5話 ポラーノの広場(5)
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などでした。
そして八月に入りました。その八月二日の午すぎ、わたくしが支那漢時代の石に刻んだ画の説明をうつらうつら写していましたら、給仕がうしろからいきなりわたくしの首すじを突っついて、
「所長さんが来いって。」といいました。
わたくしはすこしむっとしてふり返りましたら給仕はまた威張って云いました。
「所長さんがすぐ来いって。」
わたくしは返事もしないでだまってみんなの椅子のうしろを通り、例の扉をあけて恭しくはいって行きました。
所長は肥った白い手首にをもたせて扇風機にあたりながら新聞を見ていましたが、わたくしが行くとだるそうにちょっと眼をあげて、それから机の上の紙挾みから一枚の命令書をわたくしによこしました。それには、
「海岸鳥類の卵採集の為に八月三日より二十八日間イーハトーヴォ海岸地方に出張を命ず。」
と書いてありました。わたくしはまるでほくほくしてしまいました。
あのイーハトーヴォの岩礁の多い奇麗な海岸へ行って今ごろありもしない卵をさがせというのはこれは慰労休暇のつもりなのだ。それほどわたくしが所長にもみんなにも働いていると思われていたのか、ありがたいありがたいと心の中で雀躍しました。すると所長は私の顔は少しも見ないで、やっぱり新聞を見ながら、
「会計へまわって見積旅費を受けとるように。」と一言だけ云いました。
わたくしは叮嚀に礼をして室を出ました。それからその辞令をみんなに一人ずつ見せて挨拶してあるき、おしまいに会計に行きましたら、会計の老人はちょっと渋い顔付きはしていましたが、だまってわたくしの印を受け取って大きな紙幣を八枚も渡してくれました。ほかに役所の大きな写真器械や双眼鏡も借りました。うちへ帰ると、わたくしは持っていたレコードをみんな町の古時計屋へ売ってしまいました。そして大きなへりのついたパナマの帽子と卵いろのリンネルの服を買いました。
次の朝わたくしは番小屋にすっかりかぎをおろし、一番の汽車でイーハトーヴォ海岸の一番北のサーモの町に立ちました。その六十里の海岸を町から町へ、岬から岬へ、岩礁から岩礁へ、海藻を押葉にしたり、岩石の標本をとったり、古い洞穴や模型的な地形を写真やスケッチにとったり、そしてそれを次々に荷造りして役所へ送りながら、二十幾日の間にだんだん南へ移って行きました。海岸の人たちはわたくしのような下給の官吏でも大へん珍らしがって、どこへ行っても歓迎してくれました。沖の岩礁へ渡ろうとすると、みんなは船に赤や黄の旗を立てて十六人もかかって櫓をそろえて漕いでくれました。夜にはわたくしの泊った宿の前でかがりをたいて、いろいろな踊りを見せたりしてくれました。たびたびわたくしはもうこれで死んでいいと思いました。けれどもファゼーロ、あの暑い野原のまんなかでいまも毎日はたらいているうつくしいロザーロ、そう考えて見るといまわたくしの眼のまえで一日一ぱいはたらいてつかれたからだを、踊ったりうたったりしている娘たちや若者たち、わたくしは何べんも強く頭をふって、さあ、われわれはやらなければならないぞ、しっかりやるんだぞ、みんなのために、とひとりでこころに誓いました。
そして八月三十日の午ごろ、わたくしは小さな汽船でとなりの県のシオーモの港に着き、そこから汽車でセンダードの市に行きました。三十一日わたくしはそこの理科大学の標本をも見せて貰うように途中から手紙をだしてあったのです。わたくしが写真器と背嚢をたくさんもってセンダードの停車場に下りたのは、ちょうど灯がやっとついた所でした。わたくしは大学のすぐ近くのホテルからの客を迎える自動車へほかの五六人といっしょに乗りました。採って来たたくさんの標本をもってその巨きな建物の間を自動車で走るとき、わたくしはまるで凱旋の将軍のような気がしました。ところがホテルへ着いて見ると、この暑いのに窓がすっかり閉めてあるのです。室へ通されてみると仲々むし暑いので、わたくしは給仕に、
「おい、どうしたんだ。窓をあけたらいいじゃないか。」と云いました。
すると給仕はてかてかの髪をちょっと撫でて、
