吾輩は猫である

9話 三(3)

1.7万字 約33分 1999年9月21日 公開

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をいったように聞いたね」「なにそんな事はありません」と金田夫人は判然たる直線流の言葉使いをする。「それでも寒月はたしかに○○博士の夫人から聞いたと云っていましたぜ」「それがこっちの手なんでさあ、○○博士の奥さんを頼んで寒月さんの気を引いて見たんでさあね」「○○の奥さんは、それを承知で引き受けたんですか」「ええ。引き受けて貰うたって、ただじゃ出来ませんやね、それやこれやでいろいろ物を使っているんですから」「是非寒月君の事を根堀り葉堀り御聞きにならなくっちゃ御帰りにならないと云う決心ですかね」と迷亭も少し気持を悪くしたと見えて、いつになく手障(てざわ)りのあらい言葉を使う。「いいや君、話したって損の行く事じゃなし、話そうじゃないか苦沙弥君――奥さん、私(わたし)でも苦沙弥でも寒月君に関する事実で差支(さしつか)えのない事は、みんな話しますからね、――そう、順を立ててだんだん聞いて下さると都合がいいですね」

 鼻子はようやく納得(なっとく)してそろそろ質問を呈出する。一時荒立てた言葉使いも迷亭に対してはまたもとのごとく叮嚀になる。「寒月さんも理学士だそうですが、全体どんな事を専門にしているのでございます」「大学院では地球の磁気の研究をやっています」と主人が真面目に答える。不幸にしてその意味が鼻子には分らんものだから「へえー」とは云ったが怪訝(けげん)な顔をしている。「それを勉強すると博士になれましょうか」と聞く。「博士にならなければやれないとおっしゃるんですか」と主人は不愉快そうに尋ねる。「ええ。ただの学士じゃね、いくらでもありますからね」と鼻子は平気で答える。主人は迷亭を見ていよいよいやな顔をする。「博士になるかならんかは僕等も保証する事が出来んから、ほかの事を聞いていただく事にしよう」と迷亭もあまり好い機嫌ではない。「近頃でもその地球の――何かを勉強しているんでございましょうか」「二三日前(にさんちまえ)は首縊りの力学と云う研究の結果を理学協会で演説しました」と主人は何の気も付かずに云う。「おやいやだ、首縊りだなんて、よっぽど変人ですねえ。そんな首縊りや何かやってたんじゃ、とても博士にはなれますまいね」「本人が首を縊(くく)っちゃあむずかしいですが、首縊りの力学なら成れないとも限らんです」「そうでしょうか」と今度は主人の方を見て顔色を窺(うかが)う。悲しい事に力学と云う意味がわからんので落ちつきかねている。しかしこれしきの事を尋ねては金田夫人の面目に関すると思ってか、ただ相手の顔色で八卦(はっけ)を立てて見る。主人の顔は渋い。「そのほかになにか、分り易(やす)いものを勉強しておりますまいか」「そうですな、せんだって団栗のスタビリチーを論じて併せて天体の運行に及ぶと云う論文を書いた事があります」「団栗(どんぐり)なんぞでも大学校で勉強するものでしょうか」「さあ僕も素人(しろうと)だからよく分らんが、何しろ、寒月君がやるくらいなんだから、研究する価値があると見えますな」と迷亭はすまして冷かす。鼻子は学問上の質問は手に合わんと断念したものと見えて、今度は話題を転ずる。「御話は違いますが――この御正月に椎茸(しいたけ)を食べて前歯を二枚折ったそうじゃございませんか」「ええその欠けたところに空也餅(くうやもち)がくっ付いていましてね」と迷亭はこの質問こそ吾縄張内(なわばりうち)だと急に浮かれ出す。「色気のない人じゃございませんか、何だって楊子(ようじ)を使わないんでしょう」「今度逢(あ)ったら注意しておきましょう」と主人がくすくす笑う。「椎茸で歯がかけるくらいじゃ、よほど歯の性(しょう)が悪いと思われますが、如何(いかが)なものでしょう」「善いとは言われますまいな――ねえ迷亭」「善い事はないがちょっと愛嬌(あいきょう)があるよ。あれぎり、まだ填(つ)めないところが妙だ。今だに空也餅引掛所(ひっかけどころ)になってるなあ奇観だぜ」「歯を填める小遣(こづかい)がないので欠けなりにしておくんですか、または物好きで欠けなりにしておくんでしょうか」「何も永く前歯欠成(まえばかけなり)を名乗る訳でもないでしょうから御安心なさいよ」と迷亭の機嫌はだんだん回復してくる。鼻子はまた問題を改める。「何か御宅に手紙かなんぞ当人の書いたものでもございますならちょっと拝見したいもんでございますが」「端書(はがき)なら沢山あります、御覧なさい」と主人は書斎から三四十枚持って来る。「そんなに沢山拝見しないでも――その内の二三枚だけ……」「どれどれ僕が好いのを撰(よ)ってやろう」と迷亭先生は「これなざあ面白いでしょう」と一枚の絵葉書を出す。「おや絵もかくんでございますか、なかなか器用ですね、どれ拝見しましょう」と眺めていたが「あらいやだ、狸(たぬき)だよ。何だって撰りに撰って狸なんぞかくんでしょうね――それでも狸と見えるから不思議だよ」と少し感心する。「その文句を読んで御覧なさい」と主人が笑いながら云う。鼻子は下女が新聞を読むように読み出す。「旧暦の歳(とし)の夜(よ)、山の狸が園遊会をやって盛(さかん)に舞踏します。その歌に曰(いわ)く、来(こ)いさ、としの夜(よ)で、御山婦美(おやまふみ)も来(く)まいぞ。スッポコポンノポン」「何ですこりゃ、人を馬鹿にしているじゃございませんか」と鼻子は不平の体(てい)である。「この天女(てんにょ)は御気に入りませんか」と迷亭がまた一枚出す。見ると天女が羽衣(はごろも)を着て琵琶(びわ)を弾(ひ)いている。「この天女の鼻が少し小さ過ぎるようですが」「何、それが人並ですよ、鼻より文句を読んで御覧なさい」文句にはこうある。「昔(むか)しある所に一人の天文学者がありました。ある夜(よ)いつものように高い台に登って、一心に星を見ていますと、空に美しい天女が現われ、この世では聞かれぬほどの微妙な音楽を奏し出したので、天文学者は身に沁(し)む寒さも忘れて聞き惚(ほ)れてしまいました。朝見るとその天文学者の死骸(しがい)に霜(しも)が真白に降っていました。これは本当の噺(はなし)だと、あのうそつきの爺(じい)やが申しました」「何の事ですこりゃ、意味も何もないじゃありませんか、これでも理学士で通るんですかね。ちっと文芸倶楽部でも読んだらよさそうなものですがねえ」と寒月君さんざんにやられる。迷亭は面白半分に「こりゃどうです」と三枚目を出す。今度は活版で帆懸舟(ほかけぶね)が印刷してあって、例のごとくその下に何か書き散らしてある。「よべの泊(とま)りの十六小女郎(じゅうろくこじょろ)、親がないとて、荒磯(ありそ)の千鳥、さよの寝覚(ねざめ)の千鳥に泣いた、親は船乗り波の底」「うまいのねえ、感心だ事、話せるじゃありませんか」「話せますかな」「ええこれなら三味線に乗りますよ」「三味線に乗りゃ本物だ。こりゃ如何(いかが)です」と迷亭は無暗(むやみ)に出す。「いえ、もうこれだけ拝見すれば、ほかのは沢山で、そんなに野暮(やぼ)でないんだと云う事は分りましたから」と一人で合点している。鼻子はこれで寒月に関する大抵の質問を卒(お)えたものと見えて、「これははなはだ失礼を致しました。どうか私の参った事は寒月さんへは内々に願います」と得手勝手(えてかって)な要求をする。寒月の事は何でも聞かなければならないが、自分の方の事は一切寒月へ知らしてはならないと云う方針と見える。迷亭も主人も「はあ」と気のない返事をすると「いずれその内御礼は致しますから」と念を入れて言いながら立つ。見送りに出た両人(ふたり)が席へ返るや否や迷亭が「ありゃ何だい」と云うと主人も「ありゃ何だい」と双方から同じ問をかける。奥の部屋で細君が怺(こら)え切れなかったと見えてクツクツ笑う声が聞える。迷亭は大きな声を出して「奥さん奥さん、月並の標本が来ましたぜ。月並もあのくらいになるとなかなか振(ふる)っていますなあ。さあ遠慮はいらんから、存分御笑いなさい」

