吾輩は猫である

30話 十一(2)

8,757字 約18分 1999年9月21日 公開

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校の処分を受けても――、こればかりは買わずにいられないと思いました」

「それが天才だよ。天才でなければ、そんなに思い込める訳のものじゃない。羨(うらやま)しい。僕もどうかして、それほど猛烈な感じを起して見たいと年来心掛けているが、どうもいけないね。音楽会などへ行って出来るだけ熱心に聞いているが、どうもそれほどに感興が乗らない」と東風君はしきりに羨(うら)やましがっている。

「乗らない方が仕合せだよ。今でこそ平気で話すようなもののその時の苦しみはとうてい想像が出来るような種類のものではなかった。――それから先生とうとう奮発して買いました」

「ふむ、どうして」

「ちょうど十一月の天長節の前の晩でした。国のものは揃(そろ)って泊りがけに温泉に行きましたから、一人もいません。私は病気だと云って、その日は学校も休んで寝ていました。今晩こそ一つ出て行って兼(かね)て望みのヴァイオリンを手に入れようと、床の中でその事ばかり考えていました」

「偽病(けびょう)をつかって学校まで休んだのかい」

「全くそうです」

「なるほど少し天才だね、こりゃ」と迷亭君も少々恐れ入った様子である。

「夜具の中から首を出していると、日暮れが待遠(まちどお)でたまりません。仕方がないから頭からもぐり込んで、眼を眠(ねむ)って待って見ましたが、やはり駄目です。首を出すと烈しい秋の日が、六尺の障子(しょうじ)へ一面にあたって、かんかんするには癇癪(かんしゃく)が起りました。上の方に細長い影がかたまって、時々秋風にゆすれるのが眼につきます」

「何だい、その細長い影と云うのは」

「渋柿の皮を剥(む)いて、軒へ吊(つ)るしておいたのです」

「ふん、それから」

「仕方がないから、床(とこ)を出て障子をあけて椽側(えんがわ)へ出て、渋柿の甘干(あまぼ)しを一つ取って食いました」

「うまかったかい」と主人は小供みたような事を聞く。

「うまいですよ、あの辺の柿は。とうてい東京などじゃあの味はわかりませんね」

「柿はいいがそれから、どうしたい」と今度は東風君がきく。

「それからまたもぐって眼をふさいで、早く日が暮れればいいがと、ひそかに神仏に念じて見た。約三四時間も立ったと思う頃、もうよかろうと、首を出すとあにはからんや烈しい秋の日は依然として六尺の障子を照らしてかんかんする、上の方に細長い影がかたまって、ふわふわする」

「そりゃ、聞いたよ」

「何返(なんべん)もあるんだよ。それから床を出て、障子をあけて、甘干しの柿を一つ食って、また寝床へ這入(はい)って、早く日が暮れればいいと、ひそかに神仏に祈念をこらした」

「やっぱりもとのところじゃないか」

「まあ先生そう焦(せ)かずに聞いて下さい。それから約三四時間夜具の中で辛抱(しんぼう)して、今度こそもうよかろうとぬっと首を出して見ると、烈しい秋の日は依然として六尺の障子へ一面にあたって、上の方に細長い影がかたまって、ふわふわしている」

「いつまで行っても同じ事じゃないか」

「それから床を出て障子を開けて、椽側(えんがわ)へ出て甘干しの柿を一つ食って……」

「また柿を食ったのかい。どうもいつまで行っても柿ばかり食ってて際限がないね」

「私もじれったくてね」

「君より聞いてる方がよっぽどじれったいぜ」

「先生はどうも性急(せっかち)だから、話がしにくくって困ります」

「聞く方も少しは困るよ」と東風君も暗(あん)に不平を洩(も)らした。

「そう諸君が御困りとある以上は仕方がない。たいていにして切り上げましょう。要するに私は甘干しの柿を食ってはもぐり、もぐっては食い、とうとう軒端(のきば)に吊(つ)るした奴をみんな食ってしまいました」