「はい、誠にお気の毒でございますが、当地方には、毒蛾がひどく発生して居りまして、夕刻からは窓をあけられませんのでございます。只今、扇風機を運んで参ります。」と云ったのでした。
なるほど、そう云って出て行く給仕を見ますと、首にまるで石の環をはめたような厚い繃帯をして、顔もだいぶはれていましたから、きっと、その毒蛾に噛まれたんだと、私は思いました。ところが、間もなく隣りの室で、給仕が客と何か云い争っているようでした。それが仲々長いし烈しいのです。私は暑いやら疲れたやら、すっかりむしゃくしゃしてしまいましたので、今のうち一寸床屋へでも行って来ようと思って室を出ました。そして隣りの室の前を通りかかりましたら、扉が開け放してあって、さっきの給仕がひどく悄気て頭を垂れて立っていました。向うには、髪もひげもまるで灰いろの、肥ったふくろうのようなおじいさんが、安楽椅子にぐったり腰かけて、扇風機にぶうぶう吹かれながら、
「給仕をやっていながら、一通りのホテルの作法も知らんのか。」と頬をふくらして給仕を叱りつけていました。
私は、ははあ扇風機のことだなと思いながら、苦笑いをしてそこを通り過ぎようとしますと、給仕がちょっとこっちを向いて、いかにも申し訳ないというように眼をつぶって見せました。私はそれですっかり気分がよくなったのです。そして、どしどし階段を踏んで、通りに下りました。
なるほど、毒蛾のことがわかって町をあるくと、さっき停車場からホテルへ来る途中、いろいろ変に見えたけしきも、すっかりもっともと思われたのです。人道にはたくさんたき火のあとがありましたし、みんなは繃帯をしたり白いきれで顔を擦ったりしながら歩いていました。また並木のやなぎにいちいち石油ランプがぶらさがっていたのです。私は一軒の床屋に入りました。それは仲々大きな床屋でした。向側の鏡が、九枚も上手に継いであって、店が丁度二倍の広さに見えるようになって居り、糸杉やこめ栂の植木鉢がぞろっとならび、親方らしい隅のところで指図をしている人のほかに職人がみなで六人もいたのです。すぐ上の壁に大きながくがかかって、そこにそのうちの四人の名前が理髪アーティストとして立派にならび、二人は助手として書かれていました。
「お髪はこの通りの型でよろしゅうございますか。」私が鏡の前の白いきれをかけた上等の椅子に坐ったとき、そのうちの一人が私にたずねました。
「ええ。」私はもう明日は帰るイーハトーヴォの野原のことを考えながらぼんやり返事をしました。
するとその人は向うで手のあいているもう二人の人たちを指で招きながら云いました。
「どうだろう。お客さまはこの通りの型でいいと仰っしゃるが、君たちの意見はどうだい。」
二人は私のうしろに来て、しばらくじっと鏡にうつる私の顔を見ていましたが、そのうち一人のアーティストが、白服の腕を組んで答えました。
「さあ、どうかね、お客さまのおが白くて、それに円くて、大へん温和しくいらっしゃるんだから、やはりオールバックよりはネオグリークの方がいいじゃないかなあ。」
「うん。僕もそう思うね。」も一人も同意しました。私の係りのアーティストが、おれもそうおもっていたというようにうなずいて、私に云いました。
「いかがでございます、ただいまのお髪の型よりは、ネオグリークの方がお顔と調和いたしますようでございますが。」
「そうですね、じゃそう願いましょうか。」私も丁寧に云いました。なぜならこの人たちはみんな立派な芸術家だとおもったからです。
さて、私の頭はずんずん奇麗になり、疲れも大へん直りました。これなら、今夜よく寝んで、あしたは大学のあの地下になっている標本室で、向うの助手といちにち暮しても大丈夫だと思って、気持ちよく青い植木鉢や、アーティストの白い指の動くのや、チャキチャキ鳴る鋏の影をながめて居りました。
すると俄かに私の隣りの人が、
「あ、いけない、いけない、押えてくれたまえ。畜生、畜生。」とひどく高い声で叫んだのです。
びっくりして私はそっちを見ました。アーティストたちもみな馳せ集ったのです。その叫んだ人は、それこそはひげを片っ方だけ剃ったままで大へん瘠せては居りましたが、しかしたしかにそれはデストゥパーゴです。わたくしは占めたとおもいました。デストゥパーゴはわたくしなぞ気がつかずに、まだ怖ろしそうに顔をゆがめていました。