 主人は不満な口気(こうき)で「第一気に喰わん顔だ」と悪(にく)らしそうに云うと、迷亭はすぐ引きうけて「鼻が顔の中央に陣取って乙(おつ)に構えているなあ」とあとを付ける。「しかも曲っていらあ」「少し猫背(ねこぜ)だね。猫背の鼻は、ちと奇抜(きばつ)過ぎる」と面白そうに笑う。「夫(おっと)を剋(こく)する顔だ」と主人はなお口惜(くや)しそうである。「十九世紀で売れ残って、二十世紀で店曝(たなざら)しに逢うと云う相(そう)だ」と迷亭は妙な事ばかり云う。ところへ妻君が奥の間(ま)から出て来て、女だけに「あんまり悪口をおっしゃると、また車屋の神(かみ)さんにいつけられますよ」と注意する。「少しいつける方が薬ですよ、奥さん」「しかし顔の讒訴(ざんそ)などをなさるのは、あまり下等ですわ、誰だって好んであんな鼻を持ってる訳でもありませんから――それに相手が婦人ですからね、あんまり苛(ひど)いわ」と鼻子の鼻を弁護すると、同時に自分の容貌(ようぼう)も間接に弁護しておく。「何ひどいものか、あんなのは婦人じゃない、愚人だ、ねえ迷亭君」「愚人かも知れんが、なかなかえら者だ、大分(だいぶ)引き掻(か)かれたじゃないか」「全体教師を何と心得ているんだろう」「裏の車屋くらいに心得ているのさ。ああ云う人物に尊敬されるには博士になるに限るよ、一体博士になっておかんのが君の不了見(ふりょうけん)さ、ねえ奥さん、そうでしょう」と迷亭は笑いながら細君を顧(かえり)みる。「博士なんて到底駄目ですよ」と主人は細君にまで見離される。「これでも今になるかも知れん、軽蔑(けいべつ)するな。貴様なぞは知るまいが昔(むか)しアイソクラチスと云う人は九十四歳で大著述をした。ソフォクリスが傑作を出して天下を驚かしたのは、ほとんど百歳の高齢だった。シモニジスは八十で妙詩を作った。おれだって……」「馬鹿馬鹿しいわ、あなたのような胃病でそんなに永く生きられるものですか」と細君はちゃんと主人の寿命を予算している。「失敬な、――甘木さんへ行って聞いて見ろ――元来御前がこんな皺苦茶(しわくちゃ)な黒木綿(くろもめん)の羽織や、つぎだらけの着物を着せておくから、あんな女に馬鹿にされるんだ。あしたから迷亭の着ているような奴を着るから出しておけ」「出しておけって、あんな立派な御召(おめし)はござんせんわ。金田の奥さんが迷亭さんに叮嚀になったのは、伯父さんの名前を聞いてからですよ。着物の咎(とが)じゃございません」と細君うまく責任を逃(の)がれる。

