吾輩は猫である

28話 十(3)

1.8万字 約35分 1999年9月21日 公開

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せ駄目だろうが、まあ竹にやらして見ようじゃないかとそれから竹に頼むと、竹は一も二もなく引き受けたが、そんな邪魔な騒ぎをしないでまあ静かにしろと車引やゴロツキを引き込まして飄然(ひょうぜん)と地蔵様の前へ出て来ました」

「雪江さん飄然て、馬鹿竹のお友達?」ととん子が肝心(かんじん)なところで奇問を放ったので、細君と雪江さんはどっと笑い出した。

「いいえお友達じゃないのよ」

「じゃ、なに?」

「飄然と云うのはね。――云いようがないわ」

「飄然て、云いようがないの?」

「そうじゃないのよ、飄然と云うのはね――」

「ええ」

「そら多々良三平(たたらさんぺい)さんを知ってるでしょう」

「ええ、山の芋をくれてよ」

「あの多々良さん見たようなを云うのよ」

「多々良さんは飄然なの?」

「ええ、まあそうよ。――それで馬鹿竹が地蔵様の前へ来て懐手(ふところで)をして、地蔵様、町内のものが、あなたに動いてくれと云うから動いてやんなさいと云ったら、地蔵様はたちまちそうか、そんなら早くそう云えばいいのに、とのこのこ動き出したそうです」

「妙な地蔵様ね」

「それからが演説よ」

「まだあるの?」

「ええ、それから八木先生がね、今日(こんにち)は御婦人の会でありますが、私がかような御話をわざわざ致したのは少々考があるので、こう申すと失礼かも知れませんが、婦人というものはとかく物をするのに正面から近道を通って行かないで、かえって遠方から廻りくどい手段をとる弊(へい)がある。もっともこれは御婦人に限った事でない。明治の代(よ)は男子といえども、文明の弊を受けて多少女性的になっているから、よくいらざる手数(てすう)と労力を費(つい)やして、これが本筋である、紳士のやるべき方針であると誤解しているものが多いようだが、これ等は開化の業に束縛された畸形児(きけいじ)である。別に論ずるに及ばん。ただ御婦人に在(あ)ってはなるべくただいま申した昔話を御記憶になって、いざと云う場合にはどうか馬鹿竹のような正直な了見で物事を処理していただきたい。あなた方が馬鹿竹になれば夫婦の間、嫁姑(よめしゅうと)の間に起る忌(いま)わしき葛藤(かっとう)の三分一(さんぶいち)はたしかに減ぜられるに相違ない。人間は魂胆(こんたん)があればあるほど、その魂胆が祟(たた)って不幸の源(みなもと)をなすので、多くの婦人が平均男子より不幸なのは、全くこの魂胆があり過ぎるからである。どうか馬鹿竹になって下さい、と云う演説なの」

「へえ、それで雪江さんは馬鹿竹になる気なの」

「やだわ、馬鹿竹だなんて。そんなものになりたくはないわ。金田の富子さんなんぞは失敬だって大変怒(おこ)ってよ」

「金田の富子さんて、あの向横町(むこうよこちょう)の?」

「ええ、あのハイカラさんよ」

「あの人も雪江さんの学校へ行くの?」

「いいえ、ただ婦人会だから傍聴に来たの。本当にハイカラね。どうも驚ろいちまうわ」

「でも大変いい器量だって云うじゃありませんか」

「並ですわ。御自慢ほどじゃありませんよ。あんなに御化粧をすればたいていの人はよく見えるわ」

「それじゃ雪江さんなんぞはそのかたのように御化粧をすれば金田さんの倍くらい美しくなるでしょう」

「あらいやだ。よくってよ。知らないわ。だけど、あの方(かた)は全くつくり過ぎるのね。なんぼ御金があったって――」

「つくり過ぎても御金のある方がいいじゃありませんか」

「それもそうだけれども――あの方(かた)こそ、少し馬鹿竹になった方がいいでしょう。無暗(むやみ)に威張るんですもの。この間もなんとか云う詩人が新体詩集を捧げたって、みんなに吹聴(ふいちょう)しているんですもの」

「東風さんでしょう」

「あら、あの方が捧げたの、よっぽど物数奇(ものずき)ね」

「でも東風さんは大変真面目なんですよ。自分じゃ、あんな事をするのが当前(あたりまえ)だとまで思ってるんですもの」

「そんな人があるから、いけないんですよ。――それからまだ面白い事があるの。此間(こないだ)だれか、あの方の所(とこ)へ艶書(えんしょ)を送ったものがあるんだって」

「おや、いやらしい。誰なの、そんな事をしたのは」

「誰だかわからないんだって」

「名前はないの?」

「名前はちゃんと書いてあるんだけれども聞いた事もない人だって、そうしてそれが長い長い一間ばかりもある手紙でね。いろいろな妙な事がかいてあるんですとさ。私(わたし)があなたを恋(おも)っているのは、ちょうど宗教家が神にあこがれているようなものだの、あなたのためならば祭壇に供える小羊となって屠(ほふ)られるのが無上の名誉であるの、心臓の形(かた)ちが三角で、三角の中心にキューピッドの矢が立って、吹き矢なら大当りであるの……」

「そりゃ真面目なの?」

「真面目なんですとさ。現にわたしの御友達のうちでその手紙を見たものが三人あるんですもの」

「いやな人ね、そんなものを見せびらかして。あの方は寒月さんのとこへ御嫁に行くつもりなんだから、そんな事が世間へ知れちゃ困るでしょうにね」

「困るどころですか大得意よ。こんだ寒月さんが来たら、知らして上げたらいいでしょう。寒月さんはまるで御存じないんでしょう」

「どうですか、あの方は学校へ行って球(たま)ばかり磨いていらっしゃるから、大方知らないでしょう」

「寒月さんは本当にあの方を御貰(おもらい)になる気なんでしょうかね。御気の毒だわね」

「なぜ? 御金があって、いざって時に力になって、いいじゃありませんか」

「叔母さんは、じきに金、金って品(ひん)がわるいのね。金より愛の方が大事じゃありませんか。愛がなければ夫婦の関係は成立しやしないわ」

「そう、それじゃ雪江さんは、どんなところへ御嫁に行くの?」

「そんな事知るもんですか、別に何もないんですもの」

 雪江さんと叔母さんは結婚事件について何か弁論を逞(たくま)しくしていると、さっきから、分らないなりに謹聴しているとん子が突然口を開いて「わたしも御嫁に行きたいな」と云いだした。この無鉄砲な希望には、さすが青春の気に満ちて、大(おおい)に同情を寄すべき雪江さんもちょっと毒気を抜かれた体(てい)であったが、細君の方は比較的平気に構えて「どこへ行きたいの」と笑ながら聞いて見た。

