14話 下巻 第十四回
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この時文角は、捕へし襟頭少し弛めつ、されども聊か油断せず。「いふ事あらば疾くいへかし。この期に及びわれ曹を欺き、間隙を狙ふて逃げんとするも、やはかその計に乗るべきぞ」ト、いへば聴水頭を打ちふり、「その猜疑は理なれど、僕すでに罪を悔い、心を翻へせしからは、などて卑怯なる挙動をせんや。さるにても黄金ぬしは、怎麼にしてかく恙なきぞ」ト。訝り問へば冷笑ひて、「われ実に爾に誑られて、去る日人間の家に踏み込み、太く打擲されし上に、裏の槐の樹に繋がれて、明けなば皮も剥れんずるを、この鷲郎に救ひ出され、危急き命は辛く拾ひつ。その時足を挫かれて、霎時は歩行もならざりしが。これさへ朱目の翁が薬に、かく以前の身になりにしぞ」ト、足踏して見すれば。聴水は皆まで聞かず、「いやとよ、和殿が彼時人間に打たれて、足を傷られたまひし事は、僕私かに探り知れど。僕がいふはその事ならず。――さても和殿に追はれし日より、わが身仇敵と附狙はれては、何時また怎麼なる事ありて、われ遂に討たれんも知れず。とかく和殿を亡き者にせでは、わが胸到底安からじト、左様右様思ひめぐらし。機会を窺ふとも知らず、和殿は昨日彼の痍のために、朱目の翁を訪れたまふこと、私かに聞きて打ち喜び。直ちにわが腹心の友なる、黒衣と申す猿に頼みて、途中に和殿を射させしに、見事仕止めつと聞きつるが。……さては彼奴に欺かれしか」ト。いへば黄金丸呵々と打ち笑ひ、「それにてわれも会得したり。いまだ鷲郎にも語らざりしが。昨日朱目が許より帰途、森の木陰を通りしに、われを狙ふて矢を放つものあり。畢竟村童們が悪戯ならんと、その矢を嘴に咬ひ止めつつ、矢の来し方を打見やれば。こは人間と思ひのほか、大なる猿なりければ。憎き奴めと睨まへしに、そのまま這奴は逃げ失せぬ。されどもわれ彼の猿に、意恨を受くべき覚なければ、何故かかる事を作すにやト、更に心に落ちざりしに、今爾が言葉によりて、他が狼藉の所以も知りぬ。然るに他今日もまた、同じ処に忍びゐて。われを射んとしたりしかど。此度もその矢われには当らず、肩の辺をかすらして、後の木根に立ちしのみ」ト。聞くに聴水は歯を咬切り、「口惜しや腹立ちや。聴水ともいはれし古狐が、黒衣ごとき山猿に、阿容々々欺かれし悔しさよ。かかることもあらんかと、覚束なく思へばこそ、昨夕他が棲を訪づれて、首尾怎麼なりしと尋ねしなれ。さるに他事もなげに、見事仕止めて帰りぬト、語るをわれも信ぜしが。今はた思へば彼時に、躯は人間に取られしなどと、いひくろめしも虚誕の、尾を見せじと思へばなるべし。かくて他われを欺きしも、もしこの後和殿に逢ふことあらば、事発覚れんと思ひしより、再び今日も森に忍びて、和殿を射んとはしたりしならん。それにて思ひ合すれば、さきに藪陰にて他に逢ひし時、太く物に畏ぢたる様子なりしが、これも黄金ぬしに追はれし故なるべし。さりとは露ほども心付かざりしこそ、返す返すも不覚なれ。……ああ、これも皆聴水が、悪事の報なりと思へば、他を恨みん由あらねど。這奴なかりせば今宵もかく、罠目の恥辱はうけまじきに」ト、悔の八千度百千度、眼を釣りあげて悶えしが。ややありて胸押し鎮め、「ああ悔いても及ぶことかは。とてもかくても捨る命の、ただこの上は文角ぬしの、言葉にまかせて金眸が、洞の様子を語り申さん。――そもかの金眸大王が洞は、麓を去ること二里あまり、山を越え谷を渉ること、その数幾つといふことを知らねど。もし間道より登る時は、僅十町ばかりにして、その洞口に達しつべし。さてまた大王が配下には、鯀化(羆)黒面(猪)を初めとして、猛き獣們なきにあらねど。そは皆各所の山に分れて、己が持場を守りたれば、常には洞の辺にあらずただ僕とかの黒衣のみ、旦暮大王の傍に侍りて、他が機嫌を取ものから。このほど大王何処よりか、照射といへる女鹿を連れ給ひ、そが容色に溺れたまへば、われ曹が寵は日々に剥がれて、私かに恨めしく思ひしなり。かくて僕去る日、黄金ぬしに追れしより、かの月丸が遺児、僕及び大王を、仇敵と狙ふ由なりと、金眸に告げしかば。他れもまた少しく恐れて、件の鯀化、黒面などを呼びよせ、洞ちかく守護さしつつ、自身も佻々しく他出したまはざりしが。これさへ昨日黒衣めが、和殿を打ちしと聞き給ひ、喜ぶこと斜ならず、忽ち守護を解かしめつ。今宵は黄金丸を亡き者にせし祝なりとて、盛に酒宴を張らせたまひ。僕もその席に侍りて、先のほどまで酒酌みしが、独り早く退り出つ、その帰途にかかる状態、思へば死神の誘ひしならん」ト。いふに黄金丸は立上りて、彼方の山を佶と睨めつ、「さては今宵彼の洞にて、金眸はじめ配下の獣們、酒宴なして戯れゐるとや。時節到来今宵こそ。宿願成就する時なれ。阿那喜ばしやうれしや」ト、天に喜び地に喜び、さながら物に狂へる如し。聴水はなほ語を続ぎて、「実に今宵こそ屈竟なれ。さきに僕退出し時は、大王は照射が膝を枕として、前後も知らず酔臥したまひ。その傍には黒衣めが、興に乗じて躍りゐしのみ、余の獣們は腹を満たして、各自棲居に帰りしかば、洞には絶えて守護なし。これより彼処へ向ひたまはば、かの間道より登たまへ。少しは路の嶮岨けれど、幸ひ今宵は月冴えたれば、辿るに迷ふことはあらじ。その間道は……あれ臠はせ、彼処に見ゆる一叢の、杉の森の小陰より、小川を渡りて東へ行くなり。さてまた洞は岩畳み、鬼蔦あまた匐ひつきたれど、辺りに榎の大樹あれば、そを目印に討入りたまへ」ト、残る隈なく教ふるにぞ。鷲郎聞きて感嘆なし、「げにや悪に強きものは、また善にも強しといふ。爾今前非を悔いて、吾曹がために討入りの、計策を教ふること忠なり。さればわれその厚意に愛で、おつつけ彼の黒衣とやらんを討て、爾がために恨を雪がん。心安く成仏せよ」「こは有難き御命かな。かくては思ひ置くこともなし、疾くわが咽喉を噬みたまへ」ト。覚悟極むればなかなかに、些も騒がぬ狐が本性。天晴なりと称へつつ、黄金丸は牙を反らし、やがて咽喉をぞ噬み切りける。