偉大なる夢

8話 博士夫人の行方

4,652字 約9分 2021年10月28日 公開

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「父は殺されたのです。犯人はまだ逃げる間がありません。早く家のまわりを取り囲んで下さい。家中の電燈をつけて下さい。そして家探しをして下さい。犯人はどこかにまだいるはずです。皆さんお願いです」

 新一が上ずった声で叫んだ。五十嵐老博士はその時全く絶命していたのではないことが後になって分ったけれど、夥しい血を流し、意識を失って倒れている老人の姿を見ては、新一をはじめその場に居合せた人々が、絶命と思い込んだのは無理もないことであった。

 誰かが先ずその部屋の電燈の(ボタン)を押した。老博士の寝室がパッと明るくなった。電燈の光によって被害者を見た人々は、「殺人」という恐るべき事実を、一層明確に意識した。

 人々はうろたえていた。新一の叫び声に応じて、部屋を飛び出し、廊下や階段を意味もなく駈け廻った。その頃はもう別荘中の人が起き出して来ていたが、人数が増すにつれて右往左往の混乱は(はなは)だしくなるばかりであった。

 だが、七人の憲兵はさすがに少しも取乱さなかった。交替で眠っていた憲兵も素早く昼間の服装をつけて要所要所に駈けつけていた。建物の周囲には寝ずの番が見張っていた上、新手の人々も加わって、たちまち蟻の這い出る隙間もない警戒網が張られた。

 部屋という部屋の電燈をつけて廻り、窓の幕を開いて、庭までも明るくし、犯人の逃亡に備えたのも憲兵の機転であった。

 犯人は逃げ出す暇がなかった。建物の中のどこかに潜んでいるに違いない。人々はそう信じていた。したがって彼等の狼狽(ろうばい)はいつまでも静まらなかった。

 憲兵を除いて最も冷静であったのは南工学博士である。彼はうろたえ廻る人々を離れて、もう一度被害者の室へ引返していた。そして偉大なる老科学者の死体の側にひざまずいて、仔細にその負傷の箇所を調べた。

 ややあって、開け放った扉の外にあわただしい足音がして、新一青年が飛び込んで来た。真青な顔が涙に汚れている。

「オオ、南さんここでしたか。盗まれました。例の折鞄の隠し場所へ行って見たのですが。ありません。無くなっているのです。スパイは父を殺した上、あの大切なノートまで奪って行ったのです」

 新一は絶望の余り泣き声になっていた。

 だが、この重大な報告に接しても、南工学博士は返事さえしなかった。それどころではないというように、被害者の身体に覆いかぶさって、しきりと何かやっている。

「南さん。どうしたのです」

 新一もその意味に気づいたのか、びっくりするような叫び声を立てて、博士の側へ寄って行った。

 南博士はやっと顔を上げて新一を見た。

「お父さんは絶命せられたのではない。(かす)かに脈がある」

「えッ、脈が……」

 新一は愕然(がくぜん)として、息遣いも荒く、そこに跪くと父博士の手首を掴んだ。掴んだままいつまでも空間を見つめて、身動きさえしなかった。

「感じるだろう、幽かに」

「ウン、ある、ある。……医者を、早く医者を」

 新一は顎をワナワナと震わせて叫んだ。

「誰かいませんか」

 南博士の呶鳴(どな)る声に応じて、廊下から一人の憲兵が入って来た。二階の部屋部屋の捜索を担当していた山下伍長である。

 南博士が事の次第を告げると、今丁度他の憲兵が上田市の警察署へ電話を掛けている所だというので、警察署に頼んで同市から(しか)るべき医師を急行させて貰うこととし、山下伍長は同僚にこれを伝えるために階下へ降りて行った。

 あとに残った二人は、寝台から枕と毛布を取り、老博士に毛布を着せかけ、頭の下にソッと枕をあてがった。瀕死(ひんし)の重傷者を寝台の上に運ぶわけには行かなかったからである。そうして、負傷者の両側に(しゃが)んだまま、顔見合せて黙り込んでいたが、やがて、新一はふと気づいたように口を開いた。

