3話 ポラーノの広場(3)
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それからちょうど五日目の火曜日の夕方でした。その日はわたくしは役所で死んだ北極熊を剥製にするかどうかについてひどく仲間と議論をして大へんむしゃくしゃしていましたから、少し気を直すつもりで酒石酸をつめたい水に入れて呑んでいましたら、ずうっと遠くですきとおった口笛が聞えました。その調子はたしかにあのファゼーロの山羊をつれて来たり野原を急いで行ったりする気持そっくりなので、わたくしは思わず、とうとう来たな、とつぶやきました。
やっぱりファゼーロでした。まだわたくしがその酒石酸のコップを呑みほさないうちに、もう顔をまっ赤にして戸口に立っていました。
「わかったよ、とうとう。僕ゆうべ行くみちへすっかり方角のしるしをつけて置いた。地図で見てもわかるんだ。今夜ならもう間違いなくポラーノの広場へ行ける。ミーロはひるのうちから行っていてぼくらを迎えに出る約束なんだ。ぼく行って見て、ほんとうだったら、あしたはもうみんなつれて行くんだ。」
わたくしも釣り込まれて胸を躍らせました。
「そうかい、わたしも行こう。どんななりして行ったらいいかねえ。どんな人が来てるだろうねえ。」
「どんななりでもいいじゃないか。早く行こう。来てる人が誰だか、ぼくもわからないんだ。」
わたくしは大急ぎでネクタイを結んで新らしい夏帽子を被って外へ出ました。わたくしどもがこの前別れたところへ来たころは丁度夕方の青いあかりが、つめくさにぼんやり注いでいて、その葉の爪の痕のやうな紋も、もう見えなくなりかかったときでした。ファゼーロは爪立てをしてしばらくあちこち見まわしていましたが、俄かに向うへ走って行きました。ファゼーロはしばらく経ってぴたりと止まりました。
「あ、こいつだ、そらね。」
見るとそこにはファゼーロが作ったらしく、一本の棒を立ててその上にボール紙で矢の形を作って北西の方を指すようにしてありました。
「さあ、こっちへ行くんだ。向うに小さな樺の木が二本あるだろう。あすこが次の目標なんだよ。暗くならないうちに早く行こう。」ファゼーロはどんどん走り出しました。
ほんとうにそこらではもうつめくさのあかりがつきはじめていました。わたくしはまたファゼーロのあとについて走りました。
「早く行こう、早く行こう、山猫の馬車別当なんかに見付かっちゃうるさいや。」ファゼーロはふりかえって、そんなことを云いながら走りつづけました。
けれどもさっき見た二本の樺の木まではなかなかすぐではありませんでした。
ファゼーロはよく走りました。
わたくしもずいぶん本気に走りました。
やっとそこに着いてファゼーロが立ちどまったときは、あたりはもうすっかり夜になっていて、樺の木もまっ黒にそらにすかし出されていました。
つめくさの花はちょうどその反対に明るく、まるで本当の石英ランプでできているようでした。
そしてよく見ますと、この前の晩みんなで云ったように、一々のあかしは小さな白い蛾のかたちのあかしから出来て、それが実に立派にかがやいて居りました。処々には、せいの高い赤いあかりもりんと灯り、その柄の所には緑いろのしゃんとした葉もついていたのです。ファゼーロはすばやくその樺の木にのぼっていました。そしてしばらく野原の西の方をながめていましたが、いきなりぶらさがってはねておりて来ました。
「次のしるしはもう見えないんだ。けれども広場はちょうどここからまっすぐ西になっている筈だから、あの雲の少し明るいところを目あてにして歩いて行こう。もうそんなに遠くないんだから。」
わたくしどもはまたあるきだしました。俄かにどこからか甲虫の鋼の翅がりいんりいんと空中に張るような音がたくさん聞えてきました。
その音にまじってたしかに別の楽器や人のがやがや云う声が、時々ちらっときこえてまたわからなくなりました。
しばらく行ってファゼーロがいきなり立ちどまって、わたくしの腕をつかみながら、西の野原のはてを指しました。わたくしもそっちをすかして見てよろよろして眼をこすりました。そこには何の木か七八本の木がじぶんのからだからひとりで光でも出すように青くかがやいて、そこらの空もぼんやり明るくなっているのでした。
「ファゼーロかい。」いきなり向うから声がしました。
「ああ、来たよ。やっているかい。」
「やってるよ。とてもにぎやかなんだ。山猫博士も来ているようだぜ。」
