らずして敵の薬籠中(やくろうちゅう)のものとなっている者がないとは限りません。間諜はあらゆる手品を使い、あらゆるカラクリを用いるのです」

 南博士は新一と同じような説を吐いた。

 一同が間諜問答を繰返している席へ、曲者の足跡を追った憲兵曹長が帰って来た。その報告によると煉瓦塀の外は石ころ路のため足跡を追跡することは出来なかったが、一応温泉村まで降りて駐在所の巡査に事の次第を告げ、本署の応援を乞い、温泉客のうちに不審の人物がいないか、厳重に取調べてくれるように依頼して帰ったということであった。この日から五十嵐博士一行の設計班は、専門の仕事の外にこの山間僻地(へきち)にまで伸び来った敵国の触手を、まざまざと身辺に感じながら、目に見えぬ犯人との恐るべき戦闘状態を続けなければならなかった。

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