「わたしねえ、本当はね、招魂社(しょうこんしゃ)へ御嫁に行きたいんだけれども、水道橋を渡るのがいやだから、どうしようかと思ってるの」

 細君と雪江さんはこの名答を得て、あまりの事に問い返す勇気もなく、どっと笑い崩れた時に、次女のすん子が姉さんに向ってかような相談を持ちかけた。

「御ねえ様も招魂社がすき? わたしも大すき。いっしょに招魂社へ御嫁に行きましょう。ね? いや? いやなら好(い)いわ。わたし一人で車へ乗ってさっさと行っちまうわ」

「坊ばも行くの」とついには坊ばさんまでが招魂社へ嫁に行く事になった。かように三人が顔を揃(そろ)えて招魂社へ嫁に行けたら、主人もさぞ楽であろう。

 ところへ車の音ががらがらと門前に留ったと思ったら、たちまち威勢のいい御帰りと云う声がした。主人は日本堤分署から戻ったと見える。車夫が差出す大きな風呂敷包を下女に受け取らして、主人は悠然(ゆうぜん)と茶の間へ這入(はい)って来る。「やあ、来たね」と雪江さんに挨拶しながら、例の有名なる長火鉢の傍(そば)へ、ぽかりと手に携(たずさ)えた徳利様(とっくりよう)のものを抛(ほう)り出した。徳利様と云うのは純然たる徳利では無論ない、と云って花活(はない)けとも思われない、ただ一種異様の陶器であるから、やむを得ずしばらくかように申したのである。

「妙な徳利ね、そんなものを警察から貰っていらしったの」と雪江さんが、倒れた奴を起しながら叔父さんに聞いて見る。叔父さんは、雪江さんの顔を見ながら、「どうだ、いい恰好(かっこう)だろう」と自慢する。

「いい恰好なの? それが? あんまりよかあないわ? 油壺(あぶらつぼ)なんか何で持っていらっしったの?」

「油壺なものか。そんな趣味のない事を云うから困る」

「じゃ、なあに?」

「花活(はないけ)さ」

「花活にしちゃ、口が小(ち)いさ過ぎて、いやに胴が張ってるわ」

「そこが面白いんだ。御前も無風流だな。まるで叔母さんと択(えら)ぶところなしだ。困ったものだな」と独(ひと)りで油壺を取り上げて、障子(しょうじ)の方へ向けて眺(なが)めている。

「どうせ無風流ですわ。油壺を警察から貰ってくるような真似は出来ないわ。ねえ叔母さん」叔母さんはそれどころではない、風呂敷包を解(と)いて皿眼(さらまなこ)になって、盗難品を検(しら)べている。「おや驚ろいた。泥棒も進歩したのね。みんな、解いて洗い張をしてあるわ。ねえちょいと、あなた」

「誰が警察から油壺を貰ってくるものか。待ってるのが退屈だから、あすこいらを散歩しているうちに堀り出して来たんだ。御前なんぞには分るまいがそれでも珍品だよ」

「珍品過ぎるわ。一体叔父さんはどこを散歩したの」

「どこって日本堤(にほんづつみ)界隈(かいわい)さ。吉原へも這入(はい)って見た。なかなか盛(さかん)な所だ。あの鉄の門を観(み)た事があるかい。ないだろう」

「だれが見るもんですか。吉原なんて賤業婦(せんぎょうふ)のいる所へ行く因縁(いんねん)がありませんわ。叔父さんは教師の身で、よくまあ、あんな所へ行かれたものねえ。本当に驚ろいてしまうわ。ねえ叔母さん、叔母さん」

「ええ、そうね。どうも品数(しなかず)が足りないようだ事。これでみんな戻ったんでしょうか」

「戻らんのは山の芋ばかりさ。元来九時に出頭しろと云いながら十一時まで待たせる法があるものか、これだから日本の警察はいかん」

「日本の警察がいけないって、吉原を散歩しちゃなおいけないわ。そんな事が知れると免職になってよ。ねえ叔母さん」

「ええ、なるでしょう。あなた、私の帯の片側(かたかわ)がないんです。何だか足りないと思ったら」

「帯の片側くらいあきらめるさ。こっちは三時間も待たされて、大切の時間を半日潰(つぶ)してしまった」と日本服に着代えて平気に火鉢へもたれて油壺を眺(なが)めている。細君も仕方がないと諦(あきら)めて、戻った品をそのまま戸棚へしまい込(こ)んで座に帰る。

「叔母さん、この油壺が珍品ですとさ。きたないじゃありませんか」

「それを吉原で買っていらしったの? まあ」

「何がまあだ。分りもしない癖に」

「それでもそんな壺なら吉原へ行かなくっても、どこにだってあるじゃありませんか」

「ところがないんだよ。滅多(めった)に有る品ではないんだよ」

「叔父さんは随分石地蔵(いしじぞう)ね」

「また小供の癖に生意気を云う。どうもこの頃の女学生は口が悪るくっていかん。ちと女大学でも読むがいい」

「叔父さんは保険が嫌(きらい)でしょう。女学生と保険とどっちが嫌なの?」

「保険は嫌ではない。あれは必要なものだ。未来の考のあるものは、誰でも這入(はい)る。女学生は無用の長物だ」

「無用の長物でもいい事よ。保険へ這入ってもいない癖に」

「来月から這入るつもりだ」

「きっと?」

「きっとだとも」

「およしなさいよ、保険なんか。それよりかその懸金(かけきん)で何か買った方がいいわ。ねえ、叔母さん」叔母さんはにやにや笑っている。主人は真面目になって

「お前などは百も二百も生きる気だから、そんな呑気(のんき)な事を云うのだが、もう少し理性が発達して見ろ、保険の必要を感ずるに至るのは当前(あたりまえ)だ。ぜひ来月から這入るんだ」