 主人は伯父さんと云う言葉を聞いて急に思い出したように「君に伯父があると云う事は、今日始めて聞いた。今までついに噂(うわさ)をした事がないじゃないか、本当にあるのかい」と迷亭に聞く。迷亭は待ってたと云わぬばかりに「うんその伯父さ、その伯父が馬鹿に頑物(がんぶつ)でねえ――やはりその十九世紀から連綿と今日(こんにち)まで生き延びているんだがね」と主人夫婦を半々に見る。「オホホホホホ面白い事ばかりおっしゃって、どこに生きていらっしゃるんです」「静岡に生きてますがね、それがただ生きてるんじゃ無いです。頭にちょん髷(まげ)を頂いて生きてるんだから恐縮しまさあ。帽子を被(かぶ)れってえと、おれはこの年になるが、まだ帽子を被るほど寒さを感じた事はないと威張ってるんです――寒いから、もっと寝(ね)ていらっしゃいと云うと、人間は四時間寝れば充分だ。四時間以上寝るのは贅沢(ぜいたく)の沙汰だって朝暗いうちから起きてくるんです。それでね、おれも睡眠時間を四時間に縮めるには、永年修業をしたもんだ、若いうちはどうしても眠(ねむ)たくていかなんだが、近頃に至って始めて随処任意の庶境(しょきょう)に入(い)ってはなはだ嬉しいと自慢するんです。六十七になって寝られなくなるなあ当り前でさあ。修業も糸瓜(へちま)も入(い)ったものじゃないのに当人は全く克己(こっき)の力で成功したと思ってるんですからね。それで外出する時には、きっと鉄扇(てっせん)をもって出るんですがね」「なににするんだい」「何にするんだか分らない、ただ持って出るんだね。まあステッキの代りくらいに考えてるかも知れんよ。ところがせんだって妙な事がありましてね」と今度は細君の方へ話しかける。「へえー」と細君が差(さ)し合(あい)のない返事をする。「此年(ことし)の春突然手紙を寄こして山高帽子とフロックコートを至急送れと云うんです。ちょっと驚ろいたから、郵便で問い返したところが老人自身が着ると云う返事が来ました。二十三日に静岡で祝捷会(しゅくしょうかい)があるからそれまでに間(ま)に合うように、至急調達しろと云う命令なんです。ところがおかしいのは命令中にこうあるんです。帽子は好い加減な大きさのを買ってくれ、洋服も寸法を見計らって大丸(だいまる)へ注文してくれ……」「近頃は大丸でも洋服を仕立てるのかい」「なあに、先生、白木屋(しろきや)と間違えたんだあね」「寸法を見計ってくれたって無理じゃないか」「そこが伯父の伯父たるところさ」「どうした?」「仕方がないから見計らって送ってやった」「君も乱暴だな。それで間に合ったのかい」「まあ、どうにか、こうにかおっついたんだろう。国の新聞を見たら、当日牧山翁は珍らしくフロックコートにて、例の鉄扇(てっせん)を持ち……」「鉄扇だけは離さなかったと見えるね」「うん死んだら棺の中へ鉄扇だけは入れてやろうと思っているよ」「それでも帽子も洋服も、うまい具合に着られて善かった」「ところが大間違さ。僕も無事に行ってありがたいと思ってると、しばらくして国から小包が届いたから、何か礼でもくれた事と思って開けて見たら例の山高帽子さ、手紙が添えてあってね、せっかく御求め被下候(くだされそうら)えども少々大きく候間(そろあいだ)、帽子屋へ御遣(おつか)わしの上、御縮め被下度候(くだされたくそろ)。縮め賃は小為替(こがわせ)にて此方(こなた)より御送(おんおくり)可申上候(もうしあぐべきそろ)とあるのさ」「なるほど迂濶(うかつ)だな」と主人は己(おの)れより迂濶なものの天下にある事を発見して大(おおい)に満足の体(てい)に見える。やがて「それから、どうした」と聞く。「どうするったって仕方がないから僕が頂戴して被(かぶ)っていらあ」「あの帽子かあ」と主人がにやにや笑う。「その方(かた)が男爵でいらっしゃるんですか」と細君が不思議そうに尋ねる。「誰がです」「その鉄扇の伯父さまが」「なあに漢学者でさあ、若い時聖堂(せいどう)で朱子学(しゅしがく)か、何かにこり固まったものだから、電気灯の下で恭(うやうや)しくちょん髷(まげ)を頂いているんです。仕方がありません」とやたらに顋(あご)を撫(な)で廻す。「それでも君は、さっきの女に牧山男爵と云ったようだぜ」「そうおっしゃいましたよ、私も茶の間で聞いておりました」と細君もこれだけは主人の意見に同意する。「そうでしたかなアハハハハハ」と迷亭は訳(わけ)もなく笑う。「そりゃ嘘(うそ)ですよ。僕に男爵の伯父がありゃ、今頃は局長くらいになっていまさあ」と平気なものである。「何だか変だと思った」と主人は嬉しそうな、心配そうな顔付をする。「あらまあ、よく真面目であんな嘘が付けますねえ。あなたもよっぽど法螺(ほら)が御上手でいらっしゃる事」と細君は非常に感心する。「僕より、あの女の方が上(う)わ手(て)でさあ」「あなただって御負けなさる気遣(きづか)いはありません」「しかし奥さん、僕の法螺は単なる法螺ですよ。あの女のは、みんな魂胆があって、曰(いわ)く付きの嘘ですぜ。たちが悪いです。猿智慧(さるぢえ)から割り出した術数と、天来の滑稽趣味と混同されちゃ、コメディーの神様も活眼の士なきを嘆ぜざるを得ざる訳に立ち至りますからな」主人は俯目(ふしめ)になって「どうだか」と云う。妻君は笑いながら「同じ事ですわ」と云う。