「みんな食ったら日も暮れたろう」

「ところがそう行かないので、私が最後の甘干しを食って、もうよかろうと首を出して見ると、相変らず烈しい秋の日が六尺の障子へ一面にあたって……」

「僕あ、もう御免だ。いつまで行っても果(は)てしがない」

「話す私も飽(あ)き飽きします」

「しかしそのくらい根気があればたいていの事業は成就(じょうじゅ)するよ。だまってたら、あしたの朝まで秋の日がかんかんするんだろう。全体いつ頃にヴァイオリンを買う気なんだい」とさすがの迷亭君も少し辛抱(しんぼう)し切れなくなったと見える。ただ独仙君のみは泰然として、あしたの朝まででも、あさっての朝まででも、いくら秋の日がかんかんしても動ずる気色(けしき)はさらにない。寒月君も落ちつき払ったもので

「いつ買う気だとおっしゃるが、晩になりさえすれば、すぐ買いに出掛けるつもりなのです。ただ残念な事には、いつ頭を出して見ても秋の日がかんかんしているものですから――いえその時の私(わたく)しの苦しみと云ったら、とうてい今あなた方の御じれになるどころの騒ぎじゃないです。私は最後の甘干を食っても、まだ日が暮れないのを見て、然(げんぜん)として思わず泣きました。東風君、僕は実に情(なさ)けなくって泣いたよ」

「そうだろう、芸術家は本来多情多恨だから、泣いた事には同情するが、話はもっと早く進行させたいものだね」と東風君は人がいいから、どこまでも真面目で滑稽(こっけい)な挨拶をしている。

「進行させたいのは山々だが、どうしても日が暮れてくれないものだから困るのさ」

「そう日が暮れなくちゃ聞く方も困るからやめよう」と主人がとうとう我慢がし切れなくなったと見えて云い出した。

「やめちゃなお困ります。これからがいよいよ佳境に入(い)るところですから」

「それじゃ聞くから、早く日が暮れた事にしたらよかろう」

「では、少しご無理なご注文ですが、先生の事ですから、枉(ま)げて、ここは日が暮れた事に致しましょう」

「それは好都合だ」と独仙君が澄まして述べられたので一同は思わずどっと噴き出した。

「いよいよ夜(よ)に入ったので、まず安心とほっと一息ついて鞍懸村(くらかけむら)の下宿を出ました。私は性来(しょうらい)騒々(そうぞう)しい所が嫌(きらい)ですから、わざと便利な市内を避けて、人迹稀(じんせきまれ)な寒村の百姓家にしばらく蝸牛(かぎゅう)の庵(いおり)を結んでいたのです……」

「人迹の稀なはあんまり大袈裟(おおげさ)だね」と主人が抗議を申し込むと「蝸牛の庵も仰山(ぎょうさん)だよ。床の間なしの四畳半くらいにしておく方が写生的で面白い」と迷亭君も苦情を持ち出した。東風君だけは「事実はどうでも言語が詩的で感じがいい」と褒(ほ)めた。独仙君は真面目な顔で「そんな所に住んでいては学校へ通うのが大変だろう。何里くらいあるんですか」と聞いた。

「学校まではたった四五丁です。元来学校からして寒村にあるんですから……」

「それじゃ学生はその辺にだいぶ宿をとってるんでしょう」と独仙君はなかなか承知しない。

「ええ、たいていな百姓家には一人や二人は必ずいます」

「それで人迹稀なんですか」と正面攻撃を喰(くら)わせる。

「ええ学校がなかったら、全く人迹は稀ですよ。……で当夜の服装と云うと、手織木綿(ておりもめん)の綿入の上へ金釦(きんボタン)の制服外套(がいとう)を着て、外套の頭巾(ずきん)をすぽりと被(かぶ)ってなるべく人の目につかないような注意をしました。折柄(おりから)柿落葉の時節で宿から南郷街道(なんごうかいどう)へ出るまでは木(こ)の葉で路が一杯です。一歩(ひとあし)運ぶごとにがさがさするのが気にかかります。誰かあとをつけて来そうでたまりません。振り向いて見ると東嶺寺(とうれいじ)の森がこんもりと黒く、暗い中に暗く写っています。この東嶺寺と云うのは松平家(まつだいらけ)の菩提所(ぼだいしょ)で、庚申山(こうしんやま)の麓(ふもと)にあって、私の宿とは一丁くらいしか隔(へだた)っていない、すこぶる幽邃(ゆうすい)な梵刹(ぼんせつ)です。森から上はのべつ幕なしの星月夜で、例の天の河が長瀬川を筋違(すじかい)に横切って末は――末は、そうですね、まず布哇(ハワイ)の方へ流れています……」