「そう、それじゃ仕方がない。だけどこないだのように蝙蝠傘(こうもり)を買って下さる御金があるなら、保険に這入る方がましかも知れないわ。ひとがいりません、いりませんと云うのを無理に買って下さるんですもの」

「そんなにいらなかったのか?」

「ええ、蝙蝠傘なんか欲しかないわ」

「そんなら還(かえ)すがいい。ちょうどとん子が欲しがってるから、あれをこっちへ廻してやろう。今日持って来たか」

「あら、そりゃ、あんまりだわ。だって苛(ひど)いじゃありませんか、せっかく買って下すっておきながら、還せなんて」

「いらないと云うから、還せと云うのさ。ちっとも苛くはない」

「いらない事はいらないんですけれども、苛いわ」

「分らん事を言う奴だな。いらないと云うから還せと云うのに苛い事があるものか」

「だって」

「だって、どうしたんだ」

「だって苛いわ」

「愚(ぐ)だな、同じ事ばかり繰り返している」

「叔父さんだって同じ事ばかり繰り返しているじゃありませんか」

「御前が繰り返すから仕方がないさ。現にいらないと云ったじゃないか」

「そりゃ云いましたわ。いらない事はいらないんですけれども、還すのは厭(いや)ですもの」

「驚ろいたな。没分暁(わからずや)で強情なんだから仕方がない。御前の学校じゃ論理学を教えないのか」

「よくってよ、どうせ無教育なんですから、何とでもおっしゃい。人のものを還せだなんて、他人だってそんな不人情な事は云やしない。ちっと馬鹿竹(ばかたけ)の真似でもなさい」

「何の真似をしろ?」

「ちと正直に淡泊(たんぱく)になさいと云うんです」

「お前は愚物の癖にやに強情だよ。それだから落第するんだ」

「落第したって叔父さんに学資は出して貰やしないわ」

 雪江さんは言(げん)ここに至って感に堪(た)えざるもののごとく、潸然(さんぜん)として一掬(いっきく)の涙(なんだ)を紫の袴(はかま)の上に落した。主人は茫乎(ぼうこ)として、その涙がいかなる心理作用に起因するかを研究するもののごとく、袴の上と、俯(う)つ向いた雪江さんの顔を見つめていた。ところへ御三(おさん)が台所から赤い手を敷居越に揃(そろ)えて「お客さまがいらっしゃいました」と云う。「誰が来たんだ」と主人が聞くと「学校の生徒さんでございます」と御三は雪江さんの泣顔を横目に睨(にら)めながら答えた。主人は客間へ出て行く。吾輩も種取り兼(けん)人間研究のため、主人に尾(び)して忍びやかに椽(えん)へ廻った。人間を研究するには何か波瀾がある時を択(えら)ばないと一向(いっこう)結果が出て来ない。平生は大方の人が大方の人であるから、見ても聞いても張合のないくらい平凡である。しかしいざとなるとこの平凡が急に霊妙なる神秘的作用のためにむくむくと持ち上がって奇なもの、変なもの、妙なもの、異(い)なもの、一と口に云えば吾輩猫共から見てすこぶる後学になるような事件が至るところに横風(おうふう)にあらわれてくる。雪江さんの紅涙(こうるい)のごときはまさしくその現象の一つである。かくのごとく不可思議、不可測(ふかそく)の心を有している雪江さんも、細君と話をしているうちはさほどとも思わなかったが、主人が帰ってきて油壺を抛(ほう)り出すやいなや、たちまち死竜(しりゅう)に蒸汽喞筒(じょうきポンプ)を注ぎかけたるごとく、勃然(ぼつぜん)としてその深奥(しんおう)にして窺知(きち)すべからざる、巧妙なる、美妙なる、奇妙なる、霊妙なる、麗質を、惜気もなく発揚し了(おわ)った。しかしてその麗質は天下の女性(にょしょう)に共通なる麗質である。ただ惜しい事には容易にあらわれて来ない。否(いや)あらわれる事は二六時中間断なくあらわれているが、かくのごとく顕著に灼然炳乎(しゃくぜんへいこ)として遠慮なくはあらわれて来ない。幸にして主人のように吾輩の毛をややともすると逆さに撫(な)でたがる旋毛曲(つむじまが)りの奇特家(きどくか)がおったから、かかる狂言も拝見が出来たのであろう。主人のあとさえついてあるけば、どこへ行っても舞台の役者は吾知らず動くに相違ない。面白い男を旦那様に戴(いただ)いて、短かい猫の命のうちにも、大分(だいぶ)多くの経験が出来る。ありがたい事だ。今度のお客は何者であろう。

 見ると年頃は十七八、雪江さんと追(お)っつ、返(か)っつの書生である。大きな頭を地(じ)の隙(す)いて見えるほど刈り込んで団子(だんご)っ鼻(ぱな)を顔の真中にかためて、座敷の隅の方に控(ひか)えている。別にこれと云う特徴もないが頭蓋骨(ずがいこつ)だけはすこぶる大きい。青坊主に刈ってさえ、ああ大きく見えるのだから、主人のように長く延ばしたら定めし人目を惹(ひ)く事だろう。こんな顔にかぎって学問はあまり出来ない者だとは、かねてより主人の持説である。事実はそうかも知れないがちょっと見るとナポレオンのようですこぶる偉観である。着物は通例の書生のごとく、薩摩絣(さつまがすり)か、久留米(くるめ)がすりかまた伊予(いよ)絣か分らないが、ともかくも絣(かすり)と名づけられたる袷(あわせ)を袖短かに着こなして、下には襯衣(シャツ)も襦袢(じゅばん)もないようだ。素袷(すあわせ)や素足(すあし)は意気なものだそうだが、この男のはなはだむさ苦しい感じを与える。ことに畳の上に泥棒のような親指を歴然と三つまで印(いん)しているのは全く素足の責任に相違ない。彼は四つ目の足跡の上へちゃんと坐って、さも窮屈そうに畏(か)しこまっている。一体かしこまるべきものがおとなしく控(ひか)えるのは別段気にするにも及ばんが、毬栗頭(いがぐりあたま)のつんつるてんの乱暴者が恐縮しているところは何となく不調和なものだ。途中で先生に逢ってさえ礼をしないのを自慢にするくらいの連中が、たとい三十分でも人並に坐るのは苦しいに違ない。ところを生れ得て恭謙(きょうけん)の君子、盛徳の長者(ちょうしゃ)であるかのごとく構えるのだから、当人の苦しいにかかわらず傍(はた)から見ると大分(だいぶ)おかしいのである。教場もしくは運動場であんなに騒々しいものが、どうしてかように自己を箝束(かんそく)する力を具(そな)えているかと思うと、憐れにもあるが滑稽(こっけい)でもある。こうやって一人ずつ相対(あいたい)になると、いかに愚(ぐがい)なる主人といえども生徒に対して幾分かの重みがあるように思われる。主人も定めし得意であろう。塵(ちり)積って山をなすと云うから、微々たる一生徒も多勢(たぜい)が聚合(しゅうごう)すると侮(あなど)るべからざる団体となって、排斥(はいせき)運動やストライキをしでかすかも知れない。これはちょうど臆病者が酒を飲んで大胆になるような現象であろう。衆を頼んで騒ぎ出すのは、人の気に酔っ払った結果、正気を取り落したるものと認めて差支(さしつか)えあるまい。それでなければかように恐れ入ると云わんよりむしろ悄然(しょうぜん)として、自(みずか)ら襖(ふすま)に押し付けられているくらいな薩摩絣が、いかに老朽だと云って、苟(かりそ)めにも先生と名のつく主人を軽蔑(けいべつ)しようがない。馬鹿に出来る訳がない。