 吾輩は今まで向う横丁へ足を踏み込んだ事はない。角屋敷(かどやしき)の金田とは、どんな構えか見た事は無論ない。聞いた事さえ今が始めてである。主人の家(うち)で実業家が話頭に上(のぼ)った事は一返もないので、主人の飯を食う吾輩までがこの方面には単に無関係なるのみならず、はなはだ冷淡であった。しかるに先刻図(はか)らずも鼻子の訪問を受けて、余所(よそ)ながらその談話を拝聴し、その令嬢の艶美(えんび)を想像し、またその富貴(ふうき)、権勢を思い浮べて見ると、猫ながら安閑として椽側(えんがわ)に寝転んでいられなくなった。しかのみならず吾輩は寒月君に対してはなはだ同情の至りに堪えん。先方では博士の奥さんやら、車屋の神(かみ)さんやら、二絃琴(にげんきん)の天璋院(てんしょういん)まで買収して知らぬ間(ま)に、前歯の欠けたのさえ探偵しているのに、寒月君の方ではただニヤニヤして羽織の紐ばかり気にしているのは、いかに卒業したての理学士にせよ、あまり能がなさ過ぎる。と言って、ああ云う偉大な鼻を顔の中(うち)に安置している女の事だから、滅多(めった)な者では寄り付ける訳の者ではない。こう云う事件に関しては主人はむしろ無頓着でかつあまりに銭(ぜに)がなさ過ぎる。迷亭は銭に不自由はしないが、あんな偶然童子だから、寒月に援(たす)けを与える便宜(べんぎ)は尠(すくな)かろう。して見ると可哀相(かわいそう)なのは首縊りの力学を演説する先生ばかりとなる。吾輩でも奮発して、敵城へ乗り込んでその動静を偵察してやらなくては、あまり不公平である。吾輩は猫だけれど、エピクテタスを読んで机の上へ叩きつけるくらいな学者の家(うち)に寄寓(きぐう)する猫で、世間一般の痴猫(ちびょう)、愚猫(ぐびょう)とは少しく撰(せん)を殊(こと)にしている。この冒険をあえてするくらいの義侠心は固(もと)より尻尾(しっぽ)の先に畳み込んである。何も寒月君に恩になったと云う訳もないが、これはただに個人のためにする血気躁狂(けっきそうきょう)の沙汰ではない。大きく云えば公平を好み中庸を愛する天意を現実にする天晴(あっぱれ)な美挙だ。人の許諾を経(へ)ずして吾妻橋(あずまばし)事件などを至る処に振り廻わす以上は、人の軒下に犬を忍ばして、その報道を得々として逢う人に吹聴(ふいちょう)する以上は、車夫、馬丁(ばてい)、無頼漢(ぶらいかん)、ごろつき書生、日雇婆(ひやといばばあ)、産婆、妖婆(ようば)、按摩(あんま)、頓馬(とんま)に至るまでを使用して国家有用の材に煩(はん)を及ぼして顧(かえり)みざる以上は――猫にも覚悟がある。幸い天気も好い、霜解(しもどけ)は少々閉口するが道のためには一命もすてる。足の裏へ泥が着いて、椽側(えんがわ)へ梅の花の印を押すくらいな事は、ただ御三(おさん)の迷惑にはなるか知れんが、吾輩の苦痛とは申されない。翌日(あす)とも云わずこれから出掛けようと勇猛精進(ゆうもうしょうじん)の大決心を起して台所まで飛んで出たが「待てよ」と考えた。吾輩は猫として進化の極度に達しているのみならず、脳力の発達においてはあえて中学の三年生に劣らざるつもりであるが、悲しいかな咽喉(のど)の構造だけはどこまでも猫なので人間の言語が饒舌(しゃべ)れない。よし首尾よく金田邸へ忍び込んで、充分敵の情勢を見届けたところで、肝心(かんじん)の寒月君に教えてやる訳に行かない。主人にも迷亭先生にも話せない。話せないとすれば土中にある金剛石(ダイヤモンド)の日を受けて光らぬと同じ事で、せっかくの智識も無用の長物となる。これは愚(ぐ)だ、やめようかしらんと上り口で佇(たたず)んで見た。

 しかし一度思い立った事を中途でやめるのは、白雨(ゆうだち)が来るかと待っている時黒雲共(とも)隣国へ通り過ぎたように、何となく残り惜しい。それも非がこっちにあれば格別だが、いわゆる正義のため、人道のためなら、たとい無駄死(むだじに)をやるまでも進むのが、義務を知る男児の本懐であろう。無駄骨を折り、無駄足を汚(よご)すくらいは猫として適当のところである。猫と生れた因果(いんが)で寒月、迷亭、苦沙弥諸先生と三寸の舌頭(ぜっとう)に相互の思想を交換する技倆(ぎりょう)はないが、猫だけに忍びの術は諸先生より達者である。他人の出来ぬ事を成就(じょうじゅ)するのはそれ自身において愉快である。吾(われ)一箇でも、金田の内幕を知るのは、誰も知らぬより愉快である。人に告げられんでも人に知られているなと云う自覚を彼等に与うるだけが愉快である。こんなに愉快が続々出て来ては行かずにはいられない。やはり行く事に致そう。

 向う横町へ来て見ると、聞いた通りの西洋館が角地面(かどじめん)を吾物顔(わがものがお)に占領している。この主人もこの西洋館のごとく傲慢(ごうまん)に構えているんだろうと、門を這入(はい)ってその建築を眺(なが)めて見たがただ人を威圧しようと、二階作りが無意味に突っ立っているほかに何等の能もない構造であった。迷亭のいわゆる月並(つきなみ)とはこれであろうか。玄関を右に見て、植込の中を通り抜けて、勝手口へ廻る。さすがに勝手は広い、苦沙弥先生の台所の十倍はたしかにある。せんだって日本新聞に詳しく書いてあった大隈伯(おおくまはく)の勝手にも劣るまいと思うくらい整然とぴかぴかしている。「模範勝手だな」と這入(はい)り込む。見ると漆喰(しっくい)で叩き上げた二坪ほどの土間に、例の車屋の神(かみ)さんが立ちながら、御飯焚(ごはんた)きと車夫を相手にしきりに何か弁じている。こいつは剣呑(けんのん)だと水桶(みずおけ)の裏へかくれる。「あの教師あ、うちの旦那の名を知らないのかね」と飯焚(めしたき)が云う。「知らねえ事があるもんか、この界隈(かいわい)で金田さんの御屋敷を知らなけりゃ眼も耳もねえ片輪(かたわ)だあな」これは抱え車夫の声である。「なんとも云えないよ。あの教師と来たら、本よりほかに何にも知らない変人なんだからねえ。旦那の事を少しでも知ってりゃ恐れるかも知れないが、駄目だよ、自分の小供の歳(とし)さえ知らないんだもの」と神さんが云う。「金田さんでも恐れねえかな、厄介な唐変木(とうへんぼく)だ。構(かま)あ事(こた)あねえ、みんなで威嚇(おど)かしてやろうじゃねえか」「それが好いよ。奥様の鼻が大き過ぎるの、顔が気に喰わないのって――そりゃあ酷(ひど)い事を云うんだよ。自分の面(つら)あ今戸焼(いまどやき)の狸(たぬき)見たような癖に――あれで一人前(いちにんまえ)だと思っているんだからやれ切れないじゃないか」「顔ばかりじゃない、手拭(てぬぐい)を提(さ)げて湯に行くところからして、いやに高慢ちきじゃないか。自分くらいえらい者は無いつもりでいるんだよ」と苦沙弥先生は飯焚にも大(おおい)に不人望である。「何でも大勢であいつの垣根の傍(そば)へ行って悪口をさんざんいってやるんだね」「そうしたらきっと恐れ入るよ」「しかしこっちの姿を見せちゃあ面白くねえから、声だけ聞かして、勉強の邪魔をした上に、出来るだけじらしてやれって、さっき奥様が言い付けておいでなすったぜ」「そりゃ分っているよ」と神さんは悪口の三分の一を引き受けると云う意味を示す。なるほどこの手合が苦沙弥先生を冷やかしに来るなと三人の横を、そっと通り抜けて奥へ這入る。