「どこへさわりましたのですか。」
さっきの親方のアーティストが麻のモーニングを着て、大きなフラスコを手にしてみんなを押し分けて立っていました。そのうちに二三人のアーティストたちは、押虫網でその小さな黄色な毒蛾をつかまえてしまいました。
「ここだよ、ここだよ。早く。」と云いながら、デストゥパーゴは左の眼の下を指しました。
親方のアーティストは、大急ぎで、フラスコの中の水を綿にしめしてその眼の下をこすりました。
「何だいこの薬は。」デストゥパーゴが叫びました。
「アンモニア二%液。」と親方が落ち着いて答えました。
「アンモニアは効かないって、今朝の新聞にあったじゃないか。」
デストゥパーゴは椅子から立ちあがりました。デストゥパーゴは桃いろのシャツを着ていました。
「どの新聞でご覧です。」親方は一層落ちついて答えました。
「センダート日日新聞だ。」
「それは間違いです。アンモニアの効くことは県の衛生課長も声明しています。」
「あてにならん。」
「そうですか。とにかく、だいぶ腫れて参ったようです。」
親方のアーティストは、少ししゃくにさわったと見えて、プイッとうしろを向いて、フラスコを持ったまま向うへ行ってしまいました。デストゥパーゴは、ぷんぷん怒りだしました。
「失敬じゃないか、あしたは僕は陸軍の獣医官たちと大事な交際があるんだぞ。こんなことになっちゃ、まるで向うの感情を害するばかりだ。きさまの店を訴えるぞ。」と云いながら、ずんずん赤くはれて行く頬を鏡で見ていました。
親方も、むかっ腹を立てて云いました。
「なあに毒蛾なんか、市中到る処に居るんだ。町をあるいてさわられたら市長でも訴えたらよかろうさ。」
デストゥパーゴは、渋々、又椅子に坐って、
「おい、早くあとをやってしまって呉れ。早く。」と云いました。そして、しきりに変な形になって行く顔を気にしながら、残りの半分のひげを剃らせていました。
わたくしも急ぎました。けれどもたしかにわたくしの方が早く済むのです。それでも向うがさきに済んだら、こっちもすぐ立とうと思ってそっと財布をさぐって、大きな銀貨を一枚もって握っていました。ところがどういうわけか、私より私のアーティストがもっと急いで居りました。そしてしきりに時計を見ました。
まるで私の顔などは、三十五秒ぐらいで剃ってしまったのです。
「さあお洗いいたしましょう。」
私はデストゥパーゴに知れないように、手で顔をかくしながら大理石の洗面器の前に立ちました。
アーティストは、つめたい水でシャアシャアと私の頭を洗い時々は指で顔も拭いました。
それから、私は、自分で勝手に顔を洗いました。そして、も一度椅子にこしかけたのです。
その時親方が、
「さあもう一分だぞ。電気のあるうちに大事なところは済ましちまえ。それからアセチレンの仕度はいいか。」
「すっかり出来ています。」小さな白い服の子供が云いました。
「持って来い。持って来い。あかりが消えてからじゃ遅いや。」親方が云いました。
そこでその子供の助手が、アセチレン燈を四つ運び出して、鏡の前にならべ、水を入れて火をつけました。烈しく鳴って、アセチレンは燃えはじめたのです。その時です。あちこちの工場の笛は一斉に鳴り、子供らは叫び、教会やお寺の鐘まで鳴り出して、それから電燈がすっと消えたのです。電燈のかわりのアセチレンで、あたりがすっかり青く変りました。
それから私は、鏡に映っている海の中のような、青い室の黒く透明なガラス戸の向うで、赤い昔の印度を偲ばせるような火が燃されているのを見ました。一人のアーティストが、そこでしきりに薪を入れていたのです。
「今夜は、毒蛾も全滅だな。」誰か向うで云いました。
「さあどうかねえ。」私のとこのアーティストは、私の頭に、金口の瓶から香水をかけながら答えました。
それからアーティストは、私の顔をも一度よく拭って、それから戸口の方をふり向いて、
「ちょっと見て呉れ。」と云いました。アーティストたちは、あるいは戸口に立ち、あるいはたき火のそばまで行って、外の景色をながめていましたが、この時大急ぎでみんな私のうしろに集まりました。そして鏡の中の私の顔を、それはそれは真面目な風で検べてから、
「いいようだね。」と云いました。
