6話 (六)
読み方を変える
詩は古典的でなければならぬとは思はぬけれども、現代の日常語は詩語としては余りに蕪雑である、混乱してゐる、洗練されてゐない。といふ議論があつた。これは比較的有力な議論であつた。然し此議論には、詩其物を高価なる装飾品の如く、詩人を普通人以上若くは以外の如く考へ、又は取扱はうとする根本の誤謬が潜んでゐる。同時に、「現代の日本人の感情は、詩とするには余りに蕪雑である、混乱してゐる、洗練されてゐない。」といふ自滅的の論理を含んでゐる。
新らしい詩に対する比較的真面目な批評は、主として其用語と形式とについてゞあつた。然らずんば不謹慎な冷笑であつた。唯其等現代語の詩に不満足な人達に通じて、有力な反対の理由としたものが一つある。それは口語詩の内容が貧弱であるといふ事であつた。
然しその事は最早彼此いふべき時期を過ぎた。
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兎にも角にも、明治四十年代以後の詩は、明治四十年代以後の言葉で書かれねばならぬといふ事は、詩語としての適不適、表白の便不便の問題ではなくて、新らしい詩の精神、即ち時代の精神の必然の要求であつた。私は最近数年間の自然主義の運動を、明治の日本人が四十年間の生活から編み出した最初の哲学の萌芽であると思ふ。さうしてそれが凡ての方面に実行を伴つてゐた事を多とする。哲学の実行といふ以外に我々の生存には意義がない。詩が其時代の言語を採用したといふ事も、其尊い実行の一部であつたと私は見る。
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無論、用語の問題は詩の革命の全体ではない。
そんなら(一)将来の詩はどういふものでなければならぬか。(二)現在の諸詩人の作に私は満足するか。(三)抑も詩人とは何ぞ。
便宜上私は、先づ第三の問題に就いて言はうと思ふ。最も手取早く言へば私は詩人といふ特殊なる人間の存在を否定する。詩を書く人を他の人が詩人と呼ぶのは差支ないが、其当人が自分は詩人であると思つては可けない、可けないと言つては妥当を欠くかも知れないが、さう思ふ事によつて其人の書く詩は堕落する……我々に不必要なものになる。詩人たる資格は三つある。詩人は先第一に「人」でなければならぬ。第二に「人」でなければならぬ。第三に「人」でなければならぬ。さうして実に普通人の有つてゐる凡ての物を有つてゐるところの人でなければならぬ。
言ひ方が大分混乱したが、一括すれば、今迄の詩人のやうに直接詩と関係のない事物に対しては、興味も熱心も希望も有つてゐない――餓ゑたる犬の食を求むる如くに唯々詩を求め探してゐる詩人は極力排斥すべきである。意志薄弱なる空想家、自己及び自己の生活を厳粛なる理性の判断から回避してゐる卑怯者、劣敗者の心を筆にし口にして僅かに慰めてゐる臆病者、暇ある時に玩具を弄ぶやうな心を以て詩を書き且つ読む所謂愛詩家、及び自己の神経組織の不健全な事を心に誇る偽患者、乃至は其等の模倣者等、すべて詩の為に詩を書く種類の詩人は極力排斥すべきである。無論詩を書くといふ事は何人にあつても「天職」であるべき理由がない。「我は詩人なり」といふ不必要な自覚が、如何に従来の詩を堕落せしめたか。「我は文学者なり」といふ不必要なる自覚が、如何に現在に於て現在の文学を我々の必要から遠ざからしめつゝあるか。
即ち真の詩人とは、自己を改善し、自己の哲学を実行せんとするに政治家の如き勇気を有し、自己の生活を統一するに実業家の如き熱心を有し、さうして常に科学者の如き明敏なる判断と野蛮人の如き卒直なる態度を以て、自己の心に起り来る時々刻々の変化を、飾らず偽らず、極めて平気に正直に記載し報告するところの人でなければならぬ。