「山猫博士?」ファゼーロはぎくっとしたようでした。
「けれどもいっしょに行こう。ポラーノの広場は誰だって見附けた人は行っていいんだから。」
「よし行こう。」ファゼーロははっきり云いました。
わたくしどもはそのあかりをめあてにあるいて行きました。
ミーロもファゼーロも何か大へん心配なようでした。さっぱり物も云わなくなってしまったのです。そうなるとこんどはわたくしが元気がついて来ました。一体昔ばなしの通りのことが本当にあるのだろうか、それとも何かほかのことだろうか、山猫博士がここへ来て何をしているのだろうか。もうどうしても行って見たくてたまらなくなりました。殊にその日はわたくしはまだ俸給の残りを半分以上もっていましたし、もしお金を払わなければならないとしてもファゼーロとミーロにご馳走するぐらい大丈夫だと考えたのです。
「いいよ、こんどはね、わたしについて来るんだよ。山猫博士なんか少しもこわいことはないんだから。」
わたくしはもうまっさきに立ってどんどん急ぎました。甲虫の翅の音はいよいよ高くなり青い木はその一つ一つの枝まではっきり見えて来ました。木の下では白いシャツや黒い影やみんながちらちら行ったり来たりしています。誰かの片手をあげて何か云っているのも見えました。
いよいよ近くなってわたくしは、これこそはもうほんもののポラーノの広場だと思ってしまいました。さっきの青いのは可成大きなはんの木でしたが、その梢からはたくさんのモールが張られてその葉まできらきらひかりながらゆれていました。その上にはいろいろな蝶や蛾が列になってぐるぐるぐるぐる輪をかいていたのです。
うつくしい夏のそらには銀河がいまわたくしどもの来た方からだんだんそっちへまわりかけて、南のまっくろな地平線の上のあたりではぼんやり白く爆発したようになっていました。つめくさのかおりやら何かさまざまの果物のかおり、みんなの笑い声、そのうちにとうとうみんなは組になって踊りだしました。七八人のようではありましたが、たしかにもうほんもののオーケストラが愉快そうなワルツをやりはじめました。一まわり踊りがすむとみんなはばらばらになってコップをとりました。そしてわあわあ叫びながら呑みほしています。その叫びは気のせいか、デストゥパーゴ万歳というようにもきこえました。
「あれが山猫博士だな。」ファゼーロが向うの卓にひとり坐って、がぶがぶ酒を呑んでいる黄いろの縞のシャツと赤皮の上着を着た肩はばのひろい男を指さしました。
誰か六七人コンフェットウや紐を投げましたので、それは雪のように花のようにきらきら光りながらそこらに降りました。
わたくしどもはもう広場の前まで来て立ちどまりました。
ちょうどそのときデストゥパーゴがコップをもって立ちあがりました。
「おいおい給仕、なぜおれには酒を注がんか。」
すると白い服を着た給仕が周章てて走り寄りました。
「はいはい相済みません。坐っておいでだったもんですからつい。」
「坐っておいでになっても立っておいでになっても、我輩は我輩じゃないか。おっとよろしい。諸君は我輩のために乾杯しようというんだな。よしよし、プ、プ、プロージット。」
そこでみんなは呑みほしました。
わたくしは臆してしまって、もう帰ろうかとも思いましたが、さっきファゼーロたちにあんなことを云ったものですから立っていることも遁げることもできませんでした。どうなるかなるようになれと思い切って二人をつれて帽子をとりながら、あかりの中へはいりました。するとみんなは一ぺんにさわぎをやめて怪げんそうな顔つきでわたくしどもを見ました。それからデストゥパーゴの方を見ました。
するとデストゥパーゴはちょっと首をまげて考えました。どうもわたくしのことを見たことはあるが考え出せないという風でした。するとそばへ一人の夏フロックコートを着た男が行って何か耳うちしました。デストゥパーゴは不機嫌そうな一べつをわたくしに与えてから仕方なさそうにうなずきました。
するとやはりフロックを着てテーモが来ていました。そのテーモが柄のついたガラスの杯を三つもって来て、だまってわたくしからミーロ、ファゼーロと渡しました。ファゼーロに渡しながらだまってにらみつけました。ファゼーロはたじたじ後退りしました。給仕がそばからレッテルのない大きな瓶からいままでみんなの呑んでいた酒を注ごうとしました。わたくしはそこで云いました。
「いや、わたしたちはね、酒は呑まないんだから炭酸水でもおくれ。」
