15話 下巻 第十五回
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黄金丸はまづ聴水を噬みころして、喜ぶこと限りなく、勇気日頃に十倍して、直ちに洞へむかはんと、連忙しく用意をなし。文角鷲郎もろともに、彼の聴水が教へし路を、ひたすら急ぎ往くほどに、やがて山の峡間に出でしが、これより路次第に嶮岨く。荊棘いやが上に生ひ茂りて、折々行方を遮り。松柏月を掩ひては、暗きこといはんかたなく、動もすれば岩に足をとられて、千仞の渓に落ちんとす。鷲郎は原来猟犬にて、かかる路には慣れたれば、「われ東道せん」とて先に立ち、なほ路を急ぎけるほどに、とかくして只ある尾上に出でしが。此処はただ草のみ生ひて、樹は稀なれば月光に、路の便もいと易かり。かかる処に路傍の叢より、つと走り出でて、鷲郎が前を横切るものあり。「這伏勢ござんなれ」ト、身構へしつつ佶と見れば、いと大なる黒猿の、面蘇枋に髣髴たるが、酒に酔ひたる人間の如く、《よろめ》きよろめき彼方に行きて、太き松の幹にすがりつ、攀登らんとあせれども、怎麼にしけん登り得ず。幾度かすべり落ちては、また登りつかんとするに。鷲郎は見返りて、黄金丸に打向ひ、「怎麼に黄金丸、彼処を見ずや。松の幹に攀らんとして、頻りにあせる一匹の猿あり。もし彼の黒衣にてはあらぬか」ト、指し示せば黄金丸は眺めやりて、「いかさま見違ふべきもあらぬ黒衣なり。彼奴松の幹に登らんとして登り得ぬは、思ふに今まで金眸が洞にありて、酒を飲みしにやあらん。引捕へて吟味せば、洞の様子も知れなんに……」「他果して黒衣ならば、われまづ往きて他を噬まん。さきに聴水とも約したれば」ト、いひつつ走りよりて、「やをれ黒衣、逃るとて逃さんや」ト、一声高く吠えかくれば。猿は礑と地に平伏して、熟柿臭き息を吻き、「こは何処の犬殿にて渡らせ給ふぞ。僕はこの辺に棲む賤しき山猿にて候。今宣ふ黒衣とは、僕が無二の友ならねば、元より僕が事にも候はず」ト。いふ時鷲郎が後より、黄金丸は歩み来て、呵々と打笑ひ、「爾黒衣。縦令ひ酒に酔ひたりともわが面は見忘れまじ。われは昨日木賊ヶ原にて、爾に射られんとせし黄金丸なるぞ」ト、罵れば。他なほ知らぬがほにて、「黄金殿か白銀殿か、われは一向親交なし。鉄を掘りに来給ふとも、この山には銅も出はせじ」ト、訳も解らぬことをいふに。「酔ひたる者と問答無益し、ただ一噬み」ト寄らんとすれば、黒衣は慌しく松の幹にすがりつつ、「こは情なの犬殿かな。和殿も知らぬことはあるまじ、わが先祖巌上甕猿は。和殿が先祖文石大白君と共に、斉く桃太郎子に従ひて、淤邇賀島に押し渡り、軍功少からざりけるに。何時のほどよりか隙を生じて、互に牙を鳴し争ふこと、実に本意なき事ならずや。さるによつて僕は、常に和殿們を貴とみ、早晩は款を通ぜんとこそ思へ、聊かも仇する心はなきに、何罪科あつて僕を、噬んとはしたまふぞ。山王権現の祟りも恐れ給はずや」ト、様々にいひ紛らし、間隙を見て逃げんと構ふるにぞ。鷲郎大に焦燥ちて、「爾悪猿、怎麼に人間に近ければとて、かくはわれ曹を侮るぞ。われ曹疾くより爾が罪を知れり。たとひ言葉を巧にして、いひのがれんと計るとも、われ曹いかで欺かれんや。重ねて虚誕いへぬやう、いでその息の根止めてくれん」ト、叫んで飛びかかるほどに。元より悟空が神通なき身の、まいて酒に酔ひたれば、争で犬にかなふべき、黒衣は忽ち咬ひ殺されぬ。