「布哇は突飛だね」と迷亭君が云った。

「南郷街道をついに二丁来て、鷹台町(たかのだいまち)から市内に這入って、古城町(こじょうまち)を通って、仙石町(せんごくまち)を曲って、喰代町(くいしろちょう)を横に見て、通町(とおりちょう)を一丁目、二丁目、三丁目と順に通り越して、それから尾張町(おわりちょう)、名古屋町(なごやちょう)、鯱鉾町(しゃちほこちょう)、蒲鉾町(かまぼこちょう)……」

「そんなにいろいろな町を通らなくてもいい。要するにヴァイオリンを買ったのか、買わないのか」と主人がじれったそうに聞く。

「楽器のある店は金善(かねぜん)即ち金子善兵衛方ですから、まだなかなかです」

「なかなかでもいいから早く買うがいい」

「かしこまりました。それで金善方へ来て見ると、店にはランプがかんかんともって……」

「またかんかんか、君のかんかんは一度や二度で済まないんだから難渋(なんじゅう)するよ」と今度は迷亭が予防線を張った。

「いえ、今度のかんかんは、ほんの通り一返のかんかんですから、別段御心配には及びません。……灯影(ほかげ)にすかして見ると例のヴァイオリンが、ほのかに秋の灯(ひ)を反射して、くり込んだ胴の丸みに冷たい光を帯びています。つよく張った琴線(きんせん)の一部だけがきらきらと白く眼に映(うつ)ります。……」

「なかなか叙述がうまいや」と東風君がほめた。

「あれだな。あのヴァイオリンだなと思うと、急に動悸(どうき)がして足がふらふらします……」

「ふふん」と独仙君が鼻で笑った。

「思わず馳(か)け込んで、隠袋(かくし)から蝦蟇口(がまぐち)を出して、蝦蟇口の中から五円札を二枚出して……」

「とうとう買ったかい」と主人がきく。

「買おうと思いましたが、まてしばし、ここが肝心(かんじん)のところだ。滅多(めった)な事をしては失敗する。まあよそうと、際(きわ)どいところで思い留まりました」

「なんだ、まだ買わないのかい。ヴァイオリン一梃でなかなか人を引っ張るじゃないか」

「引っ張る訳じゃないんですが、どうも、まだ買えないんですから仕方がありません」

「なぜ」

「なぜって、まだ宵(よい)の口で人が大勢通るんですもの」

「構わんじゃないか、人が二百や三百通ったって、君はよっぽど妙な男だ」と主人はぷんぷんしている。

「ただの人なら千が二千でも構いませんがね、学校の生徒が腕まくりをして、大きなステッキを持って徘徊(はいかい)しているんだから容易に手を出せませんよ。中には沈澱党(ちんでんとう)などと号して、いつまでもクラスの底に溜まって喜んでるのがありますからね。そんなのに限って柔道は強いのですよ。滅多(めった)にヴァイオリンなどに手出しは出来ません。どんな目に逢(あ)うかわかりません。私だってヴァイオリンは欲しいに相違ないですけれども、命はこれでも惜しいですからね。ヴァイオリンを弾(ひ)いて殺されるよりも、弾かずに生きてる方が楽ですよ」

「それじゃ、とうとう買わずにやめたんだね」と主人が念を押す。

「いえ、買ったのです」

「じれったい男だな。買うなら早く買うさ。いやならいやでいいから、早くかたをつけたらよさそうなものだ」

「えへへへへ、世の中の事はそう、こっちの思うように埒(らち)があくもんじゃありませんよ」と云いながら寒月君は冷然と「朝日」へ火をつけてふかし出した。

 主人は面倒になったと見えて、ついと立って書斎へ這入(はい)ったと思ったら、何だか古ぼけた洋書を一冊持ち出して来て、ごろりと腹這(はらばい)になって読み始めた。独仙君はいつの間(ま)にやら、床の間の前へ退去して、独(ひと)りで碁石を並べて一人相撲(ひとりずもう)をとっている。せっかくの逸話もあまり長くかかるので聴手が一人減り二人減って、残るは芸術に忠実なる東風君と、長い事にかつて辟易(へきえき)した事のない迷亭先生のみとなる。

