1話 美少年(1)
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「とく子、お地蔵さまの縁日へ連れてってやろう。早く支度をしな」
美少年が古い乾き切った物干台の上で手を振った。わたしはその声を心待ちに待っていたのではあるが、そう思い取られるのも口惜しいから病室の窓から鼻から上を顔半分のぞかしたまま、ちょっと首をかしげてみせた。なんだかよく聴き取れなかったというしぐさ。すると美少年は案の定、わたしの懸念していた例の暴言癖を出した。
「なんだ、聴えてるくせに、愚図々々してると○ましちまうぞ」
そら来たなとおもって、わたしは耳の附根まで赭くしてすっくと立上り、このうえ、彼に口を利かせないよう急き込んで怒鳴った。
「わかった、わかった。いますぐに行きますってば」
物干台と、病室の窓とは、瓦屋根五つ六つ間を距てていた。斜に硫酸臭い錺職の二階の口が柘榴の茂みからのぞいている。敷居の上で網シャツ一枚の職人たちが将棋をさしていたが少年の方をちょっと顧た。
「は は は は、うまくやってるぜ、時公」
すると美少年はべろんと舌を出してみせた。
わたしは恥しさに心で嘆きながら、急いでお化粧に取りかかった。附添のお祖母さんはいそいそと支度をして呉れる。
病院は眼科専門であった。山の手に家のあるわたしがなぜお祖母さんに連れられてこんな下町の病院へ入院したかというと、それほどわたしの眼は難治のものだった。さし当ってどうということもないのだが、瞳にかかったうすい霞は、根が腺病質の体質から生み出された疾患だけに、しつこく永引いた。東京中の評判の眼科医は一通り診て貰った末、ここの院長が名医だという噂で、二ヶ月まえにこの病院に入院したのであった。おそらく病院の取締が寛やかで患者の扱い方が捌けているのもこの病院を繁昌さす原因の一つであったろう。
山の手から下町へ移って寝起きする少女のわたしにはすべてのものが珍しかった。下町の生活は屋根の生活でもあった。瓦屋根、トタンやブリキ屋根、それ等を海とも花野とも眺め渡しながら、朝夕、見交し合ういくつかの二階の窓、いくつかの物干台に隠見する人間たちは草双紙の中に出て来る人物のように一々、いわくあり気に、しかも手軽るに馴染めそうにも思えた。ましてわたしの病室の窓の、真向きに当る物干台の上にしょっちゅう現れる気さくな少年と、わたしが親しくなれたのになんの手間暇はいらなかった。空地の少い下町では物干台は運動場でもあり庭でもあった。そこの朝顔鉢に少年はよく水をやりに出た。
「あんな綺麗な男の子、見たことはありませんよ。聘んでお酒でも飲ましてやりたいようだねえ」
そういってお祖母さんは少年をとうとう病室へ呼び寄せてしまった。
このお祖母さんは永らくの間、大名屋敷の奥勤めをして、何事にも躾はやかましい方だったから、この少年に対するお祖母さんの仕方はわたしを驚かせた。お祖母さんは奥勤め中たまさかの休みに芝居見物に行き贔屓のこども役者を芝居茶屋へ聘んで纏頭をとらせるのを楽みにしたという話だから、この美しい少年に対しても或はそんなつもりぐらいのとこかも知れない。
少年はわたしの病室へ出入りをするようになってずいぶん横着でわが儘に振舞った。わたしは富家に育った権威振った考えから、なんの下町の貧乏人のむす子が少しの美貌を盾にしたところでと、蔑みもし口惜しがることもあったけれど、お祖母さんは王子に侍く老女のようにただただ少年の機嫌を損ずることを惧れた。そしてわたしを引廻す少年の圧制振りを大満足をもって眺め、それに就て争うわたしの不平さえ、快い噂のように笑みくずれて聞き惚れるのであった。「あれだけ綺麗な子なら何をしたって瑕にはなりませんとも」と。