私はそこで椅子から立ちました。しっかり握っていて温くなった銀貨を一枚払いました。そしてその大きなガラスの戸口を出て通りに立ちました。デストゥパーゴのあとをつけようとおもったのです。
そこへ立って私は、全く変な気がして、胸の躍るのをやめることができませんでした。それはあのセンダードの市の大きな西洋造りの並んだ通りに、電気が一つもなくて、並木のやなぎには、黄いろの大きなランプがつるされ、みちにはまっ赤な火がならび、そのけむりはやさしい深い夜の空にのぼって、カシオピイアもぐらぐらゆすれ、琴座も朧にまたたいたのです。どうしてもこれは遙かの南国の夏の夜の景色のように思われたのです。私は、店のなにかのぞきながら待っていました。いろいろな羽虫が本当にその火の中に飛んで行くのも私は見ました。向うでもこっちでも繃帯をしたり、きれを顔にあてたりしながら、まちの人たちが火をたいていました。
そのうちに、私は向うの方から、高い鋭い、そして少し変な力のある声が、私の方にやって来るのを聞きました。だんだん近くなりますと、それは頑丈そうな変に小さな腰の曲ったおじいさんで、一枚の板きれの上に四本の鯨油蝋燭をともしたのを両手に捧げてしきりに斯う叫んで来るのでした。
「家の中の燈火を消せい。電燈を消してもほかのあかりを点けちゃなんにもならん。家の中のあかりを消せい。」
あかりをつけている家があると、そのおじいさんはいちいちその戸口に立って叫ぶのでした。
「家の中のあかりを消せい。電燈を消してもほかのあかりをつけちゃなんにもならん。家の中のあかりを消せい。」
その声はガランとした通りに何べんも反響してそれから闇に消えました。
この人はよほどみんなに敬われているようでした。どの人もどの人もみんな丁寧におじぎをしました。おじいさんはいよいよ声をふりしぼって叫んで行くのでした。
「家のなかのあかりを消せい。電燈を消してもほかのあかりをつけちゃなんにもならん。家の中のあかりを消せい。いや、今晩は。」
叫びながら右左の人に挨拶を返して行くのでした。
「あの人は何ですか。」私は火にあたっているアーティストにたずねました。
「撃剣の先生です。」
ところがその撃剣の先生はつかつかと歩いて来ました。
「うちの中のあかりを消せい、電燈を消してもべつのあかりをつけちゃなんにもならん。はやく消せい。おや、今晩は。なるほど、こちらの商売では仕方ないかね。」
「ええ、先生、今晩は、ご苦労さまでございます。」
親方がでてきて挨拶しました。
「いや今晩は、どうもひどい暑気ですね。」
「へい、全く、虫でしめっ切りですからやりきれませんや。」
「そうねえ、いや、さよなら。」撃剣の先生はまただんだん向うへ叫んで行きました。
この声がだんだん遠くなって、どこかの町の角でもまがったらしいとき、この青い海の中のような床屋の店のなかから、とうとうデストゥパーゴが出て来てしばらく往来を見まわしてから、すたすた南の方へあるきだしました。わたくしは後向きになって火の中へ落ちる蛾を見ているふりをしていましたが、すぐあとをつけました。デストゥパーゴは毒蛾にさわられたためにたいへん落ち着かないようすでした。それにどこかよほどしょげていました。わたくしはあとをつけながら、なんだかかあいそうなような気もちになりました。もちろんひとりもデストゥパーゴに挨拶するものもありませんでしたし、またデストゥパーゴはなるべくみんなに眼のつかないように車道との堺の並木のしたの陰影になったところをあるいているのでした。
どうもデストゥパーゴが大びらに陸軍の獣医たちなどと交際するなんて偽らしいとわたくしは思いました。とうとうデストゥパーゴは立ちどまって、しばらくあちこち見まわしてから、大通りから小さな小路にはいりました。わたくしは知らないふりしてぐんぐん歩いて行きました。その小路をはいるとまもなく、一つの前庭のついた小さな門をデストゥパーゴははいって行きました。わたくしはすっかり事情を探ってからデストゥパーゴに会おうか、警察へ行って、イーハトーヴォでさがしているデストゥパーゴだと云って押えてしまってもらおうかと、そのときまで考えていましたが、いまデストゥパーゴの家のなかへはいるのを見るともう前後を忘れて走り寄りました。
「デストゥパーゴさん。しばらくでしたな。」