「炭酸水はありません。」給仕が云いました。
「それならただの水をおくれ。」わたくしは云いました。
どういうわけかみんなしいんとして穴の明くほどわたくしどものことばかり見ています。わたくしも少し照れてしまいました。
「いや、デストゥパーゴさまは人に水をごちそうはなさいませんよ。」テーモが云いました。
「ごちそうになろうというんでないんです。野原のまんなかで、つめくさのあかりを数えて来たポラーノの広場で、わたくしは渇いて水が呑みたいのです。」
もうゆきがかりで仕方ないと私は思ってはっきり云いました。
「つめくさのあかり、わっはっは。」テーモはわらいだしました。デストゥパーゴもわらいました。みんなもそのあとについてわらいました。
「ポラーノの広場もな、お気の毒だがデストゥパーゴさまのもんだよ。」テーモがしずかに云いました。そのとき山猫博士が云いました。
「よし、よし、まあすきなら水をやっておけ。しかしどうも水を呑むやつらが来るとポラーノの広場も少ししらぱっくれるね。」
「はい。」テーモはおじぎをしてそれからそっとファゼーロに云いました。
「ファゼーロ、何だって出て来たんだ。早く失せろ。帰ったら立てないくらい引っぱたくからそう思え。」ファゼーロはまた後退りしました。
「その子どもは何だ。」デストゥパーゴがききました。
「ロザーロの弟でございます。」テーモがおじぎをして答えました。するとデストゥパーゴは返事をしないで向うを向いてしまいました。そのとき楽隊が何か民謡風のものをやりはじめました。みんなはまた輪になって踊りはじめようとしました。するとデストゥパーゴが、
「おいおい、そいつでなしにあのキャッツホイスカーというやつをやってもらいたいね。」
すると楽隊のセロをもった人が、
「あの曲はいま譜がありませんので。」するとデストゥパーゴは、もうよほど酔っていましたが、
「や、れ、やれ、やれと云ったらやらんか。」と云いました。
楽隊は仕方なくみんな同じ譜で、キャッツホイスカーをやりはじめました。
みんなも仕方なく踊りはじめました。するとデストゥパーゴも踊りだしました。それがみんなといっしょに踊るのではなくて、わざとみんなの邪魔をするようにうごきまわるのです。
みんなは呆れてだんだんやめて、ぐるっとデストゥパーゴのまわりに立ってしまいました。するとデストゥパーゴはたった一人でふざけて踊りはじめました。しまいにはみんなの前を踏むようなかたちをして行ったり、いきなり喧嘩でも吹っかけるときのように、はねあがったり、みんなはそのたんびにざわざわ遁げるようになりました。さっきの夏フロックを着た紳士が心配そうにもみ手をしながら何か云おうとするのですがデストゥパーゴはそれさえおどして引っこませてしまいました。楽隊はしばらくしかたなくやっていましたがとうとう呆れてやめてしまいました。するとデストゥパーゴも労れたように椅子へ坐って、
「おい、注げ。」と云いながらまたつづけざまに二杯ひっかけました。
するとミーロの仲間らしいものが二人で出て来てミーロに云いました。
「おいミーロ、お前もせっかく来たんだから一つうたって聞かして呉んな。」
「みんなさっきから、うたったり踊ったりして、つかれてるんだから。」
ミーロは、
「だめだよ。」と云ってその手をふりはらいましたが、実は、はじめから歌いたくて来たのですから、ことに楽隊の人たちが歌うなら伴奏しようというように身構えしたので、ミーロは顔いろがすっかり薔薇いろになってしまって眼もひかり息もせわしくなってしまいました。
わたくしも思わず、
「やれ、やれ、立派にやるんだ。」と云いました。
するとミーロはとうとう決心したようにいきなり咽喉掻きはだけて、はんの木の下の空箱の上に立ってしまいました。
「何をやりましょう。」セロの人がわらってききました。
「フローゼントリーをやってください。」
「フローゼントリー、譜もないしなあ、古い歌だなあ。」
楽員たちはわらって顔を見合せてしばらく相談していましたが、
「そいじゃね、クラリネットの人しか知ってませんから、クラリネットとね、それから鼓で調子だけとりますから、それでよかったら二節目からついて歌ってください。」
みんなはパチパチ手を叩きました。テーモも首をまげて聞いてやろうというようにしました。楽隊がやりました。ミーロは歌いだしました。
「けさの六時ころ ワルトラワーラの
峠をわたしが 越えようとしたら
朝霧がそのときに ちょうど消えかけて