 主人は座布団(ざぶとん)を押しやりながら、「さあお敷き」と云ったが毬栗先生はかたくなったまま「へえ」と云って動かない。鼻の先に剥(は)げかかった更紗(さらさ)の座布団が「御乗んなさい」とも何とも云わずに着席している後(うし)ろに、生きた大頭がつくねんと着席しているのは妙なものだ。布団は乗るための布団で見詰めるために細君が勧工場から仕入れて来たのではない。布団にして敷かれずんば、布団はまさしくその名誉を毀損(きそん)せられたるもので、これを勧めたる主人もまた幾分か顔が立たない事になる。主人の顔を潰(つぶ)してまで、布団と睨(にら)めくらをしている毬栗君は決して布団その物が嫌(きらい)なのではない。実を云うと、正式に坐った事は祖父(じい)さんの法事の時のほかは生れてから滅多(めった)にないので、先(さ)っきからすでにしびれが切れかかって少々足の先は困難を訴えているのである。それにもかかわらず敷かない。布団が手持無沙汰に控(ひか)えているにもかかわらず敷かない。主人がさあお敷きと云うのに敷かない。厄介な毬栗坊主だ。このくらい遠慮するなら多人数(たにんず)集まった時もう少し遠慮すればいいのに、学校でもう少し遠慮すればいいのに、下宿屋でもう少し遠慮すればいいのに。すまじきところへ気兼(きがね)をして、すべき時には謙遜(けんそん)しない、否大(おおい)に狼藉(ろうぜき)を働らく。たちの悪るい毬栗坊主だ。

 ところへ後(うし)ろの襖(ふすま)をすうと開けて、雪江さんが一碗の茶を恭(うやうや)しく坊主に供した。平生なら、そらサヴェジ・チーが出たと冷(ひ)やかすのだが、主人一人に対してすら痛み入(い)っている上へ、妙齢の女性(にょしょう)が学校で覚え立ての小笠原流(おがさわらりゅう)で、乙(おつ)に気取った手つきをして茶碗を突きつけたのだから、坊主は大(おおい)に苦悶(くもん)の体(てい)に見える。雪江さんは襖(ふすま)をしめる時に後ろからにやにやと笑った。して見ると女は同年輩でもなかなかえらいものだ。坊主に比すれば遥(はる)かに度胸が据(す)わっている。ことに先刻(さっき)の無念にはらはらと流した一滴の紅涙(こうるい)のあとだから、このにやにやがさらに目立って見えた。

 雪江さんの引き込んだあとは、双方無言のまま、しばらくの間は辛防(しんぼう)していたが、これでは業(ぎょう)をするようなものだと気がついた主人はようやく口を開いた。

「君は何とか云ったけな」

「古井(ふるい)……」

「古井? 古井何とかだね。名は」

「古井武右衛門(ぶえもん)」

「古井武右衛門――なるほど、だいぶ長い名だな。今の名じゃない、昔の名だ。四年生だったね」

「いいえ」

「三年生か?」

「いいえ、二年生です」

「甲の組かね」

「乙です」

「乙なら、わたしの監督だね。そうか」と主人は感心している。実はこの大頭は入学の当時から、主人の眼についているんだから、決して忘れるどころではない。のみならず、時々は夢に見るくらい感銘した頭である。しかし呑気(のんき)な主人はこの頭とこの古風な姓名とを連結して、その連結したものをまた二年乙組に連結する事が出来なかったのである。だからこの夢に見るほど感心した頭が自分の監督組の生徒であると聞いて、思わずそうかと心の裏(うち)で手を拍(う)ったのである。しかしこの大きな頭の、古い名の、しかも自分の監督する生徒が何のために今頃やって来たのか頓(とん)と推諒(すいりょう)出来ない。元来不人望な主人の事だから、学校の生徒などは正月だろうが暮だろうがほとんど寄りついた事がない。寄りついたのは古井武右衛門君をもって嚆矢(こうし)とするくらいな珍客であるが、その来訪の主意がわからんには主人も大(おおい)に閉口しているらしい。こんな面白くない人の家(うち)へただ遊びにくる訳もなかろうし、また辞職勧告ならもう少し昂然(こうぜん)と構え込みそうだし、と云って武右衛門君などが一身上の用事相談があるはずがないし、どっちから、どう考えても主人には分らない。武右衛門君の様子を見るとあるいは本人自身にすら何で、ここまで参ったのか判然しないかも知れない。仕方がないから主人からとうとう表向に聞き出した。

「君遊びに来たのか」

「そうじゃないんです」

「それじゃ用事かね」

「ええ」

「学校の事かい」

「ええ、少し御話ししようと思って……」

「うむ。どんな事かね。さあ話したまえ」と云うと武右衛門君下を向いたぎり何(なん)にも言わない。元来武右衛門君は中学の二年生にしてはよく弁ずる方で、頭の大きい割に脳力は発達しておらんが、喋舌(しゃべ)る事においては乙組中鏘々(そうそう)たるものである。現にせんだってコロンバスの日本訳を教えろと云って大(おおい)に主人を困らしたはまさにこの武右衛門君である。その鏘々たる先生が、最前(さいぜん)から吃(どもり)の御姫様のようにもじもじしているのは、何か云(い)わくのある事でなくてはならん。単に遠慮のみとはとうてい受け取られない。主人も少々不審に思った。