わたしとて全部気持の悪い相手ではなかった。牡丹桜のような少年の美貌は、傍にいれば眼が放せないほど咲き溢り、共に浮き浮きさせられた。困ったことの一つの彼の暴言癖すら咲き狂った花の賑いと感じられぬこともない。その性に関する悪たれ口なぞ吐きかけられる度びにわたしは顔を赭くしてひやりとする。けれども慣れて来るにつれ、それがわたしの憂鬱を根から掻き交ぜて、うす明るみをさし加える物憎い魅惑を少しずつわたしのこころに覚え込まして来た。彼無くして、病室の暮しは暗く寂しく感じられるようになった。彼にもしこの暴言の棘がなかったら、或はその快さは見ているとき限りの、離れたらすぐ忘れ去るたちの美少年だったかも知れない。
わたしはお祖母さんに病院の玄関を送り出され、いつも待合せる場所になっている鉄道馬車通りの交番の角まで来ると、少年は柳の幹に背を靠らせて待受けていた。
わたしはそれを見付けてもいつもの通り心臆して、すぐ少年の前へは進んで行けない。二三間手前のところで立止ってしまって、身体をくにゃりと曲げ、袂のさきを拾い上げ揉みくしゃにしながら相手の出ようを待っている。わたしは自分ながらどうしてこの少年の前に立つときだけ、こういう月並な少女の振舞いをするのかと訝る。やはり少年のきりょうに、圧されるためかしらん。そして少年がわたしを見付けてつかつか側へ寄って来ると、避けるように身を交し、心にもなく、元来た方向へと逃げ気味に駆け出すのであった。
追い縋った少年はわたしの肩を小突く。
「なんでい、なんでい、こんな野暮な風態をして。これじゃまるで親類へお客さまに行くようじゃないか」
そういいながら彼はわたしの締めている帯の厚板織の乱菊の模様を見入り、この細工の盛り上り方に向って、金目のかかった相当な代ものであると値踏みする小商人のような眼付をした。わたしはその卑しい眼付に嫌気を催しながら、
「でも、お祖母さんが――」
といいさし、彼の視線をはぐらかすように歩き出した。おなかの中では「なんだ、おまえの風態は」といい返している。
少年は小肥りの身体に、変り縞の久留米絣を着ていた。藍鼠の絹紬を角帯に仕立てたものを博多結に結んでいた。中学生の癖に、廉もの揃いで、通人振ろうとおつにひねった風態をしたがる。さもしさが見透いている。
だがこれをすることに加担してこうさしている少年の母親も気が知れないとわたしは思い及ぼして行く。聞けば少年の母親はやはりかなりな美人の俤を残し、むす子の少年のきりょうよしを大の自慢だとは界隈の噂だが、趣味の低い女ではあるまいか。
鉄道馬車の馬の蹄がかつかつの音を立てて通る大通りをしばらく歩いて、二人は左手の横町へ曲る。
窯でやかれた陶器の熱が冷めてゆくほど、釉薬の色はみずみずしく仕上るのに似た夏の夕であった。西の空の薔薇いろが薄れるに従っておお空と街とは真っ青に染め付いてゆく。
濠まで見通せる道の両側の青い街では家々は夕飯をすましてまだ瓦斯燈の瓦斯が来ないままに、人々は店の上り框に腰かけて雑談したり、往来へ出て背のびをしたりしていた。うるさく病む眼の邪魔になって、蝙蝠がおちこち飛び交していた。薬売の定斎屋が、宣伝の薬筥の鐶の鳴りを止めてしずかに帰ってゆく。