 猫の足はあれども無きがごとし、どこを歩いても不器用な音のした試しがない。空を踏むがごとく、雲を行くがごとく、水中に磬(けい)を打つがごとく、洞裏(とうり)に瑟(しつ)を鼓(こ)するがごとく、醍醐(だいご)の妙味を甞(な)めて言詮(ごんせん)のほかに冷暖(れいだん)を自知(じち)するがごとし。月並な西洋館もなく、模範勝手もなく、車屋の神さんも、権助(ごんすけ)も、飯焚も、御嬢さまも、仲働(なかばたら)きも、鼻子夫人も、夫人の旦那様もない。行きたいところへ行って聞きたい話を聞いて、舌を出し尻尾(しっぽ)を掉(ふ)って、髭(ひげ)をぴんと立てて悠々(ゆうゆう)と帰るのみである。ことに吾輩はこの道に掛けては日本一の堪能(かんのう)である。草双紙(くさぞうし)にある猫又(ねこまた)の血脈を受けておりはせぬかと自(みずか)ら疑うくらいである。蟇(がま)の額(ひたい)には夜光(やこう)の明珠(めいしゅ)があると云うが、吾輩の尻尾には神祇釈教(しんぎしゃっきょう)恋無常(こいむじょう)は無論の事、満天下の人間を馬鹿にする一家相伝(いっかそうでん)の妙薬が詰め込んである。金田家の廊下を人の知らぬ間(ま)に横行するくらいは、仁王様が心太(ところてん)を踏み潰(つぶ)すよりも容易である。この時吾輩は我ながら、わが力量に感服して、これも普段大事にする尻尾の御蔭だなと気が付いて見るとただ置かれない。吾輩の尊敬する尻尾大明神を礼拝(らいはい)してニャン運長久を祈らばやと、ちょっと低頭して見たが、どうも少し見当(けんとう)が違うようである。なるべく尻尾の方を見て三拝しなければならん。尻尾の方を見ようと身体を廻すと尻尾も自然と廻る。追付こうと思って首をねじると、尻尾も同じ間隔をとって、先へ馳(か)け出す。なるほど天地玄黄(てんちげんこう)を三寸裏(り)に収めるほどの霊物だけあって、到底吾輩の手に合わない、尻尾を環(めぐ)る事七度(ななた)び半にして草臥(くたび)れたからやめにした。少々眼がくらむ。どこにいるのだかちょっと方角が分らなくなる。構うものかと滅茶苦茶にあるき廻る。障子の裏(うち)で鼻子の声がする。ここだと立ち留まって、左右の耳をはすに切って、息を凝(こ)らす。「貧乏教師の癖に生意気じゃありませんか」と例の金切(かなき)り声(ごえ)を振り立てる。「うん、生意気な奴だ、ちと懲(こ)らしめのためにいじめてやろう。あの学校にゃ国のものもいるからな」「誰がいるの?」「津木(つき)ピン助(すけ)や福地(ふくち)キシャゴがいるから、頼んでからかわしてやろう」吾輩は金田君の生国(しょうごく)は分らんが、妙な名前の人間ばかり揃(そろ)った所だと少々驚いた。金田君はなお語をついで、「あいつは英語の教師かい」と聞く。「はあ、車屋の神さんの話では英語のリードルか何か専門に教えるんだって云います」「どうせ碌(ろく)な教師じゃあるめえ」あるめえにも尠(すく)なからず感心した。「この間ピン助に遇(あ)ったら、私(わたし)の学校にゃ妙な奴がおります。生徒から先生番茶は英語で何と云いますと聞かれて、番茶は Savage tea であると真面目に答えたんで、教員間の物笑いとなっています、どうもあんな教員があるから、ほかのものの、迷惑になって困りますと云ったが、大方(おおかた)あいつの事だぜ」「あいつに極(きま)っていまさあ、そんな事を云いそうな面構(つらがま)えですよ、いやに髭(ひげ)なんか生(は)やして」「怪(け)しからん奴だ」髭を生やして怪しからなければ猫などは一疋だって怪しかりようがない。「それにあの迷亭とか、へべれけとか云う奴は、まあ何てえ、頓狂な跳返(はねっかえ)りなんでしょう、伯父の牧山男爵だなんて、あんな顔に男爵の伯父なんざ、有るはずがないと思ったんですもの」「御前がどこの馬の骨だか分らんものの言う事を真(ま)に受けるのも悪い」「悪いって、あんまり人を馬鹿にし過ぎるじゃありませんか」と大変残念そうである。不思議な事には寒月君の事は一言半句(いちごんはんく)も出ない。吾輩の忍んで来る前に評判記はすんだものか、またはすでに落第と事が極(きま)って念頭にないものか、その辺(へん)は懸念(けねん)もあるが仕方がない。しばらく佇(たたず)んでいると廊下を隔てて向うの座敷でベルの音がする。そらあすこにも何か事がある。後(おく)れぬ先に、とその方角へ歩を向ける。