一本の栗の木は 後光をだしていた
わたしはいただきの 石にこしかけて
朝めしの堅ぱんを かじりはじめたら
その栗の木がにわかに ゆすれだして
降りて来たのは 二疋の電気栗鼠
わたしは急いで……」
「おいおい間違っちゃいかんよ。」山猫博士がいきなりどなりだしました。
「何だって。」ミーロはあっけにとられて云いました。
「今朝ワルトラワーラの峠に電気栗鼠など居た筈はない、それはいたちの間違いだろう。もっとよく考えて歌ってもらいたいね。」
「そんなことどうだっていいんだい。」ミーロは怒って壇を下りました。すると山猫博士が立ちあがりました。
「今度は我輩うたって見せよう。こら楽隊、In the good summer time をやれ。」
楽隊の人たちは何べんもこの節をやったと見えてすぐいっしょにはじめました。山猫博士は案外うまく歌いだしました。
「つめくさの花の 咲く晩に
ポランの広場の 夏まつり
ポランの広場の 夏のまつり
酒を呑まずに 水を呑む
そんなやつらが でかけて来ると
ポランの広場も 朝になる
ポランの広場も 白ぱっくれる。」
ファゼーロは泣きだしそうになってだまってきいていましたが、歌がすむとわたくしがつかまえるひまもなく壇にかけのぼってしまいました。
「ぼくもうたいます。いまのふしです。」
楽隊はまたはじめました。山猫博士は、
「いや、これはめずらしいことになったぞ。」と云いながら又大きなコップで二つばかり引っかけました。
ファゼーロは力いっぱいうたいだしました。
「つめくさの花の かおる夜は
ポランの広場の 夏まつり
ポランの広場の 夏のまつり
酒くせのわるい 山猫が
黄いろのシャツで 出かけてくると
ポランの広場に 雨がふる
ポランの広場に 雨が落ちる。」
デストゥパーゴがもう憤然として立ちあがりました。
「何だ失敬な、決闘をしろ、決闘を。」
わたくしも思わず立ってファゼーロをうしろにかばいました。
「馬鹿を云え、貴さまがさきに悪口を言って置いて。こんな子供に決闘だなんてことがあるもんか。おれが相手になってやろう。」
「へん、貴さまの出る幕じゃない。引っこんでいろ。こいつが我輩、名誉ある県会議員を侮辱した。だから我輩はこいつへ決闘を申し込んだのだ。」
「いや、貴さまがおれの悪口を言ったのだ。おれはきさまに決闘を申し込むのだ、全体きさまはさっきから見ていると、さもきさま一人の野原のように威張り返っている。さあ、ピストルか刀かどっちかを撰べ。」
するとデストゥパーゴはいきなり酒をがぶっと呑みました。
ああファゼーロで大丈夫だ。こいつはよほど弱いんだ。
わたくしは心のなかで、そっとわらいました。
はたしてデストゥパーゴは空っぽな声でどなりだしました。
「黙れっ。きさまは決闘の法式も知らんな。」
「よし。酒を呑まなけぁ物をいえないような、そんな卑怯なやつの相手は子どもでたくさんだ。おいファゼーロしっかりやれ。こんなやつは野原の松毛虫だ。おれがうしろで見ているから、めちゃくちゃにぶん撲ってしまえ。」
「よし、おい、誰かおれの介添人になれ。」
そのときさっきの夏フロックが出てきました。
「まあ、まあ、あんな子供をあんたが相手になさることはありません。今夜は大切の場合なのですから、どうか。」
すると山猫博士はいきなりその男を撲りつけました。
「やかましい。そんなことはわかっている。黙って居れ。おい誰かおれの介添をしろ。テーモ。」
「はい。どうぞ、おゆるしを。あとでわたくしがよく仕置きいたします。」
「やかましい。おい、クローノ、きさまやれ。」
クローノと呼ばれた百姓らしい男が、
「さあ、おいらじゃあね。」と云ってみんなのうしろへ引っ込んでしまいました。
「臆病者、おいポーショ、きさまやれ。」
「おいらあとてもだめだよ。」
デストゥパーゴはいよいよ怒ってしまいました。
「よし介添人などいらない。さあ仕度しろ。」
「きさまも早く仕度しろ。」わたくしはファゼーロに上着をぬがせながら云いました。
「剣でも大砲でもすきなものを持ってこいよ。」
「どっちでもきさまのすきな方にしろ。」どこにそんなものがあるんだい、と思いながらわたくしは云いました。
「よし、おい給仕、剣を二本持ってこい。」
すると給仕が待っていたように云いました。
「こんな野原で剣はございません。ナイフでいけませんか。」
するとデストゥパーゴは安心したようにしながら、
「よし、持ってこい。」と声だけ高く云いました。