 長い煙をふうと世の中へ遠慮なく吹き出した寒月君は、やがて前同様(ぜんどうよう)の速度をもって談話をつづける。

「東風君、僕はその時こう思ったね。とうていこりゃ宵の口は駄目だ、と云って真夜中に来れば金善は寝てしまうからなお駄目だ。何でも学校の生徒が散歩から帰りつくして、そうして金善がまだ寝ない時を見計らって来なければ、せっかくの計画が水泡に帰する。けれどもその時間をうまく見計うのがむずかしい」

「なるほどこりゃむずかしかろう」

「で僕はその時間をまあ十時頃と見積ったね。それで今から十時頃までどこかで暮さなければならない。うちへ帰って出直すのは大変だ。友達のうちへ話しに行くのは何だか気が咎(とが)めるようで面白くなし、仕方がないから相当の時間がくるまで市中を散歩する事にした。ところが平生ならば二時間や三時間はぶらぶらあるいているうちに、いつの間(ま)にか経ってしまうのだがその夜(よ)に限って、時間のたつのが遅いの何のって、――千秋(せんしゅう)の思とはあんな事を云うのだろうと、しみじみ感じました」とさも感じたらしい風をしてわざと迷亭先生の方を向く。

「古人を待つ身につらき置炬燵(おきごたつ)と云われた事があるからね、また待たるる身より待つ身はつらいともあって軒に吊られたヴァイオリンもつらかったろうが、あてのない探偵のようにうろうろ、まごついている君はなおさらつらいだろう。累々(るいるい)として喪家(そうか)の犬のごとし。いや宿のない犬ほど気の毒なものは実際ないよ」

「犬は残酷ですね。犬に比較された事はこれでもまだありませんよ」

「僕は何だか君の話をきくと、昔(むか)しの芸術家の伝を読むような気持がして同情の念に堪(た)えない。犬に比較したのは先生の冗談(じょうだん)だから気に掛けずに話を進行したまえ」と東風君は慰藉(いしゃ)した。慰藉されなくても寒月君は無論話をつづけるつもりである。

「それから徒町(おかちまち)から百騎町(ひゃっきまち)を通って、両替町(りょうがえちょう)から鷹匠町(たかじょうまち)へ出て、県庁の前で枯柳の数を勘定して病院の横で窓の灯(ひ)を計算して、紺屋橋(こんやばし)の上で巻煙草(まきたばこ)を二本ふかして、そうして時計を見た。……」

「十時になったかい」

「惜しい事にならないね。――紺屋橋を渡り切って川添に東へ上(のぼ)って行くと、按摩(あんま)に三人あった。そうして犬がしきりに吠(ほ)えましたよ先生……」

「秋の夜長に川端で犬の遠吠をきくのはちょっと芝居がかりだね。君は落人(おちゅうど)と云う格だ」

「何かわるい事でもしたんですか」

「これからしようと云うところさ」

「可哀相(かわいそう)にヴァイオリンを買うのが悪い事じゃ、音楽学校の生徒はみんな罪人ですよ」

「人が認めない事をすれば、どんないい事をしても罪人さ、だから世の中に罪人ほどあてにならないものはない。耶蘇(ヤソ)もあんな世に生れれば罪人さ。好男子寒月君もそんな所でヴァイオリンを買えば罪人さ」

「それじゃ負けて罪人としておきましょう。罪人はいいですが十時にならないのには弱りました」

「もう一返(ぺん)、町の名を勘定するさ。それで足りなければまた秋の日をかんかんさせるさ。それでもおっつかなければまた甘干しの渋柿を三ダースも食うさ。いつまでも聞くから十時になるまでやりたまえ」

 寒月先生はにやにやと笑った。

「そう先(せん)を越されては降参するよりほかはありません。それじゃ一足飛びに十時にしてしまいましょう。さて御約束の十時になって金善(かねぜん)の前へ来て見ると、夜寒の頃ですから、さすが目貫(めぬき)の両替町(りょうがえちょう)もほとんど人通りが絶えて、向(むこう)からくる下駄の音さえ淋(さみ)しい心持ちです。金善ではもう大戸をたてて、わずかに潜(くぐ)り戸(と)だけを障子(しょうじ)にしています。私は何となく犬に尾(つ)けられたような心持で、障子をあけて這入(はい)るのに少々薄気味がわるかったです……」

 この時主人はきたならしい本からちょっと眼をはずして、「おいもうヴァイオリンを買ったかい」と聞いた。「これから買うところです」と東風君が答えると「まだ買わないのか、実に永いな」と独(ひと)り言(ごと)のように云ってまた本を読み出した。独仙君は無言のまま、白と黒で碁盤を大半埋(うず)めてしまった。