 来て見ると女が独(ひと)りで何か大声で話している。その声が鼻子とよく似ているところをもって推(お)すと、これが即ち当家の令嬢寒月君をして未遂入水(みすいじゅすい)をあえてせしめたる代物(しろもの)だろう。惜哉(おしいかな)障子越しで玉の御姿(おんすがた)を拝する事が出来ない。従って顔の真中に大きな鼻を祭り込んでいるか、どうだか受合えない。しかし談話の模様から鼻息の荒いところなどを綜合(そうごう)して考えて見ると、満更(まんざら)人の注意を惹(ひ)かぬ獅鼻(ししばな)とも思われない。女はしきりに喋舌(しゃべ)っているが相手の声が少しも聞えないのは、噂(うわさ)にきく電話というものであろう。「御前は大和(やまと)かい。明日(あした)ね、行くんだからね、鶉(うずら)の三を取っておいておくれ、いいかえ――分ったかい――なに分らない? おやいやだ。鶉の三を取るんだよ。――なんだって、――取れない? 取れないはずはない、とるんだよ――へへへへへ御冗談(ごじょうだん)をだって――何が御冗談なんだよ――いやに人をおひゃらかすよ。全体御前は誰だい。長吉(ちょうきち)だ? 長吉なんぞじゃ訳が分らない。お神さんに電話口へ出ろって御云いな――なに? 私(わたく)しで何でも弁じます?――お前は失敬だよ。妾(あた)しを誰だか知ってるのかい。金田だよ。――へへへへへ善く存じておりますだって。ほんとに馬鹿だよこの人あ。――金田だってえばさ。――なに?――毎度御贔屓(ごひいき)にあずかりましてありがとうございます?――何がありがたいんだね。御礼なんか聞きたかあないやね――おやまた笑ってるよ。お前はよっぽど愚物(ぐぶつ)だね。――仰せの通りだって?――あんまり人を馬鹿にすると電話を切ってしまうよ。いいのかい。困らないのかよ――黙ってちゃ分らないじゃないか、何とか御云いなさいな」電話は長吉の方から切ったものか何の返事もないらしい。令嬢は癇癪(かんしゃく)を起してやけにベルをジャラジャラと廻す。足元で狆(ちん)が驚ろいて急に吠え出す。これは迂濶(うかつ)に出来ないと、急に飛び下りて椽(えん)の下へもぐり込む。

 折柄(おりから)廊下を近(ちかづ)く足音がして障子を開ける音がする。誰か来たなと一生懸命に聞いていると「御嬢様、旦那様と奥様が呼んでいらっしゃいます」と小間使らしい声がする。「知らないよ」と令嬢は剣突(けんつく)を食わせる。「ちょっと用があるから嬢(じょう)を呼んで来いとおっしゃいました」「うるさいね、知らないてば」と令嬢は第二の剣突を食わせる。「……水島寒月さんの事で御用があるんだそうでございます」と小間使は気を利(き)かして機嫌を直そうとする。「寒月でも、水月でも知らないんだよ――大嫌いだわ、糸瓜(へちま)が戸迷(とまど)いをしたような顔をして」第三の剣突は、憐れなる寒月君が、留守中に頂戴する。「おや御前いつ束髪(そくはつ)に結(い)ったの」小間使はほっと一息ついて「今日(こんにち)」となるべく単簡(たんかん)な挨拶をする。「生意気だねえ、小間使の癖に」と第四の剣突を別方面から食わす。「そうして新しい半襟(はんえり)を掛けたじゃないか」「へえ、せんだって御嬢様からいただきましたので、結構過ぎて勿体(もったい)ないと思って行李(こうり)の中へしまっておきましたが、今までのがあまり汚(よご)れましたからかけ易(か)えました」「いつ、そんなものを上げた事があるの」「この御正月、白木屋へいらっしゃいまして、御求め遊ばしたので――鶯茶(うぐいすちゃ)へ相撲(すもう)の番附(ばんづけ)を染め出したのでございます。妾(あた)しには地味過ぎていやだから御前に上げようとおっしゃった、あれでございます」「あらいやだ。善く似合うのね。にくらしいわ」「恐れ入ります」「褒(ほ)めたんじゃない。にくらしいんだよ」「へえ」「そんなによく似合うものをなぜだまって貰ったんだい」「へえ」「御前にさえ、そのくらい似合うなら、妾(あた)しにだっておかしい事あないだろうじゃないか」「きっとよく御似合い遊ばします」「似あうのが分ってる癖になぜ黙っているんだい。そうしてすまして掛けているんだよ、人の悪い」剣突(けんつく)は留めどもなく連発される。このさき、事局はどう発展するかと謹聴している時、向うの座敷で「富子や、富子や」と大きな声で金田君が令嬢を呼ぶ。令嬢はやむを得ず「はい」と電話室を出て行く。吾輩より少し大きな狆(ちん)が顔の中心に眼と口を引き集めたような面(かお)をして付いて行く。吾輩は例の忍び足で再び勝手から往来へ出て、急いで主人の家に帰る。探険はまず十二分の成績(せいせき)である。

 帰って見ると、奇麗な家(うち)から急に汚ない所へ移ったので、何だか日当りの善い山の上から薄黒い洞窟(どうくつ)の中へ入(はい)り込んだような心持ちがする。探険中は、ほかの事に気を奪われて部屋の装飾、襖(ふすま)、障子(しょうじ)の具合などには眼も留らなかったが、わが住居(すまい)の下等なるを感ずると同時に彼(か)のいわゆる月並(つきなみ)が恋しくなる。教師よりもやはり実業家がえらいように思われる。吾輩も少し変だと思って、例の尻尾(しっぽ)に伺いを立てて見たら、その通りその通りと尻尾の先から御託宣(ごたくせん)があった。座敷へ這入(はい)って見ると驚いたのは迷亭先生まだ帰らない、巻煙草(まきたばこ)の吸い殻を蜂の巣のごとく火鉢の中へ突き立てて、大胡坐(おおあぐら)で何か話し立てている。いつの間(ま)にか寒月君さえ来ている。主人は手枕をして天井の雨洩(あまもり)を余念もなく眺めている。あいかわらず太平の逸民の会合である。