「承知しました。」
給仕が食事につかうナイフを二本持って来て、うやうやしくデストゥパーゴにわたしました。まるで芝居だとわたくしは思いました。ところがデストゥパーゴはていねいにこの両方の刃をしらべているのです。それから、
「さあどっちでもいい方をとれ。」といって二本ともファゼーロに渡しました。
ファゼーロはすぐその一本をデストゥパーゴの足もとに投げて返しました。デストゥパーゴは拾いました。
そこでわたくしはまん中に出ました。
「いいか。決闘の法式に従うぞ。組打ちはならんぞ。一、二、三、よし。」
すると何のことはない、デストゥパーゴはそのみじかいナイフを剣のように持って一生けんめいファゼーロの胸をつきながら後退りしましたしファゼーロは短刀をもつように柄をにぎってデストゥパーゴの手首をねらいましたので、三度ばかりぐるぐるまわってからデストゥパーゴはいきなりナイフを落して左の手で右の手くびを押えてしまいました。
「おい、おい、やられたよ。誰か沃度ホルムをもっていないか。過酸化水素はないか。やられた、やられた。」
そしてべったり椅子へ坐ってしまいました。わたくしはわらいました。
「よくいろいろの薬の名前をご存知ですな。だれか水を持ってきてください。」
ところがその水をミーロがもってきました。そして如露でシャーとかけましたのでデストゥパーゴは膝から胸からずぶぬれになって立ちあがりました。
そして工合のわるいのをごまかすように、
「ええと、我輩はこれで失敬する。みんな充分やってくれ給え。」と勢よく云いながら、すばやく野原のなかへ走りました。
するとテーモも夏フロックもそのほか四五人急いであとを追いかけて行ってしまいました。行ってしまうと、にわかにみんなが元気よくなりました。
「やい、ファゼーロ、うまいことをやったなあ。この旦那はいったい誰だい。」
「競馬場に居る人なんだよ。」
「いったい今夜はどういうんですか。」わたくしはやっとたずねました。
「いいや、山猫の野郎、来年の選挙の仕度なんですよ。ただで酒を呑ませるポラーノの広場とはうまく考えたなあ。」
「この春からかわるがわるこうやってみんなを集めて呑ませたんです。」
「その酒もなあ。」
「そいつは云うな。さあ一杯やりませんか。」
「いいえ、わたしどもは呑みません。」
「まあ、おやんなさい。」
わたくしはもうたまらなくいやになりました。
「おい、ファゼーロ行こう。帰ろう。」
わたくしはいきなり野原へ走りだしました。ファゼーロがすぐついて来ました。みんなはあとでまだがやがやがやがや云っていました。新らしく楽隊も鳴りました。誰かの演説する声もきこえました。わたくしたちは二人、モリーオの市の方のぼんやり明るいのを目あてにつめくさのあかりのなかを急ぎました。そのとき青く二十日の月が黒い横雲の上からしずかにのぼってきました。ふりかえってみると、もうあのはんの木もあかりも小さくなって銀河はずうっと西へまわり、さそり座の赤い星がすっかり南へ来ていました。
わたくしどもは間もなくこの前三人で別れたあたりへ着きました。
「きみはテーモのところへ帰るかい。」わたくしはふと気がついて云いました。
「帰るよ。姉さんが居るもの。」ファゼーロは大へんかなしそうなせまった声で云いました。
「うん。だけどいじめられるだろう。」わたくしは云いました。
「ぼくが行かなかったら姉さんがもっといじめられるよ。」ファゼーロはとうとう泣きだしました。
「わたしもいっしょに行こうか。」
「だめだよ。」ファゼーロはまだしばらく泣いていました。
「わたしのうちへ来るかい。」
「だめだよ。」
「そんならどうするの。」
ファゼーロはしばらくだまっていましたが、俄かに勢よくなって云いました。
「いいよ。大丈夫だよ。テーモはぼくをそんなにいじめやしないから。」
わたくしは、それが役人をしているものなどの癖なのです、役所でのあしたの仕事などぼんやり考えながらファゼーロがそういうならよかろうと思ってしまいました。
「そんならいいだろう。何かあったらしらせにおいでよ。」
「うん、ぼくね、ねえさんのことでたのみに行くかもしれない。」
「ああいいとも。」
「じゃ、さよなら。」
ファゼーロはつめくさのなかに黒い影を長く引いて南の方へ行きました。わたくしはふりかえりふりかえり帰って来ました。
うちへはいってみると、机の上には夕方の酒石酸のコップがそのまま置かれて電燈に光り枕時計の針は二時を指していました。
四、警察署