「思い切って飛び込んで、頭巾(ずきん)を被(かぶ)ったままヴァイオリンをくれと云いますと、火鉢の周囲に四五人小僧や若僧がかたまって話をしていたのが驚いて、申し合せたように私の顔を見ました。私は思わず右の手を挙げて頭巾をぐいと前の方に引きました。おいヴァイオリンをくれと二度目に云うと、一番前にいて、私の顔を覗(のぞ)き込むようにしていた小僧がへえと覚束(おぼつか)ない返事をして、立ち上がって例の店先に吊(つ)るしてあったのを三四梃一度に卸(おろ)して来ました。いくらかと聞くと五円二十銭だと云います……」

「おいそんな安いヴァイオリンがあるのかい。おもちゃじゃないか」

「みんな同価(どうね)かと聞くと、へえ、どれでも変りはございません。みんな丈夫に念を入れて拵(こし)らえてございますと云いますから、蝦蟇口(がまぐち)のなかから五円札と銀貨を二十銭出して用意の大風呂敷を出してヴァイオリンを包みました。この間(あいだ)、店のものは話を中止してじっと私の顔を見ています。顔は頭巾でかくしてあるから分る気遣(きづかい)はないのですけれども何だか気がせいて一刻も早く往来へ出たくて堪(たま)りません。ようやくの事風呂敷包を外套(がいとう)の下へ入れて、店を出たら、番頭が声を揃(そろ)えてありがとうと大きな声を出したのにはひやっとしました。往来へ出てちょっと見廻して見ると、幸(さいわい)誰もいないようですが、一丁ばかり向(むこう)から二三人して町内中に響けとばかり詩吟をして来ます。こいつは大変だと金善の角を西へ折れて濠端(ほりばた)を薬王師道(やくおうじみち)へ出て、はんの木村から庚申山(こうしんやま)の裾(すそ)へ出てようやく下宿へ帰りました。下宿へ帰って見たらもう二時十分前でした」

「夜通しあるいていたようなものだね」と東風君が気の毒そうに云うと「やっと上がった。やれやれ長い道中双六(どうちゅうすごろく)だ」と迷亭君はほっと一と息ついた。

「これからが聞きどころですよ。今までは単に序幕です」

「まだあるのかい。こいつは容易な事じゃない。たいていのものは君に逢っちゃ根気負けをするね」

「根気はとにかく、ここでやめちゃ仏作って魂入れずと一般ですから、もう少し話します」

「話すのは無論随意さ。聞く事は聞くよ」

「どうです苦沙弥先生も御聞きになっては。もうヴァイオリンは買ってしまいましたよ。ええ先生」

「こん度はヴァイオリンを売るところかい。売るところなんか聞かなくってもいい」

「まだ売るどこじゃありません」

「そんならなお聞かなくてもいい」

「どうも困るな、東風君、君だけだね、熱心に聞いてくれるのは。少し張合が抜けるがまあ仕方がない、ざっと話してしまおう」

「ざっとでなくてもいいから緩(ゆっ)くり話したまえ。大変面白い」

「ヴァイオリンはようやくの思で手に入れたが、まず第一に困ったのは置き所だね。僕の所へは大分(だいぶ)人が遊びにくるから滅多(めった)な所へぶらさげたり、立て懸けたりするとすぐ露見してしまう。穴を掘って埋めちゃ掘り出すのが面倒だろう」

