22話 あとがき
読み方を変える
本稿の執筆に当り津村信夫とか立原道造、堀辰雄なぞは、夏の間にいそいそとして書くように予定してあった。津村、立原、堀に往来したのは、おもに、夏の季間が多く、場所は軽井沢の町とか草原の途上であった。研究とか調べ物とか読本とかの複雑な仕事をしたことのない私は、その年代閲歴に各詩人に間違いないよう心得ていたものの、一行書いては一冊の詩集をくりかえして読破することに、経験のない私は酷く頭が混雑していた。けれども、今月は立原道造に会えるし来月は津村信夫にも会えるという愉しさが何時も前方にあって、鏡のように明るい軽井沢の家で私は釈迢空にお目にかかれたし、思いがけなく千家元麿の顔もこの外光の中で見られた。作家という者はその人の事を書いていなければ会えないものだ。書きさえすればその詩人がすぐ物を言い、笑いかけてくれ、十年も考えなかったことが書いている間にうかんで来るものである。結局、私は毎月愉しんで書き進んでゆくことが出来、見付けられなかった沢山の詩を捉えることが出来た。そして作家の友情というものは、最早、本人には知らせることは出来ないにしても、友情の周囲を記述を以ってうるおし、私自身もそれをあたらしく受けとることをお互に嬉しく思った。
連載中の『婦人公論』の私の伝記物を誰が読んでくれるのか、これが心配であった。作家の心配はいつもこの一つの事がらだけである。読まなくとも眼でさわるだけで直ぐその人の気を捉える、という瞬間の魅力をもち続けることは硬質の詩人伝にはあり得ないことだし、詩人伝は用語から高度のよそおいが習慣的に必要であったが、それががらでないし、各詩人の人がらから潜って往って、詩を解くより外に私の方針はなかった。私はそのようにして書き、これに間違いないことを知ったのである。野口米次郎さんの事を書いて私の処女詩集『愛の詩集』をはじめて認めてくだすったことも書きたかったが、その掲載の月がなくて果せなかった。横瀬夜雨という古い詩人で私の勉強詩人だったこの人も、「行く春」の薄田泣菫の詩集にも、ついに触れることが出来なくて仕事は終ったのである。中原中也、宮沢賢治、中川一政の詩にも私は惹かれていたが、その個人の生活が不分明であり起稿は不可能であった。
一人ずつの作家の尨大な生涯の仕事の層には、何等かの形で研究風な文献が一つくらいあった方がよい、私はそれをかねてから希望していたが、いまやっとその時期の成熟が私にも取って置かれていたかと、石上に坐して文学の山川を回顧するものである。僅か取るに足りないような記述に、若し少しでも生気が留まっていたら嬉しい、その生気のみがこの書物のたすけになるからである。