「寒月君、君の事を譫語(うわごと)にまで言った婦人の名は、当時秘密であったようだが、もう話しても善かろう」と迷亭がからかい出す。「御話しをしても、私だけに関する事なら差支(さしつか)えないんですが、先方の迷惑になる事ですから」「まだ駄目かなあ」「それに○○博士夫人に約束をしてしまったもんですから」「他言をしないと云う約束かね」「ええ」と寒月君は例のごとく羽織の紐(ひも)をひねくる。その紐は売品にあるまじき紫色である。「その紐の色は、ちと天保調(てんぽうちょう)だな」と主人が寝ながら云う。主人は金田事件などには無頓着である。「そうさ、到底(とうてい)日露戦争時代のものではないな。陣笠(じんがさ)に立葵(たちあおい)の紋の付いたぶっ割(さ)き羽織でも着なくっちゃ納まりの付かない紐だ。織田信長が聟入(むこいり)をするとき頭の髪を茶筌(ちゃせん)に結(い)ったと云うがその節用いたのは、たしかそんな紐だよ」と迷亭の文句はあいかわらず長い。「実際これは爺(じじい)が長州征伐の時に用いたのです」と寒月君は真面目である。「もういい加減に博物館へでも献納してはどうだ。首縊りの力学の演者、理学士水島寒月君ともあろうものが、売れ残りの旗本のような出(い)で立(たち)をするのはちと体面に関する訳だから」「御忠告の通りに致してもいいのですが、この紐が大変よく似合うと云ってくれる人もありますので――」「誰だい、そんな趣味のない事を云うのは」と主人は寝返りを打ちながら大きな声を出す。「それは御存じの方なんじゃないんで――」「御存じでなくてもいいや、一体誰だい」「去る女性(にょしょう)なんです」「ハハハハハよほど茶人だなあ、当てて見ようか、やはり隅田川の底から君の名を呼んだ女なんだろう、その羽織を着てもう一返御駄仏(おだぶつ)を極(き)め込んじゃどうだい」と迷亭が横合から飛び出す。「へへへへへもう水底から呼んではおりません。ここから乾(いぬい)の方角にあたる清浄(しょうじょう)な世界で……」「あんまり清浄でもなさそうだ、毒々しい鼻だぜ」「へえ?」と寒月は不審な顔をする。「向う横丁の鼻がさっき押しかけて来たんだよ、ここへ、実に僕等二人は驚いたよ、ねえ苦沙弥君」「うむ」と主人は寝ながら茶を飲む。「鼻って誰の事です」「君の親愛なる久遠(くおん)の女性(にょしょう)の御母堂様だ」「へえー」「金田の妻(さい)という女が君の事を聞きに来たよ」と主人が真面目に説明してやる。驚くか、嬉しがるか、恥ずかしがるかと寒月君の様子を窺(うかが)って見ると別段の事もない。例の通り静かな調子で「どうか私に、あの娘を貰ってくれと云う依頼なんでしょう」と、また紫の紐をひねくる。「ところが大違さ。その御母堂なるものが偉大なる鼻の所有主(ぬし)でね……」迷亭が半(なか)ば言い懸けると、主人が「おい君、僕はさっきから、あの鼻について俳体詩(はいたいし)を考えているんだがね」と木に竹を接(つ)いだような事を云う。隣の室(へや)で妻君がくすくす笑い出す。「随分君も呑気(のんき)だなあ出来たのかい」「少し出来た。第一句がこの顔に鼻祭りと云うのだ」「それから?」「次がこの鼻に神酒供えというのさ」「次の句は?」「まだそれぎりしか出来ておらん」「面白いですな」と寒月君がにやにや笑う。「次へ穴二つ幽かなりと付けちゃどうだ」と迷亭はすぐ出来る。すると寒月が「奥深く毛も見えずはいけますまいか」と各々(おのおの)出鱈目(でたらめ)を並べていると、垣根に近く、往来で「今戸焼(いまどやき)の狸(たぬき)今戸焼の狸」と四五人わいわい云う声がする。主人も迷亭もちょっと驚ろいて表の方を、垣の隙(すき)からすかして見ると「ワハハハハハ」と笑う声がして遠くへ散る足の音がする。「今戸焼の狸というな何だい」と迷亭が不思議そうに主人に聞く。「何だか分らん」と主人が答える。「なかなか振(ふる)っていますな」と寒月君が批評を加える。迷亭は何を思い出したか急に立ち上って「吾輩は年来美学上の見地からこの鼻について研究した事がございますから、その一斑(いっぱん)を披瀝(ひれき)して、御両君の清聴を煩(わずら)わしたいと思います」と演舌の真似をやる。主人はあまりの突然にぼんやりして無言のまま迷亭を見ている。寒月は「是非承(うけたまわ)りたいものです」と小声で云う。「いろいろ調べて見ましたが鼻の起源はどうも確(しか)と分りません。第一の不審は、もしこれを実用上の道具と仮定すれば穴が二つでたくさんである。何もこんなに横風(おうふう)に真中から突き出して見る必用がないのである。ところがどうしてだんだん御覧のごとく斯様(かよう)にせり出して参ったか」と自分の鼻を抓(つま)んで見せる。「あんまりせり出してもおらんじゃないか」と主人は御世辞のないところを云う。「とにかく引っ込んではおりませんからな。ただ二個の孔(あな)が併(なら)んでいる状体と混同なすっては、誤解を生ずるに至るかも計られませんから、予(あらかじ)め御注意をしておきます。――で愚見によりますと鼻の発達は吾々人間が鼻汁(はな)をかむと申す微細なる行為の結果が自然と蓄積してかく著明なる現象を呈出したものでございます」「佯(いつわ)りのない愚見だ」とまた主人が寸評を挿入(そうにゅう)する。「御承知の通り鼻汁(はな)をかむ時は、是非鼻を抓みます、鼻を抓んで、ことにこの局部だけに刺激を与えますと、進化論の大原則によって、この局部はこの刺激に応ずるがため他に比例して不相当な発達を致します。皮も自然堅くなります、肉も次第に硬(かた)くなります。ついに凝(こ)って骨となります」「それは少し――そう自由に肉が骨に一足飛に変化は出来ますまい」と理学士だけあって寒月君が抗議を申し込む。迷亭は何喰わぬ顔で陳(の)べ続ける。「いや御不審はごもっともですが論より証拠この通り骨があるから仕方がありません。すでに骨が出来る。骨は出来ても鼻汁(はな)は出ますな。出ればかまずにはいられません。この作用で骨の左右が削(けず)り取られて細い高い隆起と変化して参ります――実に恐ろしい作用です。点滴(てんてき)の石を穿(うが)つがごとく、賓頭顱(びんずる)の頭が自(おのず)から光明を放つがごとく、不思議薫(ふしぎくん)不思議臭(ふしぎしゅう)の喩(たとえ)のごとく、斯様(かよう)に鼻筋が通って堅くなります」は少し講釈師のようで下品ですから、よしていただきましょう」と寒月君は先日の復讐(ふくしゅう)をやる。