「話す事があるなら、早く話したらいいじゃないか」

「少し話しにくい事で……」

「話しにくい?」と云いながら主人は武右衛門君の顔を見たが、先方は依然として俯向(うつむき)になってるから、何事とも鑑定が出来ない。やむを得ず、少し語勢を変えて「いいさ。何でも話すがいい。ほかに誰も聞いていやしない。わたしも他言(たごん)はしないから」と穏(おだ)やかにつけ加えた。

「話してもいいでしょうか?」と武右衛門君はまだ迷っている。

「いいだろう」と主人は勝手な判断をする。

「では話しますが」といいかけて、毬栗頭(いがぐりあたま)をむくりと持ち上げて主人の方をちょっとまぼしそうに見た。その眼は三角である。主人は頬をふくらまして朝日の煙を吹き出しながらちょっと横を向いた。

「実はその……困った事になっちまって……」

「何が?」

「何がって、はなはだ困るもんですから、来たんです」

「だからさ、何が困るんだよ」

「そんな事をする考はなかったんですけれども、浜田(はまだ)が借せ借せと云うもんですから……」

「浜田と云うのは浜田平助(へいすけ)かい」

「ええ」

「浜田に下宿料でも借したのかい」

「何そんなものを借したんじゃありません」

「じゃ何を借したんだい」

「名前を借したんです」

「浜田が君の名前を借りて何をしたんだい」

「艶書(えんしょ)を送ったんです」

「何を送った?」

「だから、名前は廃(よ)して、投函役(とうかんやく)になると云ったんです」

「何だか要領を得んじゃないか。一体誰が何をしたんだい」

「艶書(えんしょ)を送ったんです」

「艶書を送った? 誰に?」

「だから、話しにくいと云うんです」

「じゃ君が、どこかの女に艶書を送ったのか」

「いいえ、僕じゃないんです」

「浜田が送ったのかい」

「浜田でもないんです」

「じゃ誰が送ったんだい」

「誰だか分らないんです」

「ちっとも要領を得ないな。では誰も送らんのかい」

「名前だけは僕の名なんです」

「名前だけは君の名だって、何の事だかちっとも分らんじゃないか。もっと条理を立てて話すがいい。元来その艶書を受けた当人はだれか」

「金田って向横丁(むこうよこちょう)にいる女です」

「あの金田という実業家か」

「ええ」

「で、名前だけ借したとは何の事だい」

「あすこの娘がハイカラで生意気だから艶書を送ったんです。――浜田が名前がなくちゃいけないって云いますから、君の名前をかけって云ったら、僕のじゃつまらない。古井武右衛門の方がいいって――それで、とうとう僕の名を借してしまったんです」

「で、君はあすこの娘を知ってるのか。交際でもあるのか」

「交際も何もありゃしません。顔なんか見た事もありません」

「乱暴だな。顔も知らない人に艶書をやるなんて、まあどう云う了見で、そんな事をしたんだい」

「ただみんながあいつは生意気で威張ってるて云うから、からかってやったんです」

「ますます乱暴だな。じゃ君の名を公然とかいて送ったんだな」

「ええ、文章は浜田が書いたんです。僕が名前を借して遠藤が夜あすこのうちまで行って投函して来たんです」

「じゃ三人で共同してやったんだね」

「ええ、ですけれども、あとから考えると、もしあらわれて退学にでもなると大変だと思って、非常に心配して二三日(にさんち)は寝られないんで、何だか茫(ぼん)やりしてしまいました」

「そりゃまた飛んでもない馬鹿をしたもんだ。それで文明中学二年生古井武右衛門とでもかいたのかい」

「いいえ、学校の名なんか書きゃしません」

「学校の名を書かないだけまあよかった。これで学校の名が出て見るがいい。それこそ文明中学の名誉に関する」

「どうでしょう退校になるでしょうか」

「そうさな」

「先生、僕のおやじさんは大変やかましい人で、それにお母(っか)さんが継母(ままはは)ですから、もし退校にでもなろうもんなら、僕あ困っちまうです。本当に退校になるでしょうか」

「だから滅多(めった)な真似をしないがいい」

「する気でもなかったんですが、ついやってしまったんです。退校にならないように出来ないでしょうか」と武右衛門君は泣き出しそうな声をしてしきりに哀願に及んでいる。襖(ふすま)の蔭では最前(さいぜん)から細君と雪江さんがくすくす笑っている。主人は飽(あ)くまでももったいぶって「そうさな」を繰り返している。なかなか面白い。

 吾輩が面白いというと、何がそんなに面白いと聞く人があるかも知れない。聞くのはもっともだ。人間にせよ、動物にせよ、己(おのれ)を知るのは生涯(しょうがい)の大事である。己(おのれ)を知る事が出来さえすれば人間も人間として猫より尊敬を受けてよろしい。その時は吾輩もこんないたずらを書くのは気の毒だからすぐさまやめてしまうつもりである。しかし自分で自分の鼻の高さが分らないと同じように、自己の何物かはなかなか見当(けんとう)がつき悪(に)くいと見えて、平生から軽蔑(けいべつ)している猫に向ってさえかような質問をかけるのであろう。人間は生意気なようでもやはり、どこか抜けている。万物の霊だなどとどこへでも万物の霊を担(かつ)いであるくかと思うと、これしきの事実が理解出来ない。しかも恬(てん)として平然たるに至ってはちと一(いっきゃく)を催したくなる。彼は万物の霊を背中(せなか)へ担(かつ)いで、おれの鼻はどこにあるか教えてくれ、教えてくれと騒ぎ立てている。それなら万物の霊を辞職するかと思うと、どう致して死んでも放しそうにしない。このくらい公然と矛盾をして平気でいられれば愛嬌(あいきょう)になる。愛嬌になる代りには馬鹿をもって甘(あまん)じなくてはならん。