少年はわたしに何の合図をせず口も利かず角を曲ったり、みるみる暗くなってくるたそがれの往来を右に左に突き進んで行く。少年の後姿はまるでわたしを連れているのを忘れたかのようである。黙ってもついて来る、美貌によって擒にした奴隷のようにもわたしを思い做しているのであろうか。ても生意気な人。うつ向きながら小走りにあとを追ってゆくわたしの眼の前に、丸い踵が撒き水の乾いた道を雪履で蹴返してゆく。雪履の閃きの薄っぺらさ。
陽はとっぷり暮れた。ランプをつけた家もある。朦朧とした家の中に、人間がうようよしている下町の家の並びをわたしは気味悪くおもい、なるたけ離れまいとして少年を追い駆けるのだが、少年との間はともすれば距りがちとなる。わたしは「時春さん、待ってよ」と小声でいうのであるが、はっきりそう聞取られるのも業腹だという気持があるので、強くも訴えない。
どうか、あの薄情な蹴返し方をして行く少年の踵と、雪履との間に、小石でもはね込み、少年がぐさとそれを踏み付けて、悲鳴をあげたらさぞ腹が癒えることだろう。小石よはね込め、とそんなことを念じながらあとを追ってゆく。
きん かん きん かん――暮れた空で、木の性と金の性とのものをうち鳴す音がした。横町から西仲通りへ出た角である。屋根のついた大きな看板の影に掠められて、避雷針のついている時計台が見上げられた。それはとても大きな塔のようにも見え、また、こましゃくれた雛型のようにも見えた。疑いつつ顧りゆくと、ふとこの辺の様子を横浜の景色らしく思い紛らさしめる魔力をその塔の影は持っていた。少年がよく話の中に出して来る清魂丹の大時計というのはこれなのか。なるほど土蔵造りの店の間口から木薬の匂いもした。すると急にわたしには嫉しい気持が胸の中に膨れ出した。少年がこの木薬やの大時計の話をするときは、きっと芸妓屋町の話をする。芸妓屋町の話には、またきっと、そこで少年がもてるというお雛妓たちの話をするからであった。
瓦斯の来る時刻がして、そこここの店で、一せいに瓦斯の灯が点り出した。まだ灯口に瓦斯の出が細いかして、町全体を魂祭りの宵かのように陰気に照り現すのであったが、それでも、夕闇の行詰った重苦しさの気をかえ一息つかして呉れる。それにつれ相憎とわたしがもっとも嫌っているお雛妓たちの塗り白げた顔に、振り飜す袖袂の姿もちらほら眼につき出した。少年の話によると、いかにこれ等の小さい妖女が少年の心を占めていることだろう。
小さい妖女たちは、わたしたちの歩いて行く道の遥なる方角から、もう少年を見付け
「時ちゃーん、今晩は――」と声を送るものもあり、通り過ぎたあとの横の小路からひょっこり現れ「あら、時ちゃん、もう、お縁日へ行くの」と浴せるものもあった。
それに対して少年は横柄に簡単な返事をするのであるが、この界隈へ入り彼女等の姿が見え出してから少年のわたしに対する態度は俄然変って来た。
少年はわたしを待受けてぴったり肩を寄せて歩き出した。そしてちょいちょい手を出してわたしの帯の結び方のくくまりを直し、たくし上る着もののうしろ襟を引張り下げて呉れたりする。いかにも親し気にわたしの顔のそばへ顔を持ってきて口をきく。時にはいう言葉が何だか判らず、ただ口だけ耳へよせてもぐもぐさせ、役者が舞台で秘密な囁きごとをする芝居の仕種そっくりの真似もした。
わたしはやがて見破った。金目の着物を着たわたしを連れていることをお雛妓たちに見せびらかしているのだ。なお、このことを種に、お雛妓たちの注目や関心を蒐めようとする魂胆ではあるまいか。この分でみると、少年がふだんわたしに喋るお雛妓にもてる話も、どうやら誇張があって、わたしを焦立たせ、自分に牽付けようとする、技術に過ぎないのではあるまいか。わたしの中にある少女の疑ぐりはそこまで探りの手を伸した。