「母はどこへ行ったのでしょう」

「え、お母さんが」

「さっきから一度も見かけないのですよ。この騒ぎに、母が一度も顔を見せないのは変です」

「まさか(やす)んでおられるのじゃあるまいね」

 南博士は隣室との境の扉を目で示しながらいった。その扉の向うの部屋が、ときどき来訪する五十嵐夫人の寝室に当ててあった。廊下を廻らなくても、その扉さえ開けば、老博士夫妻はお(たがい)に往き来が出来るようになっていた。

 新一は無言のまま立って行って、その扉を開いた。

「空っぽです。……変だなあ、お父さんを放っておいて、一体どこへ行っているのだろう」

 騒ぎにまぎれて今まで誰もそこへ気附かなかったが、重傷者の傍らにその夫人の姿が見えぬというのは、ただ事ではない。犯人は老博士に瀕死の重傷を負わせ、重要書類の入った折鞄を奪い去ったばかりでは満足せず、博士夫人にさえも何等かの危害を加えたのではあるまいか。

 新一は母の寝室に入って行って、その辺を探し廻っている様子であったが、暫くすると扉のところへ戻って来て、南博士をソッと手招きした。「黙って」という合図をして、しきりと手招きするのである。

 博士は丁度そこへ戻って来た山下伍長に、負傷者の身辺の警戒を頼んで置いて、老博士夫人の寝室へ入って行った。

 新一は無言のまま南博士を部屋の隅へ連れて行った。立ち止ったところに大きな洋服箪笥(だんす)が立っている。新一は観音開きの扉を目で示して、再び「静かに」という合図をした。

 何かしら途方もないことが起ろうとしていた。洋服箪笥の中からコトコト異様な物音が聞えて来るのだ。中に生きものがいる気配である。

 物音を聞かせておいてから、新一は抜き足をしながら、南博士を廊下に連れ出し、囁き声で云った。

「人が隠れているらしい。しかし妙なことに、観音開きに鍵がかかっているのです。内側からはかかりません。誰か外から鍵をかけたのです。鍵を探して見たけれど、ちょっと見つかりません。母が洋服箪笥に鍵をかけるのを見たことがないのです。大切なものが入っているわけでもないのだから、鍵なんかかけたことはないようです。だから僕は鍵のありかも知らない。その辺の机の抽出(ひきだ)しなんか探して見たけれど、ありません。中に何者が潜んでいるにせよ、憲兵さんに立会って貰って、戸を破る外はありませんね」

 南博士がうなずくと、新一はそのままどこかへ立去ったが、間もなく一人の憲兵を伴い、金挺(かなてこ)を持って帰って来た。

 三人は再び抜き足をして洋服箪笥の前に近づいた。耳をすますと、やはりコトコトと異様な音が聞えて来る。

「誰だッ、そこにいるのは」

 新一が大声に呶鳴(どな)って見たが、聞えたのか聞えぬのか、中からは何の答えもなく、同じ物音がつづいている。しかも、その音がだんだん強くなって来るのだ。

 新一は持って来た金挺を観音開きの合せ目に入れて、扉をこじあけようとしたが、厚い唐木の頑丈な箪笥だから、なかなか思うようには行かぬ。

「お貸しなさい。自分がやって見ましょう」

 もどかしく思ったのか、憲兵は新一から金挺を受取って、扉の前に立った。

「何が飛び出して来るか分りません。用心して下さい」

 憲兵は二人に注意を与えておいて、巧みに金挺を使い、苦もなく扉の錠前の部分をこじあけた。扉は自由になった。だが、中からは飛び出して来る様子もない。

 憲兵は扉をソッと開いて行った。開くにつれて電燈の光が流れ込む。その光に照らし出されたものは、手足を縛られ、猿轡(さるぐつわ)をはめられた小柄な女の姿であった。

「アッ、お母さん」

 新一はそれと知ると飛びついて行って、観音開きをあけ放ち、その女性を箪笥の外に助け出した。五十嵐老博士夫人は、自室の洋服箪笥にとじこめられていたのである。

 縄を解き、猿轡をはずされても、夫人は口を利く気力もなく、グッタリとなって肘掛椅子によりかかっていたが、新一が階下に走って持って来たコップの水に、いくらか正気づいて、途切れ途切れにことの次第を語るのであった。