 吾輩がこの際武右衛門君と、主人と、細君及雪江嬢を面白がるのは、単に外部の事件が鉢合(はちあわ)せをして、その鉢合せが波動を乙(おつ)なところに伝えるからではない。実はその鉢合の反響が人間の心に個々別々の音色(ねいろ)を起すからである。第一主人はこの事件に対してむしろ冷淡である。武右衛門君のおやじさんがいかにやかましくって、おっかさんがいかに君を継子(ままこ)あつかいにしようとも、あんまり驚ろかない。驚ろくはずがない。武右衛門君が退校になるのは、自分が免職になるのとは大(おおい)に趣(おもむき)が違う。千人近くの生徒がみんな退校になったら、教師も衣食の途(みち)に窮するかも知れないが、古井武右衛門君一人(いちにん)の運命がどう変化しようと、主人の朝夕(ちょうせき)にはほとんど関係がない。関係の薄いところには同情も自(おのず)から薄い訳である。見ず知らずの人のために眉(まゆ)をひそめたり、鼻をかんだり、嘆息をするのは、決して自然の傾向ではない。人間がそんなに情深(なさけぶか)い、思いやりのある動物であるとははなはだ受け取りにくい。ただ世の中に生れて来た賦税(ふぜい)として、時々交際のために涙を流して見たり、気の毒な顔を作って見せたりするばかりである。云わばごまかし性(せい)表情で、実を云うと大分(だいぶ)骨が折れる芸術である。このごまかしをうまくやるものを芸術的良心の強い人と云って、これは世間から大変珍重される。だから人から珍重される人間ほど怪しいものはない。試して見ればすぐ分る。この点において主人はむしろ拙(せつ)な部類に属すると云ってよろしい。拙だから珍重されない。珍重されないから、内部の冷淡を存外隠すところもなく発表している。彼が武右衛門君に対して「そうさな」を繰り返しているのでも這裏(しゃり)の消息はよく分る。諸君は冷淡だからと云って、けっして主人のような善人を嫌ってはいけない。冷淡は人間の本来の性質であって、その性質をかくそうと力(つと)めないのは正直な人である。もし諸君がかかる際に冷淡以上を望んだら、それこそ人間を買い被(かぶ)ったと云わなければならない。正直ですら払底(ふってい)な世にそれ以上を予期するのは、馬琴(ばきん)の小説から志乃(しの)や小文吾(こぶんご)が抜けだして、向う三軒両隣へ八犬伝(はっけんでん)が引き越した時でなくては、あてにならない無理な注文である。主人はまずこのくらいにして、次には茶の間で笑ってる女連(おんなれん)に取りかかるが、これは主人の冷淡を一歩向(むこう)へ跨(また)いで、滑稽(こっけい)の領分に躍(おど)り込んで嬉しがっている。この女連には武右衛門君が頭痛に病んでいる艶書事件が、仏陀(ぶっだ)の福音(ふくいん)のごとくありがたく思われる。理由はないただありがたい。強いて解剖すれば武右衛門君が困るのがありがたいのである。諸君女に向って聞いて御覧、「あなたは人が困るのを面白がって笑いますか」と。聞かれた人はこの問を呈出した者を馬鹿と云うだろう、馬鹿と云わなければ、わざとこんな問をかけて淑女の品性を侮辱したと云うだろう。侮辱したと思うのは事実かも知れないが、人の困るのを笑うのも事実である。であるとすれば、これから私(わたし)の品性を侮辱するような事を自分でしてお目にかけますから、何とか云っちゃいやよと断わるのと一般である。僕は泥棒をする。しかしけっして不道徳と云ってはならん。もし不道徳だなどと云えば僕の顔へ泥を塗ったものである。僕を侮辱したものである。と主張するようなものだ。女はなかなか利口だ、考えに筋道が立っている。いやしくも人間に生れる以上は踏んだり、蹴(け)たり、どやされたりして、しかも人が振りむきもせぬ時、平気でいる覚悟が必用であるのみならず、唾を吐きかけられ、糞をたれかけられた上に、大きな声で笑われるのを快よく思わなくてはならない。それでなくてはかように利口な女と名のつくものと交際は出来ない。武右衛門先生もちょっとしたはずみから、とんだ間違をして大(おおい)に恐れ入ってはいるようなものの、かように恐れ入ってるものを蔭で笑うのは失敬だとくらいは思うかも知れないが、それは年が行かない稚気(ちき)というもので、人が失礼をした時に怒(おこ)るのを気が小さいと先方では名づけるそうだから、そう云われるのがいやならおとなしくするがよろしい。最後に武右衛門君の心行きをちょっと紹介する。君は心配の権化(ごんげ)である。かの偉大なる頭脳はナポレオンのそれが功名心をもって充満せるがごとく、まさに心配をもってはちきれんとしている。時々その団子っ鼻がぴくぴく動くのは心配が顔面神経に伝(つたわ)って、反射作用のごとく無意識に活動するのである。彼は大きな鉄砲丸(てっぽうだま)を飲み下(くだ)したごとく、腹の中にいかんともすべからざる塊(かた)まりを抱(いだ)いて、この両三日(りょうさんち)処置に窮している。その切なさの余り、別に分別の出所(でどころ)もないから監督と名のつく先生のところへ出向いたら、どうか助けてくれるだろうと思って、いやな人の家(うち)へ大きな頭を下げにまかり越したのである。彼は平生学校で主人にからかったり、同級生を煽動(せんどう)して、主人を困らしたりした事はまるで忘れている。いかにからかおうとも困らせようとも監督と名のつく以上は心配してくれるに相違ないと信じているらしい。随分単純なものだ。監督は主人が好んでなった役ではない。校長の命によってやむを得ずいただいている、云わば迷亭の叔父さんの山高帽子の種類である。ただ名前である。ただ名前だけではどうする事も出来ない。名前がいざと云う場合に役に立つなら雪江さんは名前だけで見合が出来る訳だ。武右衛門君はただに我儘(わがまま)なるのみならず、他人は己(おの)れに向って必ず親切でなくてはならんと云う、人間を買い被(かぶ)った仮定から出立している。笑われるなどとは思も寄らなかったろう。武右衛門君は監督の家(うち)へ来て、きっと人間について、一の真理を発明したに相違ない。彼はこの真理のために将来ますます本当の人間になるだろう。人の心配には冷淡になるだろう、人の困る時には大きな声で笑うだろう。かくのごとくにして天下は未来の武右衛門君をもって充(み)たされるであろう。金田君及び金田令夫人をもって充たされるであろう。吾輩は切に武右衛門君のために瞬時も早く自覚して真人間(まにんげん)になられん事を希望するのである。しからずんばいかに心配するとも、いかに後悔するとも、いかに善に移るの心が切実なりとも、とうてい金田君のごとき成功は得られんのである。いな社会は遠からずして君を人間の居住地以外に放逐するであろう。文明中学の退校どころではない。