わたしは怒りに燃え、今度慣れ慣れしい素振りを見せて来たときに、上体を斜に後へ退き、上眼遣いに少年の顔をきっと睨めつけてやった。少年はうろたえた眼ざしを眩しそうに瞬かせて
「とく子がそうやると、気嵩な女形俳優が高ぶったときの恰好になるよ。河合武雄だね。僕は好きだね」
わたしの手を執ろうとする。わたしはなんとなく涙ぐんで来て手を引込めさま
「あたしもう帰りたいの――なぜでも」
とくるりとうしろへ振向く。
少年はすっかり周章てた。今は自慢の美貌を擁護する心遣いも失くして、眼口を哀訴の表情に歪み皺め、恥知らずな平身低頭の恰好をして、もっと一しょに交際って遊びに歩るいて欲しいと頼むのであった。
わたしは何もかにも、くしゃくしゃになってしまった絶望の気持から、振捨てる骨折さえ面倒に感じ、もう、どうにでもなるようになれと、今度取りに来た手をその儘にしてやった。少年はその手を推し戴く真似をして
「君より賜いしこの腕、やわか粗末にせらりょうぞ、ちょっとまあ、こう歩ゆびやいのう――」
と芝居のセリフでいい、わたしの手を小脇に掻い込んで引出した。
輝き出した町並の灯を受け往来で行われる少年がわたしに対する道化た所作を見付けて、もう三四人の人だかりがしている。その人々はわたしたちを大道芸人の芸かなんぞのように笑いながら見ている。わたしは恥で死にそうになったを奥歯を噛んで堪える。こういう花柳の巷では、人々のこうしたざれ事はしょっちゅう街上でさえ行われつけているのであろうか。それにしてもこんな蔑まれるさまを人目に晒して平気な少年には、何か感情に不具なところがあるのではあるまいか。
少年はわたしを引いて歩き出しながら
「ほんとに、今夜は一しょに交際っておくれよ。ほんとに今夜こそ、僕は君に聴いて貰い度いことがあるんだよ。とく子」
といったが、わたしは彼が力を籠めていうそのほんとという言葉を信用しない。それと見て取った少年は、あらためて、わたしの手を握り替え
「よう、ね」と力を入れた。
少年の掌はにちゃにちゃ滑っていて、蛞蝓のような触覚がある。気持が悪い。わたしは嘗て少年がわたしの病室で暑さに肌を脱いだとき、彼の顔の鮮かなのに似合わず胸や背中に地図のような斑点が淡く浸み出している気味悪さをさえ想い出し、ぷるぷると身慄いした。病院の看護婦の話では、それはこどもの時から飲みつけた酒毒の現れだそうである。
縁日の夜店は刳りもの工場の煉瓦塀の前から始っていた。そこに乏しい荷を置いた金魚やからだんだん豊富な荷を置いた金魚やまで五六口、店を開いていた。早く寝かしつけるためであろう、もう縁日を一まわりして来て、買って宛がったみやげの紙燈籠を大事そうに肩から差出している子供を背負った男親や、手をひいた子供連れの客が少しばかりその前に引っかかっていた。
羽目板を木目の浮き出るまで洗い上げた砂場という蕎麦やが角にある。隣に芸妓の検番があって、芸妓や箱やの激しい出入口を除けた向うからずらりと雑多な夜店が並び出していた。カンテラの灯に照し出され花模様の屏風を立て並べたように見える。それ等の夜店の列に引較べてうしろの町家の家並は黝ずみ返って見える。