デストゥパーゴはぎくっとして棒立ちになりましたが、わたくしを見ると遁げもしないでしょんぼりそこへ立ってしまいました。
「ファゼーロをたずねてまいったのですが、どうかお渡しをねがいます。」
デストゥパーゴははげしく両手をふりました。
「それは誤解です、誤解です。あの子どもは、わたくしは知りません。」
「いったいそんならあなたは、なぜこんなところへかくれたのですか。」
デストゥパーゴはまっ青になりました。
「イーハトーヴォの警察ではファゼーロといっしょにあなたをさがしているのです。もうすっかり手配がついています。今夜はどうなってもあなたは捕まります。ファゼーロはどこにいるのです。」わたくしは思わず、うそをついてしまいました。
デストゥパーゴは、毒蛾のためにふくれておかしな格好になった顔でななめにわたくしを見ながら、ぶるぶるふるえて、まるで聞きとれないくらい早口に云いました。
「そんな筈はない、そんな筈はない。名誉にかけて、紳士の名誉にかけて。」
「なぜそんならあなたはこんなところへかくれたのです。」
デストゥパーゴはようやくふるえるのをやめて、しばらく考えていましたが、ようやく少しゆっくり云いました。
「わたくしは警察からは召喚されただけで、それは旅行届を出して代人を出してある筈です。それに就ては署長に充分諒解を得てあります。警察では、わたくしに何の嫌疑もかけていない筈です。」
「それならなぜ旅行届を出したりして遁げたのです。」
デストゥパーゴはやっと落ち着きました。
「いや、おはいりください。詳しくお話しましょう。」
デストゥパーゴはさきに立って小さな玄関の戸を押しました。するとさっきから内側で立って見ていたと見えて一人のおばあさんが出迎えました。
「お茶をあげてくれ。」
デストゥパーゴはすぐ右側の室へはいって行きました。わたくしはもう多分大丈夫だけれども遁げるといけないと思って戸口に立っていました。デストゥパーゴは何か瓶をかちかち鳴らしてから白いきれで顔を押えながら出て来ました。
「さあ、どうぞこちらへ。」
わたくしは応接室に通されました。デストゥパーゴはようやく落ち着きました。
「わたくしがここへ人を避けて来ているのは全くちがった事情です。じつはあなたもご承知でしょうが、あの林の中でわたくしが社長になって木材乾溜の会社をたてたのです。ところがそれがこの頃の薬品の価格の変動でだんだん欠損になって、どうにもしかたなくなったのです。わたくしはいろいろやって見ましたがどうしてもいけなかったのです。もちろんあの事業にはわたくしの全財産も賭してあります。すると重役会で、ある重役がそれをあのまま醸造所にしようということを発議しました。そこでわたくしどもも賛成して試験的にごくわずか造って見たのですが、それを税務署へ届け出なかったのです。ところがそれをだしにして、わたくしのある部下のものがわたくしを脅迫しました。あの晩はじつに六ヵしい場合でした。あすこに来ていたのはみんな株主でした。わざとあすこをえらんだのです。ところが株主の反感は非常だったのです。わたくしももうやけくそになって、ああいう風に酔っていたのです。そこへあなたが出て来たのですからなあ。」
わたくしははじめてあの頃のことがはっきりして来ました。それといっしょに眼の前にいるデストゥパーゴがかあいそうにもなりました。
「いや、わかりました。けれども、ああ、ファゼーロはどうしたろうなあ。」
デストゥパーゴが云いました。
「わたくしはあの子どもを憎んで居りません。わたくしに前のようないい条件があれば世話して学校にさえ入れたいのです。けれどもあの子どもはきっとどこかで何かしていますぞ。警察でもそう見ています。」
わたくしはいきなり立ってデストゥパーゴに別れを告げました。
「ではわたくしは帰ります。あなたはここをどうかお立ち退きください。わたくしは帰ってこの事情を云わないわけにも参りませんから。」
デストゥパーゴはしょんぼりとして云いました。
「いまわたくしは全く収入のみちもないのです。どうか諒解してください。」
わたくしは礼をしました。
「ロザーロは変りありませんか。」デストゥパーゴが大へん早口に云いました。
「ええ、働いているようです。」わたくしもなぜか、ふだんとちがった声で云いました。
六、風と草穂