 かように考えて面白いなと思っていると、格子(こうし)ががらがらとあいて、玄関の障子(しょうじ)の蔭から顔が半分ぬうと出た。

「先生」

 主人は武右衛門君に「そうさな」を繰り返していたところへ、先生と玄関から呼ばれたので、誰だろうとそっちを見ると半分ほど筋違(すじかい)に障子から食(は)み出している顔はまさしく寒月君である。「おい、御這入(おはい)り」と云ったぎり坐っている。

「御客ですか」と寒月君はやはり顔半分で聞き返している。

「なに構わん、まあ御上(おあ)がり」

「実はちょっと先生を誘いに来たんですがね」

「どこへ行くんだい。また赤坂かい。あの方面はもう御免だ。せんだっては無闇(むやみ)にあるかせられて、足が棒のようになった」

「今日は大丈夫です。久し振りに出ませんか」

「どこへ出るんだい。まあ御上がり」

「上野へ行って虎の鳴き声を聞こうと思うんです」

「つまらんじゃないか、それよりちょっと御上り」

 寒月君はとうてい遠方では談判不調と思ったものか、靴を脱いでのそのそ上がって来た。例のごとく鼠色(ねずみいろ)の、尻につぎの中(あた)ったずぼんを穿(は)いているが、これは時代のため、もしくは尻の重いために破れたのではない、本人の弁解によると近頃自転車の稽古を始めて局部に比較的多くの摩擦を与えるからである。未来の細君をもって矚目(しょくもく)された本人へ文(ふみ)をつけた恋の仇(あだ)とは夢にも知らず、「やあ」と云って武右衛門君に軽く会釈(えしゃく)をして椽側(えんがわ)へ近い所へ座をしめた。

「虎の鳴き声を聞いたって詰らないじゃないか」

「ええ、今じゃいけません、これから方々散歩して夜十一時頃になって、上野へ行くんです」

「へえ」

「すると公園内の老木は森々(しんしん)として物凄(ものすご)いでしょう」

「そうさな、昼間より少しは淋(さみ)しいだろう」

「それで何でもなるべく樹(き)の茂った、昼でも人の通らない所を択(よ)ってあるいていると、いつの間(ま)にか紅塵万丈(こうじんばんじょう)の都会に住んでる気はなくなって、山の中へ迷い込んだような心持ちになるに相違ないです」

「そんな心持ちになってどうするんだい」

「そんな心持ちになって、しばらく佇(たたず)んでいるとたちまち動物園のうちで、虎が鳴くんです」

「そう旨(うま)く鳴くかい」

「大丈夫鳴きます。あの鳴き声は昼でも理科大学へ聞えるくらいなんですから、深夜闃寂(げきせき)として、四望(しぼう)人なく、鬼気肌(はだえ)に逼(せま)って、魑魅(ちみ)鼻を衝(つ)く際(さい)に……」

「魑魅鼻を衝くとは何の事だい」

「そんな事を云うじゃありませんか、怖(こわ)い時に」

「そうかな。あんまり聞かないようだが。それで」

「それで虎が上野の老杉(ろうさん)の葉をことごとく振い落すような勢で鳴くでしょう。物凄いでさあ」

「そりゃ物凄いだろう」

「どうです冒険に出掛けませんか。きっと愉快だろうと思うんです。どうしても虎の鳴き声は夜なかに聞かなくっちゃ、聞いたとはいわれないだろうと思うんです」

「そうさな」と主人は武右衛門君の哀願に冷淡であるごとく、寒月君の探検にも冷淡である。

 この時まで黙然(もくねん)として虎の話を羨(うらや)ましそうに聞いていた武右衛門君は主人の「そうさな」で再び自分の身の上を思い出したと見えて、「先生、僕は心配なんですが、どうしたらいいでしょう」とまた聞き返す。寒月君は不審な顔をしてこの大きな頭を見た。吾輩は思う仔細(しさい)あってちょっと失敬して茶の間へ廻る。

 茶の間では細君がくすくす笑いながら、京焼の安茶碗に番茶を浪々(なみなみ)と注(つ)いで、アンチモニーの茶托(ちゃたく)の上へ載せて、

「雪江さん、憚(はばか)りさま、これを出して来て下さい」

「わたし、いやよ」

「どうして」と細君は少々驚ろいた体(てい)で笑いをはたと留める。

「どうしてでも」と雪江さんはやにすました顔を即席にこしらえて、傍(そば)にあった読売新聞の上にのしかかるように眼を落した。細君はもう一応協商(きょうしょう)を始める。

「あら妙な人ね。寒月さんですよ。構やしないわ」

「でも、わたし、いやなんですもの」と読売新聞の上から眼を放さない。こんな時に一字も読めるものではないが、読んでいないなどとあばかれたらまた泣き出すだろう。

「ちっとも恥かしい事はないじゃありませんか」と今度は細君笑いながら、わざと茶碗を読売新聞の上へ押しやる。雪江さんは「あら人の悪るい」と新聞を茶碗の下から、抜こうとする拍子に茶托(ちゃたく)に引きかかって、番茶は遠慮なく新聞の上から畳の目へ流れ込む。「それ御覧なさい」と細君が云うと、雪江さんは「あら大変だ」と台所へ馳(か)け出して行った。雑巾(ぞうきん)でも持ってくる了見(りょうけん)だろう。吾輩にはこの狂言がちょっと面白かった。

 寒月君はそれとも知らず座敷で妙な事を話している。

「先生障子(しょうじ)を張り易(か)えましたね。誰が張ったんです」

「女が張ったんだ。よく張れているだろう」

「ええなかなかうまい。あの時々おいでになる御嬢さんが御張りになったんですか」

「うんあれも手伝ったのさ。このくらい障子が張れれば嫁に行く資格はあると云って威張ってるぜ」

「へえ、なるほど」と云いながら寒月君障子を見つめている。

「こっちの方は平(たいら)ですが、右の端(はじ)は紙が余って波が出来ていますね」

「あすこが張りたてのところで、もっとも経験の乏(とぼ)しい時に出来上ったところさ」

「なるほど、少し御手際(おてぎわ)が落ちますね。あの表面は超絶的(ちょうぜつてき)曲線(きょくせん)でとうてい普通のファンクションではあらわせないです」と、理学者だけにむずかしい事を云うと、主人は