少年は夜店の品なぞは珍らしくもないようだった。不興な気持を賑かさに掻き消され、ともすれば立止って見たがるわたしの手首を少年はぐいぐい引張り先を急いだ。しかし、夜店のうしろの家並の職業に就ては口早にわたしに説明した。印判屋の次が鼈甲や、その次がけいあんと呼ぶ雇人口入業、油やに銅壺や――少年の下町句調で唇から滑らかに出るこれ等の特色ある職業の名を聞くと、少年が察したであろう通りわたくしの好事のこころを充すと同時に、下町の中にいることをしみじみわたしに感じさせた。そしてこういう環境の中で育った少年に、山の手令嬢のわたしに解し難い不思議なものがあるのは無理でないと思うばかりか、今はこの少年を産地の違った湖沼からでも出た珍らしくも美しい魚のように眺めやるのであった。夜店の灯に照し出されて、下町句調で喋る少年の美貌は愛らしさを取戻し、それと人中に手を引かれて行くわたしのこころを浮々と楽しいものにした。これほどの美少年と並んで行くわたしは、顧って行く人々の眼に、野暮で見劣りして映るであろうことの懸念などは薄れ退き、派手な花道を道行姿に扮して行く子供役者の二人ででもあるような晴がましさに興奮した。
縁日の夜店は西仲通より日本橋川河沿いの西河岸の通まで丁字形に並んで出ていた。商い店、事務所、工房――そういう家が押し合うように建て込んでいるこの一区劃の街には縦横に露地があって、露地の入口や、露地の中の両側にもたくさん紋入りの軒燈が掲げ出されている。映った地面さえ浮々と明るかった。三味線の音がおちこちに聞える。
「これ、みんな芸妓屋なの」
わたしはやや皮肉そうに少年に訊いてみた。
「うむ」
少年は意に介しない様子であっさり返事をした。
人も出盛って来たので少年はわたしをはぐらかすまいと手をしきりに引張って人込みの中をすり抜けた。わたしは折角、縁日へ来ながら、急がせられ、来た甲斐の無いのに飽足らず思いながら、それでもわたしは群集の隙から、美しいたけながが滝のように垂れ下っている女小間物の露店や、金筋の角帽を冠った老人が、小さい台附の竹箆で土人形を戴せたボール板を弾き飛ばし、土人形を落さぬよう射飛ばすボール板で標的に当てることをこども等にさせては人寄せする「大学校の先生」という玩具売りの露店などを、ちらりちらりと覗き見て、縁日の印象を帰ったらお祖母さんにいかに上手に話してやろうかとしきりに記憶の中へ貯め込むのに骨を折った。使ったせいか、繃帯を外ずして来た左の眼がしきりに痛み出して涙がぽろぽろ出だした。わたしは袂からハンケチを取出して押えねばならなかった。
少しの労りもなく、それをするわたしを冷然と眺めていた少年は、わたしの眼の手当てが済むか済まぬのにまたぐいぐいわたしを引立て、西河岸へ曲る角からお地蔵さまの近くまで来た。そこまで来ると少年はまたもやわたしに馴々しくして来た。
「そら、道が悪いよ。こっちを歩るきな」
わたしを自分の方へ抱え取った。
「この辺は、魚問屋があるので、無闇に水を往来に撒きゃあがるんだ。泥を着ものに跳ねかえしなさんな」
そういう少年の声音に、また、人に聞けよがしの不純な響が混って来たのをわたしは感ぜずにはいられなかった。すると、そこに並んでいる植木やと植木やの間から頭をいなせな角刈にした顔の長い青年が出て来て怪訝な顔をしていった。
「なんだ。コブ附きか、時公、約束が違うぞ」
少年は、わざと頭を掻く振りに、困った様子を示し
「だって、頼まれちゃったんだ。ひいひいたもれのお姫様に、縁日を見せて呉れって」
わたしは、また嘘の見栄をいう少年の顔をまじまじと見ようとしたが痛む眼を労り、中途でやめた。少年はわたしに向い少しバツの悪い顔をしたが、取繕うように
「これは鼠っぽのおじさんていう綽名の友達さ」
鼠っぽというのは雌鯒のことで、この青年の口附が小さく尖り出している恰好からこの魚に譬えられるとわたしへ愛想のように説明した。
少年はわたしを青年には
「さる山の手のお嬢さん」