「大きな奴でしたよ。頑丈な鉄のような腕をしていました。目が醒めた時には、もう口の中へこれを押し込まれて、声を立てるどころか、息をするのがやっとでした」

 夫人は足下に落ちている猿轡の手拭(てぬぐい)の丸めたのを指し示した。

「きっとあいつですね。折鞄を狙っている奴ですね。あれは大丈夫ですか。盗まれやしなかった?」

「盗まれたのです。その男の顔を見ましたか」

 新一は老博士の重傷のことは、わざと語らなかった。彼は母を箪笥から助け出す前に、用心深く負傷者の部屋との境の扉を閉めておいたのである。

「アア、やっぱりね。そいつの顔は見えません。電燈が消してあったんだもの。月明りで大入道のような影をチラッと見たばかり、そのあとは何が何だか夢中でしたよ。気を失ってしまったのかも知れません。箪笥の中に入れられたということが分ったのは、随分たってからですものね。それから、どうかして人に知らせようと思って、膝で箪笥の戸を叩いたのだけれど、あの狭い中に海老のようになって押し込められていたのだから、思うように戸を叩くことさえ出来なかったのですよ」

「お母さん、その男はこれまで一度も会ったことのない奴ですか、それともどこかで会ったことがあるというような気はしませんでしたか」

 新一が妙な訊ね方をした。

「分りません。顔を見分けることも、声を聞くことも出来なかったのだもの。ただ鉄のように腕っぷしの強い男という事が分っただけです」

 夫人は椅子によりかかっているのも苦しそうに見えたので、南博士は新一を手伝って、夫人を寝台に横にならせ、暫く何も考えないでおやすみになるようにと勧めた。

 夫人はおとなしくその勧めに従って瞑目していたが、ふと非常に気がかりなことに気づいた様子で、パッと目を開いた。

「でも、なぜでしょう。なぜ私をこんな目に合せたのでしょう。折鞄がここに置いてあったわけでもないのに。……そして、お父さんはどこにいらっしゃるのです。お寝みになっているの」

 新一は急所をつかれてハッとしたように南博士と顔見合せたが、さりげなく、

「ええ。でも、そんなことはあとでいいから、一眠りする方がいい。お母さんはひどく疲れているんだから。ね、そうなさい」

 子供をあやすように云って、母の額にソッと手を置いた。夫人は云われるままに再び目を閉じた。それ以上言葉をつづける気力がなかったのであろう。グッタリとなって、しばらくすると軽い(いびき)を立てはじめた。

「熱が出ている。母はちょっとしたことにもよく熱を出すのです。当分は起きられないかも知れません」

 新一は夫人の額から手を引きながら、声を殺して云った。

「折鞄といえば、今度はどこに隠しておいたのです。盗まれたことは確かですか」

 南博士は新一の気を変えるためのように、突然別のことを訊ねた。

「どこだと思います」

 新一はこんな際にも拘らず、何か人を()らすような云い方をして、幽かに微笑をさえ浮べた。

「どこです」

 南博士はそれに取り合おうともせず、怒ったように訊ね返す。

「設計室の金庫の中です」

「エッ、金庫の中だって。……アア、君は何という大胆なことを」

 博士はあっけにとられたように、思わず声を高くした。

「大胆ではありません。相手が金庫はいつも空っぽだと信じ切ってしまった現在では、そこが一番安全な隠し場所だったのです。考え抜いて()めたのです。しかし、敵は一枚上手(うわて)でした。僕のこの考え方をちゃんと見抜いてしまったのです」

 憲兵はさいぜんから、寝台の方に立って二人の会話を聞いていたが、折鞄の最後の隠し場所が金庫の中であったと聞いた時には、少し顔色を動かした。しかし、それについて意見を述べようとはせず、暫くすると、足音を立てぬようにして、ソッと室外に消えて行った。

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