「そうさね」と好い加減な挨拶をした。

 この様子ではいつまで嘆願をしていても、とうてい見込がないと思い切った武右衛門君は突然かの偉大なる頭蓋骨(ずがいこつ)を畳の上に圧(お)しつけて、無言の裡(うち)に暗に訣別(けつべつ)の意を表した。主人は「帰るかい」と云った。武右衛門君は悄然(しょうぜん)として薩摩下駄を引きずって門を出た。可愛想(かわいそう)に。打ちゃって置くと巌頭(がんとう)の吟(ぎん)でも書いて華厳滝(けごんのたき)から飛び込むかも知れない。元を糺(ただ)せば金田令嬢のハイカラと生意気から起った事だ。もし武右衛門君が死んだら、幽霊になって令嬢を取り殺してやるがいい。あんなものが世界から一人や二人消えてなくなったって、男子はすこしも困らない。寒月君はもっと令嬢らしいのを貰うがいい。

「先生ありゃ生徒ですか」

「うん」

「大変大きな頭ですね。学問は出来ますか」

「頭の割には出来ないがね、時々妙な質問をするよ。こないだコロンバスを訳して下さいって大(おおい)に弱った」

「全く頭が大き過ぎますからそんな余計な質問をするんでしょう。先生何とおっしゃいました」

「ええ? なあに好(い)い加減な事を云って訳してやった」

「それでも訳す事は訳したんですか、こりゃえらい」

「小供は何でも訳してやらないと信用せんからね」

「先生もなかなか政治家になりましたね。しかし今の様子では、何だか非常に元気がなくって、先生を困らせるようには見えないじゃありませんか」

「今日は少し弱ってるんだよ。馬鹿な奴だよ」

「どうしたんです。何だかちょっと見たばかりで非常に可哀想(かわいそう)になりました。全体どうしたんです」

「なに愚(ぐ)な事さ。金田の娘に艶書(えんしょ)を送ったんだ」

「え? あの大頭がですか。近頃の書生はなかなかえらいもんですね。どうも驚ろいた」

「君も心配だろうが……」

「何ちっとも心配じゃありません。かえって面白いです。いくら、艶書が降り込んだって大丈夫です」

「そう君が安心していれば構わないが……」

「構わんですとも私はいっこう構いません。しかしあの大頭が艶書をかいたと云うには、少し驚ろきますね」

「それがさ。冗談(じょうだん)にしたんだよ。あの娘がハイカラで生意気だから、からかってやろうって、三人が共同して……」

「三人が一本の手紙を金田の令嬢にやったんですか。ますます奇談ですね。一人前の西洋料理を三人で食うようなものじゃありませんか」

「ところが手分けがあるんだ。一人が文章をかく、一人が投函(とうかん)する、一人が名前を借す。で今来たのが名前を借した奴なんだがね。これが一番愚(ぐ)だね。しかも金田の娘の顔も見た事がないって云うんだぜ。どうしてそんな無茶な事が出来たものだろう」

「そりゃ、近来の大出来ですよ。傑作ですね。どうもあの大頭が、女に文(ふみ)をやるなんて面白いじゃありませんか」

「飛んだ間違にならあね」

「なになったって構やしません、相手が金田ですもの」

「だって君が貰うかも知れない人だぜ」

「貰うかも知れないから構わないんです。なあに、金田なんか、構やしません」

「君は構わなくっても……」

「なに金田だって構やしません、大丈夫です」

「それならそれでいいとして、当人があとになって、急に良心に責められて、恐ろしくなったものだから、大(おおい)に恐縮して僕のうちへ相談に来たんだ」

「へえ、それであんなに悄々(しおしお)としているんですか、気の小さい子と見えますね。先生何とか云っておやんなすったんでしょう」

「本人は退校になるでしょうかって、それを一番心配しているのさ」

「何で退校になるんです」

「そんな悪るい、不道徳な事をしたから」

「何、不道徳と云うほどでもありませんやね。構やしません。金田じゃ名誉に思ってきっと吹聴(ふいちょう)していますよ」

「まさか」

「とにかく可愛想(かわいそう)ですよ。そんな事をするのがわるいとしても、あんなに心配させちゃ、若い男を一人殺してしまいますよ。ありゃ頭は大きいが人相はそんなにわるくありません。鼻なんかぴくぴくさせて可愛いです」

「君も大分(だいぶ)迷亭見たように呑気(のんき)な事を云うね」

「何、これが時代思潮です、先生はあまり昔(むか)し風(ふう)だから、何でもむずかしく解釈なさるんです」

「しかし愚(ぐ)じゃないか、知りもしないところへ、いたずらに艶書(えんしょ)を送るなんて、まるで常識をかいてるじゃないか」

「いたずらは、たいがい常識をかいていまさあ。救っておやんなさい。功徳(くどく)になりますよ。あの容子(ようす)じゃ華厳(けごん)の滝へ出掛けますよ」

「そうだな」

「そうなさい。もっと大きな、もっと分別のある大僧(おおぞう)共がそれどころじゃない、わるいいたずらをして知らん面(かお)をしていますよ。あんな子を退校させるくらいなら、そんな奴らを片(かた)っ端(ぱし)から放逐でもしなくっちゃ不公平でさあ」

「それもそうだね」

「それでどうです上野へ虎の鳴き声をききに行くのは」

「虎かい」

「ええ、聞きに行きましょう。実は二三日中(にさんちうち)にちょっと帰国しなければならない事が出来ましたから、当分どこへも御伴(おとも)は出来ませんから、今日は是非いっしょに散歩をしようと思って来たんです」

「そうか帰るのかい、用事でもあるのかい」

「ええちょっと用事が出来たんです。――ともかくも出ようじゃありませんか」

「そう。それじゃ出ようか」

「さあ行きましょう。今日は私が晩餐(ばんさん)を奢(おご)りますから、――それから運動をして上野へ行くとちょうど好い刻限です」としきりに促(うな)がすものだから、主人もその気になって、いっしょに出掛けて行った。あとでは細君と雪江さんが遠慮のない声でげらげらけらけらからからと笑っていた。

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