と勿体振って紹介したが、この魚問屋の若主人は、まともの挨拶なぞは不勝手の様子を見せ、わたしの女学生風のお叩頭に対し、尊大に「アン」と反り返って返事をし、それからわたしに憚って、わざともつれ紛らかした声を、金歯の閃く筒のような口から出した。
「どうするんだ。折角、親切に、雛っぺえを呼んどいてやったんじゃねえか、あすこに」
といって顎で植木屋の列のうしろを指した。その言葉をわたしはやっぱり聞取れた。
途端に植木屋の間から、出の衣裳らしい盛装のお雛妓が一人現れた。
「鼠っぽのにいさん。わたしもう帰るわよ。だってもうお座敷の時間だわ。叱られちまうわ」
わたしは恐る恐るそのお雛妓を見た。額の広い顎の長い女で、髪は大きな桃割れに結ってるが額口はなんだか毛が薄くなってるように見えた。女の生活にはもう一人前の経験と態度を持ち、少女のままで大人の納りがついてしまったという感じをませた眼鼻立ちに現していた。
彼女は時春の方を偶然見当てたというふうに見やると、少し気まり悪いという声の落し方で
「今晩は」
とだけいったが、すぐ眼を転じて、わたしを頭の尖から爪尖まで邪慳な一瞥で見て取るや、「さよなら」といって、わたしたちの傍は憚るように駆け足ですり抜けた。すぐ姿勢を整え、しゃらこんしゃらこんとお雛妓一流の木履の鈴の踏み鳴し方に人も無げな空気の煽りを私達に残して群集の中に見えなくなった。
呼び返せるつもりで、しきりに「雛っぺえ」を連呼していた鼠っぽのおじさんも、今は力なく少年を顧り
「惚れるほど、わざと白っぱくれということもあるからね――だが、時、おめえも悪いぜ」
といった。
少年はとみると、お雛妓の声を聞付けたときから衣紋をつくろい、わたしを小盾に、なにかの技術を一工夫という様子がありありと見えたが、施す暇もなく呆気なく行かれてしまったのに、張合抜けがしてしまったらしい。その残念さを圧し消すよう、わざと力んだ声でいった。
「へん、女ひでりはしやあしめえし、おいらだって美少年の時春だ。いずれ見返えしてやらあな」
わたしの手を引いて、斜向いの見世物小屋の方へ道を横切って行った。鼠っぽのおじさんは「あとで砂場で逢おうぜ、話があるんだ」と叫んでいた。
わたしはこの少年になにをなされてることやら判らない気がしたが、もうこうなったら少年に対する愛憎の気持の繋りは除れてしまって、ただ鼠があたしをどこまで引いて行くだろう。今度はどんな技術をするだろうと白々した興味を覚えながら
「あのお雛妓さん。ふだんあんたのいうあの御自慢のお雛妓さんなの」
と訊いてみてやった。
少年はすっかり憂鬱になっていて
「あのくらい本心の判らないやつはないんだ。感情を殺すことに慣らされてしまったんだな」
といった。
わたしからみれば、それは少年の他愛もない思い過しであることはすぐ判る。あの女は恋とか愛とかには全然興味をかけない生活にのみかまける素質に生れ附いた女なのだ。少女であれ、同性の洞察力を働かすことによってわたしにはすぐ判る。少年はそれに気付かずに複雑深刻に解している。この少年にはまだお坊っちゃんのお人よしのところがありそうに思える。わたしは少し、慰め手に廻るほどの好意を取戻して来た。
「また、今度ゆっくり逢ったらいいじゃないの、それよか、あたし見世もの珍らしいわ。ね、見せてよ」
そういって、わたしはお祖母さんが懐に入れて呉れた巾着を取出して少年に渡そうとした。少年は「いいよ」とわたしの手を押戻し
「とく子、おいらという人間は一たいどこにしん棒があるんだろう。自分にも判らなくって困っちまう」
やっぱり今夜は君にほんとうのことを聴いて貰う初一念を通すのがいいといって、それを執拗にせがみ出した。