「さようしからば顔を洗って出直しましょうかな。――ええ――これから鼻と顔の権衡(けんこう)に一言(いちごん)論及したいと思います。他に関係なく単独に鼻論をやりますと、かの御母堂などはどこへ出しても恥ずかしからぬ鼻――鞍馬山(くらまやま)で展覧会があっても恐らく一等賞だろうと思われるくらいな鼻を所有していらせられますが、悲しいかなあれは眼、口、その他の諸先生と何等の相談もなく出来上った鼻であります。ジュリアス・シーザーの鼻は大したものに相違ございません。しかしシーザーの鼻を鋏(はさみ)でちょん切って、当家の猫の顔へ安置したらどんな者でございましょうか。喩(たと)えにも猫の額(ひたい)と云うくらいな地面へ、英雄の鼻柱が突兀(とっこつ)として聳(そび)えたら、碁盤の上へ奈良の大仏を据(す)え付けたようなもので、少しく比例を失するの極、その美的価値を落す事だろうと思います。御母堂の鼻はシーザーのそれのごとく、正(まさ)しく英姿颯爽(えいしさっそう)たる隆起に相違ございません。しかしその周囲を囲繞(いにょう)する顔面的条件は如何(いかが)な者でありましょう。無論当家の猫のごとく劣等ではない。しかし癲癇病(てんかんや)みの御かめのごとく眉(まゆ)の根に八字を刻んで、細い眼を釣るし上げらるるのは事実であります。諸君、この顔にしてこの鼻ありと嘆ぜざるを得んではありませんか」迷亭の言葉が少し途切れる途端(とたん)、裏の方で「まだ鼻の話しをしているんだよ。何てえ剛突(ごうつ)く張(ばり)だろう」と云う声が聞える。「車屋の神さんだ」と主人が迷亭に教えてやる。迷亭はまたやり初める。「計らざる裏手にあたって、新たに異性の傍聴者のある事を発見したのは演者の深く名誉と思うところであります。ことに宛転(えんてん)たる嬌音(きょうおん)をもって、乾燥なる講筵(こうえん)に一点の艶味(えんみ)を添えられたのは実に望外の幸福であります。なるべく通俗的に引き直して佳人淑女(かじんしゅくじょ)の眷顧(けんこ)に背(そむ)かざらん事を期する訳でありますが、これからは少々力学上の問題に立ち入りますので、勢(いきおい)御婦人方には御分りにくいかも知れません、どうか御辛防(ごしんぼう)を願います」寒月君は力学と云う語を聞いてまたにやにやする。「私の証拠立てようとするのは、この鼻とこの顔は到底調和しない。ツァイシングの黄金律を失していると云う事なんで、それを厳格に力学上の公式から演繹(えんえき)して御覧に入れようと云うのであります。まずHを鼻の高さとします。αは鼻と顔の平面の交叉より生ずる角度であります。Wは無論鼻の重量と御承知下さい。どうです大抵お分りになりましたか。……」「分るものか」と主人が云う。「寒月君はどうだい」「私にもちと分りかねますな」「そりゃ困ったな。苦沙弥(くしゃみ)はとにかく、君は理学士だから分るだろうと思ったのに。この式が演説の首脳なんだからこれを略しては今までやった甲斐(かい)がないのだが――まあ仕方がない。公式は略して結論だけ話そう」「結論があるか」と主人が不思議そうに聞く。「当り前さ結論のない演舌は、デザートのない西洋料理のようなものだ、――いいか両君能(よ)く聞き給え、これからが結論だぜ。――さて以上の公式にウィルヒョウ、ワイスマン諸家の説を参酌して考えて見ますと、先天的形体の遺伝は無論の事許さねばなりません。またこの形体に追陪(ついばい)して起る心意的状況は、たとい後天性は遺伝するものにあらずとの有力なる説あるにも関せず、ある程度までは必然の結果と認めねばなりません。従ってかくのごとく身分に不似合なる鼻の持主の生んだ子には、その鼻にも何か異状がある事と察せられます。寒月君などは、まだ年が御若いから金田令嬢の鼻の構造において特別の異状を認められんかも知れませんが、かかる遺伝は潜伏期の長いものでありますから、いつ何時(なんどき)気候の劇変と共に、急に発達して御母堂のそれのごとく、咄嗟(とっさ)の間(かん)に膨脹(ぼうちょう)するかも知れません、それ故にこの御婚儀は、迷亭の学理的論証によりますと、今の中御断念になった方が安全かと思われます、これには当家の御主人は無論の事、そこに寝ておらるる猫又殿(ねこまたどの)にも御異存は無かろうと存じます」主人はようよう起き返って「そりゃ無論さ。あんなものの娘を誰が貰うものか。寒月君もらっちゃいかんよ」と大変熱心に主張する。吾輩もいささか賛成の意を表するためににゃーにゃーと二声ばかり鳴いて見せる。寒月君は別段騒いだ様子もなく「先生方の御意向がそうなら、私は断念してもいいんですが、もし当人がそれを気にして病気にでもなったら罪ですから――」「ハハハハハ艶罪(えんざい)と云う訳(わけ)だ」主人だけは大(おおい)にむきになって「そんな馬鹿があるものか、あいつの娘なら碌(ろく)な者でないに極(きま)ってらあ。初めて人のうちへ来ておれをやり込めに掛った奴だ。傲慢(ごうまん)な奴だ」と独(ひと)りでぷんぷんする。するとまた垣根のそばで三四人が「ワハハハハハ」と云う声がする。一人が「高慢ちきな唐変木(とうへんぼく)だ」と云うと一人が「もっと大きな家(うち)へ這入(はい)りてえだろう」と云う。また一人が「御気の毒だが、いくら威張ったって蔭弁慶(かげべんけい)だ」と大きな声をする。主人は椽側(えんがわ)へ出て負けないような声で「やかましい、何だわざわざそんな塀(へい)の下へ来て」と怒鳴(どな)る。「ワハハハハハサヴェジ・チーだ、サヴェジ・チーだ」と口々に罵(のの)しる。主人は大(おおい)に逆鱗(げきりん)の体(てい)で突然起(た)ってステッキを持って、往来へ飛び出す。迷亭は手を拍(う)って「面白い、やれやれ」と云う。寒月は羽織の紐を撚(ひね)ってにやにやする。吾輩は主人のあとを付けて垣の崩れから往来へ出て見たら、真中に主人が手持無沙汰にステッキを突いて立っている。人通りは一人もない、ちょっと狐(きつね)に抓(つま)まれた体(てい)である。

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