「そうさ、天井裏へでも隠したかい」と東風君は気楽な事を云う。

「天井はないさ。百姓家(ひゃくしょうや)だもの」

「そりゃ困ったろう。どこへ入れたい」

「どこへ入れたと思う」

「わからないね。戸袋のなかか」

「いいえ」

「夜具にくるんで戸棚へしまったか」

「いいえ」

 東風君と寒月君はヴァイオリンの隠(かく)れ家(が)についてかくのごとく問答をしているうちに、主人と迷亭君も何かしきりに話している。

「こりゃ何と読むのだい」と主人が聞く。

「どれ」

「この二行さ」

「何だって? 〔Quid aliud est mulier nisi amicitiae& inimica〕……こりゃ君羅甸語(ラテンご)じゃないか」

「羅甸語は分ってるが、何と読むのだい」

「だって君は平生羅甸語が読めると云ってるじゃないか」と迷亭君も危険だと見て取って、ちょっと逃げた。

「無論読めるさ。読める事は読めるが、こりゃ何だい」

「読める事は読めるが、こりゃ何だは手ひどいね」

「何でもいいからちょっと英語に訳して見ろ」

「見ろは烈しいね。まるで従卒のようだね」

「従卒でもいいから何だ」

「まあ羅甸語などはあとにして、ちょっと寒月君のご高話を拝聴仕(つかまつ)ろうじゃないか。今大変なところだよ。いよいよ露見するか、しないか危機一髪と云う安宅(あたか)の関(せき)へかかってるんだ。――ねえ寒月君それからどうしたい」と急に乗気になって、またヴァイオリンの仲間入りをする。主人は情(なさ)けなくも取り残された。寒月君はこれに勢を得て隠し所を説明する。

「とうとう古つづらの中へ隠しました。このつづらは国を出る時御祖母(おばあ)さんが餞別にくれたものですが、何でも御祖母さんが嫁にくる時持って来たものだそうです」

「そいつは古物(こぶつ)だね。ヴァイオリンとは少し調和しないようだ。ねえ東風君」

「ええ、ちと調和せんです」

「天井裏だって調和しないじゃないか」と寒月君は東風先生をやり込めた。

「調和はしないが、句にはなるよ、安心し給え。秋淋(あきさび)しつづらにかくすヴァイオリンはどうだい、両君」

「先生今日は大分(だいぶ)俳句が出来ますね」

「今日に限った事じゃない。いつでも腹の中で出来てるのさ。僕の俳句における造詣(ぞうけい)と云ったら、故子規子(こしきし)も舌を捲(ま)いて驚ろいたくらいのものさ」

「先生、子規さんとは御つき合でしたか」と正直な東風君は真率(しんそつ)な質問をかける。

「なにつき合わなくっても始終無線電信で肝胆相照らしていたもんだ」と無茶苦茶を云うので、東風先生あきれて黙ってしまった。寒月君は笑いながらまた進行する。

「それで置き所だけは出来た訳だが、今度は出すのに困った。ただ出すだけなら人目を掠(かす)めて眺(なが)めるくらいはやれん事はないが、眺めたばかりじゃ何にもならない。弾(ひ)かなければ役に立たない。弾けば音が出る。出ればすぐ露見する。ちょうど木槿垣(むくげがき)を一重隔てて南隣りは沈澱組(ちんでんぐみ)の頭領が下宿しているんだから剣呑(けんのん)だあね」

「困るね」と東風君が気の毒そうに調子を合わせる。

「なるほど、こりゃ困る。論より証拠音が出るんだから、小督(こごう)の局(つぼね)も全くこれでしくじったんだからね。これがぬすみ食をするとか、贋札(にせさつ)を造るとか云うなら、まだ始末がいいが、音曲(おんぎょく)は人に隠しちゃ出来ないものだからね」

「音さえ出なければどうでも出来るんですが……」

「ちょっと待った。音さえ出なけりゃと云うが、音が出なくても隠(かく)し了(おお)せないのがあるよ。昔(むか)し僕等が小石川の御寺で自炊をしている時分に鈴木の藤(とう)さんと云う人がいてね、この藤さんが大変味淋(みりん)がすきで、ビールの徳利(とっくり)へ味淋を買って来ては一人で楽しみに飲んでいたのさ。ある日藤(とう)さんが散歩に出たあとで、よせばいいのに苦沙弥君がちょっと盗んで飲んだところが……」

「おれが鈴木の味淋などをのむものか、飲んだのは君だぜ」と主人は突然大きな声を出した。

「おや本を読んでるから大丈夫かと思ったら、やはり聞いてるね。油断の出来ない男だ。耳も八丁、目も八丁とは君の事だ。なるほど云われて見ると僕も飲んだ。僕も飲んだには相違ないが、発覚したのは君の方だよ。――両君まあ聞きたまえ。苦沙弥先生元来酒は飲めないのだよ。ところを人の味淋だと思って一生懸命に飲んだものだから、さあ大変、顔中真赤(まっか)にはれ上ってね。いやもう二目(ふため)とは見られないありさまさ……」

「黙っていろ。羅甸語(ラテンご)も読めない癖に

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